胸をよぎる不安
「…さぁて、そろそろ目覚めてもらわないとツマンナイよね?」
―――ねぇ?血塗れの、呪われたお姫様?
ゾクリと身体の奥底から冷たく、気持ちが悪いものが這い上がってくるような気がして、無意識に身体を折り曲げ口を塞いだ。胸やけをおこしているような、そんな感覚だけれど、吐いてしまえば楽になるのかもしれないけれど…それだけは避けなければ、と思う自分もいた。吐き出してはダメ、吐き出したら―――
―――恐ロシイモノガ、ソノ身ヲ喰ライツクスゾ―――
ああもう、本当に何なの?気持ち悪くて仕方ない、何も考えたくないのにそれなのにどうして…
「血が、欲しい」
そんなことを考えてしまっているのだろう。
自分の思考に自嘲的な笑みを浮かべ、重い身体を引きずってベッドへと投げ出す。大きく呼吸を繰り返していくうちに、内臓すらも冷えるような薄気味悪い感覚は薄れていった。ようやく真っ暗な闇から抜け出せたような気がして、安堵の息を吐く。吐き気のようなものも治まっているし、一体何だったんだろう…あんなの、今までに一度だって体感したことはなかった。
私なのに、あの瞬間だけは私ではないような…そんな気がした。そんなことあるわけないのに、どんなことがあろうと私は私。それだけは見失うこともないし、間違うことだってないと自信があったはずなのに。
それなのにあの瞬間―――これは私じゃない。そう思ってしまったんです、私であるはずがないって。
「私じゃないとしたなら、…あれは誰だって話ですよねぇ」
はぁ、と溜息を1つ吐いて私は静かに目を閉じた。ゆっくりと広がる闇と、ゆっくりと押し寄せてくる眠気に逆らうことはせず、そのまま私は眠りの世界へと旅立ったのです。
次に目を覚ました時、気分はスッキリ爽快。それもそのはずだ、窓から差し込む光は眩しい程で―――つまり、今は朝だということ。
少しだけ、と思っていたはずなんだけれど、気がつけば爆睡してしまっていたみたいですねぇ。ベッドから下りてうーん、と背伸びをすればお腹がきゅるる、と小さな音を立てました。…あ、そうか…朝まで眠ってしまったから夕飯を食べていないってことになるんだ。それはさすがにお腹も空きますよ。
部屋に備え付けられている時計を見てみるとまだ6時。確か朝食は8時だと言っていたはずだから、お風呂に入る余裕はありますよね。そうと決まれば、といそいそとお風呂にお湯を溜めることにしました。
運良く個室が取れてラッキーだったなぁ、大部屋や2人部屋だったらきっと皆さんを起こしてしまったでしょうから。まぁ、こんな朝っぱらからお風呂沸かしたりしていたら同室でなくても起こしてしまっているかもしれませんが…特に八戒くんなんか起こしてしまっていそうで嫌だなぁ。
…ダメだ。何か変なループにハマッてしまっている気がします。うだうだうだうだ…どれだけ考えても無駄なことはたくさんあるのに、考えるのを止めてしまえば手っ取り早いのに、それなのに私の思考はどうでもいいことをずぅっと考え続けている。それを打ち消したくて、ループから抜けたくて、溜めたばかりのお湯の中に全身を沈めた。
数分間、息を止めて沈んだまま。次に水面に顔を出した時には思考は幾分かスッキリしたような気がする。あくまで気がするだけ、だけどね。
「…よし。考えるのはヤメだ」
髪と身体をザッと洗ってお風呂場から出る。入っていたのはほんの30分程かと思っていたんだけれど、時計は7時半を指していてちょっとびっくりしてしまいました。だってお湯溜めて入ったのがまぁ6時半を過ぎていたとしてもですよ?少なく見積もっても45分以上は入っていたってことになるんですもの。そりゃあびっくりもするでしょうに。
髪の毛を乾かしてから荷物の整理をしていると、コンコンとノックの音が響き渡った。誰だろう、と思ったけれど、もうすぐ朝ご飯の時間だから八戒くんかしら。どうぞ、と声を投げかければ、私の予想通り爽やかな笑みを浮かべた八戒くんがそこにいました。
「おはようございます、香鈴」
「八戒くん、おはようございます」
「ああ、顔色は良くなってますね。良かった」
「…何のことですか?」
彼の言葉にきょとんとしていると、昨日―――夕飯の時間だ、と呼びに来た時、私が真っ青な顔でベッドに横になっていたからびっくりしたんです、と教えてくれました。具合が悪いのかと思ったらしいんですけど、呼吸も乱れていないし、熱がある感じもしない。それに顔色が悪い割には、とても穏やかな表情で眠っていたそうな。なので、疲れているのかもしれないと思って、そのまま掛け布団をかけて部屋を後にしたそうです。
