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 人の噂も七五日、とは言うが、その日数は噂されている当人にとって果てしなく長く感じられるものだ。本当は迅が遠征から帰ってくる前に薄れていって欲しかったけれど、今のところその嫌な噂を上回る噂が出てくるわけでもなく、更には『俺が孤児だ』とかいう話題すら噂を助長し出して『A級やB級にコネがある』とか、終いには『本部長に取り入ってる』とかいうデマまで広まってきていた。誰かがあのときの食事を見ていたのだろう。コネってなんだコネって、それに取り入れるほどの魅力は俺にはないぞ。
なんというか、この人間の多いところにありがちな状況は少しイライラする。けど、別に誰かに対して嫌悪感を抱いているとかじゃない。噂に踊らされるのは人間誰しもあるし、多分俺だってある。ただ単にその向けられる嫌な視線の情報量の多さに苛立っているだけなので、あくまでも気にしていない体を気取り続けている。
最近あった合同訓練に出て上位をとったのも目の敵になる要因になってきているけれど、それを理由に俺がランク戦をやめるはずもない。個人ポイントも2955から3320に上がったし、このまま行けばあと一週間くらい頑張ればB級に上がれるんじゃないかと思えてきているところだ。

「おまえ、少しは強くなったか?」
「……早く風間さん紹介してくれ」
「あー、」
「頼んでから何日もあっただろ」

俺の言葉に目の前の慶は手に箸を持ちながら気まずそうに視線を逸らして「だってよ……」もごもご、と小さく呟く。

「…………風間さん、遠征行ってるしよ」
「あ、そなの?」
「迅と一緒にな」

そう言い終わるとずるずるっ、と音をたててうどんを啜り、俺を上目使いで見ると「食う?」なんて聞いてくるのでそっけなく「いらん」と短く返す。ていうかコイツ志願するとか言っといて、しなかったのか。
ここ何週間か慶とは会っていなかったのに、迅と風間隊が遠征から帰ってくるこの日にコイツから電話で本部の私室に来るように言われ、ノコノコと学校終わりに足を運んでみると、台所で俺を呼び出した慶はうどんを茹でていた。まあ、仕方無く雰囲気に流されてコイツがうどんを食べ終わるのを見届けなければいけなくなっているわけだけど、その過程で慶が「具入れるのが億劫」だとか言っていたので適当に冷蔵庫にあった卵を落として、ネギを切り刻み、何故かあった魚肉ソーセージを薄切りにしてから焼いてかまぼこのように見立てたら慶に天才扱いされたのはついさっきのことだ。

「まあ、いいや……慶にはあんまり期待してなかったし」
「オイ」
「どうせまだ話すらつけてくれてないんだろ?」
「…………まあな」

その具材を雑に乗っけたうどんをふーふー、と湯気を飛ばすように冷ましてから言葉を返してくる慶に今の俺は怒る気力も起きなくて、睨むように目の前でじーっと慶のうどんを食べている姿を見つめる。
こういうところは変わんねえなあ、どっか抜けてるっていうか……机の上にめっちゃ出汁飛んでるし。

「なあ名前」
「ん?」
「今日暇か?」
「今日…………?」

俺の切った魚肉ソーセージを口に運びながら尋ねる慶に、俺は斜め上を見上げて今日の日程を思い出す。
ボーダーに入って何日か経ってから俺のスケジュールは決まっていて一日に大体ボーダー関連のことは一つしかやらず、その他はどんなに時間が空いたとしても孤児院を優先させている。例えば学校が終わってその日に防衛任務があれば任務を終わらせて大体直帰するし、防衛任務がなければ玉狛支部へブラックトリガーの訓練に行くか、本部へ個人ポイントを稼ぎに行くかのどちらかを選んでいるつもりだ。土日は、学校がない分二つ選ぶことにしているけど、大抵バイトが入っているので一つも出来ないことが多々ある。そして今日は平日、学校が終わってから直接ここに来たのでまだ何も選択していないから暇っちゃあ暇なのかもしれない。
その事と結果を述べつつ机の上に飛び跳ねている出汁を近くにあったティッシュで拭くと、慶は俺の行動に目もとめず普通に話を切り出す。

「じゃあ、ちょっくらバトろうぜ」
「却下」
「…………」
「…………」
「…………何でだ」
「おまえなあ…………」

納得いかないとでも言いたげな、てか寧ろ視線でそう訴えてきている慶に俺は丸めたティッシュを投げつける。

「ノーマルトリガーで俺が慶に挑んでもフルボッコにされて終了だろ」

前の対戦は俺がブラックトリガーでしかもブラックトリガーの能力内容を慶が聞いていなかったから接戦になれたけれど、今慶が言っているのはランク外対戦のことだろうし、スコーピオンもまともに使えていない俺が相手したって瞬殺で終わるだけ。

「忍田さんが言ってたぜ、強くなるって」
「あぁ……ほんとに話したんだ」

俺の投げたティッシュをさっ、と避けた慶の言葉を聞く限り結局忍田本部長は本当に俺を話のタネにしたらしい。コイツは俺の噂を知っているんだろうか、なんて忍田本部長の顔を思い出すと嫌でもセットで噂のことが思い出されて少し忍田本部長にたいして申し訳なく思えてきたけれど、この長い付き合いの慶に噂のことを尋ねるのは、ちょっと抵抗がある。恥ずかしいというか、情けないというか。

「…………強くなる、ってのは今が強いわけじゃないってことだろ」
「、まあそうか」
「だから俺が強くなるために風間さん紹介して、って言ったのに」
「…………あああ、マジかあ!」

