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「本当に平気かい?」

 私の歩調に合わせてか、一歩分ほど前をゆっくりと歩く浮竹さん。そんな彼に、私も同じ歩調で着いて行く。自分では普通に歩いてるはずなのに、浮竹さんは何度も同じような問いをよこしてきて、今のでたぶん六回目。
 それに対して、「平気です」と答える私も、きっとこれで六回目。 
 それなのに、いまだ私の返答に納得がいってないのか、こちらを振り返るような素振りの浮竹さんが、フードで狭められた視界から見える。
 変な動きでもしているのだろうか、私。

「……四番隊舎へは、ここからだとまだ結構歩かないといけないんだけど……その、」

 だから、大丈夫なのに。

 そう思ったところで、先程から繰り返す単語を再び返しても、きっとまた数秒後には同じようなやりとりが行われるのだろう。行くならさっさと行ってしまいたい。確かに痛いけど、私はちゃんと歩けてるはずだ。現にこうして、歩む彼の後を追っているというのに……、なにがそんなにも彼の気をひくのか。
 この格好がいけないのだろうか?

 一番上までジッパーの上げられたコートの汚れようは……、まぁ、私も外に出た際に少しだけ驚いたけども。
 朝になって明るくなったと思っていた牢の中は、それでも外に比べればぜんぜん薄暗かったらしく、太陽の光に照らされて見たコートには土なのか埃なのか定かではない色が至るところに広がって、所々に血のようなものも付いていたけど、“少し派手に転んだ”ぐらいに思えば充分許容の範囲内だろう。
 付いた血だって、おそらく手の擦り傷のそれなのだろうし。

 グー、パー、と。閉じて開いてと動かした手にある傷からはもう全くと言って良いほど血は出ておらず、傷だって乾いてる。この程度ならほっといても治るだろう。

 中に着ているニットワンピと同等の丈の長さのコートで、大半が覆われてるはずなのに、他に見えるような傷なんてあっただろうか?

 そう思って、足元を除き見ようとした時、再び前方から声が届いた。
 だけどそれは、浮竹さんのとは別のもので、下へ降下しようとしていた私の視線は中途半端な位置で止まる。

「やぁ、浮竹。今からちょうど君のところへ行こうと思ってたんだけど……。これからどこかへ行くのかい?」

 声の主は浮竹さんの影になってるらしく、その姿は私からじゃ見えない。
 それでも脳裏に、この声の主であろう人物の姿が浮かび上がるのにはそう時間はかからなかった。

「京楽。どうせまた仕事をさぼって来たんだろう。悪いけど、俺はこれから四番隊舎の方に用があって……――ああ、そうだ京楽。おまえの方に、旅禍に関しての報告とか何か来てないか?」

 京楽、と言った浮竹さんの言葉で確信する。京楽春水。その人も護廷十三隊の内の隊長各の一人だ。

「旅禍? ……いいや、そんな話はこっちには来てないねぇ。それにしもても、旅禍だなんて、また随分と懐かしい言葉だけど……。何かあったのかい?」

 リョカ。旅禍。やはり私は、旅禍として扱われるんだろうか。まぁ、浮竹さんに、尸魂界に勝手に入ったと言ったのは私自身なんだけど、いざ彼らの口から“旅禍”という単語が出されると、どうしても身構えてしまう。
 追い出されるか、はたまた再び牢へと入れられるのか。どちらにしたって、この後いろいろ聞かれるであろう事は確かだろう。

 両親はセイヴァーがどうたらとか言っていたけど、電話越しで聞いたそれらの話は、真面目に聞くふりをして、ほとんどは重要性が無いものだと聞き流していたから、“セイヴァーとは何か”という具体的な説明を求められたら、しっかりと答えられる自信がない。ならばセイヴァーということは言わずに……とも考えてみたけど、それはそれで、死神でも死人でもない私がどうやって尸魂界に――ましてや瀞霊廷に入ってこれたのかと問われた場合の返しに困る。
 だけどきっと、聞かれるとすればまずはその事だろうし、他に言いようも思いつかないから、やはりセイヴァーの話をするしかないだろう。

 私はセイヴァーとして、いろんな世界を移動出来るんです。――なんて、いったい誰が信じてくれよう。
 いや、それでも。両親の話をどうにか思い出して自分の言葉でちゃんと伝えなくては。そして敵意は無い事と、何かを企てて来たわけでは無い事も。それでその後はどうにかして元の世界に戻ろう。そんで、両親に電話。これは絶対に実行するべき確定事項だ。

 何がどうなれば私がセイヴァーにならなきゃいけないのか。
 漫画の世界なんて紙面で眺められれば充分だ。その中に行きたいとも、その中で生きたいとも思わない。
 二次元は二次元であるから魅力的で惹かれるのだ。どんなに非現実的な展開であっても、ありえない能力をもつ人間がいたとしても、それは二次元だから楽しめるのであって、実際にその世界へ降り立ってしまったらそれはもう三次元でしかない。非現実的な展開も、ありえない能力も、リアルになってしまえば恐怖でしかない。
 今まで普通に生きてきた人間にとっては尚の事。普通が普通じゃ無くなり、培ってきた概念が一気に崩されて行く事は、考えただけで恐ろしい。

