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家があった場所が空き地になって、そこにぽつんとこれ見よがしに置かれていたキャリーバック。
それは別の世界へと行ったらしい親が私の為に置いていったものだった。
電話口で母に言われた通りに、空き地の隅にあった大きめの石を両手でどかせば、その下からは小さな鍵が出てきて、それでキャリーをあければあら不思議。
どう考えても母の趣味丸出しの洋服達は、どう見ても私の部屋にあったものではない。
母曰く、「せっかくだから名前ちゃんに似合う新しい服買っちゃった」だそうだ。
ざっと見ただけでもそれらがかもし出す色合いはパステルの暖色系で、私が好む色合いは原色の寒色系、もしくは黒。
思わず頭を抱えたのは言うまでもないだろう。
どうあがいても暫くはこれらを着るしかないとか、どんな拷問ですか……。
もともとこの場にあった家はまるっとそのまま別の世界の空き地に持って行ったらしいから、本来の私の服もきっとあっちにあるんだろう。返せ。
服のことで喧嘩になりそうになって再び良くない雰囲気になった母との通話は、父が代わった事によって終了した。
母よりはまだ若干、話になると思って、念のため、母にしたのと同じ内容を問えば、返ってきたのは母と何ら変わりない話だった。
はいはい、もういいよ、尸魂界でもどこへでも行けばいいんでしょ、行けば。
最早自棄になって、真面目に聞くていで父の指示通りにキャリーの中を改めて見ると、内ポケットにブレスレットが一つ入っていた。
フォルムは華奢で、ピンクゴールドのそれは、ぐるっと一周するように色がついた複数の石が嵌め込まれていた。石の回りには、ブレスレット全体を控えめに、だけどきらびやかに光を放つ小さなダイヤが無数に散りばめられていて、正直、「高そう」この一言につきる。
つけろ、と言われたものの、何度が躊躇って触りあぐねている間、父はブレスレットについての何かを語っていたけどそこはあえてスルーした。……いや、だって、始まりが移動方と関係無さそうだったからね。
辛うじて耳に入って来たのは「きっと似合うんだろうなー。それは名前ちゃんが生まれた日から今日というこの日のために、パパとママが二人で何回も話し合って決めたデザインだからね」という辺りまで。
それ以降は、きっと長年培ってきた両親に対するスキルが発動したんだと思う。
私の、「で、どうするの?」という強めに言った言葉で、正気を取り戻した父の説明は、至って簡単だった。
散りばめられたダイヤの中に唯一ひとつだけ、他のダイヤとは大きさの異なるものがあるらしく、ブレスレットを腕に装着した際、そのダイヤが手首の内側に来るように留め具で調節して、色のついた石をそのダイヤに合わせれば世界の移動ができる、というものだった。
調節すれば手首にピッタリと合うブレスレットは、良く見れば石が並ぶ箇所だけ稼動するようになっている。
他にもなんだか仕掛けが有りそうだけど、父から受けた説明は移動方と、それに付け足しで、何かの拍子で石がズレて意図せず移動してしまわないように、石を固定する方法だった。
他にもセーブとかリセットとかあるらしいけど、その辺に関しては後からメールで説明してくれるらしい。とりあえず電話での説明は今日はもうここまでということになった。
私ももう、寒さの限界が近いので、なるべく話が早く終わるようにと特に口出しすることはしなかった。
説明が終わると、両親が代わる代わる頑張ってだとか、名前ちゃんならきっと大丈夫だとか、切りがないくらい励ましの言葉を貰って、なんだか本当に自分が旅立つみたいに思えて少しだけ笑ってしまった。
電話を切った頃には、通話を開始してからかれこれ一時間は経過していて、どうりで体が芯から冷えているわけだと独りごちる。
さて、時刻は深夜一時半。
夕方まで住んでいた我が家は跡形もなく、手元にあるのは残金の少ない財布と化粧ポーチの他、飴だとか薬用リップだとかの細かいものが入った鞄、それから携帯。そして足元にあるキャリーバックだ。
ホテル代に少しでも余裕を持たせようと、タクシー代を浮かせる為に駅まで歩いて行こうと思ってたけど、こうも体が冷えては、気力が湧かないし、そもそも飲み会でだいぶはしゃいだから、もはや体力的にも歩いて駅まで行ける自信がない。
かといってこのままなのも嫌なので、仕方なくタクシーを呼ぼうと、私は再び携帯を操作した。
ピカッと光る画面が、夜空の下では眩しすぎて、いったん画面の明るさを弱めに設定。それから電話帳をひらいて、ここから近くに営業所があるタクシー会社を表示させて発信。
