遠回しの愛の囁き
大分昔のことだ。東の島国の話を翻訳した短編集のようなものを読んだことがあって、その中の1つにとある文豪が『I Love Youを月が綺麗ですね、と訳した。』という話があったんです。本当のことなのかはわかりません、実際に言ったのかもしれないし、誰かが取って付けたようなデタラメな話かもしれない。
…でも、幼いながらにその話はとても素敵だな、と思った記憶がある。ずいぶんと擦れた考えを持った、素直さの欠片もない子供だったんですけどね。
何でそんなことを思い出したんだろう、と窓の外に視線を移せば、そこには大きな月が煌々と光を発していました。ああ成程…だからあの本のことを思い出したのかもしれませんね。
ふらり、と月の光に誘われるように窓を開ければ、部屋の中の電気を消しても問題ないくらいに眩しい光。電気のない時代は月の光を利用していた、と聞いたことはありましたが、それもあながち間違いじゃないのかも。この光源だったら、確かに本くらい読めそうですね。
何となく試したくなって、パチンッと電気を消してみる。真っ暗になった室内に入り込む月の光は、予想通りランプ代わりになりそうでした。
(たまには、…こういうのも悪くないかもしれませんね)
ベッドの上では厳しいけれど、窓際に椅子を持っていけば本を読むことは出来そうだ。なれば早速、と椅子を持って窓際に陣取る。読みかけだった本を開いて黙々と読んでいれば、静かだった室内にカチャリとドアが開く音、そして驚いたような声が響き渡ったんです。…あ、そういえば今日はなまえと同室で、彼女はお風呂に行っていたんでしたっけ。普段なら忘れることがないことなのに、今日に限ってはすっかり頭から抜け落ちてしまっていたようです。
「すみません、月の光でも本が読めそうだなぁと思ってつい…」
「ふふ、大丈夫です。ちょっとだけびっくりしましたけど」
そう言って笑った彼女の髪は、まだしっとりと濡れていた。しっかり乾かして、と口酸っぱく言っているのに、どうしてだかこの子は毎度その状態のまま部屋に戻ってくる。それは同居している頃からで、あの自堕落な悟浄にすら呆れた視線を向けられるくらい、自分のことには無頓着なんです。だからなのかはわかりませんが、気がつけばなまえの髪を乾かすのは僕の役目みたいになっているんですよね。たまに、本当に極たまーに乾かしてくることもあるんですけど…多分、片手で事足りるくらいだと思います。
今回も例に漏れず濡れたまま。ベッドに座ろうとしていた彼女を手招きで呼び、さっきまで僕が座っていた椅子へと座らせた。肩に掛けられていたタオルで髪をわしわし拭き始めれば、彼女はくすぐったそうにクスクスと笑みを零す。
…小言のように乾かして、と口にはするけれど、実はこの時間が結構好きだったりする。割としっかり者の彼女は滅多に頼ってくることをしないし、不良園児のように手が掛かると思ったこともない。むしろ、一緒に世話を焼くくらいですしね。だからこそ、こうやって彼女の世話を焼けるこの時間が―――好きだと、思うのかもしれません。
(こうしてる間、なまえを独り占め出来ますし…なんて)
口に出さず、勝手にそう思うくらいなら誰にも怒られませんよね?そんなことを考えながら水気を取っていると、ふっとさっき思い出した言葉が頭をよぎった。あれはかなり珍しい本だ、と当時、誰かが言っていた。だから内容も、あの言葉も、知らない人の方が多いんじゃないかと思うんです。いくら本が好きな彼女でも、きっと…知らないはずだ。
初めはちょっとした好奇心、でも―――遠回しではあるけれど、僕の気持ちを言葉にすることができるのなら。口にしてみたいと、そう思ったんです。
「―――…なまえ、」
「はい?」
「月が、綺麗ですね」
その言葉に対する返答は、色々あるという。けれど、彼女はこの言葉の意味を知らないだろう―――そう、僕は思い込んでいたので、きっと「ああ、今日は綺麗な満月なんですね」とか返ってくるものだと思っていた。
「…そうですね、私もそう思っていた所ですよ」
今までで一番綺麗な笑みを浮かべてそう言った彼女に、面食らったのは僕の方だった。
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