やれやれ、と俺が肩を竦めてやれば、慶が大袈裟に頭を抱え出したので少し驚くと、俯くように頭を抱えた慶が小さくポツリと呟いた。




「でもなあ…………迅に言われたしなあ」
「、迅?」

その小さい声の中に、自分の訓練相手で且つ今日遠征から帰ってくる人物の名前が出てきて思わず低い声で聞き返す。
すると、俺に聞こえると思ってなかったのか、はたまた言うつもりさえなかったのかは分からないけれど、明らかな『動揺』の視線を俺に向けた。

「なに、」
「……た、大したことじゃねえよ」
「……………」
「……………」
「……じゃあ言いやがれ!」
「うおっ、あぶねっ!」

うどんを箸で持ち上げながらあからさまに誤魔化す慶に俺が思いきり、バンッ、と机を叩いてみせると、うどんの入った器がほんの少し傾いて出汁が器の縁から溢れかけた。

「、おまっ! あっちいわ!」
「あ、わり」

それを間一髪で防いだ慶は避難させるように器を持って立ち上がり、手にかかった出汁の熱さに耐えながらそそくさと台所の方へ食器をさげにいった。その後ろ姿を見て「少しやり過ぎたな」とほんの少し反省する。仮にもアホでも人間なんだよなあ、うん。

「名前ー、ちょっとティッシュ持ってこい!」
「へーへー」

反省を見せる為に億劫な気持ちを押し込み、ティッシュの箱をつかんで立ち上がる。先程避けられて床に転がっていたティッシュが視界に入ったのでソレを近くにあるゴミ箱に放り投げてから、台所でうどんを啜っている慶の後ろ姿に近付く。

迅に言われた、って慶は呟いていた。これは間違いない。
言われたっていうのは、迅が遠征前俺に関わる何かを慶に告げたということだとして、内容が何なのかが重要だろう。まあ『風間さんを紹介して』からの『でも、迅に言われたから』ってのは、普通に考えれば『俺に風間さんを紹介するなって迅に言われた』ということだけど、それが迅にとってどんな得があるのか分からない。それとも、俺が風間さんと会うことが迅にとって損になるのか。
もしかして、風間さんに会ってほしくないんじゃなくて…………俺に強くなってほしくない、とか? いや、それならブラックトリガーの訓練に付き合ってくれたりしないだろ。

しゅっ、と箱から一枚ティッシュを取り出してモグモグと口を動かす慶に突き付けると、慶は無言でそれを受け取り、手にかかった出汁を拭き取る。

「なんか手痛てえ」
「あー、」

そう言いながら最後の一口を口に運んだ慶を見て俺は無言で蛇口を捻り、冷水なのを確認してから小さい範囲だが少し赤くなってる慶の手を掴んで落ちてくる水にあてる。

「慶」
「、?」

さっきとはかけ離れた声色で小さく名前を呼べば、慶は不思議そうに俺を"見つめた"。




「迅に、"何を言われた"?」
「…………何もねえって」



『…………名前をB級に上げないようにして、とは言われたけどな』



「…………はい、読み取り成功」
「……なんて?」
「てかさ…………うどんで火傷ってダサくね?」
「…………おい、誤魔化すな」

ジャー、と一定の水量の中に手を突っ込んでいると段々と手が熱くなる感覚に陥ってきてそこはかとなく頭痛もしてきたけれど、その原因が水温だけじゃないような気がして思わず笑う。

「誤魔化してねえよ、おまえの手が冷えたかなって言ったんだよ」
「…………ホントかよ」

俺の嘘を指摘しないところから、本当に水がシンクに落ちる音で俺の声が遮られていて聞こえなかったのか、慶は俺に掴まれた自分の手を確認するため水の中から引き出した。それと一緒に俺の手も引き出されたので、用のなくなった水をとめてシンクにはねた水滴に映る自分を見つめる。

「はは、『動揺』か」
「お前、独り言多いぞ」
「……………やけど痛い?」
「あーいや、今は感覚ねえけど」
「そっか、…………ごめん」
「? 別に…………気にすんな」

慶にとって俺が心配してくるという事実が相当珍しいのか、触れられている場所ではなくて俺だけをじーっと見つめて言葉を返してくる。俺がボーダーに入隊して二年ぶりくらいに再会してからは、俺自身慶に対しての態度が丸くなったなあと感じる。それはもちろんアキちゃんという"嫉妬の根源"が居なくなってしまったからなんだけど、それがまた皮肉で少し悲しい。アキちゃんが居なくなったから慶と近付けた気がして。

「一応保冷剤とかで冷やしとけよ、」
「……………おい、待て」

いま考えたことや、先程慶から読み取った事実を考えないようにするため、冷蔵庫の中にあった保冷剤を確認してからそのまま立ち去ろうと後ろを向くと、それをいち早く察した慶が火傷をしていない方の手で俺の制服の裾を掴んだ。なんだそれ、女子か。やられたことはないけれど、漫画で見たことあるぞ。

「逃げんな」
「、別に逃げてねえよ」
「じゃあ、止まれ」
「…………止まってるし」

いつものように死んだ目を真っ直ぐ俺の背中に向けてきているんだろう、ひしひしと伝わる『願望』の視線に俺は息を吐く。
視線まで逃げんな、行くな、って言ってるよ、慶。


「んだよ」
「…………お前、紀晶からサイドエフェクト受け継いだろ」


その言葉に、俺は思わずピクリと眉を寄せる。


「…………だったら?」


いつか気付くだろうとは思っていた。特に俺が慶の課題を手伝った時辺りから。アキちゃんは多分サイドエフェクトのことを慶に話してはいなかったんだろうけど、慶はその違和感に気づかないほどアホじゃない、他のことはアホでも。

