みどりの兎
変な所、ないかな?家を出る前に鏡でもう一度、全身をチェックする。普段ならこんなにも気になることはないのに、変なの…あれかな?虎徹に「デートか」なんて言われちゃったからかしら。
…でも不思議なものね、気持ちを伝えてスッキリしてしまった今では、虎徹からそう言われても胸が痛まなくなった。そりゃあまだ切ない気持ちになることはあるけれど、それでも笑っていられるようになったから―――少しは、前に進めているのかも。
(だからといって、急に恋人をつくることなんてできませんけどね!)
確かに自分でもいい歳だ、っていうのは自覚してる。ずっと虎徹に恋をしていたから、恋愛に関しては完全に素人だ。いや、恋愛にプロがいるのかどうかなんて知りませんけど。とにかくそういう経験がゼロに近いのだ、私は。今まではそれでも構わない、と心の底から思っていたけれど…フラれてしまった今は、そういうわけにもいかないのかしら。別に恋愛なんてしなくても生きていけるものだ、と思っているんですけど。
「千紘、バニーの奴来たぞ」
「あ、うん、わかった。すぐ行く」
「…楽しんで来いよ?」
「―――…うん、いってきます」
「おう、いってらっしゃい!」
ひらひらと手を振ってくる虎徹に同じように振り返し、私は家を出る。パタン、とドアを閉じれば、階段の下に車を停め、車体に寄り掛かるようにして立っているブルックスくんの姿があった。何というか、ああいう姿も様になってしまうのはやっぱりすごいなぁと思うわけです。アイドルヒーローっていうのも、伊達じゃないですね。うん。まるで雑誌の表紙のよう、と思ったのは私だけの秘密だけれど。
階段を下りながらブルックスくん、と声を掛ければ、嬉しそうな顔をして千紘さん!と名前を呼んでくれた。う、わ…彼ってこんな顔で笑ったり、するんだ。ドキドキと忙しなく動き始めた心臓は無視して、促されるまま助手席へと乗り込む。
彼の車に乗るのはこれで二度目、だったっけ…前のは仕事でだったから、プライベートでは初めてのことなのだけれども。
「スーツや白衣じゃない千紘さんって、すごく新鮮だ」
「そう、でしたか?」
「ええ。会うのは会社だけで、プライベートで会うのは初めてじゃないですか」
「…まぁ、プライベートで会うのはブルーローズやドラゴンキッドが多いですから」
「普通はそうですよね」
ああでも、アントニオやネイサンともよく会うか。家に来ることもあるし、虎徹にくっついて飲みに行くことも多かったから。
「それで何処に行くんですか?」
行く場所は聞いていなかったな、と質問すれば、エンジンをかけたブルックスくんが此処ですよ、と雑誌を膝の上に置いてくれました。そこに書いてあったのはカフェの特集で、コーヒーが美味しいお店・紅茶が美味しいお店・ケーキが美味しいお店などなど、たくさんのカフェが紹介されている。その中で1つのお店に赤丸がついていることに気がついた。
…もしかして、此処に行くってことなのかしら?ゆるゆると頬が自然に綻んでいくのが、自分でもわかる。だけど仕方ないじゃないですか、このカフェはすごく有名で、ケーキが美味しいって評判なんです!それを知ってから行きたい、とずっと思っていたのだけれど、なかなか行く時間がなくっていまだに行けていなかったから。
「千紘さん、甘いもの好きでしたよね?」
「大好きです…!このカフェも行ってみたかったから、嬉しい」
「それは良かった。カフェの近くに水族館もあるそうなんですが、良ければそっちも行ってみませんか」
「水族館?!わぁ、子供の時以来だわ」
素直に嬉しくて、笑顔全開になってしまう。子供みたいだわ、と思うけれど、仏頂面しているよりはいいわよね?と自分を納得させることにした。せっかくなら楽しまないと損だし、誘ってくれたブルックスくんにも失礼だもの。それにしても、カフェも水族館もブルックスくんが調べてくれた、ってことなのよね?当然のことだけれど。
雑誌で緩む口元を隠しながら、チラッと運転をしているブルックスくんの横顔に視線を移す。その顔は真剣だけれど、でも僅かに口角が上がっていて笑っているというか、嬉しそうに見える…かしら。
さっきも思ったけど、こんな風に笑うんですねぇ…前にもこんな笑顔を見たことあるような気がしないでもないけど、それは置いておこう。