親の話? 全くもって信じてませんよ私。
プップップーという小さな発信音がほんの数秒流れた後に、タクシー会社のおじさんの声が聞こえてきて、「1台お願いします」と言えば住所を聞いてくる。
いたって普通の、いつものやりとりだ。
それに対して、またいつもと同じように、最早言い慣れた自宅住所を話したところで、ふと違和感を感じて、耳に当てていた携帯を少し離して画面を確認する。
「……うっそーん」
最悪だ。すぐ目の前まで持ってきて覗いた携帯画面はどこを触っても押しても真っ黒。
電源ボタンを長押ししてみれば、案の定、残り2%の僅かな電力で表示された電池がありませんの文字。
数秒も待たずに携帯はそのまま再び暗闇をうつして、以降、動かなくなった。
どのタイミングで切れたのか。
住所を最後まで伝えきった時点で切れたのなら、もしかしたら待っていればタクシーが来るかもしれない。
そんなラッキーを信じて、キャリーバックを引きずって、空き地前の通りの傍らで待ってみたけど、タクシーは一向に来る気配がなかった。
今日は厄日だったのだろうか。
飲み会を終えてここに来た時点できっと時間は日付を跨いでいたはず。今日という日が始まった早々に、私は帰るべく家を無くした。
そして携帯も電池切れ。タクシーも来ない。
うん。今日は厄日だ。
はぁ、ともう何度目になるかもわからない溜め息をついて、再び空き地へと向かう。
キャリーが置かれていた辺りまで戻って、私はそのまま力を抜くようにしゃがみこんだ。
どれくらいそうしていただろう。しゃがんだまま動かずにいれば、ピリピリとした小さな刺激が、足の痺れを知らせてきた。
だけどもう、立ち上がる気力が湧かない。もはや無気力だ。
このままここで始発まで待てば、その頃には気力も回復するだろうか。電車に乗って、友人の家に行って事情を話して、独り暮らしをする為の家を見つけるまでの間、世話になればいいだろうか。
そう思うも、こんな事を頼めそうな友人はそれほど多くないうえにみんな彼氏持ちで、中には同棲中の子も居たはず。
彼氏が居るとなると、たとえ同棲中じゃなくても私が転がり込んだところで邪魔でしかないだろう。
唯一のフリーの子は来月には他県に引っ越すし、きっと今はその為の準備で忙しいはずで……。結局、考えたところで頼めそうな友人などはなから居なかったのだ。
一泊ぐらいなら泊めてくれるかもしれないけど、どうせ始発まで待つならバスの始発も待ってホテルにでも行けばいい。極力人に迷惑はかけたくないし。
コートのジッパーを一番上まで上げて、しゃがんでいた体勢から完全に地面へと座り込む。
フローリングがあったであろう場所は今は土しかなく、ひんやりとしたそれは、身構えていたよりもやけに冷たく感じられた。
こんなことになるなら手袋やマフラーもつけていれば良かったけど、生憎今日はつけてないし、手元にもない。キャリーの中を軽く漁ってみたけど、それらはおろか、他に防寒になるようなものも見つからず。入っていたのはどれもコートの中に着るようなものばかりで。
グリーンの膝丈ニットワンピースに黒のタイツという今の服装では、更にカーディガンっぽいのを羽織るにしてもニットの厚さが邪魔をするだろう。せめてジーパンでもタイツの上から履けば多少は寒さを防げるのだろうが、それすらもあるようには思えなかった。
夜空の下では暗くてろくに見えないけど、だからといって一つ一つ地面に並べて良く良く見る気にもなれない。
仕方ないのでコートに付いていたフードを被って少しでも体温を逃さないようにした。
下手したら私このまま凍死するかもしれない。
ぼーっと時が過ぎるのを待っていたら、ふとそんな考えが浮かんで怖くなり、意味がないかもしれないがキャリーを抱き締めるように抱え込んでみたけれど、表面がプラスチックで出来ているから当然冷たくて、なんだか逆効果だったかもしれない。
けれど、そのまま、何故だか離したくなくて、更にギュッとしがみついた私は、今無性に何かにすがりつきたいのかもしれない。――すがる相手など居ないのに。
夜明けまでいったいあとどれくらいだろうか。時刻を確認する術は携帯しかなくて、それも今は使い物にならなくなってしまっている。
遠くの方が少しでも明るくなっていないかと見上げた空は、やっぱり何処までも暗くて、もしかしたらまだそんなに時間が経っていないのかもしれない。
周りの家々から漏れていた灯りは既に全て消えていて、外灯が少ないこの周辺で、唯一近くにあるのは星の輝きだけだった。
