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 馬鹿丁寧に折り畳まれた敷布団、換気のされている澄んだ空気、いつまでも埃の溜まらないタンス、過去の詰まった部屋。カズエさんがアキちゃんが死んだことを受け入れたうえでこうやって部屋を昔と変わらない状態にしているのは、忘れないためだと言っていた。人間は忘れる生き物で、どんな気持ちも風化させてしまうから、と。
アキちゃんが居なくなってから何度もこの部屋を訪れているのは俺とカズエさんだけで、子供たちは逆に入ろうとしない。現実を改めて受け入れるのが怖いのか、幼稚園組は単純に死がわかっていないのかもしれないけれど、あいつらにとってもアキちゃんという人間は簡単に忘れられるような存在じゃないのだ。そして俺は心が揺らいだときにアキちゃんの部屋へ入り浸り、たまにこうやって床に寝たりすると高い確率でアキちゃんの思い出が並べられた方の夢を見られるから、戒めという目的を達成する。
アキちゃんのように、生きなきゃと。

「…………今日も見そうだ」

ごろり、と冷たくて硬いフローリングの床に寝っ転がって天井を見上げると、カズエさんがいつも掃除し忘れているぶら下がった照明に埃が被っているのが見てとれる。そのまま横の方に視線をやると机に面した壁にコルクボードがかけられてあって、そこに孤児院のこどもたちの写真ばかり貼ってあるのを知っているし、俺達の写真があってもアキちゃんの写真が極端に少ないことも何度も見ているから知っている。

「アキちゃんは、いつも撮ってばかりだったからなあ」

誰にも聞こえないように掠れた小声でそう呟き、目を瞑って自分を客観視する。同じ孤児院に住み続けていた年上のお兄ちゃん、そのお兄ちゃんが死んでから何年も経つのに、未だそのお兄ちゃんの部屋に夜中出入りしてはぶつぶつと独り言を呟く高校生。痛すぎる、痛すぎるけれど、それは紛れもなく俺で、そんな痛い俺には必要な行為だった。

「…………三輪くんめ、」

今日の出来事で自分の今の状況と過去の記憶を同時に考えさせられるきっかけを作り出した人物の名前を呟いてため息を吐く。
近いうちに死ぬことを知りながら生きていくのはそんなに辛いことじゃない筈で、アキちゃんから与えられた役割を果たしたうえで死ねるのなら別に良いと思えていたのに、迅がそれを許さなかった。というかまだ俺が「死んだって構わない」と考えているんじゃないかと疑っている。玉狛支部の屋上で迅が俺の未来について詳しく話してくれた時から俺は未来を変えようと思えているし、死んでもいいなんて思っていない。
だから、迅がいつもボーダー内に俺の知り合いを増やそうと仕向けてくるは正直お節介だと思っている。
だって屋上で話した時点で俺は死んでもいいなんて思わないって決めてたのに未来は変わらなかった、つまりいくら知り合いが居たところで俺の大切なものが増えるだけで俺が誰かを救えて生き延びられるという未来には繋がらない。

「いや、知り合いは多い方が良いのかもしれないけど……」

アキちゃんはどんなことより俺達を優先していて、きっと言ってしまえば慶や自分自身よりも俺たちのことを優先してくれていた。だから俺はアキちゃんの代わりに生きるのなら今の俺もそうするべきなのに、現状はどんどんと優先するべき人が増え、孤児院まで手が回らなくなっていく気がしてきて、どんどんとアキちゃんから遠ざかっているようで俺は不安が募るばかりだ。
人のために生きるのなら、死ぬべきじゃない。
今の俺だって迅のおかげでそういう風に考えられるようになって、守りたい人が増えたならもっと強い意思を持って誰も彼も守れるような力をつければいい。だけど、それは言葉に表せるほど容易なことじゃない。役割を果たすということは、今さらだけれど難しいことだ。