「さっき、サイドエフェクトで何か視たな」
「…………まあ、」
「どう視た?」
「…………『B級に上がらせないで』」
「、モロじゃねえか」

俺の制服の裾をぎゅっ、と強く掴む慶に俺は眉を寄せる。
本当は視るというよりは読むという感覚だけど、それは今の時点じゃ俺しかわからないと思うので指摘はしない。

「で? 何が言いたいの?」
「…………その聞き方は卑怯だろ」

後ろでポリポリと何処かをかく音が聞こえたのと同時に慶の視線が『困惑』に変わったのを感じ、仕方無く振り返って俺を引き留める人物と視線を合わせる。これを聞いて慶の何かが満たされるのだろうか。俺はこれを話すことで何だか自分が情けない方向に向かっていっているような気がしてしまうのに。

「俺は今のところ、迅のやりたいことが分からない。多分それは慶も一緒で、何かしらの等価交換で俺をB級に上げない、つまり『風間さんを紹介しない』ことを了承した…………ここまでは合ってるか?」

俺の制服の裾を掴んでいた慶の手を振り払いながら顔を近づけてそう言えば、慶は振り払われた手を見つめてから「ま、まあ」と言って一歩立ち退いて頷く。

「だから俺は当人に聞きに行く。問い詰めたいことは他にもあるし、俺達二人が話していても答えは見つからない……だから俺はここから出る」
「お、おう」
「さっきのは逃げてねえ、逃げてねえけどサイドエフェクトの詳細を知られるのは俺にとって有利なことじゃないから長くは居たくなかった」
「、わかったわかった!!」

ずいずいっ、と俺が口を開く度に顔を近づけてやると、慶は顔をひきつらせながら一歩ずつ壁際に下がる。






「で、ここまで聞いて言いたいことがあるなら言いやがれ!」

ドン! と何週間か前に俺がやられたように慶を壁に追い込んでから慶の肩の辺りの壁に手をつき、ガンをつけるように俺より身長の高い慶を見つめる。
ん? なんか変な展開だな。
慶はそんな俺の態度に目をぱちくりと一回瞬きすると、何時ものようにニヤリと笑い、おどろいた表情のわりに『面白い』という視線を向けてきた。そして、俺の顎を火傷を負った手で掬いとって自分の顔を近づける。

「は、ちょ」
「…………おまえ」

つつ、と俺の顎下を猫にやるように人差し指と中指で撫で付けながら、親指で俺の下唇近くをふにふにと弄りだした慶に少し身を引きたくなったが、何とか耐えて眉をひそめると慶は余裕たっぷりに笑う。
なにこの近さ懐かしい、てか迅のとき以来だぞこんな至近距離。
息がかかるんじゃないかと思えるほどの近さで寸止めした慶に、ここで退いたら"負け"のような気がして壁についた手を握りしめると、慶はそれすら面白そうにニヤリと笑い、俺の目を至近距離で見つめながら少し溜めて口を開いた。


「お前、昔よりも随分かわいいな」
「、は?」
「前も前でちょっかい出す度に突っかかってきたけど」
「……それは、」


妙にアキちゃんと仲のよかったお前に嫉妬してたんだよ、と正直に言えるはずもなく。


「あんときもバカっぽくて可愛かったけど、」
「あ!?」
「今は必死こいてて、いいな」


必死こいてて、ってコイツ俺のこと馬鹿にしてんだろ…………。
ボーダーに入隊してみたら、昔はただのバカでしかなかった慶が今はA級になってたり個人ランク一位だったり、隊長とかいう人を纏める地位についてるし。身長も俺よりなんセンチか高くなってるし。慶の言う必死さがさっきの俺の何処に現れていたのか知らないけれど、今更そういう慶に年上ぶられるのもムカついたのでひくついた口角を無視し、壁についていた手ともう片方の手を慶の首に回してにやっと笑う。

「慶って、俺の顔とかタイプなの?」
「まあ……それもあるな」
「うげっ……!」

二年ぶりに会ったときも、何週間か前にも、俺の顔を褒めてたけど本当だったのかよ。慶の視線にも嘘はないし、こういうときサイドエフェクトが無ければ冗談にとれていたのにって思う。

「お、俺は慶とか全然タイプじゃない、タイプなのは出水くんとかだし」
「へえーウチの出水ねー」
「つ、次に迅とかだし」
「ふーん」
「慶とか、慶とか、」
「俺とか?」
「、うっ」

慶は相も変わらずニヤニヤと俺がキョドっている姿を見ながら顎を掴んだまま少し角度を傾けて、これからキスでもしそうな雰囲気で目を細め、俺を見下ろす。

「、け、けいっ、」
「んー?」

恥ずかしさとかよりも純粋な焦りで自分の目に涙の膜が張り出したのを感じながら掠れた視界で至近距離の慶の名前を呼ぶと、余裕ぶっこいた慶の言葉が返ってきて、俺は思わず慶の首に回していた手を緩め慶の胸を押す。

「離れ、ましょ? な?」
「……昔みたいに負けを認めたらな」
「やっぱりか……!」

ニヤリと笑ってそう言う慶はむかしから人に敗けを認めさせるのが好きで、前までは剣道やってるからかななんて思っていたけど今考えてみたらただの負けず嫌いでそういう性格なだけだった。腕相撲ひとつでもどっちかが敗けを認めるまで続け、こうやって嫌なちょっかいを出してくるときも俺が鬱陶しがって敗けを認めるまでちょっかいをやめてくれなかったし、俺も慶に対しては対抗心があったからか同じような負けず嫌いの気があったので、勝負事はいつからか自然と『負けた』と口に出すまでこうやって張り合うのが暗黙の了解となっていた。
まあ大体俺が負けてた。だからと言っちゃなんだけど、成長した今、久々の張り合いで負けたくないっていうのは結構ある。

「、負けたくねえ!」
「おお、正直になったなー」

昔なら『うるさい』とか言って誤魔化していたからか、何故か成長した子供を見守る保護者のような目で俺を見つめてくるので思わずイラッとする。

「、コレさほんとにアレしちゃわね?」
「アレ?」
「キス」
「…………嫌なら敗けを認めろ」
「、く」

俺の顎を掴んでいるのとは逆の手で俺の顔にかかった髪の毛を耳にかけだした慶の行動に寒気を感じながら、慶も限界が近づいてきていると信じて慶の胸に置いていた手を慶の腰に回す。
ほら、慶の口角もひくついた。