(こういう雑誌を読んで、行く所を考えてくれている姿を想像すると…ちょっと、可愛いかも)
何を考えているんだろう、とは思いつつ、でも本音なのだから仕方ないですよね。本人には死んでも言いませんけど。言ったら恥ずかしくて死ねると思います、結構真面目に。
ブルックスくんに向けていた視線を窓の外へと移せば、移り変わりゆく景色の中に海が見えてきた。わ、すごい…滅多に遠出しないから海なんて見ること、そうそうないものね。
「もう少し暖かければ海もアリかなぁ…」
「海ですか?」
「ええ」
「それも捨てがたいですけど、どうせ行くなら泳ぎたくありませんか?」
「まぁ、それはあるけど…貴方、焼くのNGでしょう?」
「しっかり日焼け止めを塗れば問題ありませんよ」
それは確かにそうかもしれません。1人納得して、再び視線を窓の外へと移す。カーラジオから流れてくる音楽、風の音、時折聞こえる穏やかなブルックスくんの声。…こうしていると何だか、普段の喧騒とか忙しさとかそういうものが夢のように感じてしまいますね。
現実なのは間違いないし、夢でも何でもないのは重々わかってはいるのだけれど、穏やか過ぎる空気が流れていて勘違いしそうになってしまう。だけど、それも心地いいと思ってしまうのだけれど。
車を走らせて1時間ほど。私達は最初の目的地であるカフェに到着しましたー。外観はログハウスのようで、木の温かみがあるというか何というか…とても素敵だなぁと思います。そして可愛らしい。
シュテルンビルトにあるオシャレなカフェも好きだけれど、やっぱり私はこのお店のように温かくてアットホームな感じがする方が好きだな。とても安心するもの。
「内装も素敵…!木っていいですねぇ」
「ふふ、千紘さんって仕事から離れると穏やかな顔で笑いますよね」
「え、そうですか?」
「はい。凛々しい千紘さんも素敵で好きですけど、僕の好みとしては今の方が断然好きです」
「?!」
「その私服も可愛いです」
えっちょ?!い、いきなりどうしちゃったんですかブルックスくんは!!彼に褒められるのは初めてではないけれど、こうもにっこり笑顔で正面から褒められたり好きだとか言われちゃうとどう反応していいのかわからなくなるのだけれど…!
カァッと顔が熱くなってきて、思わず目を逸らす。気持ちを落ち着けようと水を飲んでみるものの、いまだに心臓はうるさいくらいにバクバクいってるし、顔も熱いまま。一体全体、どうしたものか。
「それでどれにしますか?」
「あ、えっと…わ、種類多いですね。ブルックスくんは食べます?」
「そうですねぇ、僕はケーキよりホットサンドかな。お腹空いているので」
「へぇ、サンドイッチやホットサンドもたくさんあるんだ…朝ご飯は食べたけど、気になるかも」
「だったら僕の一口あげますよ」
「……いいんですか?」
「その代わりと言っては何ですけど、ケーキも一口ください」
そのくらい構わないです!と返事をして、嬉々としてケーキを選ぶ。私はメニューに釘づけになっていたから、ブルックスくんが楽しそうにクスクスと笑っていることに気がつかなかったのだけれど。
そして運ばれてきたのはアップルパイと、ハムとチーズのホットサンドです。どちらもすっごく美味しそうだし、コーヒーもいい香りだ。これは噂通り、味も期待できそうだなぁとパイを一口頬張れば、甘酸っぱいりんごとカスタードが絶妙でとっても美味しい!ああ、幸せ…。
「千紘さん、口開けて」
「?あ。―――むぐ、」
「ホットサンドも美味しいですよ」
「…美味しいけど、いきなり突っ込むのはどうなの…」
チーズがとろり、と溶けていて最高に美味しいですけど。本当に。突っ込まれたホットサンドを咀嚼しながら、アップルパイを一口大に切り分ける。それをフォークに刺して、ブルックスくんにはい、と差し出したのだけれど…彼はそのフォークを受け取らず、そのままパクリと口に含んだ。傍から見れば、私がブルックスくんにあーんとしているようにしか見えない図ですね、はい。
引いたばかりの熱が、ぶわりと戻ってくるのを肌で感じていた。ああもう!フォークを差し出したつもりなだけで、決して食べさせてあげようと思ったわけじゃないのに…!どうしてこうなりましたか?!
