心地良い鼓動
息が詰まるような感覚に、一気に意識が覚醒した。ガバッと勢い良く起き上がると、そこは見慣れない部屋で…一瞬、私は何処にいるのだろうと思ってしまった。でもすぐに三仏神様の命で西へ旅をしていることを思い出して、此処は3日ぶりに辿り着くことができた町の小さな宿―――ということも、思い出すことができたんです。
(嫌な夢を、見たような気がする…)
真っ暗で、でも真っ赤で…そう、誰かがその空間の真ん中に横たわっていて、それで、…それで、私はどうしたんだっけ?確かに嫌な夢で、気持ち悪かったはずなのに、意識が覚醒してしまえばそんなものは大したことではないと言うように記憶が曖昧だ。何ひとつ思い出すことができないんです。あんなにも鮮明だと、そう感じたはずだったのに。
けれど、思い出せないものは仕方がない。私はそっと息を吐き出して、乱れた呼吸を整え、額から伝い落ちる汗を拭った。うわ、身体も汗でベタベタだ…これは一度、シャワーを浴びてしまった方が早いかもしれませんね。どうせ頭は妙に冴えてしまっていて、着替えただけでは眠れそうにありませんし。スッキリサッパリしてしまった方が、また眠れるかもしれません。
部屋の中に差し込んでいるのは、淡い月明かり。それを見れば今はまだ真夜中なのだ、というのが容易に想像がつく。こんな時間にバスルームでガタガタ音を立ててしまったら、隣のベッドで眠る彼を起こしてしまうかもしれないけれど…覚えていないとはいえ、さっきまで見ていた夢は私の精神をことごとく擦り減らしてくれていたようです。
そんな気遣いもできないまま、私はバスルームへと姿を消した。
「ふう…」
幾分か気持ちもスッキリしてバスルームを後にすれば、さっきまでは月明かりだけが頼りだった薄暗い部屋が少しだけ明るくなっていた。その光源はベッド脇にあった小さなランプ。それがいつの間にか灯されていて、その僅かな明かりの中で彼―――八戒くんは小さな文庫本を、読んでいたんです。
きっとこんな真夜中にシャワーを浴びたりしていたから、だから起こしてしまったんだわ。連日の運転で彼も疲れているはずなのに、ゆっくり寝かせてあげられなかったことに苛立ちが募っていく。
八戒くん、と小さく名前を呼べば、文庫本に落とされていた視線がこっちを向いて、にっこりと微笑んだ。その笑顔を見るだけでほわん、と胸の奥が温かくなって…ささくれ立っていた気持ちが少しずつ和らいでいくのを感じていました。
昔からそう、八戒くんの笑顔はいつだって安定剤のように作用する。こんなこと本人には言えませんけどね。
「目元が赤い、…泣いたんですか?」
「え?え、っと、」
「ああ、無理に話すことはありませんけど…ほら、悪夢は人に話すといいと言いますから」
良かったら、と言いながら彼の指は、私の目元を優しく擦る。もう涙は零れていない―――いや、自分でも泣いていたことには気がついていなかったけど―――のに、まるで涙を掬うように動くソレはくすぐったいけれど、でも心地良い感触で。されるがまま、私はそっと目を閉じる。
目を閉じたまま、私はポツポツと話し始めました。よく覚えていないんですけど、と前置きをして、真っ暗ででも真っ赤な空間の中に誰かが横たわっている夢を見た、と。それが誰かなんて覚えていないし、生きているのかも死んでいるのかもわからない…それでも息が詰まるような感覚で飛び起きたのは事実だし、それを嫌な夢だと感じたのも事実だったから。
話し終わってそっと息を吐くと、目元に触れていた温もりが頭へと移ったことに気がつく。そっと、壊れ物を扱うように撫でられる感触は嫌ではない。何度も、何度も撫でられたことがあるけれど、こんなにもそっと触れられたのは初めてかもしれません。きっと気を遣ってくれているんだ、と感じました。優しい方だから、この人はとても。
「…聞いてくれてありがとう、ちょっとだけスッキリしました」
「それは良かった。さ、そっちを向いてください。風邪をひかないうちに髪を乾かしましょう」
「え、自分でできま、」
「いいから。僕がしてあげたいんです、ほら、タオルを貸して」
「う、…は、い」
タオルを渡して八戒くんに背を向ければ、わしゃわしゃと―――でもちょうどいい力加減で髪の毛の水気が拭き取られていく。ある程度、水気を拭き取ると彼は不意に立ち上がってバスルームへと消えて、何かを手にして戻ってきた。よくよく見てみれば、握られていたのはドライヤー。ああ、そっか、髪の毛を乾かすって言ってましたもんね、そしたらドライヤーは必要か。
小さな宿の割にはアメニティが充実していて、ちゃんとドライヤーも完備されていたんです。ない所の方が多いのに、珍しいなぁって思った記憶がある。そんなことをぼんやりと考えながら、ドライヤーの音を聞いていた。
―――カチッ
「なまえ、できましたよ」
「ありがとうございます。ふわ、…あ、ごめんなさい…」
「眠気が戻ってきたのなら何よりです。まだ夜明けまで時間がありますし、もう一眠りしましょう」
欠伸が出るくらい、身体は睡眠を欲していると思う。だけど、さっき見た夢の薄気味悪さを思い出すと何だか眠れるような気がしなくって…僅かな躊躇いが、私の中で生まれました。かと言って、このまま朝まで起きていたら日中に辛くなるのが目に見えていますし、寝不足でボーッとした状態では妖怪の襲撃に対応できるとも思えません。だから無理にでも寝ないと、という気持ちはあるにはあるのですが…。
ベッドを凝視している私を不審に思ったのか、八戒くんが不思議そうな声音で私の名を呼ぶ。どうかしたんですか、と聞かれるけれど、眠りたくないんですなんて、まるで駄々をこねる子供のようで曖昧に笑みを返すだけ。
でも聡い方ですからそれだけで、何かを悟ったのでしょうね。柔らかな笑みを浮かべて、自分の隣をポンポンと叩いた。これは座れ、ということなんでしょうか?よくわからないまま腰掛ければ、そのまま抱きしめられて―――ベッドに、沈んだ。
一瞬の出来事だった。私は今の状態がどうなっているのかを瞬時に理解することもできず、ただひたすらに目をパチパチと瞬かせるだけ。その間に八戒くんは私にもしっかりと布団をかけていました。…あ、成程、八戒くんと同じベッドに寝てるんだ。
(寝て、って………えええええぇえええ?!)
理解してからは早かった。顔には熱が集中してくるし、心臓はバクバクいってるし、これはもう寝られる状況ではない。いくら何でもこのままですんなり眠れるほど、私の神経は図太くないです!離してほしいんですが、と声を掛けても、返ってくるのは「んー」と間延びした声で、…そうですよね、まだ真夜中ですもんね眠いですよね…!
「あ、あの八戒くん…っ」
「大丈夫、…他人の体温って安心できますから、きっともう嫌な夢なんて見ませんよ」
だから安心して寝てください。
そう言って優しい顔で笑うから、私は赤くなっているであろう頬を隠すように彼の胸元へと顔を埋めた。
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