「お前だって俺とキスなんてしたくないよな? だから負けろ」
「だーれが負けるって?」
「、慶だ」
「おまえだ」
「慶」
「名前」

この姿勢に不釣り合いな俺達の表情に突っ込んでくれる人も居ないまま、俺達は見つめあう。

「…………」
「…………」
「、あーなんか、マジでイケる気がしてきた」
「ちょ、は?」
「だっておまえ、可愛いもんな」
「ふ、ふざけ」

すると均衡した状況に飽きてきたのか慶はいきなり据わった目をしだしたかと思うと、顎を掴んでいた手を俺の頭の後ろに回し、反対の手で俺の腰をつかんで引き寄せた。

「ままままま、まって!」
「お前の顔がタイプだって思い込んでたら俺イケる気してきたわ、よーし」
「い、イケないから!」
「ん? お前も俺のこと嫌いじゃないくせに」
「っ、…………あ、や、ごめんごめんって!」

必死に謝る俺の髪をくしゃりと優しく掴みながら鼻と鼻が付きそうなくらいの近さで慶が笑う。

「……言葉が違うだろ」
「、っ!」

その死刑宣告のような言葉に俺が泣きそうになりながら謝っているのにも関わらず、その俺の顔を見た慶は何故か悪ふざけの精神を助長し出す。
そして一旦顔を離すと俺の髪をくいっと下に引っ張って上を向かせて、ついに首筋に唇を落とした。それに対して俺が「、んん、」と小さく唸ってそのくすぐったい感覚に身をよじると、その反応を見越した慶が少し嬉しそうに俺を抱き締めて俺の小さな抵抗を防ぐ。

「、んんー!?」
「…………っ」
「ちょ、ふざけん」

すると俺の声にいたずらっ子の本性を現した慶は、いきなりその唇を落としたところに思いっきり吸い付いた。その仕返しとその痛みと驚きを吐き出すために俺がわざと抱き締め返すように慶の背中にがりっ、と爪を立てると、首もとからくぐもった声で反応した慶の声が聞こえて思わず鼻で笑う。すると反撃するように俺の言葉の後何秒かしてから慶がちゅ、とわざとらしく音をたてながら唇を離しその場所をペロリ、といやらしく舐めてきて、俺は思わずバッと慶の背中に回していた手を離した。

「、なめ、んなよっ」
「いってーな、お前こそ爪たてんなよ」

いてて、と俺が爪を立てた背中の箇所に手を伸ばして擦る慶の姿に、俺は首筋に残った痛みと生ぬるい舌の感覚を思い出して、思わず後退りする。

「へ、へんたい! バーカ、変態!」
「おっと? 泣いちゃうか?」

昔のように俺をおちょくる台詞を言ってくる慶にマジで泣きそうになってくるが、そんなことよりも何となくヤり捨てられたような感覚に陥った俺は居たたまれなくなった。

「もう、帰る」
「…………お、おい?」

戸惑ったような慶の声に少し胸がスカッとしたけれど、その自分の反応すらイラッときたので無意識に回れ右をしてからバンッと扉を開け、部屋から逃げ出しながらまるで小さい頃に戻ったように涙目で叫ぶ。


「、俺の『負け』だ! ばーか! 絶交だボケ!」


               ◇◆


「……何かあったのか?」
「、じん、おまえマジで許さない、色んな意味で」
「え、やだよ八つ当たりとか」
「八つ当たりじゃないし…………」 

あの後鞄を引っ付かんでから慶の私室を飛び出して、取り敢えずこんがらがった頭のなかに浮かんだ迅の存在を頼りに玉狛に来てみたはいいけれど、自分の首筋がどうなっているのか見なくても分かっていたので、誰にも会わないように気を張りながら玉狛支部の屋上にたどり着いた。てか、あんなにも迅に問い詰めたい気持ちで一杯だったのに、いまはもう迅がここに来たらラッキー、来なかったらまた明日にでも聞けばいいや、なんて思っていた。けれど、迅が屋上の扉を開けて開口一番「ここに居たんだ」と俺の背中に向けて言ってきたので、迅も俺を探していたことを悟る。

「あれ……怒ってる?」

屋上縁の低い塀に体育座りでうずくまって俯いている俺の隣に立った迅の声色に、何となく気遣う色が見えて「いや」と短く返す。
クソっ、本当はB級でもチームは必須じゃないってことを隠されていたこととか、慶に俺をB級に上げさせるなって言っていたこととか色々聞きたいのに、俺の頭のなかに出てくるのが至近距離の慶のにやつき顔で、それに邪魔されて上手く言葉が返せない。
一発くらい殴ってから負け宣言すればよかった。誰だよ泣きながら負け宣言したのは。絶交って、この歳でかよ。

「名字くーん?」

俺の反応が本気で違うことに気が付いたのか、迅が『疑問』の視線を向けて俺の方に近付いてきたのを感じる。

「き、にしない、いい」
「き……木?」
「いや、その、気にすんなってこと」
「あぁ…………」
「そう、気にしなくていい。少し許せないだけ」
「それは気にしなくていいことなのか?」
「いい」

出来ればこのままの格好で会話してくれないかなあ、なんて安直にも思っていると、迅が俺の隣に座り込んだ音がして思わず肩を揺らす。
そして迅はその俺の反応を見たのか、俺に『困惑』の視線を向けてからいやに小さく呟いた。

「……ごめん、未来視ても何で名字がそうなってるのか分かんないっぽいや」

その迅から放たれた謝罪の言葉が何となく聞きたくなくて、けれどそれを引き出させてしまったのは他ならない俺の態度なので、俺はガバッと足の間から顔を上げて隣の迅を見つめると、迅は驚いたように俺を見つめていた。

