愛と狂気


あの方の心の中には、今でも最愛の人―――花喃さんが眠っている。彼女のことを話す八戒くんはとても穏やかな笑みを浮かべて、本当に心底愛していたんだという顔をしていた。大切で、大切で仕方ないんだと、声が、瞳が、笑顔が物語っているのは誰が見ても明らか。…だからといって、その方のことを忘れてほしいなんて言えないけれど。
愛した人を忘れて、なんて言えるわけがないですよね。


「でも、」


八戒くんが心から愛した人を、いえ、今でも愛している人を憎くないとは…嘘でも、私には口に出来そうになかった。だって憎いもの、羨ましいもの。死んで尚、あの方の心の全てを占めているなんてそんなの、ズルすぎると思わない…?私はきっと、どれだけ頑張ったとしても八戒くんの心に入ることはできないと、そう思ってるんです。ずっと、あの方への恋情を自覚したあの日から。

だからこそ、私は悟浄くんに言ったんだ。この恋が実ることがなくたって、この旅が終わるまでは傍にいられるんですから、って。それ以上のことは望まない、って。その言葉に嘘はないし、きっと私は死ぬまでこの気持ちを隠し続けるんだろうなって思ってる。この気持ちを、溢れんばかりのこの想いをあの方に告げてしまったら―――困って、しまうから…困ったように笑って、参ったなぁって言わせてしまうから。

誰よりも厳しいけど、でも誰よりも優しい人だから…困らせることも、あの大好きな笑顔を曇らせることもしたくないんです。好きだ、と伝えることであの笑顔を曇らせてしまうくらいなら、墓場まで持っていく方がずっといい。それであの方が笑顔でいることができるのなら、安いものだ。自分の感情を押し殺すこと、くらい。





―――カシャン、

「八戒くん、これ…」
「あ、すみません香鈴。ありがとうございます」


拾い上げたのは綺麗な懐中時計。でもそれは時間を刻むことはなく、ガラス面には何かで殴ったような亀裂が入っていました。動いていない役立たずとも言えるその懐中時計を彼は、とても大事そうに私の手から受け取って、そしてまるで壊れ物を扱うかのように布に包んでポケットへとしまいこんだ。

時計を見ている時の目が―――花喃さんのことを話してくれた時の目と、全く一緒だったことに気がついてしまった。

あれはその方の唯一の形見で、止まった時刻はきっと彼女が連れ去られた時刻なんだろうということは、容易に予想がついてしまいました。
彼を好きになどなっていなければ、花喃さんのことを聞いていなければ、そうしたらきっとこんな醜い感情を抱いてしまうことは一生涯なかったのでしょう。けれど、それはあくまで可能性だ、もしもの話でしかない。


「香鈴?」
「―――形見、ですか?」
「あ、はい、そうなんです。花喃の、…半分依存しているようなものですね」

―――彼女がいたという証を、残しておきたいが為の。

「いいんじゃないんですか?私だって家族と撮った写真、持ってますもん」


大切な人が確かに存在していたという証を残してたって、何もおかしいことはないです。
そんな言葉とは裏腹に、私はどうしようもなくその時計を壊してしまいたい衝動に襲われていた。花喃さんを思い出すようなものなんて全て壊して、壊して、壊しつくして…貴方の頭の中からも、彼女の記憶を消してしまいたいって思ってるんですよ?


「八戒くん、」
「はい?」
「もし、もし私が…」


寸での所で、口から出かけた言葉を必死に飲み込んだ。急に口を閉ざしてしまった私を、彼は心配そうに見つめているけれどこんなことを口にしてしまったら、きっと貴方を困らせる。…いいえ、もしかしたら嫌われてしまうかもしれませんね。


「どうしたんです?具合でも悪いですか?」
「―――いいえ。何でもないです、ごめんなさい」
「謝ることはないですけど…本当に何ともない?」
「大丈夫、元気ですよ?お腹空いてきちゃいました、食堂行きましょっか」





―――ねぇ、八戒くん。もし私が殺して、とお願いしたら…殺してくれますか?貴方の手で私の命を終わらせて、永遠にしてくれますか?

そんな狂気染みた言葉を胸の内に隠して、私は今日も貴方の隣で笑うのです。
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