桜のきみ
『紅英様』
確かにそう呟いた。人違いでは、と思ったけれど、あの方は私の目をしっかりと見つめて、やんわりと目元と口元を緩め、嬉しそうに笑ったその顔は―――少し前に、毎日見ていた夢に出てきていた男性そのものでした。
見覚えがあるような気がしていたのは、そういう理由か…でもどうして?あれは誰かの記憶のように感じていたのに、それなのにどうして私の目の前に現れたのでしょう。それに『紅英』って誰のことなんですか?
(…もしかして、夢の中で呼ばれていた名前ってこれだったのかしら)
図書館から借りてきた本に目を通しながら、ぼんやりとそんなことを考えていました。綴られた文字に視線を落とすけど、どうにもこうにも集中できないですね…それもそうか、目は文字を追っているけれど意識は全く別の所にあるんですもの。内容が頭に入ってくるはずもないんだ。
だけど、何かに目を通していないと変に悩んじゃいそうで…思わず溜息をつきそうになった寸での所で、テーブルにマグカップが置かれました。八戒くんかと思えば、そこにいたのは白の布地に桜の刺繍がされたチャイナドレスを着た少女。
「中国茶だよ、香鈴さま」
「ありがとう…でも様付けは止めない?―――『桜華』」
苦笑交じりに言うけれど、でも少女は「香鈴さまは香鈴さまだから!」と言って聞いてくれそうにありません。うーん、こんなに小さいのに自分の意思をちゃんと持ってて偉いなぁ…でも下手すると頑固者に育っちゃいそうですね。
淹れ立ての中国茶を一口飲めば、ふんわりといい香りが鼻腔を擽る。その香りは私の気持ちを落ち着けてくれます。
『桜華』。
そう呼んだ少女は、再び賑わいと人の気配を取り戻した町の中で出会ったんです。ピンク色の瞳をしていて、こんな綺麗な色の瞳をした子供がいるんだなぁ、と思っていたら、私を見るなりパァッと顔を輝かせて「香鈴さま!」と抱きついてきたの。
もう何が何だかわからなくって、隣に立っていた八戒くんにどうしましょう?と視線を送ってみたものの…八戒くんもどういうこと?って感じの顔になってしまっていて。最初は迷子かと思ったんですけど、でもそうじゃないとハッキリ言われてしまいましたし、私に会う為に来たんだーって言われてしまったら、とりあえず連れて行くことになるでしょう?
『…おい、そのガキは何だ』
『ええっと…話せば長くなるんですけど』
『手短に話せ』
『拾いました。』
『端的すぎんだろ!!』(スパーンッ!)
部屋に戻ってきた時には、私と三蔵様との間でそんな会話がされていましたとさ。
まだ痛いんですよ、頭。あの御方ってば、いつだって手加減をしてくれないんですから。
「八戒!八戒もお茶どうぞ!」
「おや、桜華が淹れてくれたんですか?ありがとう」
「懐くの早いなー…そのガキ」
「む。ガキじゃない、桜華!!」
「へーへー、ちゃんとわかってるっつーの。…桜華」
悟浄くんが名前を口にすれば、桜華は嬉しそうな笑みを浮かべていました。でも一瞬、ほんの一瞬だけ、幼い横顔に綺麗な大人の女性が重なったような気がしたのは―――私の気のせいでしょうか?
