亀裂
妖力を解放すれば、気絶くらいはさせられると思っていたのに…ダメだった。
八戒くんが制御装置を外そうと思っているのかもしれない、と気がついた時、この方に辛い思いをさせたくないって思ってしまったの。だって、前に三蔵様に言われていたから。彼と私は悟空と違って、一度暴走してしまったら元に戻れる保証はないって。
…それを覚えていたから、だからこそ八戒くんには制御装置を外してほしくなかったんです。暴走して、仲間を傷つけてしまった時の痛みを、辛さを知っていたから。そんな思いを、彼にさせたくなかったから…だから私が、と思ったのに、私が止めるって決めたのに、…全くの役立たずだ。
「ゲホッ…ご、じょうく、マズいです」
「どうした?香ちゃん」
「妖気の、…八戒くんの妖気の色が」
変わってきている―――このままだと、完全に暴走しちゃう。私が一番恐れていたことが現実になってしまう、そうなる前に止めなくちゃ!
あの時は彼が私を止めてくれた、いつだって危ない時は八戒くんが守ってくれていたから…今度は私が貴方を守る番なんです。痛む身体を気にしている場合じゃない。今、優先すべきなのは私自身のことじゃない。暴走しかけている八戒くんだ。
無理矢理に起き上がって、やり過ぎな程に悟空を殴って、爪を立てている八戒くんに後ろから思いっきり抱き着いた。何度も、何度も名前を呼ぶ。これ以上、貴方を失わないで―――私の気持ちが届くように何度も呼んだ。
でも届かなくて、狂気に染まった瞳が私を映す。私を見ているようで見ていないみたい、大きく振りかぶった腕が私の頬を掠めていった。
「―――ッ、ぃた…っ」
「……あ、…香―――?す、みませ…」
「!八戒、香ちゃんっ後ろ―――!」
確かに吹っ飛ばされたと思っていたのに、痛みを然程感じなかった。何故、と思って目を開ければ、そこには八戒くんの姿。もしかして、君は私を庇って殴り飛ばされたの?!もう身体中ボロボロなのに何て無茶を…!
起き上がろうとする八戒くんを支えていたら、視界の端に何か光っているものが見えた。ああ、負傷した悟空が傷を癒そうと大地の気をまた吸い上げているんだ…いくら攻撃しても、怯ませる為に傷をつけてもこれではラチがあかない。
やっぱり気絶させないと金鈷を嵌め直すことは難しいのかもしれませんね。けれど、誰一人それができなかった…何か、何か別の方法を考えないと、無関係な人間にまで被害が及んでしまう。
「―――ヘイゼルさん。魂のストックはまだありますか?」
「なんやて…?」
「八戒、お前……」
「いえ、僕の分じゃあなくって。…緊急事態なんで一度だけ―――ガトさんを貸してください」
真剣な顔で言う八戒くんの頭上で雷が、ゴロゴロと鳴り始めていた。
そして一筋の稲光―――八戒くん、もしかして、
「香鈴、すみませんが…一瞬でいい、悟空を怯ませることできますか?」
「!…ええ、任せてください」
何となくだけど、八戒くんがやろうとしていることがわかった気がする。魂のストックがあるか、と聞いた意味も、ガトさんを借りたいと申し出た意味もわかったけど……本音を言えば、危険だから止めてって言いたい。
でもその反面、それ以外に方法もないんじゃないかって思うの。お願いだから、…無茶をしないで。そう心の中で呟いて、私は地面を蹴った。
自分も負傷しているし、まだ動けるって思っていなかったんでしょうね―――僅かだけれど、悟空に隙ができていた。それを見逃す程、私は愚かじゃなくってよ?一瞬だ、一瞬でいい…悟空の動きを止めることができればきっと…!
私はもう一度、制御装置を外して渾身の回し蹴りを喰らわせた。蹴りは見事に命中し、悟空は数メートル先まで吹っ飛んでいく。気絶させるのは無理だったけど何とか八戒くんの考えた作戦を実行する準備をする時間は、稼げたみたい。
「はっはぁ…!」
「退いて、香鈴!!」
―――ピシャァッ!!
