夜は明ける、
全てがスローモーションのように感じた。彼女が動いた瞬間も、足を動かして崖から飛び降りた瞬間も―――何もかもがゆっくりと動いているように感じたんです。
「香鈴っ!!」
side:八戒
「う…」
ズキズキと痛む頭を押さえて起き上がれば、そこは森の中…僕は一体何を?
まだ少しぼんやりとする頭を軽く振って、さっきまで自分が何をしていたのか思い出そうとしているとすぐ傍で人の声が聞こえた気がした。―――悟浄だ、辺りをよく見てみれば悟浄だけじゃない。悟空や三蔵の姿もある。彼らは僕と同じように地面に転がっていた。
そこでようやく思い出した、町全体にかけられていた術を解こうと躍起になっていたことを。
そうだ、あの時、石を抱えた香鈴が崖から身を投げたのを見た瞬間…目の前が真っ白になって意識を失ったんだ。
あ…っ香鈴、あの子は…彼女は?!すぐ近くには倒れていない、だけど意識を失う前とは辺りの光景が全く違う…社も、祠も、鳥居もないし、彼女が落ちたはずの崖すら見当たらない。それならば香鈴は一体何処に行ってしまったんだろう。痛む身体を起こしてキョロキョロと辺りを見渡していると、視界の端に肌色が映ったような気がした。次に銀。間違いない、彼女だ…!
靴や服が濡れるのも構わずに川の中へ入って、岩陰に倒れている香鈴の身体を抱き上げる。目立った外傷はないけれど意識はないし、身体も驚くほどに冷たくなっていた。考えたくないけれど、1つ―――嫌な予感が胸をよぎる。彼女はもう生きてはいないんじゃないか、と。
「香鈴っ!香鈴、起きてください!!お願いですから目を、」
目を開けてください。ようやく、ようやく自分の気持ちに気がつけたというのに、また誰かを愛したい・守りたいと思うことができたのに…また僕は、目の前で愛しい貴方を失ってしまうんですか?
そんなの嫌ですよ、今度は…今度こそはこの手で守らせてください。だからお願いです、ねぇ香鈴―――
「起きて、…!」
「ッ、ゲホッゴホ…ッはっかい、く…」
「香、…?」
「なんて顔、してるんですか…?」
ゆっくりと目を開いた香鈴は、僕の顔を見て笑顔を浮かべた。普段より弱々しい笑顔だったけれど、でも確かに彼女は僕の腕の中で笑って…動いている。生きているんだ。
じわりと目の端に滲む涙を隠すかのように、華奢なその身体を思いっきり抱きしめる。突然のことに驚いた声が聞こえるけれど、でもすみません、まだ離してあげることは…できないんです。もう少しだけ貴方を傍に感じさせてください、生きているんだってことを実感させてください。
「香ちゃん無事だったか…!」
「あ、はい、大丈夫です。皆さんも大丈夫ですか?」
「ああ、問題ねぇ」
「俺達はかすり傷程度だからへーき!八戒が多分一番、ひでぇ怪我だと思うけど」
「そうだ!八戒くん、貴方腕を斬られたでしょう?消毒と手当てしないと…」
「あとでいいです。…もう少しだけ、」
このままでいたいです。そう言って抱きしめる腕に力を込めれば、困った声で「えええ…」と聞こえてきて、思わず笑みが漏れる。ああ香鈴だ、良かった…この子を、大切な彼女を失わないで済んだ。
本人に直接伝えることは出来ないけれど、本当に僕は…この子が、香鈴が大切で仕方ないんだ。
「あ、あの…すみません、救急箱とタオルと…あと八戒くんの着替え、用意してもらっていいですか?」
「あと香ちゃんの着替えもな。…あっち、少しひらけた所で待ってっからさ?ソイツが落ち着いたら来いよ」
「悟空、行くぞ」
「えっ香鈴と八戒置いていくのか?」
「いーから来いっての!少しは空気読め、バカ猿!」
バカ猿って言うなよエロ河童!!
いつもの会話が少し遠くから聞こえる。何というか…戻ってきたんですねぇ、僕達の日常に。いい加減離してあげないと、と思うんですけど、どうしてなんですかね?離したらまた何処かへ行ってしまいそうな気がしてしまってるんです。そんなはずがないのはわかってるんですけど。
ずっと川に浸かったままですし、そこに倒れていた香鈴の身体はひどく冷たい。早く着替えさせないと風邪をひいてしまうんですが…
「(どうにも離せそうにないですね…困りました)」
「…ねぇ八戒くん」
「はい、何でしょう」
「私、もう大丈夫ですよ?どこも怪我してませんし、具合も悪くないですし、ちゃんと無事です。…言ったでしょう?何処にも行きません、って」
彼女の言葉に背中に回していた腕を外して、そっと顔を上げる。すると、さっきよりもしっかりと光が灯った瞳が嬉しそうに細められた。本当に嬉しそうに笑ってようやく顔を見せてくれました、って。
冷たく冷えきった彼女の手が不意に僕の頬に触れて、コツンと額同士がぶつかる音。とても近くで感じる香鈴の温もりに、そっと息を吐いた。
「…生きますよ、私は。自分の為に、最期のその日まで」
―――貴方の、隣で。皆さんの傍で。
「香鈴、…」
「だからそんな泣きそうな顔、しないでくださいませんか?私、八戒くんの笑顔が大好きなんです」
「―――…僕、も…僕も香鈴の笑顔、大好きですよ」
「ふふっありがとうございます。さ、そろそろ行きましょう?いい加減に上がらないと風邪引いちゃいます」
はい、と差し出された手を掴んで立ち上がる。時折吹く風がひどく冷たいと感じるのは、服が濡れてしまっているからですね…我に返ってみれば一体、何を馬鹿なことをしていたんだろうと思うんですが、うん、まぁ…それだけ気が動転していたってことにしてもらいましょう。
…それにしても悟浄達もいたのにあんなことをしてしまったわけですし、少なくとも悟浄にはからかわれるのを覚悟しておかないといけなそうだ。…まぁ、彼女への気持ちに気がついたのは彼の言葉のおかげなわけだし、感謝―――していないわけではないのだけれど。
くしゅん、と小さなくしゃみをした香鈴の肩に着ていた上着をかけてあげれば、慌てた様子で突き返そうとしていましたが平気ですから着ていてください、と笑みを返すと納得いかない表情を浮かべつつも、大人しく羽織ってくれました。僕は下が濡れただけですが、彼女は全身びしょ濡れでしたからね…それも理解していたはずなのに本当、申し訳ないことをしてしまいました。
「…すみませんでした」
「?どうして八戒くんが謝るの」
「いえ、…寒い思いをさせてしまったなぁ、と」
「ああ…大丈夫ですよ、心配してくれたんでしょう?」
「あの、まあ、そうなんですけど」
「八戒くんがあんなに焦ってるの初めて見た気がします」
心配かけてしまった私も悪いのでおあいこです!と満面の笑みで言う貴方をもう一度抱きしめたくなりました、と言ったら…どんな反応をするんでしょう。
我ながら馬鹿げた考えだ、と内心笑いつつも、ちょっとだけ試してみたいなって思ってしまったのは―――内緒にしておくとしましょうか。
「手当てして、着替えたら出発しないと町に着けないかもしれませんね」
「あとどのくらいで抜けられますかね、この山…」
「地図で確認してみましょう。今日ばっかりは野宿したくないですよー私」
「あはは、僕もゆっくり休みたいですねぇ」
…まだ、もう少しだけはこの距離感のままでいたい。今のままでも十分、彼女に一番近い位置にいる―――そう思えるから。