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「……もしかして、浮竹、この子気づいて無いんじゃないの?」

「まさか。……いや、そうなのか?」

 え、なに。

 背中に置かれていた手がふいに離れ、戸惑うような雰囲気がゆるりと辺りに溶けていった。
 数拍、間を空けたのち、もう一度、先程よりも優しく私の背中に手を置いて、浮竹さんが口を開く。

「左足に、結構大きな切り傷があるのは知ってるかい?」

 え? と、頭の中で疑問符を浮かべながら、左足へと視線を移したらものの、しゃがんでいる体勢からじゃよく見えず、少し体勢をずらして覗き込めば、膝より下、ふくらはぎの外側部分のタイツが見事に破けて、どこで付いたものなのか、浮竹さんの言うとおり、わりと大きな傷が出来ていた。

「それに右足も、履いてるのが破れて擦り傷が出来てるし、上着にも血が付いてるから、もしかしたら他にもあるんじゃないかな?」

 そう言ったのは京楽さん。履いてるの、とは、つまりはタイツの事だろう。左だけじゃなく右まで破れてるのか。それはそれは……だいぶ見てくれ悪い事になってるのだろう。
 立ち上がってよく確認してみたいけど、今立てば恐らく浮竹さんと京楽さんを見下ろす形になるだろう。声の距離感から、二人も私と同様しゃがんでいるか、もしくは屈んでいるかしているだろう事が伺える。そんな状況で立ったらいくらフードを被っているとはいえ、下から私の顔が見えてしまうだろう。それはダメだ。

「あ、あの、それでも一応歩けますし、足の怪我も今まで気付かなかったくらいなので、……その、大丈夫、です……」

 そもそも、私は旅禍なのではなかったか。それなのにどうしてこんなにも二人は気遣ってくるんだろう。

 今はあんまり、必要以上に優しくしないで欲しい。何故かわからないけど、また泣きたくなってしまう。――いや、理由ならわかってる。要はすがりたくなってしまうのだ。
 二十歳過ぎた大人が、そう簡単に人前で泣くもんじゃない。ましてや、ここに来た原因は自分にあるのだ。それなのに、頼れる人が居ないからって、少し優しくされてすがる程、私は子供じゃないでしょう?
 しっかりしろ。

「そうは言ってもねぇ。その怪我じゃ、下手したら痕が残ってしまうかもしれないよ? 四番隊へはなるべく早く行った方が良い。他にも怪我してるなら尚更ね。……ちょっと、ごめんよ」

「え、……わ、わッ!!」

「京楽ッ」

 ふわっと体が浮いた感覚に、一瞬フードを離しそうになった。
 だけど酷く近距離に女物の着物が見えて、慌てて抑え直す。同時に、頭の中は疑問符でいっぱいだった。

 「こっちの方が早く行けるし、君も楽でしょ。――浮竹、そういう事だから、先に四番隊へ行って卯ノ花隊長に話を通しててもらえるかい?」

「……あぁ、わかった。だが京楽、あまり怖がらせるんじゃないぞ」

 浮竹さんの言葉に、京楽さんが「わかってるさ」と答えれば、それからすぐに風を切るような音と共に浮竹さんの気配が無くなった。
 瞬歩でも使って移動したのだろうか。少し見たかったような気もするけど、それよりも……この体勢は――。

「さて、僕たちも行こうかね」

 なんで私、京楽さんにお姫様抱っこされてんの!?

 歩き出した京楽さんに、対して私は何も言えず。そのまま四番隊舎まで京楽さんに運ばれて行くのだった。

 それは確かに、先程浮竹さんと歩いていた速度よりは早いし、揺れや振動も感じられなくて痛みも少ないけど、この状況は、……――再びキャパシティが崩壊しそうである。

 四番隊舎に着いた頃には、私はコートに付けられていたフードの有り難みをこれでもかという程、心の底から感じていた。
 
「苗字名前さんですね。浮竹隊長からお話はお伺いしております。お待ちしておりました。私はここ、四番隊の隊長を勤めさせて頂いております、卯ノ花烈と申します」

 椅子に座った私の前まで歩み寄って、そう名乗ってくれた卯ノ花さんに対して、私は軽く頭を下げる。

 四番隊舎へ着いて、卯ノ花さんが居たこの部屋まで来ると、京楽さんは私を椅子へとおろし、卯ノ花さんと一言二言やりとりしたあと、「じゃあ名前ちゃん、またね」と言う言葉を残して去って行った。
 浮竹さんはというと、私と京楽さんがここへ来た時には既に居なくて、卯ノ花さん曰く、どうやらすぐに戻って来るらしいけど、私の予想では恐らく、今頃総隊長の元へ行ってこれまでの事のいきさつを報告しているんじゃないかと思う。

