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 カズエさんが作ってくれた晩御飯のビーフシチューと、迅が居るからと張り切って作ったらしいサーモンマリネを広間にいた全員で平らげたと同じ時、後から外で遊んでいた小学生組のもう一人と中学生組が帰ってきて迅に挨拶した。そして迅が風呂に行ってからというものの、塁が迅のことを本人がいないからと「かっこいい! イケメン!」とはしゃいで煩いので、俺的には前につれてきた出水くんの方が好きだなあというと「あー、あのフライしか上げない人ね」と呟いた。なんだそれは、お前の好みの中心はバッティングセンスなのか。バッティングセンスは知らないけど、サイドエフェクトがあるからな。どこに球が来るか予想できるやつが打てないはずはないと思う。

「迅は野球強いんじゃないかな、多分」
「え!? やった! 好き!」
「はええよ」

カズエさんが三人分のビーフシチューを温めている間、俺は食卓机に居座ったまま先に風呂に入っている迅を待つ。

「てか、慶は?」
「慶ー?」

俺が慶の名前を出した途端嫌そうに唇を尖らせる塁に、勇が「剣道強いじゃん」と本人も居ないのにフォローした。すると外で遊ぶことを人生の糧にしてるんじゃないかと思えるくらいアクティブに遊び回る小学生組の一人である『翔』が、千恵と洋が遊んでいたブロックを広い集めながら「髭のやつ?」と尋ねてくるので、俺はそちらに視線を向けて頷く。

「それそれ、」
「アイツ、この前の野球のとき塁のこと『上手いな』ってほめてたよ」
「マジ!? 慶好き!」
「変わり身はええよ」

遊び回ったり少年団に入って人間関係を広げたり自分より年下の奴が二人も居るからか、少し苦労人の気がある翔らしい台詞に肩を竦めながら、俺のとなりで靴下を脱ぎながら叫ぶ塁に呆れる。
年上にもこんなのが居るしな…………あれ、俺は違うよね?

「ちょっと、翔くん」
「…………なに、きもいんだけど」
「キモいとか言わないでよ…………ちょっと来なさい」

拾った何色ものブロックをおもちゃ入れに投げ込んでから俺の声に煩わしそうに反応しながらも、駆け足で俺のもとに近寄ってくるところがかわいい翔は、俺の元に寄ると「なにさ」と言ってから横目で隣の塁に「靴下洗濯に入れろよ」と注意する。

「わかってますぅー」
「とかいって、いっつも入れないけどな」
「勇だって入れないじゃん!」
「入れてるから…………」

そんな会話を背後にして、目の前に来た翔の頭を撫でる。
小学生組は俺が頭を撫でるのを嫌がる傾向にあって、その筆頭ともいえる翔はやっぱり頭の上に乗っけた俺の手を払いのけるけど、実は一対一でいるときにやると全然抵抗しないし、振り払った今も少し申し訳なさそうな顔をするのを俺は知っている。

「なんだよ」
「迅の寝る布団運ぶの手伝って?」
「……いいけど、飯食ってからな」
「オッケーオッケー」

普通なら勇にでも頼むんだけれど、ここ最近部活が忙しくてご飯を食べ終わったらすぐに寝てしまうため次に年齢の高い翔に頼んだというわけだ。

「もう上がったかな」

タオルは新しいのを渡して着替えも俺のやつを貸してシャンプーがどれでボディーソープがどれかも説明したから順当にいけばとっくに上がっている筈だけど、もしかすると何か問題があったのかもしれない。
そんなことを考えていると丁度良くカズエさんが三人分のビーフシチューを運んできたので、俺は立ち上がって台所から三人分のサーモンマリネを運ぶついでに迅の様子を見に行こうと机に大皿のサーモンマリネを置いてから廊下へ出る。


