ひとつ、口づけ
何だか夢のようだと、心の底からそう思ったんです。この気持ちは彼に告げようと思っていなかったし、それこそ墓場まで持っていく気でいましたから…だから、とても驚いているというのが本音。
まさか同じ気持ちでいてくれたなんて、思いもしませんでした。何度も、…勘違いしそうになって、その度に自惚れるなって自分を律して、そんなはずがないんだって戒めたの。何度も、何度も。
「自惚れて、良かったんですねぇ…」
「それは僕のセリフでもありますよ?」
「へ?」
「抱きしめても拒否されませんでしたし、悟浄達が触れても態度が変わらないのに僕が触れると真っ赤になったりしていたでしょう?」
そ、そりゃあ好きな方に触れられたらドキドキしますし…!
「何度も勘違いしそうになりました。でももし違ったら、と思うと…やっぱり踏み止まってしまって」
そんな彼の背中を押してくれたのは、悟浄くんだったそうです。ああ、悟浄くんは本当に優しい人。私も何度、彼の優しさに助けられたかわからないくらいですもの。
…優しいからこそ、辛い思いをさせてしまったなと思うんです。謝りたい衝動に駆られるけれど、でも彼はそんな言葉を望んでいないんですよ。謝罪するくらいなら笑えって、言う人なんです。悟浄くんは、昔からそういう人だから。本当に感謝してもしきれませんねぇ。
「―――香鈴、…触れても、構いませんか?」
「ふふっ今更許可なんていらないんじゃありません?」
「!…それもそう、ですね」
では遠慮なく、と思いっきり抱きしめられました。今までに何回もこうされたことがありますけど、でもその時と少しだけ違う気がする。あの時だってドキドキしていたし、緊張とか恥ずかしさでいっぱいだったけれど、でも…八戒くんの気持ちがわからなくて不安だったんです。
嫌われている感じはありませんでしたけど、どうして抱きしめられているのか理由がわからなかったから。けど、今は違います。ちゃんと気持ちが通じ合っているんだ、とわかっているから、今まで以上に嬉しいですし、安心感でいっぱいなんです。
(言葉ひとつでここまで変わるものなのね)
彼は私のことが好きで、私は彼のことが好き。だから触れたいと思うし、触れてほしいとも思う。こうやって抱きしめられたいって思うのも、…八戒くんのことが好きで仕方がないからなんですね。
彼の胸に擦り寄って、そっと腕を背中に回す。前にそうした時は僅かに八戒くんの身体が揺れたけれど、今回はそんなことないみたい…これもお互いの気持ちがハッキリわかっているからなのかも。きっと八戒くんも私と同じように、どんな想いで…って考えていたんだろうなぁ。
「…私ね、家族を失った時。もう二度と、幸せだって思うことはないと思っていたんです」
私の手は血で真っ赤に染まっていて、そんな汚れた手で誰の手を掴めるんだろうって思った。誰を幸せにできるんだろうって。たくさんの命を奪っておいて、私自身が幸せになれることもないだろうって思った。
だからといって後悔をしたわけでもないけれど、…それでもやっぱり、幸せになる権利なんてないって漠然と思っていたんですよね。彼らと、出会う日までは。
グッと八戒くんの胸を押して、顔を上げる。上げた先にあったのは、首を傾げた彼の姿。視線を合わせてにっこりと微笑んだ。
「八戒くんは私が光をくれた、と言いましたけど、違うんです」
「え?」
「逆なんです。光をくれたのは、…八戒くんの方なんですよ」
八戒くんだけじゃない。三蔵様も、悟空も、悟浄くんも…全てを失ったと思っていた私に、光をくれたんです。彼らに出会えたから私はこうして笑っていられるし、誰かを愛することもできたし、自分の足で立って歩むことができているのだから。
「…彼らの名前が出てきたのはちょっと悔しいですけど、…でもそうか、僕も貴方にとってそんな存在になれていたんですね」
「はい。前から、きっと出会った時から八戒くんは私の特別だったんです」
運命、とか…そんな恥ずかしい言葉を言うつもりはないけど、でもね?私達の出会いが偶然なんかじゃなくって必然だったらいいなぁって思ったりは、してるんですよ。本当に。
ふふっと笑みを零して、またぽすん、と八戒くんの胸元に顔を埋めて背中に回した腕に力を込める。とくん、とくんと聞こえてくる心音が、また安心感を与えてくれて頬が緩むんだ。夢でも何でもなく、私は八戒くんの腕の中にいるんだなぁって。
ああダメだ、しばらくは頬の筋肉がまともに機能してくれそうにありませんね。気を抜いたらすぐにでも誰にも見せられないような、情けない表情になってしまいそうです。引き締めなくちゃ、と思うんだけど、でもやっぱり嬉しくて…どうしようもなくなる。
「そ、そろそろ中に戻りましょうか!買い出すもののチェックとか、」
―――ギュ、…ッ
「もう少しだけ、こうさせてくれませんか?」
「構いません、けど…!」
「さすがに部屋で抱きしめるわけにもいかないので、もう少しだけ貴方を感じさせてください」
首筋に彼の顔が埋められて、身体がピクリと反応を示す。同時に顔に熱が集まってきて、鼓動も忙しない。何というか、私は一生涯この方に敵わないんじゃないのだろうかと思ってしまいます。いや、別に勝ち負けとか関係ないですし、勝負してるわけでもないんですけど。
それでも私ばっかりドキドキさせられているような気がするのも本当で、何だか悔しいんですよ。ボソリ、と口にすれば、八戒くんは苦笑しながら「変な所、負けず嫌いですねぇ」と言った。…うん、それは間違っていないような気もする。
「僕だってドキドキしてますよ?香鈴に触れているんだから、当然でしょう」
「そういう言動に余計、ドキドキするってわかってます…?」
「あはは。でも本音なので、…諦めて受け入れてください」
するり、と八戒くんの手が私の髪に触れた。髪を一房掴んだかと思えば、恭しい仕草で口づけを1つ。
それを見た瞬間、脳が理解した瞬間、私は血が沸騰するんじゃないかってくらいに身体中が熱くなるのを感じていました。