ぬるま湯の幸せ


最後に見た景色は、たくさんの木。緑と、土に囲まれた場所。誰も通りそうにない、森の中だったはず。けれど、次に目を開けた時に広がったのは、木目の天井。
此処は何処だろう、と体を起こそうとするのに、お腹に激痛が走って起き上がることができませんでした。私、いつの間に怪我を―――と考えた所で、全てを思い出した。あの忌々しい出来事を、全て。…そうだ、その時にお腹を刺されて、だからこんなにも痛いんですね。

起き上がれないのなら仕方ない、と早々に諦めてもう一度、ベッドへと体を沈める。柔らかく私の体を包み込むそれはお日様の香りがして、温かくて、どこか安心できる…そんな感じです。見知らぬ誰かのベッドだというのに、くつろいでしまいそうなんですが。
そのままぼんやりと天井を見上げていれば、カチャリとドアが開く音がして誰かが入ってきた気配。きっとこの家の方なんだろうけれど、…どうしてこんなにも遠慮がちに入ってくるのでしょうか?もしかして、私のことを気遣ってくれているとでも言うのかしら?


「ああ、目が覚めたんですね。具合はいかがですか?」
「お腹が痛い以外は、特に、何も…」
「ひどい怪我でしたから。お医者さんには診てもらってますし、しばらくは安静にしていてくださいね」
「は、い…?」


タオルや水の入った洗面器を持って現れたのは、優しそうな雰囲気を纏った黒髪の男性。私と同じくらいの歳、でしょうか…笑顔も柔らかくて、とっつきやすい印象だと思いました。
しばらくその男性が動く様子をじっと見ていたら、もう1人、誰かが入ってくる気配。次に現れたのは燃えるような真っ赤な髪と瞳を持った男性、この方も私と同じくらいの歳に見えますね。この家にはこのお二方が住んでいる、ってことでしょうか?


「おかえりなさい、悟浄。彼女、目を覚ましましたよ」
「みてーだな。…大丈夫か?お嬢さん」
「怪我人なんですから口説かないでくださいね?」
「わーってるよ!」


目の前で繰り広げられる会話に置いていかれながらも、でも何だかその光景が面白くて私は久しぶりに笑ったような気がした。
その後に話をしてみれば、黒髪の柔和な男性は八戒さんで、赤髪の男性は悟浄さんというらしい。私の予想通り、此処はお2人の家だということ。町から少し外れた森の中にある家で、普段はほとんど人が来ることもないと教えて頂いた。


「なのに、美人なお嬢さんが倒れてんだもんなーびっくりしたぜ」
「え、と…じゃあ悟浄さんが?」
「おう。なーんかデジャヴを感じたっつーか、…家の近くで死なれても困るし?それに女の子には優しくするのが俺のモットーなの」
「…こりませんよね、貴方も」


呆れのような溜息を零しながらも、八戒さんの表情は優しい。悟浄さんに向けられる視線も柔らかくて、口調は呆れていたけれど、でも心の底からそう思っているわけではないみたい。少なくとも私には、そう見えました。きっと2人の間には他の人が入り込めないような、絆のようなものがあるのかもしれないって。


「あ…そういえば、私、まだ名乗ってませんでした。香鈴といいます」
「香鈴、…んじゃ香ちゃんって呼んでもいい?」
「お好きに、呼んでください」
「悟浄、…まぁ、いいか。香鈴さんですね、しばらくの間よろしくお願いします」
「お世話になり、ます…」


怪我がある程度良くなるまで、と始まった私達3人での共同生活。長く見ても半年もすれば、私は此処を出て行くだろうと漠然と思っていた。拾ってくれただけでなく、怪我の手当てや面倒まで見てくれたことはとても嬉しかったし、感謝してもしきれないけれど…ずっと甘えるわけにはいかないのだから。

そう、思っていたはずだったのに―――2人と過ごす日々が長くなるにつれ、情…とでも言えばいいのでしょうか。まるで家族に抱いていた安心感、のようなものが私の中で生まれつつあったんです。
そんなものを抱いていいはずもないのに、でも、安易に切り捨てることも出来なくて…まるでぬるま湯に浸かっているような幸せに浸り続けていました。





―――ガチャッ

「…あ、おかえりなさい。八戒さん、悟浄さん」
「たっだいまー香ちゃん」
「何かいい匂いがしますね、香鈴さん何か作ってるんですか?」
「時間があったのでお菓子を作ってたんです。…食べます?」


先程、焼き上がったばかりのクッキーを載せたお皿を指させば、2人共、美味しそうだと笑ってくれた。お茶にしましょう、と準備を始めてくれるのは八戒さん、買ってきた荷物を率先して片づけ始めてくれるのが悟浄さん。そんな姿を見つめながら、自然と頬が緩んでいくのを止めることが出来なくて。
少し前まで怒りと絶望しか抱くことが出来なかったはずなのに、今ではこんなにも温かいなにかに包まれているだなんて…まるで、夢のよう。
だけど、これは確かに現実で。眠って目を覚ましても、夢のように消えることは一切ないのだ。
- 4 -
prevbacknext