05
海岸に一足先に着いてしまった女は、秘密の待ち合わせにそぐわない高価な着物を身にまとっていた。靴を履いてくれば良かったなどという後悔は大きな鞄に押し込んで、ただ息を潜めて指定された杉の下で男を待つ。
彼女には、彼に対する絶対の信頼があった。女の思考を満たすのは、もし男が来なかったらではなく、男と会ったら何を話そうかということだ。類は友を呼ぶという言葉通り、彼女も無垢であれば彼もまた、無垢である。やがて一台の車が海岸に近づいて来た。彼だ、女は確信を持って立ち上がる。
知らない車を路肩に停め、降りてきたのはやはり見慣れた短い黒髪だった。今まで固まっていた身体を一瞬で溶かす安堵を、互いに感じた。
女の元へ駆け寄ろうと、一歩、男が踏み出した瞬間のことだった。
女には、銃声が鳴ったことと、男が倒れたことの、どちらが先か分からなかった。
作りかけた笑顔が張り付いたまま、地に転がる男を眺めていた彼女の前に、暗闇から白い隊服が現れた。
「ああ、即死ですか」
渇いた声が、彼女の耳に入っては何も残さず抜けていった。彼が現れたと思ったら、銃で撃たれた。誰に? 局長だ、私の雇い主。いつもと違うジグザグの逡巡は、彼女の意思とは関係なく涙をこぼさせた。男の脈を確認した佐々木は、それを見て一瞬、興醒めだという表情を浮かべた。壊れたおもちゃのように口が震えるのをしっかりと目に留めたまま、佐々木はへたり込んでしまっていた彼女の目の前に立った。
「まぁウチは真選組とは違いますから、士道不覚悟により切腹なんて馬鹿げたことを言うつもりはありません。しかし、逃げ出そうとした貴女に何も罰を与えない、というのは少し問題だと思いません?」
「あ、あ……ああ」
「ショックで口がきけませんか、まぁ仕方ないですね。愛の逃避行をしようとしていたら、目の前で恋人が死んだんですから。でもショックばかり受けてもいられませんよ? 貴女だって危ない立場にいるんですから、生きたいなら考えないと」
言葉を出そうとしても、醜く喘いでしまうだけ。顔中を汚して目の前に立つ局長を見上げる姿は、どう見ても良家の子女とは言い難い。懐にしまっていた銃を、もう一度手に取り、躊躇いなく銃口を彼女の眉間に向けた。これで何も変わらなければ、撃ってしまおう。佐々木の腹の底でそう決意した瞬間、子供のようにしゃくりあげていた女から、嗚咽は消え失せた。代わりに発せられたのは、いつもと変わらないように必死に努めたような、震えた小さな声だった。
「……あなたが、彼を撃ったのですね」
佐々木は「はい」とだけ答えた。少し俯いた女の目線は、少しだけ足元を彷徨い、それから車の側で伏せたままの最愛の恋人で止まった。さて、どうなるのだろう。佐々木は虚ろな目をした彼女を見下ろして考えた。二人の脱走が成功する可能性など、現実的に考えて3%にも満たない。奇跡的に成功したとしても、彼と彼女が思い描いていた幸せな生活が送れる可能性なんて、弾き出すのも馬鹿らしい。ありえないのだ、そんなことは。それなのに、信じていたとでも言うのだろうか。
「…………以前、私にしか使えない奥の手があると、おっしゃいました。もしかして、そういうことでしょうか。私が私のまま、生きるために考えなければいけないのは」
「そうですね、これ以上何も失わないという点では賢明な選択です。しかし、貴女から口にするとは。私はてっきり世間知らずな箱入り娘だとばかり思っていましたので、驚きましたよ。まさか愛の逃避行のために犯罪の片棒を担ぎ、家や身分を捨てることを厭わないような方だとは思っていなかったものですから」
「口にはしましたが、使うとは言っていません。確認したかったのです。佐々木局長、誰よりも聡い貴方がそんな馬鹿げた、汚らわしいことを本当に、世間知らずで箱入り娘の私に選ばせるようなお人だったのかを」「もちろん。さすがに色事に無知な女性が訳も分からぬままに選ぶのでしたら話は別ですが、貴女はよくご存知のようですし。最愛の恋人を亡くし、良家の子女の皮も剥がれてしまった今、貴女がどんな顔で私に命乞いをするのか興味があるので」
