愛しい、愛しいたからもの

しまった、とこの時ばかりは思った。普段、仕事ばかりであまり構ってやれないがそれでもあの子は笑いながら俺にくっついてきてくれる。…だが、それは彼女に似て我慢強いだけだったことに気がつけていなかった。


 side:赤井


妻である彼女が母親の看病の為に日本へ一時帰国して、今日で3日目。昨日かかってきた電話によれば、怪我は予想よりひどくはなく1週間もすれば日常生活を問題なく送れるようになるらしい。それまでは実家に滞在することにした、と。
こっちのことは心配しなくていい、と言えば、申し訳なさそうな声で「悪いけど、よろしくね」と言われた。やれやれ…お義母さんのことで気を揉んでいるだろうに、こっちの心配までしていたら身がもたないだろう。日本へ一時帰国することもそうそうないのだから、ゆっくり羽を伸ばしてくればいい。

交わした会話を脳内で再生しながら、仕事へ行く為に準備を始めた。元々、今日は非番だったんだが…どうやら何か問題が発生したらしい。急遽、出勤してくれと電話がきたのは本当についさっき。
何もこんな早朝に、と思わないでもなかったが、ジェイムズの声は些か焦っていたようにも感じられる。なまえを1人残して行くのは心苦しいが、引き受けてしまった手前、行かないわけにもいかんしな。かと言って、子供を本部に連れて行くのも気が引けてしまう。

(身の回りのことは自分でできる子だ、半日くらいなら大丈夫だろう)

急いで仕事を終わらせ、何とか夕方までには帰ってきたいものだな…リビングテーブルの上に仕事へ行く旨と、冷蔵庫に食事が入っている旨を書いたメモ書きを置いて、俺はそっと家を出た。まさか、帰った瞬間に彼女から雷を落とされるとは知らずに。





「ただいま。…なまえ?」
「〜〜〜パパのバカ!!!」
「…は?」


早朝の呼び出しを食らった案件は、何とか昼過ぎに目途が立ち、後処理などは全て任せて家に帰ってきた。昼食まで用意しておいたが、あの子はもう食べただろうか。まだだったら一緒に食べて、その後は夕食の買い出しにでも…頭の中である程度の計画を立ててドアを開ければ、そこには仁王立ちをしたなまえが立っていた。
顔に浮かんでいるのは淋しかったというより、…怒りか?どうしたのだろう、と名前を呼べば、バカと叫ばれてしまったんだが。何のことだかわからず、口をついて出たのはただの疑問符。それによりなまえの怒りは更に助長されたようで、じわじわと目に涙が溜まっていくのが見えた。


「お、おい?」
「もー今日は私と約束してたでしょ?!それなのに起きたらいないとか、有り得ないっ」
「約束……?」


一気に血の気が引いた。そうだ、少し前…お義母さんが怪我をした、と連絡がくるより前に俺はなまえと1つの約束をした。今度のテストで満点を取れたら、2人で何処かに出かけよう、と。頑張ったご褒美に、と。
約束通り、なまえは満点を取って次の休みに出かけよう、となっていたんだったな…その休みが、正に今日。それをすっかり忘れてしまっていた俺は、ジェイムズからの要請を引き受け仕事に行った―――というわけである。
約束を忘れたのが初めてなら、まだなまえも許してくれたのかもしれない。だが、俺は今までにも2回ほど約束を破ってしまった。妻は結婚するまで同じ職に就いていたこともあり、仕方ないねと笑ってくれることが多かったが…子供相手ではそうもいかないだろう。その度に泣かれ、しまいには嫌いだと言われたこともある。
けれど、泣き止めばまた「パパ」とくっついてきてくれて、笑ってくれていたから何とかなったのだろうと思っていたのだが…あれはきっと、妻が必死にこの子を宥めてくれていたのだろうな。


