7月6日


 目を開けても、まだシュウがいた。
 起床しても、いつも通りしばらく眠そうにしていて、やがて寝起きのシャワーを浴びに行った。
 さっぱりしたらコーヒーを飲む。二人で遅めの朝食を摂ってから、寝具の洗濯のためにコインランドリーへ付き合わせた。

 今日で、シュウがやってきてからちょうど一か月になる。
 シュウは「一か月くらい」と言ったが、少なくとも一か月未満にはならなかった。一か月強になるかどうかは、知らない。少なくとも、今日の夜までは居るのだろうし、明日の朝にはもう居ないかもしれない。

 生活用品と夕飯の材料を買いに出て、昼は外食にした。

「晩飯、何食いたい?」
「……カレー?」
「なんで疑問形なんだ」
「たぶんカレーだと思うんだけど。お前が作るにしては具の小さいやつ……」
「あー。わかった」

 キーマカレーだろう。ちょっと前に作ったし、「具が小さいな」と言われた覚えがある。嫌味かと思って「これはこーゆーモンなんだよ」と返したはずだが、もしかして気に入ったのだろうか。

 相変わらず、わからない男だな、としみじみ思う。

 長い日が落ちてからも、シュウはオレに着いてウチに帰ってきた。いつも通りに上がり込み、いつも通りに窓を開け、いつも通りに扇風機の前を陣取る。

「おい、暑いならさっさとシャワー浴びちまえ」
「ロムは?」
「メシ作ってから入る。どうせ汗だくだ」

 カレーを作って、メシを炊いて、ついでに卵も茹でた。コンロ前は地獄の釜みたいだった。
 シュウと入れ替わりでシャワールームに入り、念入りに汗を流す。身綺麗になったら、火照りを冷ますために冷水に切り替えた。
 古い水道設備からは、ちょっとひんやりした程度の水しか出てこない。それでも無いよりはだいぶマシで、頭からしばらく水を浴びていた。

「あ。先に食っとけっつったろ」
「……」

 シャワールームを出ると、シュウが扇風機の風を浴びながらぼんやりしていた。目が合うなり、んー、と首を傾ける。

「腹減ってなかったんだけど」
「夏バテか?」
「お前の顔見たら減ってきた。食べる」
「おお……?」

 カレーを食べて、皿を洗って、シュウの尻尾をブラッシングした。
 明日の予定を確認し、届いているメールに目を通してから、シュウが見始めた映画を一緒に観た。有名な作品だから、何度もテレビで見たことがあった。

「一番最初に観たときはよくわかんねえと思ったな。10歳くらいだったか」
「ちょうど同じくらいの歳じゃないか。いや、もう少し下か」
「まあな。でも線路の上を歩くのはやってみたくて、次の日こっそり行こうとしたら、おふくろに見つかってすげー怒られた」
「『やると思った』って言われただろ」
「おー。『お前のやりそうなバカなんてお見通しだよ!』って怒鳴られて、しばらく盗み食いのときにきょろきょろしてたな」
「ははっ、やりそう」

 アラサーになったいま見直して見ると、ラストはなかなか胸に来るものがあった。不覚にも涙が滲んで、それを堪えるために、画面をじっと見つめる。

「……名曲だよなあ」
「まあね」

 シュウはすっかり氷の溶けた麦茶を飲み干して、それからぱったりと後ろの畳に倒れ込んだ。

「見に行く?」
「え?」
「電車」

 手だけを持ち上げて、オレの目の前でひらひらと振る。

「線路は歩けないけど」
「……ついでにアイスでも買うか」

 そういうことになった。

 ーー軽く着替えて、サンダルをつっかけて、家を出るまでに約5分。近所の踏切までは、歩いて10分くらいかかる。
 ついでに、徒歩5分のコンビニに立ち寄った。昼間の酷暑が後を引いて、空気がまだ生ぬるかったからだ。行きにアイスを食べたからって、帰りにアイスを買ってはいけないという法はない。大人なので。

 この気温だから、棒付きのアイスキャンディーではなく、小さなボトル容器から吸うタイプのアイスを買った。2つ入りなので半分に分ける。

「出ない」
「揉んでから吸うんだよ。……お前下手だな。こっち食うか?」
「寄越せ」
「マジか」

 だらだらと歩いて、オレのボトルが空になる頃には踏切についた。
 人気はほとんどない。車はまばらにやってきて、一時停止のあと通り過ぎて行く。そういえば、電車が来るまでの踏切は静かだ。

「……いつくる?」
「この時間なら、10分に1本くらい……」

 途端に、カンカンカンカンとうるさいサイレンが響き始めた。遮断機が低く軋みながら、ゆっくりと動き出す。

「うるっせえな!」

 当たり前なのだが、夜中にデカい音が響くのが面白くなってきて、ちょっとテンションが上がった。シュウが怪訝な顔をして聞き返すように口を動かしたが、何も聞こえない。オレの声だって聞こえていないだろう。

 長いな、と思ったのを見計らったように、車両が滑り込んできた。
 轟音。煌々と明るい車内。疲れたように俯く、無表情の乗客たち。ときどき、飲み会帰りらしい二、三人の集団もいる。
 名前を知りもしない無数の人々を、ほんの瞬きの間に数十人と見た。観た。
 やがて鉄塊が走り去ると、さっきよりなぜか優しく聞こえるサイレンと共に、遮断機が上がっていく。
 走り出す、数台の車。
 静寂。

「……耳が馬鹿になる」

 見ると、シュウは大きな耳をすっかり伏せて顔を顰めていた。

「はは。そりゃそーだ。……帰るか」
「うん。帰る」
「もう一個アイス買おうぜ」
「うん」

 コンビニで、シュウはさっきと同じアイスを選んだ。気に入ったのだろうか。
 オレはスイカとメロンのアイスキャンディーを箱で買った。ストック用だ。

 帰宅すると、窓が開いているのがすぐわかった。どうせ短時間で戻るのだし、熱が籠るからと閉めなかったのだ。
 暗い部屋の中、切り取ったように明るく見える窓が不思議だった。外も夜には変わりないのに……ああ、街灯のせいか。

「ロム?」

 不意に、尻ポケットに入れた携帯端末が震えた。
 そういえば、何日か前にアラームをかけていたことを思い出す。今日、この夜にシュウがいたら、絶対に忘れないように。

「電話?」
「いや、アラーム。……あー、ええと、その」

 振り向くと、シュウの明るい緑の目がオレを見ていた。
 ほんの少し喉がつかえる。このアラームは願掛けのようなもので、半分くらいは諦めていたから。

 けれど、叶ってしまった。

「……シュウ、」

 ひどく慎重に、口を開く。ありふれた言葉の小さな音を、一つも取りこぼしたくなかった。