灰色と交渉
主が、倒れた。あたしはその場に一緒にいなかったけれど、ひどい発作を起こしたらしい。
高熱で、今は医務室で休んでいるみたい。原因はきっと、この寒さの中で水をかぶってびしょ濡れになったから…でしょうね。
「アリスはご存知でしたか?」
「…うん。昔はお体が弱くて、よく発作を起こされていたわ。ひどい小児喘息だったから」
「3年ほど一緒に居りますが、今日のような症状は初めて見ましたね」
「ほぼ治ってるようなものだったと思うんだけど、急激な寒さやストレスでぶり返すこともあるみたい」
熱と咳が治るまで絶対安静らしく、セバスも医務室を追い出されたみたいね。…確かに他人がいるとゆっくり休めないでしょうし、ひとまずは静養してもらうのが一番ね。何より心配だし。
けれど、主が動けない今…あたし達も何も出来ないわ。というか、一軍テントに潜入した際の結果を聞いていないし。主が何か手掛かりを手に入れていたとしても…ある程度、回復するまでは聞くことも出来ないしなぁ。
「…どうする?セバス。主が動けない今、あたし達も何も出来ない状況よ?かと言って、このまま此処に居続けるわけにもいかないわ」
「正論ですが…ひとまず待つことに致しましょう。坊ちゃんのお体が回復するまで」
―――…来い。セバスチャン、アリス
「…お呼びみたいね」
「そのようです。行きましょうか」
気がついたことにはホッとしたけれど、倒れてからまだそんなに時間は経っていない。まだ熱も高いでしょうし、辛いはずなのに…そんな状態であたし達を呼ぶということは…一軍のテントで何か手掛かりを見つけたということか。さぁ…主の口から語られるのは、一体どんな真実なのかしらね?クスリ、と笑みを零しながら、あたしとセバスは音を立てずに医務室へと忍びこんだ。
主が寝かされているベッドに歩み寄ると、覆いかぶさるようにして彼と同室のソバカスくんが眠っていた。きっと主のことが心配で此処に来て、そのまま眠ってしまったんだろうね。乗っかられているから息苦しいと思うし、剥がしてあげたいと思うんだけど…それで起きられると厄介だ。申し訳ないけど、このままにしておいた方が賢明かしら。
クスリ、と苦笑を零していると、主にチョイチョイと招かれ、自分の手の平をトントンと叩いている。いまいち主の言いたいこと・したいことの意味が上手く汲み取れず、思わずセバスと顔を見合わせてしまった。
とりあえず、手の平を差し出してみれば、指でサラサラと文字を書き始めた。
『アリスはまず、詳細をセバスチャンに聞け。
命令だ。お前達は紋章院に行き、シールリングの男を割り出して来い。紋章院はロンドンに「イングランド紋章院(カレッジ・オブ・アームズ)」、エジンバラに「スコットランド紋章院(ロード・オブ・ライアン)」がある。
こいつを起こして騒がれると面倒だ。明日の朝、剥がれたら脱出する。迎えに来い』
詳細はよくわからないけれど、それが主のご命令ならば。
主の手の平に「イエス、マイロード」と書き、あたしは笑みを浮かべた。彼が安心出来るように。セバスはその横で布団を掛け直しながら、「女性と同衾したことはエリザベス様には秘密にしておく」と笑顔で告げていた。
…このソバカスくん、女の子だったのか。ということは、一軍のドールって子かしらね。ショーが終わった後、その子だけが見当たらなかったし、ショーの最中にソバカスくんの姿が何処にもなかったことを考えると…その線が高そうだわ。
「…で?詳細って、何のこと?」
「そう怒らないで下さい。貴女は一軍の方々に捕まってしまっていたんですから、仕方ないでしょう」
「それで何がわかったの?」
そう苦笑しながら言うセバスを一睨みし、問い質してみれば。ジョーカーさんのテントで、主の名前が書かれた手紙を見つけたと教えてくれた。それには爵位、屋敷の所在地、簡単な生い立ちが綴られていて、差出人は"笛吹きの息子トム"。それに何の意味があるかはわからないらしいけど、封蝋には馬の刻印(ホールマーク)とKのイニシャルがあったそうな。
確かシールリングって、本人や家紋を象徴するモチーフと頭文字が彫られるのよね。つまり、"笛吹き息子のトム"は馬を冠する家紋を持つ者ということ。更に馬がデザインされた家紋を持つ者は、勲爵士(ナイト)に叙勲されている者や軍人に多いと聞いたことがある。そして慈善活動家…成程、主はある程度の身分がないとそれは不可能と踏んだわけか。
「それで紋章院に行け、と命令されたわけね」
「ええ。登録数が多くても、これだけ条件が揃っているのです。私達2人なら…調べがつくでしょう」
―――バサッ
「…まぁ、余裕でしょうね。じゃあ二手に分かれて―――」
殺気。瞬時に左右に飛べば、さっきまであたし達が立っていた所に死神の鎌が現れた。
…アイツか。とことん邪魔をするつもりなのかしら?