キャリーを抱えて空き地に座り込み空を見上げる女……。どうか不審者に間違われませんように。
なんて、そんな願いを星に祈ってみても、瞬きした次の瞬間には、いったいどの星に祈ったのかわからなくなるほど、あまりにも適当な祈りに、内心で自嘲の笑いが込み上げる。
することもなく、したいこともなく、空を見上げたままの視線の先で光る星を眺め続けてから、腕につけたままだったブレスレットへとなんとなく視線を動かした。
散りばめられた無数の小さなダイヤがキラキラと輝いていた。
なんだかこれも、星空みたい。
脳裏に、電話越しで父が説明していた事を思い出した。
世界を移動するとか、セイヴァーになるとか、たとえ何かにすがりたいこの状況でもとても信じられるものではない内容だ。
出来るなら早急に、暖かい場所に行きたいけど、だからと言って世界を移動するなどという、非現実的な話を信じて行動を起こす気には到底ならない。
両親には悪いが、“いつもの二人のメルヘンな話”くらいにしか受け止められなくて、それでも今日は真面目に聞いてあげたのだから、信じてあげられなくても許してほしい。
“別の世界”とか“移動”とかはこれっぽっちも興味は無いけど、左手首でキラキラと繊細な光を放つブレスレットには少しだけ興味が湧いた。
一見、普通に良く見るブレスレットの型だけど、散りばめられたダイヤの他にある、規則正しく並べられた石の部分は、ブレスレットを腕につけて輪の状態になったときにはじめて、その部分だけを回せるような不思議なつくりだった。
ちなみに、ブレスレットは外せば一本のベルト状になる。それ故に、取り外しが少しだけコツがいるようで、先程つける際も、父の説明を聞きながら言われた通りにしていたにも関わらず少々苦戦したのだった。
それから、ブレスレットを初めて見た時、てっきりピンクゴールドだと思っていたけど、触って実際につけてみれば、貴金属にしては柔らかく、ぴったりと手首につけて動かしてもあまり擦れるような感じはしなくて、むしろ肌に馴染むような感覚だったので、もしかしたら別の物質なのかもしれない。
だけど、あまりアクセサリーをつけることが無い私は、貴金属や石も含め、そういった類いは詳しくないし、それほど気になるわけでもないから知らなきゃ知らないで問題はないのだけど……。
それなのに、不思議な事に何故だか一目見た時からこのブレスレットには惹かれるような何かを感じていた。
それが何なのかは自分でもよくわからないのだけど。
今日初めてつけたはずなのに、ずっとつけていたような、何とも言い表しがたいこの感覚は、本当に、なんなのだろう?
疑問符を浮かべながらも、手持ちぶたさからか、無意識のうちに石を回していたらしく、カチッという音が、しんとしていた辺りに小さく響いた。
瞬間、何処かへ移動してしまうのでは、と若干身構えてしまったものの、特に周りに変化は起きなかった。
なんだ、やっぱり嘘じゃん。いや、はなっから信じてなかったけどさ。うん。
ブレスレットを眺めるのにも飽きてきた。かといってまた星を見る気にもなれず、吐き出した息の白さを視界に入れるのも嫌になった。
もういっそのこと寝てしまおうかな。
だいたいにして、久しぶりに飲んで騒いで帰宅してきた時点で疲れてるいのだ。酒が入っていた状態で、今まで起きていたのがほぼ奇跡に近い。
それになにより、朝日が来るのも始発が動くのも、それまで何もせずに待ち続けてるっていう状況がそもそも眠気を誘う以外のなにものでもないわけで……、つまりは何が言いたいかって、眠い! の一言につきるということ。
寒空の下で寝れば最悪の場合凍死するのかなとかいう考えも、もはやどうでもいい。その時はその時だ。親を恨もう。まじでさ、家無くさなくたっていいじゃん? そもそも数時間で家を無くせる事に対して激しく謎だけど、それももういい。考えたところでどのみち戻ってこないんだろうし。
だけどせめて時期と時間帯を考えて欲しかったわー。まじでー。ありえないからー。
そんなふうに、キャリーに頭を乗せながら、不平不満を溢していた。内心で、口には出さずにいたつもりだったけど、気づけばぶつぶつと呟いていて、自分の限界が近いことを覚る。
「もうどうでもいいや」
眠気とやるせなさで、そんな事を口にして、また意味もなくカチッと石を回してみた。
数回動かして、カチッ、カチッ、と鳴っていく音が、良い感じに私を微睡みへと引きずり込んでいく。
もう一度、カチッっと鳴らしたのを最後に、私の意識は夢の中へと潜り込んでいった。