知り得ない精神状態
いまだ麦わらは目を覚まさない。命は辛うじて繋がれているけれど、キャプテンが施せるのはそこまで。それ以上の回復は、どうしたって麦わらの生命力頼みなのだ。有り得ない程のダメージの蓄積、そして多大なる精神的ショックを受けたせいで、下手すると目を覚まさないってこともなきにしもあらず…だそうな。
ずっと目を覚まさなかったら、キャプテンは麦わらをどうするつもりなんだろう。というか、本当にこんな所で死なれたらつまらないとかいう理由で彼を助けたのだろうか。どれだけ考えても、あの人の真意はこれっぽっちもわからない。他人の考えなんて、そう易々とわかるわけもないんだけどさ。
「ん、よし。これで汚れは落ちたかな」
大切な帽子みたいだったから勝手に触るのは気が引けたけれど、砂埃やら血やらで汚れているのを見てしまったら、何かもうそのままにはしておけなくて。洗濯ついでに麦わら帽子を洗うことにした。
あとは水気を切って天日干しかな。今日はいい天気だし、まだ午前中だし、1日で乾いてくれるといいんだけど…それは無理かなぁ。とりあえず、陽が沈むまで干しておいてから考えよう。うん。
「お前さん、ルフィくんの帽子を洗ってくれていたのか」
「え?あ、海峡さん」
「海峡、…それは二つ名で、わしの名前ではないんだが」
「あー…そう呼ばれるの嫌?嫌だったらちゃんと名前を呼ぶけど」
首を傾げてそう問えば、海峡さんは僅かに目を見開き、しばし考える素振りを見せた後に静かに首を横に振った。おや、さっきの口ぶりから察するに嫌なんだと思ったのにそうではなかったらしいです。
まぁ、いいならいいや。そのまま海峡さんと呼ばせて頂こう。
「貴方、動いて大丈夫なの?すごい怪我だって聞いてたけど」
「正直な所、まだ動くのはしんどいが…どうにも落ち着かん」
「…そう」
海峡さんはそのまま欄干に寄り掛かるようにして、その場に腰を下ろした。額には僅かに汗が滲んでいて、さっきの言葉通り動くのはしんどいらしい。だったら大人しく寝ていればいいのに、とちょっと思ってしまうけれど、落ち着かないって言ってたしなぁ…きっと、何ともやりきれない思いがあるのだろう。この人にも。
事情も、思いも、私には何も察することができない。だから何か言うこともできない。1人にしておくべきか、とも思ったけど、殺気を向けられてるわけでもないしとりあえずはここにいても問題はないだろう。それに監視―――というか、変な考えを起こさないように見張る人も必要だと思うからね。まぁ、この人に限ってそれはなさそうだけどさ。
「…エースさんは、ルフィくんの兄だったそうだ」
「中継で見た。盃を交わした義兄弟だ、って」
「ああ。その兄を…目の前で失ってしもうた」
私はその瞬間を目にしたわけではない。ただ声を、麦わらが火拳の名を呼ぶ声を聞いただけ。仲間である白ひげ海賊団のクルー達が火拳の名を呼ぶ声を聞いただけ。だけどきっと、そうなんだろうと予想はしていた。多大なる精神的ショックを受けている、と聞いた時から。
彼が火拳の名前を、あんなに悲痛な声で呼ぶなんて…理由は『死の瞬間を目の当たりにした』こととしか思えないもの。あの戦争の現場にいた者なら、ほとんどの者が目にしただろう。火拳のエースが死んだ瞬間を。
「麦わらが目を覚ますかどうかは、彼の生命力と気力次第」
「そうじゃろうな」
「でも、…目を覚ました所で、彼の愛した家族はもうこの世にいない」
その現実を受け入れ、再び前を向けるかどうか―――それは誰にも、きっと麦わら本人にもわからないと思う。
受け入れようとしても心が耐え切れるのかさえ、不明確だ。心が壊れるかもしれない、繋ぎ止めたはずの命が終わりを求めるかもしれない…もしそうなった時、キャプテンはどうするんだろう。
「ルフィくんはまだ全てを失ってはおらん。それに気がつくことができれば、再び…」
海峡さんは最後まで言葉を紡がず、口を閉じた。
この人もまた、喪失感の中で必死に戦っているのだろう。麦わらが彼を思っていたように、大事に思っていたように…海峡さんにとっても火拳は、大事な人なのだということがわかる。だからこそ、火拳を助けようとあの戦争に参加した。そして弟である麦わらを必死に守ろうとしていたのだろう、自分がどれだけの傷を負おうと。
でもその気持ちを全てわかろうとするのは、きっと欺瞞だ。火拳を失った痛みや悲しみは、海峡さんと麦わらだけのもの。その片鱗に触れることはできても、理解するまでには至らない。いや、至ることができるわけがないんだ。だって私は彼らじゃないから。
「まだ…仲間がいる?」
「そうじゃ。今は一緒におらんようじゃが、仲間の存在がルフィくんを支えてくれる希望の光になるだろう」
「…そうだと、いいんだけどね」
麦わらを弱いと言いたいわけじゃない。だけど、まだ不完全だ。仲間への思いよりも、家族である火拳への思いが勝っていたとしたら…海峡さんの言う希望の光にならない場合だってある。
「お前さんの言う未来もないとは言い切れん。だが、わしは…ルフィくんの強さを信じておる」
「入れ込んでるんだねぇ、麦わらに」
「ははっ何と言えば良いかわからんが、不思議なモンを持っている。ルフィくんは」
ああ…それは何となく、わかるような気もするな。海峡さんの言葉に笑みを零し、汚れを落とした麦わら帽子を太陽に翳した。陽の光を受けたソレは、持ち主の笑顔のようにキラキラと輝いている。
この帽子が彼の元へ戻る時は、見慣れ始めていたあの屈託のない笑みを見ることができるのかなぁ。
「ちょっと冷えてきたかな…海峡さん、そろそろ艦内へ戻らないとキャプテンにどやされちゃうよ」
「そうじゃな、戻るとしよう。…話し相手になってくれてありがとう」
「…いいえ。このくらいお安い御用よ」
艦内へと戻っていく海峡さんの背を見送り、海へ視線を戻せば―――そこにあったのは波ひとつないように見える凪いだ海だった。
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