悪魔の微笑み
私には最愛の恋人がいた。何で過去形なのか、と言うと…その人は少し前に死んでしまったから。
それを教えてくれたのは彼の同僚だ、という金髪の美人さん―――ジョディさんだった。綺麗な瞳に涙を溜め、きっと彼女だって辛かっただろうに彼の身に起きたことを話してくれたの。嘘だ、と思いたかったけれど、でもそんな嘘をつく必要性もないし、何よりジョディさんの涙が嘘や演技には思えなかったから。
それでも話を聞いた時は涙すら、出てこなかった。その喪失感を実感したのは、家に帰ってからだったかな。至る所に彼の痕跡が残っているのに、何処にも姿が見えなくて…それでようやく、もうこの世界のどこにも彼は、秀一さんはいないんだって思ったの。
そうしたらもうどうにもならなくって、目が腫れるくらい泣き明かしたんだ。
「みょうじさん?」
「あ、冲矢さん。こんにちは」
「こんにちは。買い物ですか?」
「ええ、天気も良かったので散歩がてら」
沖矢昴さん―――東都大学の大学院生だそうだ。
社会人である私が、何故大学院生の彼と出会ったのかというと…変な人に絡まれていた所を、この人が助けてくれたの。それから何となく街で会うと挨拶するようになって、今は友人に限りなく近い知人、といった所だろうか。近づきすぎないこの距離感は、ひどく心地良かった。
(とはいえ、恋愛なんてもうするつもりもないけれど…)
私の唯一の人は、死んでしまった秀一さんだけだ。彼とつき合うことになった時、この人が最後の人だと漠然と思っていたし、今でもそう思っている。彼以外の人を愛したいと思わないし、愛せないと思う。
だから今でも薬指にはめた指輪を外せないでいるのです。きっと、一生外すこともないのだろうけれどね。
「沖矢さんも買い物ですか?」
「そうなんです、夕食の買い出しに」
「ああ…もう夕方ですもんね」
私も今日の夕食の買い出ししないとなぁ。でも何にしようかなぁ。
「もう遅い時間ですし、送りますよ」
「えっだ、大丈夫ですよ!ここからそう離れていませんし…!」
「それでも女性の一人歩きは危険ですから。最近、何かと物騒じゃないですか」
「う…」
沖矢さんの言う通りだ。米花町は平和そうに見えて、どこかしらで事件が起きている。最近じゃ通り魔が出る、って話で持ち切り。それも狙われるのは女性ばかりだというのだから、もう大迷惑もいい所。
だから陽が沈む、今くらいに時間になると、街からは女性の姿が消えていく。大体、今くらいの時間から夜中にかけて通り魔がよく現れる時間帯なんですって。…時間のふり幅があり過ぎだろう。でも、今くらいの時間って仕事終わりの人が増えるから狙いやすいのだろうか。
そんな事件が頻発しているから、沖矢さんが心配してくれるのもわかるんだけど…それを抜いても出会いが出会いだったから、色々と気に掛けてくれているみたいだし。それでも素直に頷けないのは、どうしたって申し訳ないと思ってしまうからなんだろう。
「で、でも夕食前ですし…」
「私が送ってあげたいんです。…ダメですか?」
「ッ」
そんな言い方されたら、断れない。沖矢さんは常に紳士的だ。
だけど時々―――本当に時々、その言動や行動が秀一さんに重なってしまう。
「さ、行きましょう。みょうじさん」
「あっは、はい―――きゃ、」
方向転換しようとした時、足がもつれて体がグラリ、と揺れた。ああ、これはこのまま転ぶなぁと変に冷静な思考が頭を過ったのだけれど、いつまで待っても衝撃は伝わってこなかった。代わりに感じたのは、誰かの温もり。
「…大丈夫ですか?」
「だ、いじょうぶ、です、ありがとうございます…」
よろけた私を支えてくれたのは沖矢さん。細そうに見えるのに、支えてくれた腕はしっかりと筋肉がついている。ちょっとだけ、意外、かも。
…はっ!私は何を考えてるんだろう!いい加減に離れなくちゃ…!
ごめんなさい、と言って離れようとしたけれど、グイッと引き寄せられてぽすん、と沖矢さんの胸元へ。それを理解した瞬間、顔に熱が集まってくるのがわかる。え、ちょ、ええええぇええっ?!
「お、沖矢さん…っ?!」
「私では、代わりになれませんか」
どくん、と心臓が跳ねた。一度だけ、この人に零してしまったことがある。最愛の人が死んでしまった、と。お酒の席での、酔っ払いの戯言だったけれど、それを律儀に覚えていたのだろうか。
ぎゅうぎゅうと抱きしめられながら、耳元で聞こえた彼の声は…ひどく切なげで。心臓をギュッと掴まれたような、そんな気がした。どうしたらいいかわからなくて、何と答えればいいのかわからなくて黙り込んでしまう。
…違う、わかってる。何と答えればいいのか、なんて、そんなの決まっているはずなのにどうして―――言葉にできないの?
「ここに、その人からもらったものではなく、私から贈る指輪をはめて頂くことはできませんか」
不意に沖矢さんがいまだ指輪がはめられたままの薬指をツツ、と撫でる。そのまま手を持ち上げられ、そっと指先にキスを落とした。その動きがいやに煽情的で、私の心臓はうるさいくらいに鼓動を刻んで今にも張り裂けそう。
ダメなのに、こんな風に感じたらダメだってわかっているのに…それでも勝手に鳴り響く鼓動は止めることができない。どうしようも、ない。
―――なまえ。
脳裏に響いたのは、間違いなく秀一さんの声だった。
それをきっかけに我に返った私は、失礼だとわかっていながらドンッと沖矢さんを突き飛ばした。まだ心臓はうるさい。顔も熱い。でもこれ以上は、ダメだと脳内で警鐘が鳴っている。
この人に全てを委ねられたら楽かもしれないけど、私はそれを望んでいない。望みたく、ないの。あの人を、秀一さんを忘れたくないの…!
「ご、めんなさい、私は、わたしは―――…あの人以外、愛したくない」
それからのことはもう曖昧で、よく覚えていない。覚えているのは、僅かに見えた翡翠の光。
「『沖矢』に堕ちてくれれば、と思っていたが…そう上手くはいかんか」
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