灰色と夜明け
ピチョン、と顔にかかる水の冷たさに沈んでいた意識が浮上した。何だろ…すごいスピードを感じているような気がするんだけど。
「目が覚めましたか、アリス!」
「ええ…」
目に入った浮き輪を思わず掴んだ瞬間に降り立ったのは、恐らく船の一番先端の部分。そこももう大きく傾いていて長くもちそうには見えない。
覚悟を決めて海に飛び込む他、助かる方法はなさそうね。ほぼ無意識だったけれど、この浮き輪を掴んでおいて正解だったかもしれないわ。
「セバス、主はあたしに任せて。貴方は救命ボートを探して…一隻くらい残ってるはずよ」
―――ずぼっ
「ちょ、おいアリス?!」
「わかりました。気を付けてくださいね」
「気をつけようがないけどね。…主、大きく息を吸ってください、飛び込みますよ!!」
「は?!っうわああああぁあああ?!」
浮き輪をかぶせた主をきつく抱きしめて、沈みゆく船から身を投げた。これ、傍から見ればきっと自殺してる人に見えなくもないんだろうなぁとかバカなことを考える余裕は戻ってきたようです。
でも飛び込んだ先の海の水は刺すように痛い。何とか主は抱え上げて彼の体が海に浸かってしまわないようにしているけど、テイカーさんにつけられた傷のせいでまた意識が朦朧としてくる。ここで気を失ってしまったら主までも巻き添えにしてしまう…何とか、セバスが来るまで耐えなくちゃ。
「アリス、大丈夫か?」
「へ、いきですよ…主こそ、大丈夫?」
「水をかぶったりしてるからな…身体は冷えているが、まだ何とかなる」
「ふ、…そうですか…貴方が無事ならそれで、」
ああ、ダメだ。意識が飛んでしまいそう…。
瞼が閉じて体が沈みかけた瞬間、力強い腕に引き上げられた。少しだけ飲んでしまった水を吐き出して目を開ければ、そこはボートの上…どうやらセバスがボートを持って戻ってきたらしい。
隣には渡された救命具と彼のジャケットを羽織った主の姿もある。寒さに体を震わせてはいるけれど、何とか無事のようでホッとする。さっき意識を飛ばしかけた時、主をも引きずり込んでしまいそうになっていたから。彼の身に何か起こっていたら、と思ってしまったのよね。…原因はあたしだけど。
遠くから生きている人達の悲痛な叫び声が聞こえる。きっとあそこには屍人もいるんだろう…彼らを助けようと戻ったりしたら、このボートも沈められる可能性が高いかな。ここは離脱するのは一番いいと思う。それはセバスも同意見だったらしく、彼は静かにボートを押して泳ぎ始めた。陸に辿り着くまでどれくらいの距離があるんだろう。その前に救助船が来てくれれば有難いけど、そう上手くいくものでもないでしょうし。
「…ん?」
「アリス?どうかしましたか?」
「今、何か視界の端で動いたような気が…」
視界も、頭もぼんやりとしているから信憑性が薄いけれど、セバスの後ろに何かいるような気がした。彼に気を付けて、と声を掛けようとしたらザバリと海の中から顔を出した屍人がセバスの足に噛り付いた。
すぐに蹴飛ばして頭を潰したから事なきを得たけど…アイツらは呼吸が必要ないから溺死しないってことなのかしら?
「それじゃ―――」
「しっ!…静かに、した方がいいわよ主」
ゴポリ、と水面に気泡が浮かんでは消える。それはかなりの数で、しかも広範囲…あたし達の予想は当たっていたらしく、この辺りには沈没した船の中にいた頭を吹っ飛ばされていない屍人達がうようよしているらしい。それが主の魂を嗅ぎつけたらしく、一斉に顔を出したんだ。
「セバス!急いで上がって!!」
急いで彼を引き上げたけど、屍人達もボートの上に這い上がろうとしていてぐらりと傾き始めた。このままじゃ全員、アイツらが蠢いている海に投げ出されてしまう…それは避けなくちゃ!備え付けられたオールで這い上がろうとして来ていた奴らの頭を吹っ飛ばしている後ろで、主の腕を掴んだ屍人をセバスが蹴り飛ばしている様子が見えた。
全く…どれくらいいるのかしらね?きっとコイツらはその身体が朽ち果てるまでただ魂を追い求めるのでしょう…この辺りで生きている人間は主だけ。だからこそ、これだけの数が集まってきているのかもしれないわね。
あたし達が進んでいた先に薄らと灯りが見える、あれはきっと沈没した船から逃げることが出来た人達だ。あのボートのどれかにエリザベス様達が乗っているはず。…きっと主なら、大切な婚約者や生存者を危険に晒すわけにはいかないと思っていらっしゃると思う。
「幸か不幸か、…一番間近な魂にしか目がいかないみたいね」
「ここで食い止める!やれるな、セバスチャン!アリス!」
「ふふ、違うわよ?主」
「使用人に問いかけなど不要です。どうぞ、ご命令を」
「命令だ、セバスチャン!アリス!掃討しろ!!!」
「「御意、ご主人様!!」」
ボートが揺れてしまうけれど、そんなことを気にしていられるような状況ではない。主には振り落とされることがないようにしっかり捕まって頂くよう声をかけて、鎌を召喚する。
「面白い…人間は死して尚、他者を蹴落とし欲しい物を手にしようとするのですね」
「それが人間なのでしょう?彼らは―――強欲なんですもの」
セバスが持っているオールが、あたしが持っている鎌が、次々と屍人の頭を粉砕し、首を飛ばしていく。その度に鮮血が舞い、あたし達の顔を、体を、服を汚して赤く染め上げていって。お腹の傷も、肩の傷も痛くて仕方ないけれどそれ以上に目の前に広がる光景がおかしくて、楽しくて仕方ない。
そんなことを考えながら鎌を振っていると知ったら、ねぇ、主?貴方はあたしのことを気味が悪いと蔑むのかしら?
空が白み始めた頃、ようやく辺りが静かになった。
ボートの周りにはおびたたしい程の数の屍人が浮かんでいる。動く様子がない所を見るときっと、これで全て倒したのでしょうね。あはは、主もセバスもあたしも…そこら中、血塗れだわ。仕方ないことなんだろうけど、これを救助船の人達に見られたらきっとひどく驚かれるんでしょうねぇ。ま、そんなのどうでもいいことなんだけれど。
ああでも…さすがにそろそろ限界だわ。
―――ガクンッ
―――ドサァッ
「セバスチャン!アリス!」
「ゲホッ…さ、すがにもう動けそうにないわ…」
「私も…死神の鎌での一撃は応えました…」
主とセバスが何かを話しているけれど、もう眠くて眠くて仕方がない。これ以上、瞼を開けているのが辛いくらいだわ…ゆっくりと沈んでいく意識の中、遠くで船の汽笛の音が聞こえたような気がした。
「アリス、…今日はよくやった。ゆっくり休め」