月夜に浮かぶ一滴
「うーーーーん…!」
テスト前とテスト後。そういう時は何かと仕事が増えるものだ。それは教師になる、と決めた時から覚悟していたことだったけど…まさかここまで大変だとは思っていませんでした。実際。
テスト前は問題を作るのに四苦八苦し、テスト後は大量の答案用紙の採点に追われるのです。これでも教師になったばかりの頃に比べれば、そつなくこなせるようになった方だとは思うけど…それでもまだ、ベテランの先生方には敵わない。今日だってこうして残業しなければ、テスト返却の日までに採点が終わりそうにないしね。
(それに加えて、他の業務もあるしねぇ…本当に教師の仕事って多いんだわ)
自分が学生だった頃は、教師の仕事が大変だなんて思ったこともなかった。むしろ、大人は宿題やテストがなくていいなぁって思っていたくらい。でもそれは違う、宿題やテストがなくともやらなければならないことは大量にある。
学生だった頃の方がよっぽど気楽だったと思うのよね。面倒だったけど。決められた時間割の授業を受けて、出された宿題を嫌々ながらもやって、教師の手によって作られたテストを受ける―――うん、やっぱり受信する側というのは発信する側より幾分か気が楽だと思う。
でもそれは、発信する側になって初めてわかることだ。教師にならなかったらそれも一生、理解することはなかったんだろうなぁ。…学生の頃の方が気楽、というのはきっと、社会人になったら嫌でも痛感することだとは思うけども。
「何だ、まだ残っていたのか。みょうじ先生」
「え?あ、…片倉先生」
「一体なにを―――ああ、テストの採点か」
「そうなんです、結構な量なので…残業しないと終わらなくて」
…ああ、ビックリした。さすがにこの時間では私以外に残っている先生はいない、と思っていたのだけれど、まさかの片倉先生ご登場とか。どれだけ心臓に負担をかけてくれるのだろう、この人は(本人からすれば知るか、って感じでしょうけど)。
ドキドキしていたのも束の間、片倉先生は何処かへ姿を消してしまっていました。え、もしかしてもう帰ったの?別にそれはいいんですけど、何しに職員室に来たんだろ…あ、荷物を取りに来たに来まってるか。それ以外に用事なんてないですよね、今まで別の場所にいたのならば尚更。
再び答案用紙に視線を落とし、そんなことを考える。―――のだけれど、片倉先生の姿を見てしまったせいか、頭の中はあの人のことでいっぱいだ。正しくは少し前にお昼をご一緒した時のこと、なんだけど。
ただ、一緒に食べただけだ。けど、いつまで経っても片倉先生に『あーん』をしてもらったことが忘れられずにいる。あれにどんな意味があったのか、とか、私のことをどう思っているんですか、とか…色んなことが頭の中をぐるぐる回っているのも確かで。
聞いてしまえば早いんだけど、…でもさ?それを聞くのって明らかに「意識してます!」って言っているようなものじゃない。意識どころかずっと前から片倉先生のことが好きなわけですけど、どっちにしろ私の気持ちがあの人に知れてしまう行為だけは、どうしたって避けなきゃいけないことだと思うんです。
「職場恋愛とか…洒落になんない…」
「何が洒落になんないんだ?」
「ひ、ッ?!」
「ぷっ…驚きすぎだろ、幽霊じゃねぇんだから」
「い、いや、もう帰ったと思っていたので…!」
「帰るならお前に一言、声をかけている」
いや、あの、うん…強面の割にはとても礼儀正しいこの人は、挨拶を必ずするのです。出勤時も、退勤時も。
おはようございますとか、お疲れ様ですとか、言っていない時はないんじゃないかってくらい。
「良ければどうぞ。疲れた時には甘いもの、なんだろ?」
「あ、ココア…ありがとうございます。給湯室にココアなんてあったんですね」
「他の女性教師が買ってきたんだろ。アンタに限らず、甘党の奴が多いからな」
「確かにそうかも…松永先生も、意外と甘党なんですよね」
「………は?」
うん。すっごい怖いので、凄まないで頂けますか?!顔も声も怖くて仕方ないですよ片倉先生…!仲がよろしくないのを知っていて松永先生の名前を、うっかり出してしまった私が悪いのは百も承知ですけれども!!
気持ちを落ち着けようとカップに口をつけるけれど、室内に流れる沈黙は大変重く、甘いもので気持ちが落ち着くとか気を紛らわすとかできそうにない。それくらいに沈黙が、痛いです。甘いはずのココアも、味が一切わからないくらい。
沈黙がどれくらい続いただろう。黙ったままだった片倉先生が、ポツリと呟いた。松永と仲が良いのか、って。その言葉を聞いて私は、キョトンとするしかなくって。…だって、そんなこと聞かれるなんてこれっぽっちも予想していなかったから。
「ええっと、それほどでは…甘党同士、美味しかったスイーツの情報交換をするくらい?」
「女か、あの野郎…!!」
「本当に性別合ってる?って思うくらいに色んなお店行っていらっしゃるみたいですよ」
どこどこのショートケーキが美味しいとか、新しくケーキ屋さんが駅前にできたんだよとか、誰よりも早く情報をキャッチして私達に教えてくれる。そう、別に私個人に教えてくれているわけではなく、甘いものが好きな人達全員に教えてくれているの。だからそこまで仲良いです!ってわけではない、ということ。
「…みょうじ先生」
「はい?」
「キリがいいところまで終わってるか?」
それ、と指さされたのは、デスクの上に広げられた答案用紙達。
明日返却するクラス分はもう終わらせてあるし、残りもあと少し。片倉先生の言うように、キリがいいところまで終わらせてあると言えるでしょう。まぁ一応、と曖昧な返事を返すと、カップの中身を一気に飲み干した片倉先生は、帰る準備をしろとだけ口にする。……それはつまり、一緒に帰るぞってことか…?!
