03


もしも、見廻組の局長と副長のどちらかが恋慕という情を、頭ではなく心で知っていたら。過ぎ去った仮定など、いつだって無意味だ。





いつの間に、夜になったのだろう。車窓越しにキラキラと通り過ぎるだけの店の明かりは、網膜に色だけを残していく。隣に座っている佐々木さんの運転の邪魔をしないように、膝の上で無意識に組んでいた指を、静かに組み直した。信号に引っ掛かることもなく、会社帰りの人達で溢れる街の真ん中を、すいすいと進む黒い車が何処に向かっているのか、私には分からない。

「今日は二人きりですし、何を話しても構いませんよ。聞いているのは私一人ですからね」
「はい、そうなんですけれど……」
「どこか、具合でも悪いのですか?」

沈黙が続けば、肯定とされてしまう。いつもは一切の運転を佐々木さんの家の人に任せて、リムジンの後ろに何も考えず座っておけばよかった。佐々木さんも何も言わなければ、私も何も言わない。これが正しいのだ、と思っていた。しかし、そのルールは私と佐々木さんの2人きりの空間に適用されないらしい。

「いえ、佐々木さんが運転される車に乗ることも、二人きりで車に乗るのも、行き先を教えて頂けないのも、全部初めてで。何を話したら良いか、考えていた所です」
「全部、 初めてですか。良い言葉ですね」

そんな風には少しも思っていないような口ぶりだった。緊張と不安とで、うまく働かない頭から必死で絞り出したのに。覚えていますか、佐々木さん。私に愛してると言ったのは、貴方なんですよ。彼に届くことのない恨み節は頭の底で消えた。

車は静かに夜の中を進んでいく。気付けば煌びやかな街並みは、とうに過ぎ去っていて、屋根が平らに連なる住宅地が広がるだけだった。そのことが余計に私の心を乱した。確かに前へ進んでいるのに、後ろに戻っていると言われてもきっと驚かない。それが私と佐々木さんの関係性のように思えて、空っぽな胸の奥がずん、と重くなった。

「そろそろ、到着しますよ」

BGMは微かな走行音だけ、静かすぎるドライブが終わりを迎えようとしていた。いくつかトンネルを抜け山と山の間をすり抜けて行く間に、もしかしたら本当に彼は私を連行する気なのではという、否定しきれない暗い不安がよぎった。一度ではない、何度も。

結局、車が止まったのは名前も知らない夜の海だった。

「どうせなら波打ち際まで行きたいのですが、貴女の靴が砂浜で汚れてはいけません。歩くのは堤防までにしましょう」
「靴なんてどうにでもなります。せっかくですし、歩きませんか?」
「貴女がそう言うのなら」

硬いコンクリートから砂浜に一歩踏み出せば、少し高いヒールはあっという間に付け根まで飲み込まれてしまう。それでも何とか足を持ち上げて歩くのを、佐々木さんは一歩下がって見守っていた。転んだら助けるためだろう。背中に添えられた大きな手に軽く押されながら、ただ前に進む。

「誰も居ませんね。今は冬ですし、当たり前ですけど」
「……誰も居ないから、ここを選んだんでしょう」
「え?」

波は穏やかで、黒い水面を月が淡く照らしている。冷たい潮風が新鮮で、しかしどこか懐かしかった。二人寄り添うように砂浜に立っているから、ちっとも寒くはない、はずなのに。

「この少し先に船着場があります。ここからはターミナルの搬入口までの船が出ていました。高額な渡し賃を要求する代わりに、絶対に情報は漏らさない。そのせいでテロリスト、逃亡者、麻薬や武器の密輸など犯罪の温床になっていましたが、政府は気付いてすらいなかった」

合いの手を入れるように、冷たい風が横から吹き付ける。ザザァ、と鳴る波の音は耳に入ってすぐにすり抜けていく。佐々木さんの視線が、少しでも私に向けばいいのに。そんなことを考えながら、彼と同じように白い月を眺めた。

「まあ、少し前に我々見廻組が一掃し、今となっては平和な海でしかありません。ご存知ないですか?」

毎日大なり小なりのテロや事件に書類越しに関わっているせいか、自分の中でそういった事件が単なる文字列以上になることはない。言葉を交わす同僚が斬り殺したテロリストの名前を見ても、新聞を読んでいるかのように私には無関係のように感じていた。そのことが佐々木さんにバレてしまってはいけない気がして、必死に記憶を漁ってみるフリをする。私が考えているのを見守りつつ佐々木さんは少しだけ黙し、それから低い声で何気なく言った。