「ブルックスくんの女タラシ……」
「ひどい言われようですね。誰にでもしてると思ってるんですか?」
「え?違うの?」
「もちろんファンサービスはしますけど、こんなことまではしないですよ」
「それは、まぁ…だけど、プライベートとか」
「それこそしませんよ」
ああ、そうなんですか。……ん?じゃあさっきの、は?
「そうだ、水族館なんですけど…イルカのショーもあるみたいで、って…大丈夫ですか?千紘さん」
「へっ?あ、はい、大丈夫……」
「イルカは好き?」
「う、うん、好きだけど」
「じゃあイルカのショー見ていきましょう。すごいらしいですよ?」
ケーキとホットサンドを食べ終え、飲み物も飲み終わった所で私達は水族館へ。
カフェからすぐ近くだとは聞いていたけど、本当に近かった。さっきまでのブルックスくんの恥ずかしすぎる行動も、そこに着いた途端に全て吹っ飛んでしまった。現金だな、と言われても仕方ないけれど、でも本当に青に囲まれた世界に入り込んで気持ちが浮ついているのだと思う。今だけは考えるのをやめて、目の前に広がる綺麗な光景に心を奪われていようと思ったんです。
この水族館は穴場なのかわからないけれど、日曜日の昼間にしては人がまばら。あまり人混みは好きではないし、それにせっかくの休みなのにブルックスくんがファンに囲まれてしまうのはちょっとなぁ…と思っていたので、私的には好都合なのだけれど。
まぁ、バレないように彼も変装はしてくれてはいるものの―――何故かファンの人って気がつくのよね、めざとく。ファンの方は何か感じるものでもあるのかしら?それとも変装していてもオーラみたいなものが出ているのかなぁ、やっぱり。
(特に彼は顔出しで売り出しているから、余計よね…)
他の皆はスーツで顔を隠しているから、プライベートで気がつかれることはないに等しい。女性陣は顔出ししているようなものだけど、メイクで隠しているから私服に着替えてしまえばわからないのよね。雑誌撮影の時も顔は決して出さないし。ブルックスくんだけ、なのだ。顔出しをしているのは。
「あ、あのお魚綺麗。真っ青!」
「本当だ、こんな色の魚もいるんですね」
「熱帯魚だと結構、カラフルなお魚が多いですよ?」
「そうなんですか?」
「ええ。ペットショップに行くと、よく見ているから」
「…動物、お好きですか?」
こてん、と首を傾げて聞いてくる彼は、普段の印象から比べると幾ばくか幼く見えた。その不思議な可愛さにクスリと笑みを浮かべ、好きですよと返事をする。
仕事が忙しくて帰れないこともあるから、気軽に飼うことはできないけれど動物は昔から好き。だから、水族館や動物園も好きなのだけれど…大人になると行くタイミング、逃しっぱなしになっちゃうのよね。1人で行くのも抵抗がありますし。
「あの、千紘さん」
「うん?」
「もし良ければ、なんですけど…また、こうやって出かけませんか?」
「えっ…」
「今度は千紘さんの行きたい所に。…ダメ、ですか」
どうしてだろう。この時の私は、この申し出を断ったら後悔するって思っていた。