現実だと思いたくないのは、
自分の中にこんな黒い感情がまだ眠ってるとは、思わなかった。知りたくはなかった。
昔の俺を知っているとはいえ、できることならアイツに―――知られたくも、ない。
side:臣
はるが綴のバイト先にヘルプで入り、何故かそのままバイト続行することになったと聞いたのは1週間程前のこと。
とはいえ、忙しくて人手が欲しい時・誰かが出れなくなった時のヘルプ要員としてだからそんなに頻度は高くないよ、と本人は笑っていた。
俺達も4年になり講義の数は今までに比べれば減ったけど、それでも課題やテストは変わらずあるし、就活も始まってるし、卒論もある。それに劇団の公演もあるしな。
はるもまだサークルを引退したわけではないから、定期公演があるし。講義の数は減っても、やることは山ほどあると言ってもいいくらいだ。だからバイトに力を入れすぎるつもりはないんだ、とはるはそう付け加えた。
「…ん?」
忙しくなって集まれなくなる前に飲みに行こう、とサークルのメンバーに誘われ、いつもの居酒屋へ向かっている途中ではるの姿を見かけたような気がした。
でも此処は天鵞絨町だ、俺達が暮らしている寮だって此処からそう遠くはない。大学帰りに歩いていたっておかしくはないし、顔見知りやカンパニーの皆に偶然会うことだって少なくないと思う。だから、ああ買い物にでも来てるのかなくらいしか思わなかったんだが、…アイツの隣を知らない男が歩いていて、思考が停止した。
ドラマとか物語の中ではよく聞くフレーズだが、まさか自分自身が経験することになるとは思わなかったな。
「おーい伏見?どうしたんだ、置いてっちまうぞ」
「あ、…悪い。今行く」
皆には申し訳ないが、その日の飲み会のことはほとんど覚えてないに等しい。飲んだ酒の味も、食べた料理の味も、更に言えばいつ・どうやって寮に帰ってきたかも記憶は朧気だ。
さすがに迷惑をかけるようなことはやらかしていないと思うが、酒は確実に飲みすぎたな…頭が痛い。それでもいつもと同じ時間に起きれるのは、クセというか何というか…寝坊して慌てるよりはマシか。
同室の太一の寝言をBGMに身支度を整え、談話室へと向かえばそこにはもうすでに朝食の準備をしているはるの姿があった。
「あれ、早いね。おはよう臣くん」
「…ん、おはよう」
「二日酔いとか平気?珍しく酔っぱらって帰ってきたけど」
準備の手を止めてパタパタとこっちへ寄ってくるはるは、いつも通りだ。何かを隠してるとか、後ろめたいことがあるとか…そういう感じは少しもないけれど、隠すことがそこまで下手じゃないことを知っているから変に勘ぐってしまう。
昨日一緒にいた男と、どういう関係なのか。
はるの気持ちは知っているし、そこに嘘がないことも知っている。浮気するような奴だとも思っていないけど、…それでも僅かに生まれた疑念は消えてくれそうにない。
「少し頭は痛むが、大丈夫だ」
「ならいいけど…朝ご飯食べられる?何か食べやすいもの作ろうか」
「ただでさえ作る量が多いのに、俺だけ別にするのは面倒だろ」
気にかけてくれるのは嬉しいが、朝から面倒をかけるのはあんまりな…そう思って言ったのに、当人のはるは首を傾げて「全然?」と言ってのけた。
「そのくらい面倒でも何でもないよ。しんどい時に普通の食事するのキツイでしょ?」
「まぁ…否定はしないけど」
「食べられるならそのままにするけど、今そんなに元気じゃないでしょ臣くん」
なら、…お言葉に甘えちまうか。
今度は素直に頼む、と返せば、はるは嬉しそうに笑った。見慣れた笑顔にどこかホッとする。大丈夫、あの光景は夢でも何でもないけど…それでもまだきっと、はるの気持ちはこっちに向いている。
そう思いたいのにドロドロとした黒いモノに浸食されていくような感覚が、ひどく気持ちが悪い。気になるなら本人に聞けばいい、真実をアイツの口から聞ければ疑念も何もかも消えてくれるはずなのに。
それをしないのは―――最悪の事態を、真実にしたくないからだ。知りたくないからだ。かと言って、このままにしておいてもいいことはなにひとつないんだが。
「はる、今日何限まで?」
「今日?…あ、今日は3限だけだったけど休講だ」
「そうなのか?」
「うん。でもどうして?」
「デートに誘おうと思って」
つき合い始めてそれなりに経つし、デートに誘うのも初めてじゃないのにいまだにはるは顔を真っ赤にするんだよな。
そういう所も可愛いと思うのに、どうしたって脳裏によぎる昨日の光景が邪魔をする。
「急にそういうこと言うのやめてよ…」
「初めてじゃないんだから、そろそろ慣れてほしいけどな」
「慣れたら苦労してない…!」
「ははっ講義終わったら迎えに来るよ、寮にいてくれ」
「こっちまで帰ってくるの大変でしょ、そっちまで行くよ?」
「んん、…じゃあ駅前で待ち合わせするか」
15時半に天鵞絨駅前で、と約束を取り付けた所で、廊下から賑やかな声が聞こえてきた。
そうか、そろそろ皆が起きてくる時間だったな。手を止めさせて悪い、と謝れば、はるはもうほとんど作り終わってるから大丈夫だと首を振る。
それなら良かったけど、まだ盛り付けとか残ってるはずだよな。それだけでも手伝おうとエプロンをつけた。
「あ、そういえばさー東雲さんいるじゃん、演劇サークルの」
「…ああ、あの美人の?」
「そうそう!昨日、年上っぽい男と歩いてるとこ見ちゃってさぁ…彼氏いたんだなー」
「なんだよ、お前狙ってたのか?絶対無理だろ」
「んだよ失礼だな!わかんねーだろ、そんなの!」
講義を終えた後、たまたま聞こえてきた会話に動揺したのか、カバンの中にしまおうとしていた教科書やらノートやらを派手に散らかしてしまった。
隣に座っていた友人が苦笑しながら拾うのを手伝ってくれる、珍しいなと言いながら。
「悪い、助かった」
「いんや、このくらいいって。てか、お前この後用事あるって言ってなかったか?」
「あ、やべ。じゃあまた明日」
「おー。焦りすぎてこけんなよー伏見」
さすがにそこまで焦ってないよ、動揺はまだしてるけど。言葉にはせず、片手を上げて答えた。
さて、多分問題はないだろうが少し急ぐか。誘ったのはこっちだし、あまり待たせてしまうのも好きじゃない。タイミング良くきた電車に乗り込んで時間を確認すれば、まだ余裕があり待ち合わせに遅れることはなさそうだ。
…しかし、ひとりだと思考がネガティブになっていくな…普段ならこんなことはないんだが、想像以上に昨日のことが精神的にきてるらしい。さっき偶然聞こえてしまった会話もダメージがでかかった。気にしないようにしようとすればするほど、ドツボにハマっていっている気がするのは気のせいでもないだろう。
(朝は何とかなったが、この状態で大丈夫か?俺…)
問い質したいのは山々だが、アイツを傷つけてしまいそうで怖い。それなら全部飲み込んで、隠してしまった方が絶対にいい。
アイツが、…はるが離れていかないのなら、俺の隣に変わらずいてくれるならそれでいい―――そう、思ったはずだったのに。
知らない男に見慣れた笑みを浮かべて話し込んでいるはるを見た瞬間、男の手がはるに触れようとした瞬間、頭にカッと血が昇った気がした。
「悪いがこいつは俺のなんで、…触らないでもらえるか」