 ああ、そうか。

 だから私、あんなに怖かったんだ。

 空き地から尸魂界へと来た時はまだ夢だと思っていた。男達に引きずられて、力強く腕を捕まれて牢に押し込まれた時は、痛みが現実を訴えて来たとはいえ、まだ夢であって欲しいと願っていたし願えていたけど、牢で目覚めた時、あの時点で、漸く現実を理解したんだ。

 “来てしまった”と認識した途端、どこまで自分の常識が通じるのかと――そもそも漫画の世界に移動したということ事態が非常識で普通じゃありえない。なのに目の前には漫画やアニメで見た死神と同じ格好をした人物が当たり前のように居た。だからきっと、無意識の内に恐れてた。
 簡単に言ってしまえば、一種のキャパシティオーバー。

 始めに会った隊長各が浮竹さんで良かった。もし違う人だったら、落ち着くまでにもっと時間がかかったかもしれない。

「京楽、その子は――」

「君、随分とボロホロだけど、それじゃあ歩くのも辛いだろう。どうだい? 良かったらおじさんが、四番隊舎まで連れてってあげるよ?」

「…ッ!!」

 浮竹さんと京楽さんが話し出したのを良いことに、思案に暮れていれば、すぐ目の前まで京楽さんが来ていて、同時に私と視線を合わせようとしたのか屈んで声をかけてきた。
 それに対し私は、咄嗟に両手でフードを押さえて蹲るようにしゃがむ。
 悲惨になってるであろう己の顔を見られる事を防ぎたかったのもあるけど、単純に驚いたのだ。
 まさかこんな近くに来るとは……――私はこの人の、京楽さんの声が大好きである。
 だからこそ、先程この声を聞いて、考える間もなくすぐにその声の持ち主を脳裏に浮かべたのだ。
 その声が間近から、それも自分に向けられて発せられた事に酷く動揺してしまう。ドクン、と鳴った鼓動はきっと、恐怖とは別の意味合いからだろう。

 「あー、はは……。すまないねぇ、驚かせちゃったかな」

 若干の気まづさを含んだ声色で言う京楽さん。驚いたのは確かだけど、これじゃあ良い印象は与えなかっただろう。初めが肝心、と少し前にも思った事なのに、どうやら私は学習しないらしい。
 謝りたくても、急に動かした体がギリギリと悲鳴をあげるものだから、それに絶えるように喉に力を入れている為に言葉が紡げない。

 痛む体に、追い討ちをかけないように、フルフルと小さく頭を振って、せめてもの意思表示をしてみたけど……ごめんなさい、あと数秒で良いので時間を下さい。そう内心で言ったところで、聞こえてなければもちろん意味は成さない。

「京楽、そう不用意に近づかないでやってくれ。どうやらこの子を牢に入れた者達に何か手荒い事をされたみたいでね……、一応、さっき落ち着いたばかりなんだ」

「手荒い事って、じゃあ何かい? この子がこんなにボロホロなのは、その牢に入れた者達の仕業って事か。……それはまた、随分と酷い事をするねぇ……」

 大丈夫かい? と、そっと気遣うように背中に置かれた手は、浮竹さんのものだろうか。

「ッ……あ、の……、ごめんなさい、」

 痛みが静まりだして、どうにかそう口にしてみたけど、顔は相変わらず上げられなかった。

「いや、こっちこそ、怖がらせちゃってすまなかったね。急に動いたから、怪我も痛んだだろう。……大丈夫かい?」

「やっぱり、歩くのは辛いんじゃないか? 無理はしなくとも良いんだぞ」

「いえ、大丈夫、です。歩けます……それとも、あの、……浮竹、さん」

 私、歩くの遅かったですか? 体勢は変えぬまま、そう問うた私に、浮竹さんは少し逡巡したような気がした。だけどすぐに返ってきた答えは、私があまりにもボロホロで痛々しく見るに耐えないのだというものだった。
 ゆっくり歩いてはいても、牢に入れられた際に負ったであろう精神的疲労にも加えて怪我もあるとなると、優しい浮竹さんからすれば不憫に思えるのだろう。その様な事を浮竹さんが話してる間、京楽さんも同意をするように、何度か相槌を打っていた。

 なんとなく、先程行われていた浮竹さんと京楽さんの会話から、まるで私が男達に酷い暴行を加えられたのかの様なニュアンスを感じていたけど、私の出で立ちを見て、二人はいったいどんな事を想像したんだろうか。

「あの、そんなに私、……怪我してますか?」

 特に痛いのは右肩だ。次に右腕。それ以外も痛いっちゃ痛いけど、たぶんそのほとんどが打撲の様なものだし、ぱっと見で分かるような怪我は少ないはずなのに、どうしてそんなに気の毒そうな目を向けられるのだろう。


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