「…………復讐、」

三輪くんの意思の強い視線を思い出しながらその時言われた単語を呟くと、どこか現実離れしているような気がしたが、きっと三輪くんには身近にあって当たり前の単語なんだろうなと考える。
どれだけの日々をその復讐のために費やしてきたのかとか、今のこの時間も恨みを風化させることなく復讐心を燃やしているのかとか、勝手に考えたって初対面を終えたばかりの人のことなんて分からないことだらけだけど、俺がソレに現実味のない感覚を覚えたということは復讐心とやらがないということだろうし、今思えば入隊式で訓練としてバムスターと戦ったときに黒い感情は湧かなかったのもそういうことかもしれない。
きっと復讐よりも俺にはやらなきゃならないことがあるからだろう。復讐のために憎しみを風化させず生きることも、俺のように役割を果たすために生きることも、どちらも器用に生きられるもんじゃない。命に代えてでも役割を果たす、なんて言ったら迅の厚意が無駄になるから考えないようにするけれど、その俺の知らない未来を考えても今は答えはでない。『〜だろうか』とか『〜かも』とか仮定の話が多すぎるから無意味に近しい思考だ。
確実に分かることだけを考えて、もう寝よう。明日は日曜だから午前中は孤児院にいられるけど、夕方からバイトだし。
そんなことを思いつつ、硬いフローリングで寝るのにも慣れているので自分の部屋から持ってきた掛け布団を体の上にかけて欠伸をひとつすると、タイミングが良いのか悪いのか頭の横に置いておいた携帯が着信音を鳴らし画面を光らせた。

「…………この時間に?」

寝っ転がりながら体を横に向けて携帯の画面を眩しさで細目になりながら見ると画面の端には零時の表示があり、中心にはクラスメイトの倉須の名前が表示されていて俺はハッとする。


そうだ、今日は三月八日だ。


その日付に気づいた俺は、かけたばかりの布団から勢いよく這い出て上半身を起こし、ばくばくとなる心臓に無意識に手を当ててから逆の手で繋いでいた充電器を引っこ抜いて電話に出る。

『…………"生きてる"?』
「、生きてる」
『そっか、良かった』

去年の三月七日と八日はどちらも平日だったからコイツの態度の変化に気付いて思い出していたけど、今年はたまたまどちらも週末に被ったし色々出来事があって思い出せなかった。俺から電話するべきだったのに。

「大丈夫?」
『…………俺は大丈夫』
「連絡しなくて悪い、」
『いいよ、いつも俺に付き合ってくれてんだし』

いつものおちゃらけた話し方ではなく、取り繕うこともしようとしていない声のトーンに自分の失敗の大きさを感じる。馬鹿か俺、自分のことより他人を考えろよ。迅から学んだばっかりだろ、自分のことより周りを見ろって。







三月八日は倉須にとって重要な日なのに。


「、…………お前いまどこ?」


小さい声で話す倉須の声より目立つごうごう、という音が携帯の向こう側から聞こえて身体に嫌な予感が走った俺が立ち上がりながら尋ねれば、倉須はその風らしき音に負けそうな声量で静かに『あの公園の裏手』と確かに呟いた。

「、馬鹿、さっさとそこ離れろ!」
『じゃあ…………俺は何処に居ればいいんだよ』
「っそんな言い方」
『…………ごめん』

何時もなら前日の夜から俺が連絡をとって"彼処"に行くことを引き留めてるから良かったけれど、今年は俺が連絡を取らなかったからアイツは枷が取れてあの場所に行ってしまった。馬鹿だ、俺もアイツも。
その弱々しい言葉に焦りを感じた俺はアキちゃんの部屋から飛び出て自室に戻り、椅子にかけておいたアウターを羽織って一階にある自室の窓から外へ飛び降りる。廊下を走ったら誰かに気付かれそうだし、窓を閉めとけば強盗とかも鍵が開いてるなんて思わないだろう。

「そこを離れて学校の前に来い!」
『…………』
「倉須! 聞いてるか!?」
『…………わかった』

倉須はそれだけ言うと一方的に電話を切った。
あの倉須が唯一過去から戻れなくなる日に、何で俺は自分のことなんか…………。
今更「たら」「れば」の話をしていても仕方ないと分かっていても後悔が途切れない自分に怒りを募らせながら学校へと全力疾走する。ここから学校への距離と、公園から学校への距離だと倉須の方が早く着くだろうから俺が走れば丁度同じくらいに学校へ着けるだろう。
胸が締め付けられる。
足をもっと早く回せ、早く倉須の顔を見なきゃ。
顔を見て安心してから謝って、説教しないと。



               ◆◇




「、倉須っ!」
「…………名字」

学校に辿り着くと校門前にある花壇にぼんやりと座っていた倉須が俺の名前を呼んで顔をこちらに向けるので、俺は走ったことで乱れた息を整えながら私服姿で座ったままの倉須に近付く。
薄暗い電灯に照らされた倉須の目がたまに見せる過去に囚われている目で、視線からもそういう思いが読み取れることに俺は舌打ちをする。