「それでは、さっそく治療に入らせて頂きます。――と、言いたいところですが、その前にまずは入浴と着替えを先に済ませてしまった方がよろしいでしょう。着替えに関しては……そうですねぇ……。名前さんは此方に来た際、着替え等、お持ちした物は無いのでしょうか?」

「一応、あるにはあるんですが、……その、今はどこにあるのかわからないんです。……すみません」

 私の趣味じゃないとはいえ、着替えるのに必要な衣類はあのキャリーに入っている。だけどそれは、今は私の手元に無い。誰も動かしてなければきっと、私を牢へと連れて行った男達と出会った場所にまだあるのかもしれないけど、生憎その場所がわからない。
 取りに行くにしても、記憶を辿ってみたところで、あの時はふらふらと歩いて行く男達に引きずられながらついて行く事に必死だった為に、道順なんてものは覚えておらず、ましてや暗かった事もあって、どのような場所を通ったかも定かじゃない。

「そうですか。それでは、こちらでご用意させていただきますが、よろしいでしょうか?」

 確認を取るように尋ねてきた卯ノ花さんに、お願いしますと答えれば、その後は卯ノ花さんに案内されて浴室がある場合へと向かった。
 卯ノ花さんが脱衣所から出て行った後、鏡に映った自分の格好を目にして、思わず悲鳴をあげそうになる。
 浮竹さんや京楽さんが指摘していた通り、タイツはもちろん破けていて、ふくらはぎには切り傷が、膝には擦り傷があり、それらに比べれば目立ちはしないものの、他にもいくつか細々とした傷が出来ていた。
 コートは土や誇り等で薄汚くなっていて、それに加えて付いてる血は、てっきり手に出来ていた傷から出たそれが原因だろうと思っていたけど、考えてみれば傷が出来てから対して動いて無いはずなのに、手に出来た傷だけでこんな風にあちこちと血が付いてしまう事は不自然だった。とっくに乾いた浅い傷口なら尚更。
 ではコートに付いたのは何故なのか。
 そう思案してみるも、少し考えればわかる事。あの時――牢の中で、私は膝を抱えるようにして座っていたのだ。
 おおかた、左の袖口から肘下にかけて、内側に付いてるのはふくらはぎの傷に触れていただろうからで、胸元に付いたものは膝の傷から。
 だけど、裾の方に付いてるのは、いったいどこからだろう? と疑問符を浮かべるも、ここへ来て漸く取ったフードから現れた自分の顔を見て答えは呆気なく見つかった。
 右の頬の辺りに、小さく広がった傷。

 牢に押し入れられた時に、地面に右側を強く打ったけど、きっとその時に擦ったのだろう。
 こんなとこにまで傷があったなんて、全く気づかなかった。いや、そもそも、浮竹さんと京楽さんに言われるまで、血が出るような傷は手に出来ていたものだけだと思ってたんだ。

「これじゃあ、どうりで全身痛いはずだよ」

 思わずそんな独り言を零してから、私は汚れた衣服を脱ぐべく動き出した。
 タイツやふくらはぎの傷同様、どこでひっかけたのか、コートはところどころ切れてたり擦れていたりして、チラチラと裏地が見えてしまっている。
 まるで藪の中を滅茶苦茶に駆け回ったかのようだけど、もちろんそんな記憶はない。
 だけど、そういえば……、と思い出してみれば、蛇行するように歩く男の所為で木や壁に何度かぶつかった様な気がする。

 他の箇所よりも一際痛む右肩をどうにか動かして、やっと全ての衣服を脱いだ後、改めて鏡に映る自分へと視線を移動させて――だけど、すぐに目をそらし、そのまま浴室へと足を動かした。

 数秒でも目に入り込んだ光景に、酷く気分が降下していく気がする。

 男に掴まれていたところは赤黒く変色していて、似たような色をうすく広範囲に広げている右肩は、なんだか腫れているように思えた。
 手足や顔に出来た傷も相まって、まるで事故にでもあったかのようだった。
 うっかり来てしまった代償にしては、些か過剰ではないだろうか。
 終始敵味方入り乱れてるような世界ならまだわかるけど……。

 なんだかちょっとやりきれない。

 

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