「……今の、」
「おっ、やっとこっち見たな」
「、…………おー、ごめん」
「ん? なにが?」
「あーいやなんでもない」

顔を上げて見た迅の顔はさっきの声色とは違って何時もと変わらないように思え、それが何だか迅の本心を隠しているゆえの違和感のようにも思えて少し心が陰りそうになったけれど、そこをぐっと抑えて言葉を放つ。寂しさを感じるほど長く一緒に居るわけでもあるまいに。

「ああえっと、おかえり」
「…………あー、そっちか」
「?」
「、いや、」

自分でも無意識に出た言葉に迅も驚いたように目を見開いたかと思うと、苦笑いしながら意図的に目を隠して「ただいま」と返してきた。あーあ、俺のサイドエフェクト防止されちゃってるよ。

「……不意打ちで照れてんだ?」
「照れてない」
「じゃあこっち見て」
「…………なんか、おれが居ない内に名字が変になった」
「は、?」
「それに嫌な噂流れてるし、不安は的中だし」
「ん? うん、まあ?」
「名字はあれで良いわけ?」
「…………別に何だっていいよ、俺の印象なんか」
「、ほら……」

隣で片膝立てながら目を覆ってる奴がなんだか何かを企んでいるような声色で相づちを打ったことに一瞬嫌な予感を感じる。
てか、はたから見れば多分俺よりお前の方がおかしいと思うし、久々に会って「おかえり」って挨拶したくらいで其処まで照れるところもおかしい。未来が予想通りに運ばなかったから驚いているのか?
どちらにしても迅が自分から俺の方を向かないと話が始まらないので、ジーっと膝に顎を乗っけながら迅を見つめていると、迅は手のひらの隙間から俺をちらっと見てため息を吐いた。

「名字のせいで、今からの未来変わった」
「それはいい方向に?」
「まあ、…………少しは話しやすくはなったかもしれないな」
「迅が、?」
「そ、おれが」

ならいいじゃん、と迅の言葉に短く返せば、それを受けた迅が少し悲しそうに笑った気がしたけれど、何となく、その表情をさせたのが俺だと思うとちょっとここから逃げ出したい気持ちになった。
本当に変だ。遠征で何があったのか知らないが、行く前にも不安がっていたし、こうやって帰ってきても妙に感傷的な表情とか言葉選びをしてくる。
というか、話しやすくなったっていうことは今から話しづらいことを言うつもりなのか。

「で、俺になにか言うことは? ないなら、俺から聞いてやろうか?」
「…………、きっとこれからも名字のこととかで疲れるだろうから、後者で」

遠征から帰ってきてから初めて顔を合わせたのが今だっていうのに、まるで今より前から俺のことで何か迷惑かけられたみたいな言い方をされて思わず首を捻る。って俺は今からも迷惑かけるのか。

「それについては触れた方がいいのか?」
「いや、いずれ………てか今から分かると思う」
「…………じゃあ、無視な」
「頼んます」

疲れたから、と言いながらも全くそうは感じさせない態度で笑う迅に「そういうとこは遠征とか関係なく変わらねえな」とおもいながら俺は胡座をかき、まず忍田本部長と話したこととさっき慶の視線から読み取った迅の言葉を総合して考えだした結論を端的に述べる。

「つまりさ、」
「うん」
「迅は今も俺をB級に上がらせたくないし、初対面の時点でも上がらせたくなかったってことでオッケー?」
「…………まあ、そうだな」
「ふうん?」

ずいぶんアッサリと認める迅の反応に、ここら辺の未来は変わってないのかもしれないなあなんて漠然と思う。
理由はなに、と片膝を立てて市街地の遠くを見つめる迅の横顔に問い詰めるような声色で尋ねると、迅は少し躊躇したように口を閉じてから、またいつもの飄々とした態度で俺を見つめる。
その迅の髪がゆらゆらと風に揺れ、その光景を何故か凝視してしまいそうになった。

「C級の名字が誰かを守ってる未来が視えてるんだ」

え? それは知ってる。
誰かっていうのは迅とか玉狛の人とか、本部のボーダー関連の人とか、孤児院の子供たちとカズエさん、ということだろうか。あ、それとも初対面の日に言ってた市民たちのこと?

「B級に上がったら守れなくてC級だったら守れるっていうのは、?」
「……そういう未来しか視えない、」
「?」

そう言って迅は後ろについていた手で頬をかき、真っ直ぐ今度は目を隠すことなく俺を見つめる。

「いつか名字は誰かを守るときがくる。それが誰なのか今の段階じゃ分からないけど、その日の名字の隊服がC級なんだ」
「…………B級のは、視えてない?」
「今のところ視てない。可能性は無限大だからな、もしかしたらB級に上がっても同じことなのかもしれないけど」
「……………………けど、それは仮定の話だって?」
「初対面の時点で名字のそういう未来が視えてたから、おれはB級の未来の可能性を意図的に伝えなかった」

C級なら確実に誰かを守ることが出来て、B級に上がるとその未来が変わらないかもしれないし変わるかもしれないという不明瞭な未来になってしまう、ということか。ん、だから初対面の時B級にはチームであることが必須であると思っていた俺の知識をわざと訂正しなかったんだな。B級に上がらせないために。

「それに、B級になるとボーダーのホームページに名前が公開されるから、名字はそういう意味でもよくない環境になるだろ?」
「なるほど、そうなんだ」
「というか初対面の時、防衛任務のことを名字が了承する未来は見えていなかったからスムーズにC級で居てくれると思ってたのにさ」
「…………、未来悪い方に変わってたのか?」
「いや変わったっていうか、一割くらいの確率でしか行かない方に行かれたって感じだな。そういうのが名字が関わると多すぎて困る」