表面上しか取り繕われていない会話の勝者は口元に笑みを浮かべ、その影の中で忌々しそうに女は顔を歪ませた。さぁ、早く。佐々木の胸の中で踊るのは好奇心のみか、それとも違うものか。全身を這う緊張感の中で彼はあくまで冷徹に女を見下ろし、答えを迫った。どく、どくと音を立てる心臓がこれ見よがしに生きていることを主張するのは恐らく両者共同じだろう。
そんな些細なことでも、女には耐えられなかった。自分を愛した家族も側に置いた上司も、守った家柄すら全てが体にこびりついて自分を閉じ込めてしまうのが、嫌で嫌でしょうがなかった。
だから彼女は、彼を選んだのだ。自分の持っていないものを両手に抱えた彼は何よりも自由だった。彼が自分の手をひいて連れて行ってくれる所はどこであっても輝いて見えた。
「勿論、お断りしますわ」
「断る、ということはつまり、貴女は死を選ぶということですか」
「はい」
「それは楽になりたいからですか。それとも、絶望したから? 彼もいない世界で惨めに生きていくのが嫌で、ただそれだけのために、今まで自分を支えていたものを、何もかも捨てるというのですか」
「ただ、それだけ?」
女は笑った。口を大きく開け、声を立てておかしそうに、少女のように。突きつけたままの銃を握る指に思わず力が入った。もうこの女は生きることを諦めている。愛の、自由のために、だなんて言うんだろうか。愚かな女だ、どこまでも。
「あの男を選ばなければ、貴女は幸せに過ごせたでしょうね」
「私もそう思います。だから佐々木局長、彼を撃った銃で、私も殺してください」
再び、見上げられた目は澄み切っていた。佐々木はようやく、見たかった彼女の瞳の奥を覗くことができた。その奥に潜んでいたものは、ごくありふれていて、何よりも崇高なものだった。そして自分の目にも彼女と同じ強い感情が宿ったことを、彼は自覚した。だからこそ、答えはひとつだった。佐々木が知りたかったのは、彼女の瞳の奥に住む怪物の正体。ただ、それだけなのだから。
「わかりました」
佐々木は彼女の眉間に銃を押し付けたまま、迷わず引き金を引いたのだった。
*
永い眠りから目覚めた瞬間に、彼女の目が捉えたのは淡い橙の光と、若草色の天井だった。ぱちぱちと二三度瞬いたものの彼女の思考は、まだうまく動かない。
「目が覚めましたか」
彼女は声がする方に顔を向けようとしたが、それは叶わなかった。身体は上質な布団に包まれていたが鉛のように重く、首をひねる動作さえもうまくいかない有様だったからだ。彼女はそのこともよく理解していない。ただ、声の向く方へと黒目を動かしたにすぎなかった。
「どこか体に不調はありませんか? 痛みや痺れや、どんな些細な事でも構いません」
この声の主は、一体誰だろう。彼女は不思議に思った。何しろ顔が見えないのだから、声だけで判断せねばならず、頭がよく働いていない彼女にとって、それはなかなかの難題だった。少しだけ力をいれて、首を左右に振る。だんだんと氷が解けるように動くようになっている体を確認するように、布団の中に投げ出されていた指先をそっと曲げてみる。
「……私のことが、分かりますか?」
質問者の淡々とした話し方が少しだけ、乱れた。彼女は首を捻って、ベッド脇に座っているであろう男の顔を確認した。あ、この人は。目が合った瞬間に両目から涙がつう、と真横に流れて枕を濡らした。どうして滲んでいるのか分からない視界、そこに映る男の名前を記憶の中から探そうとした瞬間に、男の指が溢れる涙を優しく拭い、遮った。
「貴女は、覚えていないでしょうが、」
男はこう切り出し、自分がベッドに沈んでいる理由を丁寧に説明した。彼女が恋人との待ち合わせ場所にいくと、唐突に別れを切り出されてしまう。理由をいくら尋ねても教えてもらえず、ショックのあまり彼女は持っていた銃を使って自殺しようとした、とのことだった。まるで自分とは無関係な話を聞かされているような気になりながら、彼女は自分で記憶を取り出そうとしてみた。しかし、何も無い。彼との思い出や普段の職務のことは、ぼんやりと思い出せるのに、この人の言っていることは何ひとつ記憶にない。そのことを察してか、男は彼女の顔を覗き込んだ。鼻と鼻がぶつかりそうなほどの近距離で、男の目が女を捕らえる。
