08
連日の激務で少し覚束ない足取りで屯所に戻った山崎がすれ違ったのは、見慣れた黒ではなく、目にも鮮やかな朱色だった。
「あれ? なまえちゃんが和装なんて珍しいね。なんか派手だし」
「うん、今日もデートだからね〜」
「……佐々木さんと?」
縁側に腰をおろし、着物と同じ朱色に金のあしらわれた下駄を白足袋に履かせながら、なまえの結い上げた髪で返事代わりに簪がゆらりと揺れた。惜しげも無くさらされるうなじを見て、山崎は自分でも笑ってしまうほど不服な声を漏らした。
「そりゃ、ただのデートに花乃井を使うなんて、サブちゃんさんしか居ないでしょ。正装じゃなきゃ入れないらしいし。エリートはやっぱり違うね」
なまえの笑顔に反して、山崎の顔は一気に強張った。
なまえの言う通り、高級料亭「花乃井」は、表向きは高級料亭であり、幕府関係者や天人が商談やプライベートで使用しているイメージは少なからずある。
しかし、最近はよろしくない商談が交わされることが多く、攘夷志士も出入りしているという噂がどこからともなく流れて来てからというもの、真選組が目を光らせている怪しげな場所の一つにリストアップされているのだ。
そしてまさに山崎を疲弊させている任務というのは、この料亭の見張りに他ならない。なまえはこの事を知らないんだろうか?
監察という仕事柄、安易な情報の共有は避けているつもりだ。それでも、彼女が危ない目に遭う可能性が極めて高いことだけは、明らかだった。
「……花乃井を佐々木さんが選んだなら、行かない方が良いよ。なまえも知ってるでしょ? 最近、幕臣達が怪しい動きしてるって」
「ただのデートのお誘いだから、大丈夫」
「でも、」
「それにサブちゃんさんがいるんだから、何もありっこ無いよ」
言い切った顔に、迷いも疑いも無かった。そこにあったのは、いつものなまえの笑顔だけ。山崎が制止をかける前に、すり抜けるように門へと向かうなまえの背中へ、追いかけるように「気を付けてね!」と叫ぶ。返事は明るい「いってきます」だった。なまえを見送ってすぐ、山崎は任務に戻るべく立ち尽くしていた廊下から玄関へと引き返した。
*
料亭の門の前でなまえを待っていたのは、佐々木の部下である信女だった。彼女もまた、身に纏うのはいつもの白では無く、髪の色と同じ、紺色の着物だ。二人はこの時が初対面であったが、佐々木を介して話は聞いていたので余り問題は無かった。なまえは途中寄り道して買って来ていたドーナツの箱を、信女に渡した。無表情だった信女が、少しだけ目の色を変える。
控えていた見廻組の隊員に、惜しそうに箱を渡した信女は蚊の鳴くような声で、なまえ、と呼んだ。
「異三郎が待ってる」
いつの間にか見廻組の姿は無く、暮れてきた空に呼応するように料亭の入り口に灯りがともった。導かれるように、二つの下駄の音が石畳に響く。戸の向こうで待っていた息を飲むような金屏風も、豪奢な生け花も、なまえの瞬きに全て収まった。二人に先立って階段を上がる女将について行きながら、再び信女が声をかけた。
「聞きたいこと、一つだけ教えてあげる。ドーナツのお礼」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「なに?」
「…………信女ちゃんって、呼んでいい?」
赤い瞳が振り向き、なまえを見下ろした。それから、「馬鹿」と小さく微笑む。なまえにはそれで充分だった。二人の会話は途絶え、眼前には松の絵が施された襖が現れた。中からは知らない男の笑い声と、ところどころ三味線の音がする。気付かれないように深く息を吸って、なまえは肺に酸素を満たした。まるで今から深海に潜って行くような呼吸に、黒い目が揺れることはなかった。
*
「また会いませんか?」
遊園地のちょうど二週間後、誘いは再び訪れた。いつもとは違う、真面目な調子に気にすること無く、良いですよとなまえは返した。前回はなまえのワガママを聞いてもらったので、今回は佐々木の指定した場所に行くことになった。スマホを放り投げて、なまえは布団の上でぎゅうと目をつむる。遊園地での、夢のような1日を順繰りに思い出して行く。それから、初めて佐々木に会った時のことも。
枕のすぐ上には、あの時買った漫画が落ちていた。何気無くそれを拾い上げ、ぱらぱらとページをめくる。何度読み返しても、佐々木さんとそっくりなキャラクター。まるで漫画から抜け出したみたい。
ほう、とついたため息は、ヒロインにかかった。化粧をして、オシャレをしても、私は彼女にはなれない。か弱くて、男から守ってもらうことが当たり前の、かわいいヒロインと私は、あまりにも違う。
私は血と汗にまみれた、警察組織の一員だ。守られるんじゃない、守るために私は刀を腰から下げている。それを選んだのは、自分だ。
でも、憧れるくらい、許されるよね?
漫画を閉じて、布団を頭までひっかぶって再び目をつむる。せめて夢の中でだけは、女の子でいられますように。とっくのとうに諦めた女の幸せを禁じているのが他でもない自分なのだと、なまえはまだ気づけない。