自分の髪をかきあげながら真面目な顔をする迅に俺も初対面の時を思い出す。
確かに、もしあの時俺が防衛任務のことを了承しなければ今俺がB級に上がることは損になるから俺の頭にB級にあがりたという思いが生まれることはない。

「けど、防衛任務を了承してもらわないとブラックトリガーの使用は認められなかったんだろ?」
「……防衛任務を妥協されなくても五分五分だったんだよ」
「……つまり余計な妥協だったのか」
「いや、確率が半分からほぼ十割の交渉になったから俺的には良かったんだ」


だからそんとき止めてくれなかったのかよ。


「…………あの時点で俺が孤児院を優先する人間だってわかってて、防衛任務を妥協させたのか?」
「……そうなるな」
「、肯定してんじゃねえよ」

そう少し被せるように言葉を紡いだ俺の顔を見つめる迅に、俺は居たたまれなくなって視線を逸らす。
バカか、そこまで迅が配慮してくれるのが当たり前とか思ってんじゃねえよ。信じてみようと決めた手前裏切られたような気分になってるのは、単に俺のエゴ。

「わるい、今のは本当に俺の八つ当たり。防衛任務を妥協したのは俺の失敗、迅は未来を見て確率の良い方を選んだだけで何も悪くない」
「……………」
「でも、俺にそのこと隠してたよな、信じてって言ってきたのに」
「………………騙したって言われても仕方ないと思ってる」
「じゃあ……………騙されたって言う」

あのとき本部の屋上で俺が役割の話をしたとき『負い目』の視線を向けてきたのも、それに対しての謝罪か。俺の役割への決意を知ってて情報をわざと隠したことへの。

「でもまあ俺が無知で馬鹿すぎたってことだろ、結局」
「、それはボーダー入隊初日だから仕方ないだろ、」
「……………、」
「……………」
「…………話を戻すか」

はあ、とため息をついて少し作り笑いをしながら視線を迅に戻すと、迅は感情の読めない表情のままずっと地面を見つめていた。何を考えているのだろう。もし後悔していたり悲しくなっているのなら、それは多分俺のせいなんだろうな。

「一応聞くけど、俺が誰かを助けるためにブラックトリガーを使うとき、ボーダー本部に承認されないで使ってしまったらどうなってた……?」
「名字が、かなり高い確率で死ぬ」
「…………は? 市民は?」
「それは申請とは関係ない」
「……………ああ」

よくよく思い出してみれば申請のときに言っていたのは俺の死を避けるためっていうのと、C級のままブラックトリガーを使えるようにするためっていうことしか言われてなかった。

「え、いやでも、俺はブラックトリガーで誰かを助けるんだろ? だからブラックトリガーを使うために申請したんじゃ…………」
「…………つまり申請しようがしまいが、C級の名字は誰かの為にブラックトリガーを使うってことだよ」
「…………ってことは、え? 申請したのは、俺が死なないようにするためだけってこと?」



冗談だろ?


「そうじゃないと、初対面のときにおれが名字の死ぬ姿を視るのはおかしい。申請する前の名字の未来も今視える名字の未来も、市民を守りつつ誰かのために死んでる」
「、意味わかんないし、ちょっと、待て」

ってことは俺は結果的に孤児院のみんなより市民とか自分の命
を優先したってことになるのか。




「なんだそれ、」

怒濤のように流れ込んでくる情報に俺は思考を停止させたくなる自分を圧し殺して頭を回転させる。けれどやっぱり、自分のやって来たことが、迅を信じてやって来たことが俺の役割の為になることじゃなくて、自分が死なないようにするための努力だったって…………笑えない。
俺はそんなもののために努力してきたんじゃない。




「…………、分かってるんだろ」
「っはあ?」

俺の呟きを聞いた迅が、下を向いたまま苛立ったように返してきたので俺も思わずまた八つ当たりでキツい返事をしてしまう。

「おれは名字がそのブラックトリガーの人の代わりになろうと頑張ってるのを知ってて、防衛任務のことを隠したりB級に上がらせないよう根回しした」
「…………だからなんでって聞いてるじゃん」
「そんなの、死んでほしくないからだろ」

そうぽつりと呟いて顔に陰りを落とす迅の表情を、俺は黙って正面から見つめる


「……………おれが名字をC級にとどめるってことは、死ぬかもしれない未来へ向かうことを勧めてるってことだ。今ここでB級に上げさせれば何か変わるかもしれないのに」
「…………それはC級だと確実に市民が助かるんだからだろ。それに、ホームページのことも含めてそのほうが都合がいいって言ってたろ」
「わかってる。だから、おれはC級のままにさせながら市民も名字も生かそうと必死に動いてる。未来を変えたいと思ってる」

俺が死ぬ未来が分かってて見て見ぬふりが出来なかったのなら、確かにこうするしかないんだろうけど…………それでも俺のためにそんな風に思う必要ないのに。もっと迅にはやらなきゃいけないことがあるだろうに。
その迅の気まずそうな表情で大体言いたいことは分かったけれど、ここで俺が口を挟むのも迅の決意を蔑ろにしてしまうように感じたので、大人しく迅の言葉を待つ。

「………死んだら誰も助けられなくなるし、なにもできない。後悔すらできない」
「…………」
「残された方はどんな理由であっても、苦しいものだって知ってるだろ」
「、ああ」

泣きそうでもなく辛そうでもなく、ただ単純に無表情で達観したように俺を見つめてくる迅が今何を思い出しているのか知りたくなったけれど、それを読み取ったら俺は泣いてしまいそうな気がして、思わず誤魔化すように相槌をうつ。

「名字の意思や孤児院への役割を潰すことで死ぬ可能性が低くなるなら、どう考えたって名字を騙す方を選ぶ」
「…………、」
「それが名字の迷惑になることもわかってても、見殺しになんてできる筈がない」

