揺れる、跳ねる
いつだって過保護で、どんな時でも私優先の世話役は―――優しくて、厳しい。作法全般を教えてくれたのもその人。将来、困ることがないようにって一から十まで、本当に何から何まで教えてくれたのです。…スパルタすぎて泣きたくなることもたくさんあったけど、でも彼が…蘇芳が最後まで根気よく教えてくれたからね、お偉いさん方と食事をすることになった時も、作法を注意されるようなことは一度もなかったりする。
「―――様、貴方は女性なんですからもう少しお淑やかにですね…」
「…蘇芳。天界軍に入った時点でもう、女は捨ててるようなものなんだけど」
「ああもう!ですから、私は反対したんですよ」
「反対されて改めるような考え、持ってませんよーだ」
兄様以外に家族のいない私にとって、貴方はもう1人の家族だったんだ。大切な大切な人だったんだ。だから、だから―――ねえ蘇芳、
「すおうって…誰ですか」
「香鈴?」
「おはようございます、八戒くん…」
「その様子だとまた、夢を見ていたみたいですね」
グーッと伸びをしながら頷きをひとつ。彼の言う通り、私はまた夢を見ていました。相も変わらず、私は誰かの記憶を誰かの目線でひたすら見ている、ただそれだけなんだけど…今回は珍しく、『すおう』という名前を覚えているんです。きっと私(ではないのだろうけど)と話をしていた、あの優しそうな男性の名前なんでしょうね。何度も、何度もその名前を呼んでいましたから。
…だけど私は、その人を知っているはずがない。そんな名前の方の知り合いはいませんし、今までに出会った記憶もありません。
「でも寝る前より、少し顔色が良くなっていますね」
「あー…言われてみれば、さっきより楽かも」
眠った感じはないんだけど、確かに今までに感じていた半端ではない疲労感は感じていませんね。アレでしょうか、八戒くんの癒しオーラパワーなんでしょうか?
…そんなものが彼に備わっているのかは、甚だ疑問ではありますが安心感があったのは本当なんですよねぇ。でもまぁ、ずっと彼に傍にいてもらうわけにもいかないので、今回限りでしょうけれども。
ふわ、と欠伸を1つ。ベッドから下りると、窓から夕陽の光が差し込んでいるのが見えました。横になったのが昼過ぎだったから、…少なく見積もっても3時間くらいは眠り込んでいたということになりますね。ちょっと眠り過ぎちゃったかも。
そう思って八戒くんに謝罪しても、彼はただ笑みを浮かべて少しでも疲れが取れたのなら良かった、と言うだけだった。こういう時は決して怒ることをしない八戒くんに、尊敬の念を抱いてしまうのは当然のことだと思います。
「お腹空きました…」
「夕飯にするには少し早いですねぇ。…そうだ、三蔵達の部屋にお饅頭があったはずですよ」
「あ、買い出しの時に買ったやつですか?」
「ええ。お茶の時間には遅いですが、1つくらいなら問題ないでしょうし。……悟空が食べきっていないといいんですけど」
あはは、それは否定しきれないなぁ。私。悟空は本当に食いしん坊だからね、お饅頭をテーブルの上に出したままにしておいたらきっと、1つ残らず食べられてしまっていると思います。
笑ってそう言えば、八戒くんは僕も食べてないんですけどね、と苦笑した。それもそのはず、買い出しをした後は部屋に戻ってきて荷物の整理をしていたんですもの。それから私が眠ってしまって、彼はずっとこの部屋にいたんですから。
とりあえず彼らの部屋に行って確認をしてみないと、どうなっているかはわかりませんよね。椅子にかけたおいたカーディガンを羽織り、八戒くんと一緒に隣の部屋を訪ねた。
「ずいぶんと荷物整理に時間かかってたんだな」
「整理自体は済んでたんですけど、私がぐっすり眠ってしまって…」
「…ああ成程、それで八戒も部屋にいたわけね」
「悟浄、僕が置いていったお饅頭ってまだ残ってます?」
「あ?おう、残ってんぞ」
珍しく悟空の奴が2人の分だから、って残してたぞ。
悟浄くんがくつくつと喉を鳴らしながら差し出してきたのは、2つのお饅頭。残してくれた当人は今、ベッドの上で丸くなってジープとお昼寝中だったりするのだけれど。でもあまりにも意外過ぎて、思わず八戒くんと顔を見合わせちゃいました。だって、絶対に残ってないだろうなぁって思ってましたから。
「残した、と言っても、未練たらたらだったがな」
バサリ、と新聞を捲りながら教えてくれたのは三蔵様。未練たらたらという言葉を聞いて、お饅頭を前にぐぐぐっと我慢している悟空は容易に想像がつきますね。やっぱり笑いが込み上げてきてしまいます。
「悟空も成長しているんですねぇ…ちょっと感動しちゃいました」
「てめぇは猿の母親か」
「あはは。香鈴って悟空のこととなると親目線になりますよね」
「そこまで歳が離れてるわけじゃねぇのにな」
「うーん、何か可愛がったり、世話を焼きたくなっちゃうんですよね。悟空って」
あの子が残してくれたというお饅頭にかぶりつく。八戒くんが気に入って買ってきたものだけあって、とても美味しいお饅頭です。あんこはぎっしり入ってますし、それなのに甘すぎなくていくつでも食べれちゃいそうですね。
残念ながらもうこれ以上、残ってはいないのですが―――もし覚えていたら、そして出発前に時間があれば、もう一箱買っていくのもいいかもしれません。きっと、三蔵様達も気に入ったでしょうから。
もくもくとお饅頭を咀嚼しながら、窓の外で沈んでいく夕陽に視線を移す。真っ赤に燃えている太陽は綺麗で、どこか悲しくて、…前にもこんな感情を抱きながら、夕陽に染まった真っ赤な空を見上げたことがありましたね。
悟空が太陽を美味しそうだって言ったり、夕陽に向かって走っていることを思い出して青春みたいだって笑ったり、…ふふ、それもいい思い出です。私にとって。
だけど、その記憶とは別に―――『誰か』が夕陽を背にして、微笑んでいる映像が頭の中に流れ込んできたんです。穏やかな笑みを浮かべて、手を差し出して、それで……、
『帰りましょう、―――様』
ああ、まただ…また、名前がわからない。確かに言葉を紡いでいるのに、唇も動いているのに、それなのにどうしてわからないんだろう。読み取ることができないんだろう。考えれば考える程、頭と胸がツキリと痛む。
まるで―――私の中にいる誰かさんが泣き叫んでいる、みたいだ。