「え、いや、あの、片倉先生…?!」
「あ?なんだ?…もしかして、誰かと約束でもしていたか?」
「そんなものは一切ない淋しい独り身ですけれども!」
「…お前、自分で言ってダメージを受けるなよ…阿呆なのか」
いや、ほんと仰る通りで…。
ずーんと真っ黒なオーラを背負って、残っていたココアを飲み干し、それから広げまくっていた答案用紙をまとめていく。終わっている分と、終わっていない分にしっかり分けてからファイリング。それをカバンの中にしまえば、帰る準備はあっという間に終了です。あとはカップを濯いでおけば大丈夫。カバンを肩に掛けて、カップを手にしよう―――としたら、片倉先生にひょいっとカップを奪い取られました。
その光景をぽかん、と見つめていると、それに気がついたらしい片倉先生が先に職員玄関に行っていろと言って給湯室へと姿を消してしまいましたとさ。…ええっと、とりあえず職員玄関に行っていればいいのかな?あの人もそう言っていたし。うん。
静まり返った廊下を歩きながら窓の外へ視線をやれば、綺麗な満月が顔を覗かせているのが見えた。
「何を見ている?」
「あ…月が、」
「月?…ああ、今日は満月か」
―――『月が綺麗ですね』
ふっと頭に浮かんだのは、かの文豪が「I love you.」をそのように訳したと言われている一節。それを思い出した所で、何かが変わるわけではない。それを口にした所で、片倉先生との関係が変わるわけではない。…それは、よくわかっているつもりだったのに、
「片倉先生―――月が、…綺麗ですね」
口をついて出たのは、ありふれた言葉。でも私からしてみれば、勇気を振り絞らなければ出てこないもの。どくどくと心臓が、というより、血管に血が流れている音が直に聞こえてきているような気がして、それがとてつもなくうるさいのです。…つまりは、それだけ私が緊張しているということなのだけれど。
(そりゃそうか。告白しているのと、同じだもん)
緊張しないわけがない。想いを寄せている人を前にして、有名である言葉を投げたのだ…私は貴方に心底惚れていると、そう言ったのだから。なのだけれども、片倉先生は一向に何も反応を示しません。
うん、まぁここでハッキリ断られるのもものすっごく気まずいことこの上ないんだけど…というか、職場恋愛なんて洒落にならないと言っていたのはどこの誰だっけかなー…数十分前の私だよ、こんちくしょう。
「みょうじ、」
「ぅえ?!はいっ」
「お前―――さっきの、意味わかって言ってんだろうな?」
「こっ…これでも現国の教師です!そのくらい…」
―――グイッ
「きゃ、…!か、片倉先生?!」
「意味わかって言ってんなら、尚更質が悪ィ…!」
えええ、そんな理不尽な…!
理不尽な言葉を吐きながらも、抱きしめてくれている腕は優しくて。嬉しいんです、とっても嬉しいんですけど、わけがわからなくて頭と心臓が爆発しそうなのでいい加減離して頂けないでしょうか…!このまま高血圧とか心臓発作で死亡、なんてそんなの嫌ですので!!…というかですね?どうして私は抱きしめられているのでしょうか。
「いい加減離してくださいそれから抱きしめられている理由を10文字以内でお答えくださいぃいいい!!!」
「お前が好きだからだ」
「ぴったり10文字ですね!!……って、え?」
「あ?」
「凄まないでください怖い!!」
あ、しまった。と思った時には既に遅し。片倉先生は抱きしめていた腕を解いて、こめかみに青筋を立てて…怖いくらいの笑みを浮かべていらっしゃいました。
そして私の頭をがっしりと掴んでギリギリギリと力を込めていらっしゃるんですけど、…これ尋常じゃないくらい痛いです!!失言したのは謝りますけど、この仕打ちはないんじゃないですかね?マジで頭割れちゃいますっての!
「たく、てめぇは…!」
「うう痛い……」
「―――まぁ、顔が怖いっつーのは自覚してるがな…」
お前に怖がられるのは、勘弁願いたい。
ボソリと呟かれた言葉が、僅かに小さい声が、存外に可愛らしくて私は思わずクスリ、と笑ってしまった。それに気がついた先生に睨まれるけれど、でも零れる笑いは止められなくってそのままふふふっと笑い続ける。
次第に止めるのが面倒になったのか、溜息を1つ吐いてまた私を抱き寄せて―――なまえ、と腰に響く低音で名前を呼んだ。
「好きだ、なまえ。―――もう逃がしはしねぇぞ」
「かたくら、」
先生、と続くはずだった私の声は、そのまま彼の口内へと消えていった。学校でなんてことを、と思わないわけではないけれど、でも今だけは許してほしい―――そう思ってしまうのは仕方ないことだと思う。
廊下で交わされたキスを見ていたのは、空に浮かぶ満月だけ。
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