「何処へ行くのです。飼い主なしでウロつくなと言ったはずです」
「うっさいわね…主は身動きが取れないの。だから代わりにあたし達がお使いに行くのよ」
「例外は認めません。今すぐテントに戻りなさい。審査が終わるまで単独行動を許すわけにはいきません。小さなミスが大きな残業に繋がるのだから!」
―――ビッ
あたしへと真っ直ぐに向かってくる死神の鎌。自らの死神の鎌で弾こうとした時、黒い影がその鎌を捉えた。
黒い影の正体は、セバス。あろうことか彼は、刃の部分をギュッと握り込んでいる。
そのせいで真っ白な手袋は、セバスの血で真っ赤になってしまっていた。悪魔は怪我の治りが早いけれど、何てバカなことをするの…!心配ないとわかっていても、あたしが嫌な気持ちになるってわかっているはずなのに。
「申し訳ありません。私達にも執事としての義務があります。主人の眠りを妨げることを許すわけにはいきません。
貴方だってここで騒ぎを起こすのは本意ではないでしょう。どうです、私達と取引しませんか?」
「―――セバス…?」
何を、しようとしているのかわからない。けれど、前に立つ悪魔は妖しく笑い…言葉を紡ぐ。
「たった1時間、私達を自由にして下されば貴方の担当地区で、今後一切魂を喰べないと誓いましょう。たった1時間ですよ。いかがです?」
―――ズル…
「お断りです。甘言で獲物を惑わし、闇へ引きずり込む…悪魔の常套句(得意技)じゃないですか。全く」
「やっぱり駄目ですか」
「仕方ないわ、セバス。別の方法を考えましょう」
怪我をしたセバスの手を取り、あたし達はその場を後にした。
「全く…いくら怪我の治りが早いからって、無茶し過ぎじゃないかしら?」
「おや。心配して頂けたのですか?」
「……当たり前でしょう」
切れてしまった手の平。すでに傷は塞がり始めているけれど、血はまだ流れている。ポタポタと滴り落ちる血を舐め上げていけば、口の中に広がるは甘美な味。吸血鬼ではないのだけれど、こういう部分はやっぱり…悪魔(バケモノ)と言えるのでしょうね。鉄の味しかしない血を、美味しいと思ってしまうのは。
夢中になって舐めていれば、セバスの手が頬に触れる。そのまま顔を上向きにされて、啄ばむようなキスが降って来た。何度も、何度も軽く触れ合い離れていく。…セバスにしては、珍しくまだるっこしいのね。
「ん…」
「自分の血だと思うと、少し気分が悪いですね」
「あら、甘くて美味しいのに」
クスクスと笑いながら言えば、「貴女がおかしいんですよ」と溜息と共に吐き出された言葉。…そうね。正常だとは、あたしも思っていないけれど。
「どうしました?」
「あれくらいじゃ物足りない。…もっと貴方をちょうだい?」
キスを強請れば、「仕方ないですね」と苦笑しながらも、あたしが望むものを与えてくれる。さっきまでのような軽いキスではなく、呼吸までも奪われそうな激しいもの。舌を絡め取られ、上顎を、歯列をなぞられて…ゾクゾクと背中を快感が走っていく。首に腕を回せば、更に深くなっていく。
セバスとのキスに溺れていると、何処からか声が聞こえた。言い争うような…いや、何かに縋るような切ない声音と言うべきかしら。
「どないしたん、お前らしうもない。これは俺達で決めたことやろ。俺達は俺達の大事なモン守ろうって決めた。その為には何でもするって」
―――ギュウッ
「でも…でもアタシはアンタがこれ以上苦しむ顔、見てらんないよ!!」
あれは…ジョーカーさんとビーストさん?
「だってアタシは―――」
「忘れたんか?俺達はもう引き返せへん。…さ、夜更かしは体に悪いで」
「ジョーカー!」
「おやすみ」
ジョーカーさん、こんな時間に何処へ行くのかしら。彼はこのサーカスを任されている人だ。何か情報を聞き出せるかもしれないわね。もしかしたらあの手紙の差出人の元へ行くのかもしれないし、つけてみた方が良さそうだわ。
視線をビーストさんに戻してみれば、彼女は泣いているように見えた。…あぁ、彼女はジョーカーさんに恋心を抱いているのね。決して、報われることはないでしょうけれど。
「セバス、あたしはジョーカーさんを追うわ。貴方はビーストさんから情報を聞き出して」
「…おや。情報を聞き出すなら、彼女だけで良いのでは?」
「馬鹿言わないで。…情報聞き出すのを、黙って見てろって言うの?そんなのごめんだわ。それに―――」
違う…馬鹿は、あたしだ。
「お互いにオシゴトですもの。文句は言いっこなしよ」
その言葉を残し、あたしは闇の中へと姿を隠した―――