「てめー…………」

倉須の目の前に立ってそうそう自分の口から出てきた言葉に、違う、と言い聞かせて言葉を飲み込み、俺の顔をぼんやりと見上げる倉須の目を見つめ返しながら「…………ごめん」と言い直す。

「、何で謝ってんの?」
「…………お前を止めるのは俺の役目だったのに」

薄着で家を出たらしく小刻みに肩を震わせている倉須に自分のアウターを脱いで肩にかけさせ、自分を責めるために唇を噛み締めた。
くそ、ボーダーに入ってから遠くのものを見すぎた。アキちゃんの代わりにならなきゃって背負いすぎて未来ばっかり見てて、近くに居る奴の状態を忘れてしまっていた。やっぱりカズエさんの言うように人間ってのは忘れる生物で、俺は三輪くんのようにはなれないらしい。

「…………別に、名字は悪くない」

そう言って俺に隣へ座るよう促してくる倉須に俺は眉を下げて花壇へ腰を下ろす。許されたい訳でも救われたい訳でもない、俺は自分の過ちを責めて欲しいのに。只でさえコイツにはボーダー入隊について嘘をついているんだから。

「…………、名前ちゃん走ってきたのか」
「…………その呼び方やめろ」

そう言って汗で引っ付いた俺の髪を耳にかける倉須は毎年の三月八日と同じようにスキンシップが多い。元々背中に乗ってきたり触れてきたりスキンシップの激しい人間だけれど、この日は俺を"ある二人"と同じように扱うからか妙に優しく触れてくる。でもまあ、今考えたらコイツ含めてあの三人は全員スキンシップが激しかったな。

「…………何で彼処に行きたがるんだよ」

俺が噛み締めた下唇を傷がないか確認するかのように撫でる倉須に、俺は視線を逸らしながら尋ねる。
あの場所…………今も昔も人気が少なく雑草が生い茂っていて、今じゃ事件が二つあってから朝も昼も夜も誰も寄り付かない場所。尋ねなくたって何となく分かるけれど、いつもと違う今年のこの日だからこそキチンと倉須の口から聞きたくて言葉を待つ。
すると倉須は俺の顔から手を離して薄暗い電灯を見つめて口を開いた。


「…………消えたアイツらに会える気がして」

              
アイツら、つまりは消えた二人。
倉須の愛した二人。




中学一年の時、倉須の幼馴染みの女の子が消え、
中学三年の時に、もう一人の同じ幼馴染みの親友が消えた。
その二人と倉須は幼稚園からの付き合いであったが、その倉須の親友と幼馴染みの女の子は幼い頃から二人想い合い、『初恋は実らない』なんて言葉を覆すように中学入学と共に付き合い出し、約九年越しの想いからか二人の仲は深まるばかりで互いの両親ですら不思議がるほど上手くいっていた。俺も三人と同じ中学だったから顔馴染みくらいの関係ではあったけれど、親友はサッカー部の新エース、幼馴染みは美人ではなくても人に好かれる性格をしていて誰かの悩み相談をよく受けていた印象だった。
俺と倉須とは二年のときに同じクラスになってから仲良くなった。三人は別々のクラスだったからかそれぞれ友達をつくっていったし、一人は女の子だったこともあり多感な時期でずっとつるんでいることも難しくなったから。それでも三人の仲が悪くなったことはなかったらしいし、第三者の俺から見てもそんな素振りは一度だってない平和な日常だった。
けれどそんな平和をぶち壊すように幼馴染みの彼女はある日いつものように友達からの相談を受けた学校の帰り、


行方不明になった。


その事実に一番の悲しみを受けたのは傍目からみれば家族の次に倉須の親友…………彼女の彼氏で、その頃はボーダー本部なんてなかったから近界民の仕業だなんて誰も思わなかったけれど、その後に近界民による第一次近界民侵攻が起きてボーダー本部が発表されたときその親友と倉須は真っ先に彼女のことを思い出し、その彼女の彼氏である親友はボーダーに入隊した。いや、入隊してしまった。
親友はボーダーへ入隊して当時殆ど公開されていなかった近界民の情報を集めるためにボーダー活動に勤しみB級まで上がり、心の奥底で消えた彼女に恋をしていた倉須も同じく彼女の消えた現場や近くを回って現場検証したりあのときの状況を一人で再現してみたり色々奮闘していて、見兼ねた俺も聞き込みの手伝いをしたりしていた。もちろん、倉須の報われない恋心を遥か前から知りながら。
けれど近界民は、また倉須から大切なものを奪った。