雷が―――彼の狙い通り、落ちた。
ガトさんの銃めがけて落ちた稲光は、ツタを導線として悟空へ届いたんです。感電した彼はそのまま倒れ込み、動かない…その隙に悟浄くんが金鈷を嵌めてくれて何とか事なきを得ました。
…それなのに、八戒くんの声が聞こえないの。
終わりましたね、とか、怪我は大丈夫ですか、とか…優しいあの声が、どこからも聞こえないのよ。
ドクリ、ドクリ、と心臓が嫌な音を立てる。鼓動はどんどん大きくなって、まるで全力疾走した後みたいに早鐘を刻んでいく。ねぇ、大丈夫よね?八戒くんは無事よね…?
『必ず引き取りに行きますから。』
そうよ、彼はカフスを私の手に握らせながらそう言っていたじゃない。だから絶対に―――
「眼鏡はん…しっかりしぃや、アンタ!!」
「は、っかい、くん…?」
「八戒……!!!」
うそ、…嘘だ、八戒くんが死ぬわけない。こんなの、こんなの絶対に嘘よ!
「―――どけ!」
「八戒くんっ…八戒くん!!」
触れた頬はまだ温かいのに、それなのに呼吸をしていない。上下するはずの胸もピクリとも動かない。何より…綺麗な翠の瞳が固く閉ざされたまま開く気配がない。必死に彼の名前を呼ぶ私の横で悟浄くんが心臓マッサージを施すけれど、動かないの…!
ねぇ、お願いよ、お願いだから戻ってきて!目を開けていつもみたいに笑ってください、笑って仕方ないですねぇって……嫌よ、君を失うなんて絶対に嫌なんだから!!
―――チャリ、とヘイゼルさんがペンダントを掴む音がした。
蘇生させようとしてくれているのか、それとも彼の魂を回収しようとしているのか…それはわからないけれど、わかることがたった1つだけある。それは、まだ八戒くんが死んでないということだ。
「―――死んでねぇ!!!まだ死んでねぇ!!」
「!!」
「余計なことも、私達の邪魔もしないで…っ!」
「クソッ…頼む、頼むってんだ…!!!」
「起きて、…君はこんなとこで死ぬような人じゃないでしょう!起きて、八戒!!」
「―――ゲホッゲホ、ゴホッ」
目を、開けた…!嬉しさと安堵で涙が滲む。良かった、と言葉にすれば、いつもより少し覇気がないけど聞き慣れた声音で2人してなんて顔してるんですか、とか言うもんだから、思いっきり抱き着いて悟浄くんと同時にうっせぇ、バカとだけ返しておきました。
「う〜〜〜〜…っ!」
「はいはい、ちゃんと生きてますから…そんなに泣かないで」
「香ちゃん、悪いけど歩ける?八戒と悟空、運ばねぇと」
悟浄くんの言葉に平気です、と答えながら涙を拭って立ち上がると、三蔵様がじっと悟空を見つめていた。あの時に見た狂気も、殺意ももう瞳には映っていない。けれど、普段の強気な光も灯っていない。
抜け殻―――とまではいかないけれど、明らかに弱っていらっしゃるように見えます。何か声を掛けようとするけれど、何を言っていいのかもわからなくて…ただそのまま、立ち尽くす三蔵様を見ていることしかできません。
八戒くんを抱え上げた悟浄くんが無言で悟空に歩み寄り、すっかり熟睡してしまっているらしい彼を持ち上げた。三蔵様に両手が塞がってブン殴れない―――そう言葉を残して、スタスタと歩いて行ってしまう。
仲間思いの悟浄くんのことだ、きっと悟空が大変だったときにふらりといなくなってしまった三蔵様のことが許せないのでしょうね。何もしなかった、と…そう思っているんだと思います。確かにあの時、傍から見れば悟空を置いて何処かに行ってしまったように見えるでしょうが……私には、三蔵様を責めることも怒ることも、できそうにないわ。
しばらくあの御方は立ち尽くしていたけれど、何も言葉にすることもなく悟浄くんが歩いていった反対方向へと行ってしまわれました。
微かに―――でも確実に、何かが壊れていくような音が聞こえた。