なんだよ、それ。
初対面のときから、俺の未来が視えたときから、俺のことを俺の代わりに考えてくれてたのかよ。
俺がアキちゃんの代わりに生きようと必死になってたところに現れて、迅が俺の代わりに俺のことを生かそうとしてくれてたのか? なんだそりゃ。

「おれは名字に死んでほしくなんかない、そんなの当たり前だろ。だからブラックトリガーの申請を名字を騙してまでしてもらった。生きてほしくて、」

そう言うと迅はぎゅっ、と膝の上に置いてある手の指先が白くなるまで握り締め、ずっと俺へ向けていた視線をついに下に落とす。今まで申し訳ないという視線ばかり送られてきていたけれど、今も同じようにそう思ってるんだろうか。

「初対面の時から名字は自分の命を軽く見てるように思えた。さっきだって簡単に自分の死を考えてたし、他人事のように言ってたろ」

そりゃ俺の人生はアキちゃんの代わりだと思ってるし、アキちゃんに頼まれた役割を果たすために生きているだけだからそうなるのは当たり前だ。その役割を果たすためにも長生きはしなければいけないとは思っているが、俺の死因が誰かを助けることならそれはそれで役割を果たすことになるかなと思っていた。アキちゃんなら、きっとそうするから。もし同じ状況で市民と孤児院のみんなのどちらかしか助けられないって言われたらアキちゃんも俺も、孤児院のみんなを選ぶに決まっている。
けれど迅の視えている未来のように、天秤にかけるわけでもなくただ単純にもし、孤児院の子でない誰かを助けると自分が死ぬのなら…………そのあと孤児院を誰が守るんだろう。

「…………死んだら、もう孤児院の子を守れないんだ」
「、わかってる」
「分かってない。なあなあにするな、考えろ。名字が守るべきは孤児院の皆を守れる自分だ。自分の命があって初めて誰かを守れるんだ」
「…………、俺自身を守る、?」

俺が死ぬときに助けるというのが孤児院の子じゃないとき、俺はアキちゃんから与えられた役割を守ることになるのだろうか。アキちゃんが守れと言ったのは孤児院のみんなのこと、でも、だからといってその孤児院の皆じゃない誰かを見殺しにするのも馬鹿げた判断だ。
じゃあ、俺は死ぬことなくその未来の人を助けるしかない。

「だからおれは、名字に"死にたくない"って思わせようとしてた。C級でいながらボーダーに知り合いが増えたり、友達ができたり、再会したり、そうしたら名字が無理しないんじゃないかって」
「…………増えたし、できたし、再会したな」
「、でも、何日たっても消えない。名字の終わりは変わらない。防衛任務まで妥協させた上に名字の役割への観念を潰して信頼を裏切って…………、なのにおれは結局何も出来てない、未来が視えてたってこのザマだ」

自分を責めるようにそう言うと、迅は小さく溜め息を吐きながら自虐的な笑みを浮かべて表情を隠すように遠くを見た。
未来視のプレッシャー、責任感、使命感、色んな重圧が迅の人生には付加されていて、しかも今は俺の未来のせいでその重圧に押し潰されようとしている。

「迅、」
「おれ、今名字に甘えてんだ…………」
「甘え?」
「…………次に名字がおれに言う言葉、わかってるんだ。おれはその言葉に、救われる、」
「? 救わ、れる?」

俺が今純粋に思っているのは『迅にたいしての謝罪』。
こんなに俺の死を背負ってくれてるとは考えていなかった。
それは迅の言うように俺が自分のことを軽く見ているからかもしれないけれど、俺はサイドエフェクトがあるのに、迅が考えてくれていることに気づけなかった。迅が目の前の人間の未来を見れるなら、俺がもっと日常的にサイドエフェクトを意識して使っていれば、ひょんな時『やっぱり変わらない』とか『死ぬ未来が消えない』とかいう視線を読み取れたのかもしれないのに。俺は自分の役割のことばかり考えて視野が狭くなってて、迅のことも、役割の本質も考えられてなかった。だから謝りたい、俺が無知だったからお前に俺のこと考えさせてばっかりでごめんって。周りばっかり見ててお前を見てやれなくてごめんって。
けれど、これを言ったら迅が救われてしまう、というのも何となく理解できる。
だったらお礼は? 俺が自分の命を考えてない代わりに、俺の命を考えてくれてありがとうっていうのも、迅は救われてしまうのか?


って、え、




「なんでだよ、…………救われろよ、お前」
「……、」

俺が無意識のうちにポツリと紡いだ言葉に、迅は顔をあげ瞠目して俺を『予想外』の視線で見つめてくる。
んん? もしかして、未来が確率の低いほうに変わった? 無意識だったから? それとも俺が迅から未来を聞いてから行動したから?

「俺は迅の思惑通り、迅のことも勿論ボーダーで知り合った人も大切だから『死にたくない』っていうのとは違うけど『死なせたくない』って人は、増えたよ」
「………逆効果だったか」
「それは…………違わないけど、違う。でも結局俺は騙されても、役割を見て見ぬふりされても、それは俺のせいで俺のためなんだろ」
「、名字の未来はまだ良い方に転がってないし、おれだけが救われるなんて不公平だろ」
「? いや、俺が救われてないのは俺のせいでさ、」

意地でも自分を責める迅の態度に俺はしびれを切らして迅の握り締められていた手を自分の両手で包みこみ、俺よりも少し高い体温の手を握ってやると、迅は俺の言葉に眉をしかめて何かに堪えるような表情のまま俺を見つめた。


「お前が救われちゃいけない理由にならないだろ」
「、…………」
「それに…………お前が俺を騙したのは俺を生かそうとしてくれたから、しかも俺が背負うべきことも背負ってくれてて、俺が考えるべきことも代わりに考えてくれてたから。だからごめんな、ありがとうって思うほど救われてるぞ」
「…………それ、…………今言う?」
「…………防衛任務のときはどちらかというと悪い方だったけど、今回は良い方に未来を覆せた気がする」

