囚われの眠り姫
「アイツ―――とうとう手を出しやがった…!」
「どうなさいますか、菩薩様」
「こうなった以上、動く他ねぇ。…行くぞ、二郎神」
「御意」
これは完全に俺のミスだ。あの時、二郎神の言う通りにしていれば…すぐ行動に移していりゃあ、最悪の事態は防げたかもしれねぇのに。
苛立ちが募る、自分自身に―――そして、傍にいながら香鈴を守ってやれないアイツらに。
ゆっくりと思考が停止していくような気がした。何も感じなかったんです、妖気も、殺気も、何ひとつ。『紅英様』という名前は知らないけれど、でも香鈴に向けられる眼差しはとても優しくて…何かをするようには見えなかった。
それが、油断と呼ばれるものだと気がついたのは、男性の身体から真っ黒な霧が出た瞬間。妖気とも何とも言い難い、禍々しい空気が僕達を包み込んでいく。黒い霧は形を変え、やがて黒い刃の長刀へと変化した。
そこからは本当に―――本当に、一瞬のことだった。
笑みを浮かべた彼が、躊躇することなく香鈴の胸を刀で貫いたんだ。だけど、血は一滴も出なかったんです…確かに刃は彼女の胸、心臓を貫いているはずなのに。服も、刃も、地面も…どこも赤黒く染まらない。
それなのに香鈴の身体はゆっくりと傾いでいく、ズルリと刀が引き抜かれる―――でもやっぱり、赤い滴が吹き出してくることはない。
side:八戒
「香ちゃん!!」
我に返ったのは、悟浄の切羽詰った声が聞こえたから。倒れ込んできた彼女の身体を支えているのも、悟浄。その横には泣きそうになっている悟空と、ひどい顔で男性を睨みつけている三蔵の姿もある。
「香鈴っ…香鈴、なぁ起きろってば!!」
「揺すんなバカ猿!なにされたかわかんねーんだぞっ!」
「貴様、…この女に何をしやがった」
皆さんの声を聞いて、ようやく状況を理解しようと脳がフル回転で動き始める。ズキズキと頭が痛むのは、きっと情報処理に追いついていないから。理解することが、しなければならないことがたくさんありすぎて…眩暈がしそうです。
けれど、今は自分のことに構っているような暇はないんです。どくどくとうるさい心臓を無視して、悟浄の腕の中で眠っているように見える香鈴に触れた。
(身体が、冷たくなってきている……?!)
触れた手は少しずつ、少しずつ温もりが失われていっている。さっきまで、本当にさっきまで動いていたはずなのに…急速に体温が下がっていっている現実に、叫び出したくなるんだ。どうして、と脳が、心が叫んでいる。
確かに刀で胸を貫かれていました。でも血は出ていないし、貫かれていたはずの胸にも傷ひとつ残っていないんですよ。何もなかったかのように綺麗なままで、なのに…意識だけがないんです。
「ッ?!」
「…八戒?」
「呼吸を、していない…心臓も、」
動いていないんです、と口にしようとしたのに、喉が震えて上手く声が出せないんだ。
「悔しいですか?―――天蓬元帥」
「え、…?」
「愛しいこの方を守れずに、死なせてしまう己の無力さを思い知ったでしょう?」
ニタリ、と弧を描いた口元。それがひどく恐ろしくて、…目の前にいるこの人は確かに人間のはずなのに、それなのにまるで違う雰囲気をその身に纏っているような気がしてならないんです。
「捲簾大将、悟空、そして―――金蝉童子様」
「てめぇはさっきから何言ってやがる。…香ちゃんに何をしやがったんだ、って聞いてんだよ!!」
「至極、簡単なこと。下界に縛り付けられていた魂を、引き剥がしただけですよ」
「魂を……?」
「この方は下界にいるべき方ではない。貴様らの傍にいるべき方ではない。…この方がいるべき場所は、私の傍しかないのです」
一体、この人は何が言いたいんだろう。まるで香鈴は自分のモノだ、と言いたげにしているけれど…彼女は誰のものでもない。彼女自身のものだ。それを勝手に何を言ってやがるんですか…!
ふつり、ふつりと腹の底からせり上がってくるのは―――恐らくは、怒り。一周して冷えきったらしい頭は、さっきよりもかなり冷静だ。何をすべきか、何を優先すべきか、…今ならわかる。
掌に力を込め、それを思いっきり彼に向けて放出した。でもいとも簡単に躱され、後ろにあった岩を抉っただけ…男性自身は傷ひとつ、負ってなどいない。それがひどく憎たらしい。余裕そうな笑みも、見下したような視線も、その全てを壊してやりたくなる。
「魂を引き剥がしたと、そう仰いましたね?」
「ええ。この方の魂は今、この中で眠っています」
チャリ、と音をたてたのは透明な球体のネックレス。その中には青白く光っているものが、ゆらゆらと揺れていた。
この人の言っていることが全て本当だとすれば、あれは香鈴の魂ということになりますよね。荒療治にはなりますが、ネックレスを破壊すれば彼女は目を覚ます―――そう思っていいはずだ。…でも、本当に壊して大丈夫なのかは不安しか残らないですけど。壊す=目を覚ます、という方程式は極論に過ぎませんから。
とはいえ、あのネックレスをあの人から奪えなければ香鈴を救う手立てすらなくなってしまう…壊す・壊さないはまず、奪い取ってから考えることにしましょうか。
「―――救いたいのであれば、この先の丘まで私を追ってくるといい」
「なっ逃げる気か、お前!!」
「逃げる?とんでもない…貴様らの死に場所を用意してやるだけのことだ」
彼の双眸の奥に見えたのは、憎しみの炎。
僅かに身を引いたのを見逃さなかったようで、動くことのできなかった僕達を嘲笑うかのように消えていきました。…最初から、いなかったかのように。
―――ゴッ!
「なんなんだ、あのふざけた野郎は…!」
「とにかく香鈴を連れたまま、追うことはできません。一旦、宿に戻りましょう」
思いっきりドアを開けた先には、驚いた様子でこっちを凝視している桜華の姿。驚かせてしまったようですが、今は謝罪の言葉を口にしている時間さえ惜しいんです。ごめんね、桜華。
香鈴の身体をベッドに寝かせ、これ以上、冷えてしまうことがないようにしっかり布団を掛ける。…こんなことをしてもきっと体温は上がらないでしょうけれど、気休めというやつです。やらないよりかはまだ、いいでしょうからね。
「香鈴さま?!一体、何が…!」
「よくわかんねぇ男に刺されたんだ。外傷はねぇんだけど、魂を抜かれちまってるらしい」
「…もしかして、蘇芳様……?」
「あの人は蘇芳というんですか?昨日、僕と香鈴が会った人です」
「だったら蘇芳様で間違いないよ。…ついに香鈴さまに、」
やっぱり、桜華は何かを知っているんですね。じっくり話を聞きたい所ですが、香鈴をこのままにしておくことはできません。このままにしておいたら直に、身体自体が腐ってきてしまうでしょう。
魂が抜けてしまった抜け殻は、心臓も止まってしまっていますから、生きる為の機能が一切合切、停止してしまっているということだ。取り戻す術はあるけれど、いつまでもつかはわかりません…一刻も早く、彼を追いかけなくちゃ。
泣きそうな顔でぐっと唇を噛んで耐えている、幼い彼女の頭を撫でる。香鈴をお願いします、と声を掛ければ、力強く頷いてくれました。
「必ず―――貴方を取り戻します。だから、もう少しだけ頑張ってくださいね?香鈴」
冷たい頬を撫で、僕は部屋を飛び出した。