そう、近界民が一年後の同じ日に親友をさらったのだ。


その時はボーダーが設立されていたこともあって自然の流れのように解析が行われた。結果近界民による仕業だということが判明し、皆はその事実に第一次近界民侵攻の恐怖の名残が消えていないからか怯え悲しみ、ボーダー本部の方々は口を揃えて『トリガーがあったはずなのに』と言っていた。それから倉須は家の中に塞ぎこんでしまい、今思い出しても後悔や深い悲しみに囚われていた倉須は女の子を失ったときよりもそうとう酷い有り様だった。何度も八つ当たりのような態度をとられたことがあるほどに。
そんな倉須を見続けてどうにかならないかと思った俺が倉須に気付かれないよう幼馴染み二人の事件を改めて調べ、あることに気づきいたのはその四ヶ月ほど後。俺が倉須に関わっていて三人の関係を知っていたから思ったことだった事実に皮肉を感じた。
そしてその気づきの根本となる要因が

倉須の親友が消えた現場が"倉須の幼馴染みが消えた現場も日にちも同じ"ということ。

つまり、ボーダー隊員でトリガーを与えられているにも関わらずこの事実が避けられなかったのは、その親友が"あの場で自分が近界民にさらわれたという痕跡を残せばあの彼女も近界民にさらわれたという確固たる結論が出る"と考えたからではないかということ。
倉須に対して親友が「俺たちの行動は無駄じゃなかった」と示す為に、わざとさらわれたのではないかと俺は考え、それを倉須に伝えた。少しでも前向きになってほしくて。けれど、その事実から倉須に与えられたのは『希望』なんかではなく『置いていかれた』という悲しみと辛さ、『なにも出来なかった』という後悔と罪悪感だけだった。

今は色々な人のおかげで学校に来て笑えるようになったけれど、この日が近付くに連れて倉須はその時の記憶が蘇り、近界民への恨み辛みよりも何かを失う怖さに怯え続ける。
過去に囚われているのは俺やカズエさんや三輪くんだけじゃなくてもっと俺の知らないところにたくさんいるに違いない。だけどコイツは俺の知っている範囲に居て、過去に囚われる原因を一部始終見てきているから支えてやるべきなのに。





「倉須は、あっちの世界に行きたいのか?」

この三月八日にあの場所へ行きたがるのがそういう意味としかとれない俺は倉須の目を見つめて恐る恐る尋ねる。倉須は薄暗い電灯を見つめているのかその向こう側を見つめているのか分からないけれど俺に視線を向けず、俺の黒いアウターに腕を通しながら「そうかも」と曖昧に返すと、花壇の煉瓦の縁に置いていた俺の手を握って指を絡めた。
まあ、そうだろうな。だから会えない今は、あのときあの好きな子に出来なかったことを俺にして、あの親友に言えなかったことを俺に言うんだろ。代わりだからって悲しんだりいじけたりしないし、そういうときの倉須の言葉も行動も甘んじて受け入れるけど、それを受け入れることが倉須を過去に縛り付けている原因になっているのではないかとたまに感じる。このままでいいのか、と。

「俺は行って欲しくない、」
「…………そうだよね」
「、そんな方法で行くくらいなら」
「…………行くくらいなら?」

ボーダーに入隊して遠征で行けよ、と言いたいけれど、機密事項を言ったら今でも危うい俺の立場がもっとヤバくなるので口をつぐむ。
俺はアキちゃんから聞いてたから知ってたけど、誰にも言わなかったのは口止めされてただけじゃなくて俺にとってどうでもいい話だったから話そうとしなかっただけ。俺が遠征のことを倉須に話したら、すぐに俺はボーダーから追い出されてしまうだろう。他人とか孤児院のみんなとか、身近な倉須を守ってやらなきゃならないって分かってるから、だから俺はボーダーに居なくちゃならないんだから。


「…………ボーダーになれよ」


だから、こうやって遠回しに言うしか術を知らない。


「ボーダー?」
「倉須がボーダー嫌いなのはわかる」


幼馴染みの女の子が消えたときのことは未だになんの成果も出せず、親友の方のことも結局分からずじまい。しかも親友はボーダーになっても変わらず新たな情報は得られなかったし、最終的にボーダー隊員のまま消えてしまったからこいつがボーダーになったら色々思い出して毎日こんな状態になりそうだなあとも思う。