「貴女がショックのあまり消してしまった記憶は、これから先、貴女を苦しめることはありません。ですから、もうそんな顔はしないでください。私が忘れさせてあげますから」
「……どうして?」
まるで幼児のように、口が勝手に動き言葉を紡いだ。久しぶりに声帯を震わせて出たかすれ声は、答えを性急に求めていた。応えるように、彼の冷たい掌が頬を撫でた。しかし目だけは決して彼女を強い力で離さない。自分の心臓が拍動を早めていくのを、彼女は薄い胸の奥で確かに聞いた。
「つまり、貴女を愛している、と言っているのです」
この瞬間に、彼女の身体を落雷のごとく言葉が駆け巡る。誰よりも賢くて強くて、いずれはこの国の法を頂点で振りかざす運命を背負った、佐々木異三郎。その彼が、自分を愛している? 考える余地を与えない冷たい両目が、私のうるさい心臓を突き刺した。頭の底で煙のように広がっていた疑念や、もやがかかった記憶が音もなく消えていく。それを見透かしたように、彼は顔を離した。一瞬、名残惜しそうに彼女の目を視界に留めて、何もなかったかのように再び目を逸らした。
*
「多くのテロリストや犯罪者が何で動いているか、知っていますか?」
「知らない」
「それは激しい感情です。破壊願望や、憎しみ、怒りなど。行動の芯となるそれらを取り払ってしまうだけで、犯罪を起こそうという気も起きなくなる」
鈍い灰色の銃弾をつまんで弄んでいた細い指が、納得したように再び卓上に銃弾を置いた。佐々木の信頼の置ける副官である彼女には皆まで言わずとも、この銃弾がいつどこで使われているのかは手に取るようにわかっていた。
「前に言っていた天人の薬?」
「ええ、ようやく望んでいた形に加工して頂けました。強い衝撃を同時に与えることにより、服用前後の記憶も飛ぶんだとか。全く、恐ろしい薬です」
「……そこまでする価値が、彼女にあるの」
いつもは寡黙で従順な信女らしくない質問に、局長は口角を上げた。懐から銃を取り出し、その中に込められていた弾丸を一つだけ机の上のものと交換する。準備はすでに整っていた。待ち合わせ場所も時間も、男が乗り捨てるであろう車も全て把握している。
「本薬を服用し効果を確認次第、直ちに被験者と直接交渉した者は隔離せよ。そう薬には書いてあります。何故だと思いますか」
彼女は答えない。答えを必要としている問いではないからだ。そのことを知っていたかのように、平然と佐々木は続けた。
「人間の感情を完全に消し去ることなど、天人だろうと不可能です。この薬も、いわば一種の催眠術みたいなもので、薬の効果が切れるきっかけが存在するのです。それが、薬を服用した後、最初に会話をした者と服用者が再び目を合わせてしまう。これだけです」
「脆い薬」
「市場に出回らないのは、効果もリスクも大きすぎるからでしょう。自分の核を再び取り戻した被験者がどんな行動に出るのか、までは実験に含まれていませんから」
「でも異三郎は使う」
「はい、そのつもりです」
佐々木はもう、笑っていなかった。銃を再び懐に戻し、軽く息を吐いた。彼女の目の奥に住むものがなんなのか、どうして普通の女である彼女があれだけの感情を秘めているのか。そして、どうしてこうも惹きつけられるのか。失って初めて人は大切さに気付くというから、恐らく自分も何かに気が付けるだろう。彼が求めているのは、今回の件に伴う自身の感情の推移とそれに伴う明確な答えだった。それがたとえ大きな間違いを生むことになったとしても、構わない。信女は視線を逸らし、壁一面に広がる夜景を眺めた。彼女と佐々木が不可視の獣を飼っている限り、信女にはどこまでいっても関係の無い話なのだから。佐々木の覚悟をしたような「そろそろ出る時間ですね」に、黙って頷き彼の背中について歩く。信女にも、いつか分かるのだろうか? 腰の愛刀を確かめるように触り、そんなことを考える。
外に出た瞬間、どこかから潮風が薫った気がしたが、互いに口を開かない。車窓に流れる同じ色の景色を、違う瞳で眺めているだけだった。
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