迅の手をきゅっ、と掴んで俺の方に引っ張れば、迅はパチパチと瞬きを繰り返して再度俺を見つめる。
そしてなんとなく、今の迅が何だか子供みたいだなと思った。
いや、俺も迅も子供だけど、何故か幼く見えた気がした。

「きっと、これからも覆してみせるよ、お前が視るわるい未来を『市民を助けて俺も死なない未来』にさ……その時が来るまでわかんねえし」
「…………そう、だな」
「大丈夫、安心して。ほら前も言ったじゃんか、




俺を信じろって」

迅の手をパッと離してにやっと笑ってやると、迅は少し目を見開いてから「ははっ、」とつられるように笑った。






「はははっ、そういうとこ好きだなあ」

迅はそう言うと腹を抱えて一通り笑い、はーあ、と一息ついてから心を切り替えたようにいつもの飄々とした雰囲気で塀から下りて立ち上がる。

「本当に好きだから、」
「はいはい、もう今度から騙したりしないで全部言えよな」
「わかってる…………もう、失望させたくないからな」
「俺ももう、お前に心配かけたりしないように頑張る。俺は死なない! よし!」
「、なんだそれ」

心に余裕が出てきたのか珍しく微笑む迅を見つめながら俺も塀から下ると、迅は俺をじっと見つめてからチラッと視線を下げ、苦笑いするように口角をさげた。ん?

「というか、はじめっから気になってたんだけど…………これなに?」
「これって…………あ」

いきなり俺の首筋に手を伸ばして、つつー、と指を這わせてくる迅の言葉に一瞬なにを言ってるんだと思ったが、すぐに何を指しているのかを思い出して瞬時に手でそこを隠す。

「こ、これは…………勝負に負けたんだよ」

その跡を付けられたときのことを思い出してサッと視線を逸らすと、視界の端で迅が少し眉を寄せて俺を見た。
迅相手とか関係なく、友人に対して男につけられたキスマークだなんて言えるはずもないのでその迅の『疑い』の視線を受けながら次に発せられる言葉を待つ。

「勝負? なんの勝負?」
「あー…………? なんだっけ、忘れた」

思い出す過程で慶の余裕ぶっこいた顔が思い出されて少しいらっときたけれど、本当になにが原因で勝負になったのか分からなくて、思わず怒りもどっかに行ってしまう。
え、なんだっけ。なんか流れでそうなったような?

「……………負けたんだ」
「ま、まあな」

ぐさり、と俺の心に迅が問い掛けてきた言葉が突き刺さったが、それに全く気付いていないらしい迅は「へえ」と何かを思い付いたかのように笑うと、俺の腕を掴む。




「おれも名字に負けた気分だから、付けてよ、ソレ」
「…………バカなの?」

何処かにネジ吹っ飛ばしたのかと問いたくなるような迅の思い付きに思わず純粋に疑問を覚えてしまったが、当人の迅に「バカでいいから、ほらほら」と言いながらくいっと腕を引かれ、縮まった迅との距離に我に返らせられる。

「ほ、ほんとに言ってる?」
「ホント」
「真面目に?」
「大真面目」

迅は俺の問いにそう答えると反対の腕で俺の腰を掴み、身体を密着させてから俺がキスマークを付けやすいようにと横を向いて少し首を傾けると、横目で『早く』と簡潔な視線を送って俺を急かしてきた。コイツ…………俺にあざといとか言っといて、迅も充分あざといじゃん。俺のサイドエフェクトを有効に使いやがって。
その迅の流し目がいやに様になっていたのと、何となくここまで迅がしてくるのが珍しかったので俺は迅の誘いに応えるためありったけの勇気をかき集め、恐る恐る迅の青いジャケットを少しはだけさせる。そして、露になった白い首筋に躊躇いながら唇を落とす。

「、くすぐったい」
「…………」

まるで情事を始める前の女みたいな迅の反応と変にかすれた声に少し焦りを抱いた俺はちぅ、となるべく薄いソレを付けようと加減するように吸い付くが、それを悟った迅が「付かなかったらもっかいしろよ」とか脅してきたので、もう一度口を離してから今度は濃いソレを付けるつもりで吸い付く。

「、うー」

慶にやられたときの俺のように迅が俺の背中にきゅっ、と手を回す。
ば、ばかか俺は…………きゅん、とかするなよこの状況で。
俺の制服を握り締めてくる迅に嫌な感覚がゾワゾワと這い上がってきたので、俺は口を離して迅の首筋に赤い鬱血が出来たのを確認してからべろ、とそこに付着した自分の唾液を舐めとる。
んあ、慶もこれをやったのか。

「うわ、今のなんか変態みたい」
「だ、ま、れ」

にやっと俺の顔の横で笑みを浮かべた迅のジャケットを乱暴に戻すと、迅も俺の制服から手を離して満足そうに俺を見つめ、話していたときとは正反対の表情で笑った。よかった。

「よしよし…………これでおれは少しの間自分を戒めることができる」
「…………それなんか、キモいよ」
「ひどいな」

そう言いながら変わらず嬉しそうに笑う迅に俺は調子を狂わせられながら、はぁ、と小さく息を吐く。
B級に上がれば市民が危険な目に遭って俺も生きられるかわからないし、C級に留まれば市民が助かって俺は死ぬかもしれない。そのことをどうでも良いと言ってしまったら今までしてきたことが無意味だと言えてしまうし、それに、迅のしてきてくれたことも無駄になる。だから俺はC級にとどまって、市民を確実に救い、俺も生きられるように努力することだけだ。

「迅」
「ん?」



「俺、C級のまま強くなるよ、死なないように」

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