前を見ろ!


初日を前日に控えたある日。私は他劇団から預かった舞台のフライヤー、アンケート、それと『異邦人』のパンフレットとフライヤーを抱え、劇場の少し重い扉を開けた。もうすぐ通し稽古が始まる時間だけど、まだギリギリ大丈夫なはず…稽古が終わる時間だけをいづみさんに確認してすぐにお暇すれば邪魔にもならないはず。
そっと中を覗き込むと、予想通りまだ稽古は始まっていなかった。皆で舞台前に集まって、何か話をしているみたい。話が終わってすぐ声をかけられるように、でも邪魔にならない場所まで近寄った瞬間―――臣くんの言葉が、耳に届いた。


「俺の役名だが、これからはウォードではなく『ヴォルフ』と呼んでほしい」


息が、時間が、この世のあらゆる全てが止まった気がした。
皆がどんな答えをアイツに返したかはわからない、きっと聞こえていたんだろうけれど私の耳はガッツリスルーをしていて、我に返ったのはバサバサバサッと紙が落ちる音と、いづみさんが驚いた声音で私の名前を呼んだ瞬間。


「ぅわ、ごっごめんなさい!!」
「おいおい、大丈夫かよ遥ちゃん〜」
「何やってんだ、東雲…」
「大丈夫ッスかー?」
「派手にやったな、アンタ」
「うう、面目ない…」


初日前日。最後の通し稽古になるだろうに、私のドジのせいで時間を無駄にさせてしまった…そして手伝わせてしまった。その事実を受け止めきれずに、どよ〜んとしたオーラを纏ったまま散らばったフライヤー達を拾い集めていく。
良かった、挟み込みする前で…いや、結果としてあんまり良くはないんだけど。皆に手伝ってもらっちゃってるし。尚更どよ〜んと気持ちが落ち込んできていると、そういえば何か用事?といづみさんに声をかけられた。あ、そうだ。私は彼女に用事があって此処に来たんだった。


「あ、通し稽古の後に座席にパンフレットとか設置したくて…終わる時間を聞きに来たんです」
「そうだったんだね!通し自体は多分、17時くらいには終わると思うよ。その後ならいつでも大丈夫」
「反省会とかするんじゃないんですか?」
「するけど、その間にやってもらって全然構わないから気にしないで」
「わかりました」


じゃあそのくらいにまた劇場に来ればいいかな。一旦、寮に戻って談話室で挟み込みの作業をしてしまおう。本当は設置済みの受付でやるつもりだったんだけど、皆の声とか聞こえてきそうで…多分、今の状態じゃ落ち着けないし集中できる自信もないんだもん。通し稽古が終わるまでに挟み込みの作業が終わらなかったら何の意味もないしね。
もう落ちていないかキョロキョロと確認をして立ち上がると、1枚の紙が差し出された。それは私が落としたであろうフライヤーで、差し出してきたのは―――衣装を身に纏った、臣くん。


「ん。これが最後の1枚だと思うぞ」
「あ、りがとう…」
「―――なぁ、はる。此処にいてくれないか」
「え…」
「通し稽古、見ていってくれないか?」


臣くん以外のメンバーは、もう舞台袖でスタンバイしているのだろう。客席に残っているのは私と、臣くんと、いづみさんだけ。正直な所、見たいけれど本当にいていいのかわからなくって、助けを求めるようにいづみさんに視線を向けると、彼女はにっこり笑ってただ頷いた。多分、見ていって大丈夫だよってことなんだろう。
やらなくちゃいけないことは残っているし、本当ならば見たい気持ちを押し殺して、魅力的過ぎる臣くんの誘いも断って寮に戻るべきなんだと思う。でも見ていってくれないか、と言った臣くんの瞳が真剣だったから、私は頷きを返すのが精一杯。


「ありがとう。頑張ってくるよ」


最後に私の頭を撫でて、臣くんは皆がスタンバイしているであろう舞台袖へと姿を消した。そしていづみさんの声を合図に、通し稽古は幕を開け、私はあっという間に秋組が作り出す『異邦人』の世界へと引き込まれていく。
一度も稽古を見ていなくって、でも躓いているという情報だけ耳にしていた。辛そうな顔で、ぼんやりとした様子で考え込む臣くんの姿を何度も見かけた。でも―――今、舞台に立っているアイツはそんなことがあったなんて微塵も感じさせないくらいに堂々としていて。相手を睨みつける鋭い視線に、華麗なアクションに惹きつけられる。ゾクゾクする。ドキドキする。一秒たりとも視線を外すことができない。

(―――すごい、)

一歩を、踏み出したんだ。急に役名を『ヴォルフ』にしたい、と珍しすぎるわがままを口にしたのも、全部…アイツが悲しいことも苦しいことも、全部ひっくるめて自分自身なんだと気がついたからなんだ。刻み込む為に、その出来事があったから今、この場所に立っているんだと認める為に。
それに気がついた瞬間、涙が出てきた。舞台の内容に関係なく流れ落ちる涙は、止まる様子を見せない。嗚咽が漏れぬよう必死に口を手で覆い、それでも視線を舞台から逸らすことをしたくないし、最後まで見届けるまでは席を立つこともしたくないの。


「お、みくん…」


小さく零れ落ちた声は、音楽にかき消され誰の耳にも届くことはなかった。
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