「八戒、香鈴。…町で何があった」
「え、それを今更聞くんですか?三蔵様…」
「てめぇがそのガキを連れてきたから、できなかったに決まってんだろうが」
私のせいにしますか。ひどく理不尽だと思うのですが。文句を言うとまたハリセンで叩かれてしまうと思うので、何も言わずにグッと飲み込みますけどね。
…というか、三蔵様、何かを感じていらっしゃったんでしょうか?さっきの聞き方は疑問ではなくほぼ断定されていらっしゃるように感じました。それはつまり、私達があの龍に襲われている間に異変を感じていたということになります。
「実は…龍に襲われまして」
「………は?なに、八戒、頭打ったのか?」
「嫌だなぁ、そんなわけないじゃないですか。失礼ですよ、悟浄」
「まぁ…体験している私達も、夢でも見ていたような感じではありますけど。でも本当なんです」
「え、龍って…あの空想の動物とか何とか言われてるやつ?!すっげー!俺も見たい!!」
そんな目を輝かされても困るのですが、悟空…。
昔っからだけど、悟空が興味を示すものの基準がよくわかっていないのよねぇ…私がお腹の中に飼っている魔の物然り、ガトさんと筋肉然り、今回の龍然り。男の子だから筋肉に憧れを抱くのは、まぁわからないんでもないんですけど。それ以外に関しては、付き合いが長くなった今でも首を傾げてしまうものばかりです。
それはさておき、何故何かあったと断定できたのか聞いてみた所、数分だけだったが空気が変わった、と教えて頂きました。それは悟浄くんと悟空も感じていたようで、耳鳴りのようなものがして変な空気になったんだ、と。だけど、外は何も変わった様子はないし、妖気を感じたわけでもない。
最も興味深かったのは、昨日の大きな鳥と対峙している間と同じ空気だった―――と、三蔵様が仰ったんです。それは私も少しだけ、感じていました。昨日もまるで人がいなくなったかのように静かになって、気がつけばあの鳥が現れていたんですもの。
「それと関係してるかはわかんねぇけど、町の奴らが隣町にある封印の石が壊されたとか何とか言ってたぜ」
「封印の石…ですか?」
「何でも全ての町にあるものらしい。それぞれ封印しているものは違う、と聞いたが…何を封印しているかまではわからん」
まぁ、それもそうですよね。
「香鈴さまと八戒が見た龍は、青龍だよ」
「セイリュウ?」
「青い龍と書いて、青龍。聞いたことはない?朱雀、青龍、白虎、玄武―――それぞれが天の四方を守っている、っていうお話」
「へー!そんな話があるのか」
「でもよ、それって作り話ってやつじゃねぇのか?」
「神話、ですね」
「実在するよ、青龍も、朱雀も、白虎も、玄武も」
だって4つの町を守っているのは、彼らが封印された石だから。
彼女が言うには、昨日襲ってきた大きな炎を纏った鳥は朱雀…だそうです。確かに神々しさは感じましたけど、守り神という感じはしませんでしたよ?妖気とは違う禍々しさを感じたくらいですし。
でも封印の石が壊された、という噂話を聞いた後にあの鳥に襲われたことを考えれば、桜華の言っていることはあながち間違いだというわけでもなさそうなんだけれど…さすがに守り神かどうかの見分けはつきませんよねぇ。一応、神様の知り合いはいますけど。
(菩薩様だったら、何か事情を知っていたりするのかしら…天界が関係しているとは思えないけど)
…ん?ちょっと待って。神話では四神が四方を守っていると言われていた…そして桜華は4つの町を守っているのはその四神が封印された石だと言った。そして町に1つずつ、封印の石があるのだという。
どうして町を守る必要があるのだろう?そもそも何から?妖怪から、ということも考えられるけれど、でも結界が張られているというわけではないみたいだし、あの石があるからといって妖怪が侵入してこないわけじゃありませんよね。
唐突に町の位置を、思い出した。積み重ねた本の隙間から、女将さんからもらった地図を引っ張り出す。わかりやすいように、とこれを見せて町の形態とかを教えてもらったんですよね。…そうだ、真ん中に町が1つあって、その周りを囲むように4つの町が―――。
「もしかしてあの封印の石って…」
「香鈴?」
「その4つの石に四神が封印されているのだとしたら、結界を張っているのかもしれません」
「…成程、そういうことか」
「あ?どういうことだよ、香ちゃん、三蔵」
ここでようやく思い出したんです。昨夜、読んだ本の内容を。
遥か昔、大きな1つの町を巨大な怪物が襲ったこと。何とか怪物の封印に成功したものの、簡単に封印を破られてしまうかもしれない…それを危惧した術者達が町を5つに分け、4つの町には守り神を封印した石を置き、それを媒体に大きな結界を張ったのだそうです。決して目を覚ますことがないように。
つまり、その怪物の封印を解くには4つの守り神の封印を解いて、結界を破るしかないということなんです。
「んじゃ何か?それが本当だとして、…誰かが封印を解こうとしてるっつーことか?」
「…封印を解こうとしているのは、あの人。『穢れた神』と呼ばれた、可哀相な男の人」
「穢れた神…?」
「香鈴さまと八戒は会ったでしょう?あそこで、1人の男性に」
ハッとして八戒くんと目を見合わせた。あの時、私を見て懐かしそうに目を細めた―――彼の人。