「ちょうど貴女が恋人と別れた頃ですよ」

心臓が、嫌な音を立てた。その何気なさに込められた感情がなんなのか、私には分からない。怒っているわけでは無さそうだった。相変わらず感情の浮かばない顔をちらりと見上げて、それから再び前を向く。佐々木さんは一体、どんな気持ちで私の横に立っているの? そんなことさえ言えないから、私は佐々木さんの恋人になれないのだろうか。

「本当に、覚えていないのですね?」
「……すみません」
「いえ、謝ることは無いのですよ。ただ、思い出したことを言ったに過ぎませんから」

今日はきっと、特別な日になるのだろう。車に乗せられた時に抱いた期待が、少しだけ膨らんだ。愛していると、全て忘れてあげますと伝えられたのは一度きりで、それから月に何度か食事に行くだけの関係が、きっと今日、変わってしまう。ふと、そんな予感がした。

「佐々木さんが、忘れさせてくれたのでしょう?」

確かに身も心も裂かれるような思いを抱いたはずの胸は、そんなものは知らないととぼけるだけだ。佐々木さんの唇が紡いだ優しい一言が、全て忘れさせてくれた。だからこそ、彼に上司への尊敬以上の気持ちを、抱いてしまったのだ。

「……目を、閉じて頂けますか」

私達の間に漂っていた沈黙を破ったのは、佐々木さんだった。言われるがままに、目を閉じる。白い月光を目の中から追い出して、瞼越しに彼の視線を感じる。きっと今、目を開ければ、佐々木さんの目を真っ直ぐ見ることができる。しかし、言いつけを守らなければ、恐らく終わってしまう。綱渡りの細いロープは、いつだって佐々木さんが握っているのだから。右腕に寄り添っていた彼の左腕が離れ、うっすらと瞼に透けていた光を彼が体で遮った。

「貴女は、私の言葉を、そして私のことを信じていますか」
「はい」
「それは私が貴女に、愛していると告げたからでしよう」

二度目の告白は、何とも味の無い平坦なものだった。思わず目を開けそうになるのをぐっとこらえ、首を横に振る。誰よりも頭が良い佐々木さんが一体どんな答えを求めているのかなんて検討もつかない。ただ私は、素直に彼に従うだけだ。それ以外に道は無いように思えた。

「きっかけは、そうだったのかもしれません。けれど今は、私が佐々木さんのことをお慕いしているのです。もしあの時の言葉が無くても、私は」
「有り得ません」

きっぱりと遮った佐々木さんの声は、私が続きを紡ぐことを許さなかった。声だけでなく、開きかけた目は彼の冷たい手に覆われた。なぜか力が抜けてしまって、その場に座れこんでしまう。私を抱えた腕は決して慌てていなければ、逃げる余地も与えてはくれなかった。逃げる余地? どうして、私が佐々木さんから逃げる必要が? 突然浮かんだ思考を責める間もなく、目を覆った手が自然と離れ、そっと正面から抱きしめられた。彼の片眼鏡から垂れる鎖が耳に当たってヒヤリとする。かつてないほど近い距離にいるはずなのに、熱を全く感じない。

「貴女が私を信じようが嫌おうが、そんなことは、どうだっていいのです。私はもう、貴女を手放すつもりなどありませんから」
「どうして……私を」

唇が震える、言葉をうまく発しているかすら、自分でも分からない。頭に満ちた感情が幸せなのか混乱なのか、それすらも分からない。ただどうして、と子どものように繰り返す私の頭を撫でる手は、温度のない口調とは裏腹にとても優しかった。

「それが分かっていれば、恐らくこんなことにはならなかったでしょう」

その言葉に涙腺が緩み、堰を切ったように涙が溢れる。その間も佐々木さんは、黙って私を抱きかかえていてくれる。

「さぁ、もう泣き止んでください。それから、目を閉じて」
「佐々木さんは、私の目が嫌いなのですか?」
「……そういうわけではありません。ただ目を開けたまま口付けをするのは、少々気が引けるので」

薄く笑いながらそう囁いたと思うと、あっという間に目を見るどころか、視界をぼやけさせるほどに佐々木さんの顔が近付いていた。反射的に目を閉じて、何度もかるく合わせられる唇の柔らかさだけを感じる。それだけなのに段々と息がもたなくなり、最後に深めのキスをひとつ残して、佐々木さんは顔を離した。

「ようやく、貴女を手に入れられた」

盲目な私には、一体どんな顔で佐々木さんがそう漏らしたのか、分かる術はない。頭を満たす形の無い幸せが、それでも良いのと思考に蓋をかぶせてしまったから。


 
ALICE+