「けどさ、このままじゃお前進めねえだろ」
「…………」
「ボーダーになればなんか分かるかもしんないし」
「、ああ」

きゅっ、と俺の手をにぎりながら俺の言葉に相槌をうつが、それに続けて「でもさ」と言いだして、俺は小さく息をはく。

「でも?」
「でも…………俺はもう、いいや」

今日初めて見るヘラリとした笑顔に俺は視線を逸らし、眉を寄せる。
倉須がこうやって俺に笑うのはあの二人の代わりが偶然俺だったということであって、別に俺じゃなくても誰か傍に居てくれる奴が居ればそれでいい。これは悲観してるんじゃなく、只の事実。だからもしも俺が偶然ここにいることで倉須を過去に縛っているんだとしたら、そこから解放させるのも俺がやるべきことかもしれない。

「…………お前が二人に会いたいって言ったんだろ」
「なに、嫉妬?」
「ふざけんな」
「ごめんて」

そう言いながらまたへらへらとだらしなく笑う倉須の表情に改めてホッとしながら今さらやって来た寒気に肩を竦める。気が緩んだからだろう。

「寒い、お前今日親は?」
「仕事で帰ってこない」
「じゃあ俺のところに泊まれよ」
「孤児院…………?」
「そうそう」

倉須とはもうすぐ五年の付き合いだけど、コイツは一度も孤児院に来たことがない。初対面の出水くんだって来たのに。

「寝る場所は?」
「俺のベッド使えよ」
「一緒に寝んの?」
「は?」
「え?」
「…………え? まあ、いいけど…………?」




            ◆◇



 靴を脱いでから窓に足をかける倉須の背中を見つめ、今さらコイツがやってのけた危険なことにぞわりと悪寒を覚える。時間帯は違うにしても、二人が消えたのと同じ日だ。もし俺があのまま寝ていて電話に気がつかなかったらとか、間に合わず本当に倉須が消えたら、とか考えるだけで気が狂いそうだ。
今日の俺は只でさえ落ち込んでいるというのに、自分のせいで誰かが"また"居なくなるなんて。

「名字?」
「、え、あ、あぁ」

ぐるぐると考え込んでいるといつの間にか倉須が無事に部屋へ入ったらしく、首をかしげて俺を見つめてきたので「よいしょ、」と勢いをつけて俺も同じように窓を乗り越えようと窓枠に足をかけると、倉須が「は!?」と今日一番でかい声を出してきたので睨み付けて「静かにしろよ」と小声で言う。

「いやだって、裸足じゃん……」
「、今さら?」

玄関から出ずにここから出てきたと話した時点で分かってもいいようなものだけど、コイツは基本的に馬鹿だし今日は一年で一番気の抜けている日でもあって俺の足元なんて見なかったんだろう。外も暗いし。
汚くなって歩く度に所々滲みるような痛みを感じるが、洗えば何とかなると思って「足洗ってくる」と告げれば、倉須は戸惑ったように返事をするとおもむろに俺のアウターを脱ぎ始めたので、俺は布の擦れる音を聞きながら後ろ手で扉を閉める。廊下をゆっくり歩きアキちゃんの部屋の前を通るとアキちゃん部屋の隙間から掛け布団が出ているのが見えて「帰りに回収しないとな」とぼんやり考える。洗面所にたどり着き、洗面台に片足を乗っけて水を出すと、足の裏が冷えきっていてよく分からないけれど滲みるような滲みないような曖昧な感覚に陥った。静かに洗面所に備え付けの電気を点けると泥や砂が流れた足の裏にいくつもの傷があるのに気付き痛みが少し襲ってきたけれど、特に問題もなかったので石鹸で反対の足も洗い水気を拭き取る。

「消毒とか居るのかな…………いや、いいか」

消毒とかしなくても寝れば何とかなるような気がしたし、消毒液が広間の方にあることも加味されて面倒になった俺は電気を消してからまた忍び足で廊下を渡り、アキちゃんの部屋の隙間から顔を覗かせたままの掛け布団を抜き取って扉を閉める。
すると視線を低くしたおかげで俺の部屋から点けた覚えのない電気の光が扉の下から漏れているのに気付き、ため息を吐いて自室のドアノブを回すとそこには湯気のたったティーカップを持った倉須がベッドの上に座っていて俺は思わず「あー…………」と呟いた。