「パパが私との約束破るの3回目だよ?!わかってる?!」
「す、すまん…急に仕事が入ってな、」
「前とその前もそう言ってた!ママは私達の為に頑張ってくれてるんだよ、って言ってたけど、3回も忘れるなんてひどいー!」
「む、すまん…」
「謝って済むなら警察いらないもん!パパのバカッ大嫌い!!」


そんな言葉誰から聞いた。…ではなく、さすがに大嫌い、は胸に刺さるな。
ぐ、と怯んでいるうちになまえの目に溜まっていた涙はボロボロと流れ落ち、ぐっと唇を噛みしめて泣き始めてしまった。この子はいつから、こんな耐えるようにして泣くようになったのか。そうさせてしまっているのは明らかに俺だろうな、と内心溜息を吐かざるを得ない。


「なまえ、…すまん、俺が悪かったよ」
「う〜…きらい、嫌いだもん、パパなんか嫌いだもん」
「嫌いはやめてくれ。君とママに嫌われたら、どうすればいいかわからん」


流れ落ちる涙を指で掬い取り、あやすように背中をゆっくりと叩く。そのまま抱き上げてリビングのソファへ腰を下ろせば、少しは落ち着いたのかしゃくり上げながらもぎゅっとしがみついてきた。何とか嫌われずに済んだらしい、ホッと息を吐いてからこのお姫様のご機嫌をどう取ろうか、と策を巡らせる。
元々の約束はなまえの見たい映画を観て、共に昼食を外で取る予定だった。その後はショッピングに。だが、時刻はもう昼過ぎ…今からではきっと全てを叶えるのは難しいだろう。

(映画とショッピングは次の休み…だな)

そういえば、新しいカフェが近くにできたと聞いたな。妻に似て甘いものが好きななまえは、それに食いつき行ってみたい!と言っていたような気がする。この時間帯ならあまり客は多くないだろう。そのカフェはケーキのテイクアウトもしていると聞いているし、客が多くて入れないようなら家で食べればいいだけの話だ。
さて、果たして俺達の可愛いお姫様はその代替案に賛成の意を示してくれるのか…それだけが唯一の不安だが、口にしなければ伝わらない。いまだぎゅっとしがみついたままのなまえの背中を叩き、名前を呼ぶ。


「……なに」
「新しいカフェに行きたい、と言っていただろう?今から行ってみないか」
「行く、けど……今日の埋め合わせ?」
「ひとまずの、な。3回分の埋め合わせもきちんとするさ」


何処に行きたい?と視線を合わせて問いかければ、目をゴシゴシと擦ってから思案顔になった。その顔は妻と丸っきり同じで、やはり親子なのだな、と笑みを零す。


「行きたい所は決まったか?」
「んっと、映画でしょ、ショッピングでしょ、それから遊園地と…」
「おいおい、1日で回りきれるだけにしてくれ」
「パパは私との約束を破った分、1日で済ませられると思ってるの?」
「…ずいぶんとママに似てきたな、なまえ。わかったよ、それで?他には」
「んふふ!あとはねー…今日の夕食、パパの作ったハンバーグがいい!」


最後は可愛らしい、子供らしい願いが告げられた。了解、と返事を返せば嬉しそうに笑うから、そのまま頭を撫でる。
…普段は全てを妻に任せていたが、これはなかなかに大変だ…これからは積極的に休みを取り、なるべく休日出勤をしないように心掛けるとしよう。ひとまず、次の休みは遊園地に連れて行くとしようか。


「パーパ!早く、早くっ」
「そう急かさずともケーキは逃げんぞ」



(じゃあまた約束破っちゃったんだ?)
(ああ…しばらく休日出勤は断るつもりだ)
(それはなまえも喜ぶと思うけど、…本当に貴方が必要な仕事は断らないでよ?秀一さん)
(…わかってる)
(断ったら私となまえの命もなくなるかもしれないんだから、頑張ってね?パパ)
(しかし、…どんどんお前に似ていくな、あの子は)
(んふふ!嬉しいでしょう?)
(嬉しくないわけではないが、嫁に行かせるのが嫌になるな)
(…どれだけ先のことを言っているのよ…)
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