あ、潜った記憶がなかったのに掛け布団がしっかりかかっていたのは、八戒くんがかけてくれたからだったんですね。ありがとうございます、おかげで寒い思いをせずに済みました。…でもそっか、顔色悪かったんですねぇ私。確かにベッドに横になる前は気分がものすごく悪かったから、恐らくはそれのせいだと思いますけども。
一瞬、それを彼に話そうかとも思ったけど…これ以上、心配をかけることをせずともいいですよね?だって、今はとても元気だから。
「お腹空きました…」
「昨日のお昼から何も食べていませんからね。朝食を食べたら出発するそうですから、しっかりと食べてください」
「はーい、そうしまーす」
階段を下りて食堂に入ると3人はもう席に着いていて、八戒くんと一緒に来た私を見て笑顔を向けてくれました。三蔵様はチラッとこっちを見ただけで、すぐに新聞へ視線を戻してしまいましたけど…でもそれもいつも通りだから、何も気にすることなんてないんですよね。慣れちゃったもの。
「おっはよー香ちゃん」
「おはようございます、悟浄くん、悟空、三蔵様」
「…ああ」
「おはよ、香鈴!」
席に着いてすぐに運ばれてきた食事は、中華粥。お粥といっても鶏肉やネギが入っていますし、味付けも醤油ベースだったりしますからとても美味しいんですよ?まぁ、たくさん食べる悟空にとっては物足りないのかもしれませんけど、朝からそこまでガッツリしたものを食べられない私にとっては有難い。
それでなくとも昨日の夕飯を食べていないから、いきなり食べてしまうと胃がびっくりしちゃうし。だから、正直言って中華粥が出てきてホッとしてたりする。…ん、おいし。
私が付け合わせの卵焼きやザーサイを食べ終わる頃には、悟空はすでに4杯目の中華粥をお代わりしていて苦笑するしかない。
うーん、毎度のことながらよく食べますねぇ…これだけ食べても一向に太る様子がないんですからすごいな、と思う反面。この子の胃はブラックホールなんだろうかと本気で考えそうになってしまいます。だって、あれだけの食事がどこで消化されてるのか気になるじゃないですか。絶対、胃だけでは消化しきれないくらいの量を食べてると思うんですけどねぇ。
「そういえば、次の町に着くまで結構かかるんですか?」
「いえ、地図を見る限りだとそう遠くはないと思います。これから出発すれば、…そうですね、遅くても夜には着けるんじゃないかなぁ」
何か買い忘れですか?と問いかけられて、控えめに頷きを返した。もちろん昨日のうちに八戒くんと買い出しは済ませておいたのだけれど…実は常備している飴をね?買い忘れてしまいまして。別になければないで問題は発生しないんだけど、お腹を空かせた悟空を大人しくさせるのに役立っていたからやっちゃったなー、と思っただけなんです。
それを思い出したのが昨日ならまだ何とかなったんでしょうけど、朝まで爆睡しちゃってましたからねぇ。ついさっき、飴がなくなっていることに気がついたんです。
さすがにこの時間じゃ宿のお土産屋さんも営業していませんもんねぇ…ま、仕方ない。
「そーいや、いっつも飴持ってたな」
「ええ、口寂しい時とかいいんですよ。甘くて美味しいし」
「じゃーさ、口寂しくなったら俺と―――」
―――スパァンッ!
「朝から盛ってんじゃねーよ、バカが。さっさと出発するぞ」
「はいはい、わかりました。ほら悟浄、早く起きないと置いて行っちゃいますよ」
「ふふっ先に荷物取りに戻ってますね」
部屋に置いてあった荷物を回収して、しっかりと施錠。それを受付の女将さんに返してお会計を済ませたら、いざ次の町へと出発です。
連続で町に辿り着けることはよくあることではないので、出来れば妖怪の襲撃がないことを祈りたいですねぇ。…ああでも、さっきの八戒くんの言葉はそれも含めてのことだったのかなぁ?遅くても、って前提でしたものね、それは暗に何かがある可能性もあるということだから。
勘弁願いたい所ではありますけど、向こうはこっちの事情なんてお構いなしでしょうからねぇ。祈ることも、願うことも…ぶっちゃけ無駄なことだったりするんだ。
指定席になりつつある後部座席の真ん中―――悟浄くんと悟空の間に座り、全員揃った所でジープは走り出した。ふと空を見上げると綺麗な快晴で、風もとても穏やか。今日はいい旅日和だなー、と笑みを零した所で、急に嫌な予感が胸をよぎる。
特に妖気も感じないし、4人の様子も普段と何ら変わりないのに…どうして、こんなにも胸がざわつくんだろう。
「(やっぱり昨日から、感覚だけが妙におかしい気がする―――…)」
ただの気のせいだ、と考え直して、私は視線を空から外したのだった。