「カズエさん、来たんだ」
「あの人がカズエさん? 優しいな」
「…………うん、まあ」

掛け布団を抱えていない方の手で扉を閉めながら机の上に置かれたもうひとつのティーカップとティーポットの存在に気付いて溜め息を吐く。俺が出ていってたことバレてたのか。まあ、あのときは焦ってたし。

「ていうか、足どうだった?」
「別に」
「…………ふうん」

そう小声で言うと倉須はさっきと同じようにベッドのとなりに座るよう促してくるので俺が仕方なく掛け布団をベッドに置くついでにそこに座ると、倉須は飲みかけの紅茶の入ったティーカップを俺に「はい」と差し出してくる。

「いや飲みかけの渡すなよ」
「こうでもしないと名字飲まないじゃん」
「…………もう、寝るし」
「暖まるよ?」

そう小声で言い続けて俺の口元までティーカップを近付けてくる倉須を横目で睨み付けてから仕方なく受け取ろうとすると、倉須はそれを避けてティーカップの縁を俺の唇にくっ付け、ぐいっと無理矢理飲ませようとしてくるので思わず目の前の手首を掴む。

「何してんの」
「飲ませてあげようかと」
「いら」
「いいから」
「…………いや、いら、んぐっ!」
「ハイハイ、」

まだほんのり熱い紅茶を他人に飲ませようとする辺りコイツ本当に調子が戻ってきたなあ、なんて思いながら容赦なく口の中に流し込まれる紅茶を飲み込み、さっき噛んだ下唇へ熱さという追い討ちとヒリヒリした痛みを与えられたことに眉を寄せる。その痛みに耐えていると隣で「良くできました」と倉須が自分の服の袖で俺の首筋に伝う紅茶を拭ってくるからイラっとくる。なんだコイツの回復、例年よりめっちゃ早いんだけど…………。
毎年電話より直接会った方がいいってことなのか?

「そして、どーん」
「、うわっ!」

ティーカップをいつの間に机においたのか手ぶらになった倉須が思いきり俺の両肩を押してベッドに俺を沈めると、そのままの流れで俺の足をつかんで足の裏を眺める。

「傷だらけ」
「見えんのか…………それだけのために押すなよ、でかい声出たじゃん」
「それは俺悪くない」
「っていうか離せ」
「これ消毒したの?」
「話聞けよ…………してないけどさ」

さっきから何がしたいのか分からない行動ばかり俺に向けてくる倉須にベッドに沈みながら呆れると、倉須は俺の呆れに気付いているくせに知らないふりをして「ふうん、」とまた小さく相槌をうつ。

「舐めてあげようか」
「はい?」
「イケメンの足舐めたら俺もイケメンになるかな」
「寝ろ」

両手でガシッと俺の足を掴む倉須の腹に捕まれてない方の足で蹴りを入れると「うえっ」とかいう気持ち悪い声を出して手を離したので、俺は立ち上がり、電気を消してからベッドに戻る。
そこには暗闇のなかでも分かるほど盛大に倉須がベッドを占領していたので何かを言うことすら面倒になった俺は無言で倉須を壁に追いやって自分が寝るスペースを確保し、絶対枕も取られるとわかっていたので予め引き寄せておくが、それに気がついた倉須がもぞもぞと布団の中に入って俺の足に自分の足を絡め「名字の足冷たいな」と言うと、枕の代わりに俺の腕を引っ張って遠慮なく枕にして頭を乗せてきた。

「おい、もう回復したならスキンシップやめなさい」
「……………けち」
「うざっ」

暗いといっても至近距離だと表情は見えるらしく、目の前で唇を尖らせる倉須が何となく子供っぽく見えたので仕方なく諦めて手を貸すことにする。こんなことをあの女の子と親友にやったりやられていたかと思うと自分の世界の狭さを思い知らされるよ全く。

「もう寝ろ」
「はーいお母さん」
「誰がお母さんだ」

そうふざけたように返事を返してくる倉須にやっと一息ついたような気持ちになった俺は「名字の首筋と俺の袖が紅茶の匂いする」とか何とか言って胸板にくっついてくる倉須を引き剥がすのも面倒になって瞼を下ろす。ここ最近誰かと寝る機会が多いなあなんて思いながらも、俺以外の体温がそんなに嫌じゃないのでアキちゃんの部屋で寝るより少し得した気分になりながら俺は眠りについた。


朝起きてベッドに倉須が居ないことに気付いて居間に行くと、子供たちと仲良くやっている倉須を見つけて俺が溜め息を吐くことになろうとは、想像もしないまま。

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