01
ようやく今日という日がやってきた。
スマートフォンの保護シートの中に自然発生した気泡を、短く揃えられた爪で追いやりながら、布団の中でなまえは1人にやりと笑った。
いつもは5重にセットしているアラームを余裕を持って次々オフにしていく。普段は呪いのように持ち上がらない瞼も、すでに液晶画面の明るさに慣れきっている。外の寒さにひるむ事も無く、布団を勢いよく蹴飛ばして転がるように起き上がった。まだ日が完全に登っていないからか、住人の数に反して屯所内は静まり返っている。スムーズに起きる為だけに一晩中つけっぱなしにしていた暖房をコンセントから抜いて、窓を開け放つ。ここまですれば誰にもバレないだろう、得意げに笑ってからくしゃみをひとつ。寒さに震えつつ女子トイレを目指すなまえの前にふらっと現れたのは、こちらは普段通りに徹夜明けの真選組の副長だった。
フラフラと歩いてくる黒い人影を目の前にして初めて、なまえは自分が浮かれすぎていて、あろうことか一応職場でもある屯所内にパジャマで繰り出してしまっていることに気付いたのだった。
幸いな事に、土方さんはまだ私を認識していないようだ。よし、このまま何事も無いかのように通り過ぎてやる。決意を改めた瞬間に、どこを目指しているのかわからない土方さんはあくびをしながら、こちらを見たかと思うと、怪訝そうに目を凝らし、そのまま立ち止まった。
「……ん? 誰だお前」
「お、おはようございまーす……」
横をすり抜けようとするやいなや、腕をがしっと掴まれてしまい、必然的に起きたての顔をまじまじと見られることになった。何を今更と自分でも思うのだが、入隊してから今までいくら寝坊しても眉毛だけは書いて出勤していた努力が、全て水の泡になってしまったのが涙ぐましい。
「何だなまえか」
「あんまジロジロ見ないでくださいよ」
「は?」
勢い良く腕をふりほどき、急いで顔をガードする。この際、パジャマは捨てだ。そのポーズを見て、半笑いで「あぁ」と掠れた声で漏らした。
「お前、化粧してねぇんだな?」
「朝一番にセクハラですか。隊長に言いつけますよ」
「セクハラじゃねえ思った事を言ったまでだ。つーかお前よ、化粧してもしなくても大して変わんねぇな」
「土方さんは化粧でもして、そのクマ消した方が良いですけどね〜」
女子に言ってはいけない言葉を悪気無く吐けるのが、土方さんの残念な所だから早い所自覚してください。どっちみち水の泡になった、自分のナチュラルを超えた手抜きメイクのことを思いながら自室にUターンする。とりあえず、前回の潜入捜査の時にしまったきりのつけまつげを探そう。
朝の会議の3時間前でよかった。朝からこんな調子だったら、今日はとんでもない日になりそうだと静かにため息を吐いた。ちゅんちゅんと鳥がやけに楽しそうに鳴いていた。
*
朝の会議も終わり、見廻り当番を横目になまえのテンションは見事に寝起きと同じ程に回復していた。朝の会議へ向かう途中、局長に「今日のなまえはいつもより可愛いね!」とニコニコしながら言われたのも勿論、原因の一つである。
しかしそれを除いても今日は、なまえにとってはかなり大切な日なのだ。お気に入りの腕時計を何度も覗きながら、廊下を行ったり来たりする不審ななまえを見る隊士共の目など、一切気にならない。時計の針がてっぺんを指した瞬間、ダッシュで廊下の先の沖田の部屋に向かう。思い切り開けた障子の向こうでは、お気に入りのアイマスクをつけて沖田が転がっていた。
「隊長!昼休憩行っていいですか!」
「朝5時に起きてわざわざ確認してから昼休憩取ることと、今日がなまえの好きな漫画の発売日なことが関係ねェならな」
バレてる!!
