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 ピチュピチュと、遠くの方で鳥の鳴く声が聞こえてきた。

 どれくらい経ったのだろうか。深呼吸を繰り返して、漸く通常通りに動き出した脳内で、今の、自分が置かれた状況を改めて考えてみた。
 目の前に居るだろう浮竹さんは、私が落ち着くのを待っているのか何も言わない。
 まずはもう大丈夫だと示さなくては。

 そう思い、斜め下へと反らしたままだった視線を上げようとして、はたと気づく。
 私の顔、今どんな風になってるんだろう。

 ちら、と左腕へと視線だけ移せば、コートの袖に一部、細かいラメが小さく広がっていた。

 メイク、落ちてる。

 途端、うわー……、なんて、意味の無い単語が脳内を駆け巡った。
 どうしよう、見られただろうか。

 目の下を指先で拭ってみて、黒い色は付かなかったけど、はたしてどうなのだろう、と逡巡する。
 女友達だけとはいえ、会う事も繁華街へ行く事も久しぶりだったから、昨日はメイクもバッチリしていたはず。
 最近じゃ下にラインを引くことは無くなったとはいえ、一晩経ってあきらかによれよれになっていただろうところへ、とどめとばかりに先程腕で拭ったのだ。絶対やばい。
 拭った時に強めにしたから、その時良い感じにアイメイクが全部落ちててくれてたらいいけど、確信も無ければ確認のしようも無い。
 せめてこれ以上見られる危険性を減らす為にと、コートのフードを深く被る。

「……あの、」

 顔を洗わせて下さい。というのは、いきなりすぎだろう。そう思って、出してしまった声を途中で止めた。
 現時点での自分の立場と状況を考えれば、おこがましい事この上無いだろう。

「……ん? なんだい?」

 だけど当然、浮竹さんにしてみれば、漸く喋り出しただろう私の声を聞き逃すなんて事はしてくれるはずも無く、優しさが溢れ出るかのような声のトーンで聞き返される。

「え、と……」

 どうしよう。いや、まずは謝罪だ。勝手に尸魂界どころか瀞霊廷内に入った事を謝らなければ。それと、今は居ないけど牢越しに人がいっぱい居た事から、きっと朝っぱらから騒がせてしまったんだろう事も。それから――。

 今起きてる事が現実で、両親が言っていた事が本当なら、たぶん今後も尸魂界と何かしら関わる事があるかもしれない。
 それ以前に、両親から別の世界への移動方法は聞いたけど、もと居た世界へと戻る方法は聞いてない気がする。
 そうなると、暫くはここにとどまらなくてはいけなくなるのかも……。死神でもない私が滞在するとしたら、おそらく流魂街が妥当だろう。だとしても、流魂街へ行くには、そこと瀞霊廷とを区切る壁があって、それを越える為の大きな門があったはず。あれを開けてもらわなくては、私一人で流魂街へは辿り行けない。――いや、そもそも私の存在って何に分類されるんだろう?
 出来ることなら現世に行った方が馴染み易いんじゃないだろうか。あ、でもそっか、そうなると家が必要になるんだ。というより、現世へ行く方法がわからない。

「大丈夫かい?」

 一人脳内でいろいろと考えていた私に、どう思ったのか浮竹さんが確認するように問うてきた。
 その意味をふいに考えて、だけどすぐに思い出す。
 中途半端な自分の声に彼が聞き返して、それに対しても中途半端に声を発したまま、止まっていた事を――
 彼はおそらく、私が続きを話すのをずっと待っていたのだ。そして黙ったままでいた私を心配したのだろう。

 「す、すみませんッ。……あの、私、」

 慌てて謝罪した。これからどうするも、こういう事は初めが肝心なのに。そもそも、謝罪をするなら早急にすれば良かったのだ。それなのにどんどんと考えが別の方へ行って、あげくまたもや気遣わせてしまった。
 もういい加減、しっかりしなくては。彼だってきっと仕事があるだろうに、何時までも話が進まないんじゃ迷惑だろう。というより、もう既に現時点までで結構な迷惑をかけてるんだろうけど……。

「いいよ、いいよ。また何か怖がらせちゃったのかと思ったんだ。話はゆっくりでいいからさ。――ところで、君の名前を聞いてもいいかな?」

 ゆったりとした口調で話す浮竹さんの声が、やっぱり優しくて、この声相手に怖がることなんて何も無いのに、そう思わせてしまった事が少し申し訳なく思いつつも、自分の名前を言えば、浮竹さんも自身の名を名乗ってくれた。
 “知ってる”とは、言って良いのか悪いのか、現段階で判断することができず、思わず返しに詰まった言葉を飲み込んで、私はまた頷いた。

