09






「……なまえが、花乃井に向かいました。佐々木さんに呼び出されたとのことです」

なまえを見送り、任務に戻る前、山崎が向かったのは土方の部屋だった。他に誰もいないことを確認してから、静かな声で告げられた言葉に土方がすぐに返事をしなかったのは、山崎の報告が理解できなかったからではない。むしろ、その逆だった。なまえが佐々木と接触する上で最も恐れてい事案が、いとも簡単に引き起こされたということに、反応出来なかったのだ。
くわえていた煙草をまだ長い内に灰皿にぶち込みながら、あくまで冷静さを保ったまま、しかし恐ろしく冷たい声で、山崎、と呼んだ。

「合図はいつも通りだ。その場に誰がいようが、関係ねぇ」
「あそこは俺が張ってるとはいえ、見廻組のシマです。そこを荒らすと、とんでもないことになるんじゃ……」

真選組が庶民の平和を守っているとしたら、見廻組は貴族の平和を、と言っても良いかもしれない。
見廻組との住み分けは、真選組の大きな課題でもあった。ただでさえ関係が良くないというのに、縄張りまで争ってしまえばただの喧嘩では済まなくなる。誰に言われたわけでもなく、白と黒は大江戸をきっちりと色分けしていた。それは組織の末端まで行き届いた、暗黙の了解でもあった。
それをなまえが侵すことができたのは、真選組を捨て見廻組を選んだと認められたからだ。なまえが黒を捨てた上で白に踏み入ったということの裏を返せば、黒はそこを白だと認めたことになる。そうなるともう、真選組の介入は不可能だ。
しかし、山崎の不安を跳ね除けるように尚もイライラを隠し通せない土方は、とにかく、と話を改めた。

「余計な事は考えるな。お前は、お前の仕事をしろ」
「…………」
「心配しなくても、お前が思ってるようにはならねェさ」

土方が山崎に向けた笑みは、いつもの不敵なものとは違う、半ば諦めたような色をしていた。そんな顔を向けられてしまえば、もう何も言うことはできない。どこにもぶつけられない虚しさをパンと飲み下しながら、重くなる胃を揺らして山崎もまた花乃井に向かった。



暗い六畳一間、大量のあんぱんの亡骸に囲まれた山崎の覗く双眼鏡の中では、まるでドラマのワンシーンのような商談が繰り広げられていた。何人かの偉そうな官僚と、目がギラギラとした攘夷志士、それから芸妓が男と同じ数。彼にとっては特別でもなんでもない人々のやりとりが、音も無く彼の首を絞めていった。
山崎の神経は、かつてないほど張り詰めている。すぐに連絡できるように、双眼鏡と一緒に持っているトランシーバーが熱をもって震えている。奴らが動くだけではダメだ。標的が簡単に逃げられないようになるまで、待たなければ。欲に塗れた汚い男の顔が、女の首筋に埋まる。その時まで。
向かいの建物で繰り広げられる教科書通りの商談が、彼を必要以上に焦らせている理由をあげるとすれば、彼らを引き付けるためのエサのひとつがなまえであるというだけ、だった。
いつの間にか楽しい商談は終わり、1人2人と女を連れて奥座敷へ消える。幸運にも、最後に奥座敷に連れて行かれたなまえのいつもと寸分変わらない笑顔を見てから、息を詰める。いよいよだ。心の中でカウントを始める。自分の感覚を信じなきゃ、焦ってはいけない。獲物がエサに食いついてから、じゃないと。汗が首をつたう。早く、早くしないと。小さく息をすって、掠れ声でトランシーバーに囁く。

「突入、してください」



山崎が項垂れたまま背を向けたのを目に収めてから、土方は大きなため息をついた。
どこかで信じていた。誰に好かれようと、どれだけ浮かれようと、最終的になまえは、俺達を……俺を選ぶと。後悔が波のように襲いかかってくる。それをひとつずつ跳ね除ける力は、残っていない。言わなくても伝わるだろうと素通りしてきた幾つもの言葉が、自分を責めている気がしてならなかった。
ふらりと力の入らない足で立ち上がり、向かったのは取調室だった。そこに呼び出されたのは、相変わらず手錠をはめられたままのかつての攘夷志士の姿だった。部屋に連れて来た沖田は、無言で扉を閉め外に逃げた。

「手伝って欲しいなら素直にそう言えばいいだろうが。そんなだからなまえちゃんに愛想尽かされるんだっての」

銀時は一拍置いて、いつもの噛み付くような反撃を待った。しかし、それが訪れることは無かった。土方は気味が悪いほど沈黙しながら、口元に薄っすらと笑みを浮かべている。

「事情は分かってるみたいだな。察しのいい野郎だ」
「何だと……」

続けようとした悪態を止めたのは、土方が下げた頭だった。躊躇いなく立ち上がり、頭を下げた土方に、銀時は呆気にとられる。そのまま発された掠れ声に、いつもの副長の威厳は無い。

「……頼む、俺の代わりになまえを助けてくれ」

言葉はそれで充分だった。銀時は短く分かったとだけ言い、部屋を出た。これ以上続ける言葉も、聞きたい言葉も、互いに持ち合わせていない。

「良いんですかィ、これで」
「……こうするしかねぇだろ」
「いい加減、素直になったらどうなんでィ」

この案を提案した張本人が今更確認するなんて、おかしな話だ。タバコをくわえたまま、沖田に肩を並べる。

「今更、素直になれってか」
「まだ間に合うと思いますけど」

沈黙する土方の横顔を盗み見て、沖田は少しだけ笑った。冷静につとめようとしているのかなんなのか、真選組の副長と呼ぶには余りにも情けない顔だった。

「意地っ張りが二人もいると、こうもこじれるかねィ」
「……言ってろ」

相変わらずの気の抜けた返事の中に、わずかに滲んだ決意の色をはっきりと見た沖田は、そうこなくっちゃとニンマリと笑った。
夜はまだまだ、明けそうに無い。




  
ALICE+