思わずなまえが叫びだしそうになるのを必死でこらえていると、アイマスクの下から楽しそうな目が二つ覗いた。
「……もし、関係あったら、どうなるんでありますか?」
「とりあえず土方さんに言いつけまさァ、隊長としてな」
今まさにサボって昼寝決め込んでる人が使っても良い役職ではないと思うが、そんなことは言える訳も無い。発売日が発表されてから2ヶ月、ネタバレを回避して待ちに待ったことが裏目に出るとは……。こうなることを予想して、誰にも言わなかったのに。ただ、昨日はちょっと早く床についたけど、まさかそれだけで……? 焦りに焦って「あ……あぁ……」とカオナシのように言葉を失っている私に、隊長は何でも無い顔で「冗談でさァ」と言い放った。
「ってことは、」
「さっさと戻って来て下せぇよ、仕事は山積みなんだからな」
最後まで聞かず、走り出した。どさくさで隊長の仕事を押し付けられた事を今だけは忘れ去って、ブーツに足をねじ込んで走って外に飛び出した。いつもの癖で刀をひっつかんできたせいで、走りづらい。とりあえずベルトに刺して、屯所から一番近い本屋へと駆け込んだ。
やる気の無い店員のいらっしゃいませを無視して、少女漫画コーナーへと脇目も振らず進んでいく。新刊コーナーにはそれらしいものはない。平積みにもなっていない。だとしたら、目を凝らして棚の隅から隅まで、急いで目を走らせる。店員に聞いてしまえばすぐなことはわかっているのだが、ここまできたら自分の手で見つけ出して手に入れたい。
平日の昼間だからか、客は少ない。いつもは棚の前を陣取るのは気が引けるのだが、今日は隊服で仁王立ちだ。隊長の無意味な煽りのせいで、心なしか気も大きくなっているのかもしれない。
「あ、あった」
ようやく見つけた嬉しさのあまり、思わず口走ったはいいものの、再び顔をしかめてしまう。あろうことかギリギリ手の届かない棚の上の方に並んでいるのだ。周りに脚立も無ければ、店員も居ない。すこし考え込んだ後、思いっきり手を伸ばしてみた。あ、ちょっと届いた。背表紙に少しだけ指がひっかかったものの、体が限界を訴えて断念した。
もう一回したら取れるな、よし。
おもいきり手を伸ばそうとするが早いか、突然違う方向から伸びてきた手が先に漫画に辿り着き、なんなくゲットされてしまった。
「はい、取れましたよ」
その手は、漫画とともに私の方に差し出された。
「あ、ありがとうございま、す?」
おずおずと受け取ってからちらりと服に目をやって、ようやく店員ではないという事に気づく。つまり、私が醜く四苦八苦しているのを後ろから助けてくれたということか。恥ずかしさのあまり、石のように硬直している私に、尚も恩人は話しかける。
「この漫画、面白いですよねぇ。絵も媚びてないし、展開も予想できないようになってて。私もハマってるんです」
「そうなんですよ! 私、続きが出るのをずっと楽しみにしてて……」
嬉しさのあまり顔を上げた瞬間、その恩人の方と目が合ってしまった。
そして、思わず目を見開いてしまう。
このシチュエーション、運命的な出会い方、その他諸々全て含めて、なんと説明したらいいか分からないが、この人こそまさに私が今まで探し求めてきた「少女漫画に出てくる男の人」に間違いないような気がしてならなかった。
どうしてだろう、背景にバラ柄のトーンが見える。
呆然としてる私にかまわず、運命の彼は低くて素敵な声で話し続ける。
「もしかして貴女、このお兄さんが好きなんじゃないですか?」
長い指が表紙に描いてある私の好きなキャラクターを指した。
偶然にも表紙のキャラクターは、王子様のような格好をしている。そのせいで目の前の彼と王子様がかぶって見えてしまい、頭がくらくらと揺れた。
「どうして……?」
「どうして? 簡単なことです。私、エリートですから」
言いながらさっと渡された漫画の上には、小さな紙切れが乗っていた。
「あの、これ」
「ここで出会ったのも何かの縁です、よろしければそこにメールしてくれません? 私、メル友少なくて寂しいんです。貴女とは、趣味も合いそうですし」
「ちょっと待ってください! その、お名前だけでも……!」
「心配しなくても、またすぐに会うことになりますよ」
「ほ、本当?」
「ええ、ではメールお待ちしてますよ、なまえさん」
男は、どこかで見た事のあるような白い服をなびかせて去っていった。
一方取り残されたなまえは、先程までの夢のような一連の事件がどうしても信じられず、連絡先の書かれた小さな紙と漫画の表紙を穴の開く程見つめ、立ち尽くしていた。ただ心臓の音だけが異常に大きくて、顔が信じられないくらい熱いのに手がものすごく冷たい。
そして、頭の中では「こーいーしちゃったんだー」と聞き古されたラブソングが延々とサビだけ壊れたように繰り返されていた。