「君は、どこかの隊の子かな?」

「……いえ、違います。あの、私……。昨日、ここに……――瀞霊廷に来て、それで、あの、……勝手に、入ったんです。すみません」

 謝る事は先程らから考えていたというのに、思うようにスラスラと言えなかった。知らず、声まで震えてしまったし、フード被ったまま顔もあげれないし、これじゃあ礼儀的にアウトだろう。

「“勝手に入った”って言うのは……この牢にかい?」

「あ、いえ、……瀞霊廷、に……」

 怒られる、だろうか。それで、そのあとは追い出されるのかな。だけどちゃんと、言わないと。説明も、出来るだけしなくちゃ。今後の為にも。
 
「瀞霊廷、に……? それで牢に入れられたのかい?」

「……はい」

 きっと、疑問なのだろう。もしくは、にわかに信じてないのかもしれない。私みたいな女が一人、どうやって勝手に瀞霊廷内に浸入出来るのかと。「瀞霊廷に?」と言った彼の声から、そんなニュアンスが感じられた。

「君はいつから瀞霊廷に?」

「え、……と。昨日、というより、今日の夜中、だと思います。まだ暗かったし……。時間は確認出来なかったのでわからないんですけど……。それで、通りかかった男の人達に見つかって……」

「この牢に入れられた、と」

 言葉の続きを浮竹さんが紡いだので、私は頷いて同意をした。それからすぐに、「だとしたら報告が上がってる筈なんだけどなぁ」という呟くような声が聞こえて、数拍の間が訪れる。
 やはりあの酔っ払い達、私の事なんて綺麗さっぱり忘れていたんだ。
 酔って記憶を無くすという事は、私にはまだ経験は無いけど、あの時の男達の酔い様から想定するに容易かった。だけどそれなら、先程牢越しでこちらを見ていた人達の中にいた一人は、何も知らないつもりで周りの人達と騒いでいたのだろうか。なんか、ちょっとむかつく。

「怪我をしているようだけど、それはここへ連れて来た男達にやられたのかい?」

「あ、……これは……」

 痛む腕や肩は、コートの下に隠れているから一見“怪我がある”とはわからないはず、と思ったけど、そういえば先程右腕を動かした時の反応で気がついたんだろうと、すぐに見当した。
 だけど、ふいに視界に入った自分の手先に、擦ったような傷がある事に気付いて、これの事を言ってるのかとも思い至る。
 牢に入れられた際、強く押されて転んだし、その時に出来たんだろうか。あの時は暗かったとはいえ、明るくなった今、言われるまで全く気付かなかった。
 というより、思えば全身の色んな箇所が痛いし、もしかしたら他にも傷があるのかも。

 そんな事を考えていれば、ふむ、というような声が小さく聞こえた。

「とりあえず、こんなところで話を続けるのは忍びないから、一旦――そうだな、まずは四番隊に行って怪我の手当てでもしてもらいに行こうか。……立てるかい?」

「え、……あ、はい……」

 手当て、してもえるんだ。浮竹さんの言葉に、思わずそんな感想が浮かんだ。てっきり私が何者なのかとか、動向などがわかるまで、この場で質疑応答をするもんだと思っていたから、ある意味拍子抜けした。
 もし私が悪いことを企んでいたとして、何かしようとしても、ここならすぐに閉じ込められるのに。私が思う“侵入者に対しての扱い”となんだか違う。
 もちろん、それならそれで嬉しいことには変わりはないんだけど――いや、浮竹さんの場合、彼は優しいから、今必要だと思う判断をそう下しただけで、手当てをしてもらったとしてもその後はどうなるかわからないじゃないか。
 まだ油断しちゃダメだ。下手に粗相でもして、悪印象を持たれでもしたら、この先どんな風になるかわかったもんじゃない。

 そう、一瞬緩みそうになった気持ちを引き締めて、改めて身構えた。

 立ち上がった浮竹さんの後を追うように、すぐに私も立ち上がる。その際、酷く身体中に言い表せないような痛みが駆け抜けたけど、どうにか平静を装った。
 ここで声を上げたり蹲ったりしたら迷惑になる。

 念の為にと、被っていたフードを下に引っ張ってから、動き出した浮竹さんと同じ方向へと歩みを進めた。

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