窓からは月が雲に隠れて周りを照らすが廊下を照らすまでには至らないようで、電気をつけていないから奥のほうが暗闇で何も見えない。あ、暗闇っていう黒色は見えてるけど。

「そういえば…………」

その何処までも続いているような暗闇をじっと見つめていると、ぼんやりと迅が風呂に入る前に「おれが帰ってこなかったら、洋くん探して」と言っていたことを思い出し、今がその時なのかなあ、なんて考えて風呂の方へ向かおうとしていた意識を幼稚園組の部屋へと変更する。
ぺたぺた、と子供部屋が四つある二階への階段を上っていくと小学生組の部屋から光が漏れているだけで他の三つの部屋は真っ暗だ。まあ、そのうちの二部屋は下でご飯食ってる塁と勇の部屋だから真っ暗でないとおかしいんだけど。そろり、と差し足忍び足で目的の場所である幼稚園組の部屋に近寄り、ゆっくりとドアノブを捻ると暗闇の中にあるベッドが全て埋まっているのを確認する。

「…………迅くーん?」

寝息がいくつも聞こえることを配慮して小声で目的の人物を呼んでみると一番近くのベッドから片腕が上げられたのが見え、それが腕の長さ的に迅だと直感した俺は扉を開けたままそのベッドを覗き込み、迅と一緒に寝ているのが洋だと気づいて改めて迅の言葉を理解する。

「何してんの、こんなところで」

周りの子供達が起きないよう気を使って小声で訊ねれば、洋と向き合って寝っ転がって腕枕をしている迅が俺を見て暗闇の中で気まずそうに「あー、」と言ってから、もぞもぞとベッドから抜け出し、俺の隣へ立つと指先を扉の方へ向けてこの部屋から出ることを促す。その迅の仕草に頷いて迅の後ろについてゆっくり扉を閉めると、首を回しながら肩を揉む迅が「廊下で捕まったんだ」と苦笑いした。

「洋に?」
「そう。眠るまで音聞かせてーって」
「おお、なつかれてる」

相変わらずの暗闇なので迅がどんな表情をしてそれを言っているのか分からないけれど、視線ではそんなに嫌がってるわけでもないから取り敢えず安心しておく。

「迅の音が好きなんだな、あいつ」
「それを言われるとちょい恥ずかしいな」
「ふーん」
「…………名字は?」
「俺?」

じっと、俺を見つめてくる視線を感じながら、答えわかってんのに言わせるのかなあ、なんて思わず苦笑いする。けれどきっと、その俺の表情は暗闇で見えてないんだろうな。

「俺はこの前、音が変わったって言われたよ」
「…………前はどんな音なんだ?」
「なんだっけな、確か『ひとりだけの音』だったかな」
「へえ」


わかってたくせに。


「今は? 進化したか?」
「…………『まっすぐだけど、へんな音』だって」
「変って言われてんじゃん」

そう笑いながら言う迅の声に、俺はふん、と鼻を鳴らして言葉に応えることもなく階段を降りる。上ってきた時のような音を鳴らさないようにする歩き方ではなく、ただ自室に向かうために降りるだけの行為。

「あー…………怒った?」

後ろから同じように階段を降りる音を鳴らす迅が気まずそうな視線を俺の背中に向けながら言うので、俺は「そんなんで怒るかよ、」と溜め息混じりに返す。きっと迅は未来が視えてても目の前の人間の感情がはっきり分かるわけでもないし、さっきの未来が見えていたとしてもここが真っ暗で表情が見えないから俺の感情に不安を抱いたんだと思う。多分。
そのまま無言で廊下を歩き自室の扉を開けて電気をつけてから後ろを振り向いて、久しぶりに見る迅の顔に少し安心する。なぜだろう。

「、まだ髪濡れてんじゃん」

こんなんで洋の枕に頭乗っけてたのかよ、とか思いながら迅が部屋に入った後に扉を閉める。

「問答無用で引き込まれたからな」
「ドライヤー持ってくる」
「ああいや、後ででいいって」

そう言って迅は肩にかけていたタオルを頭の上に置いて俺の机を観察したり本棚をキョロキョロと見たり忙しない動きをする。なんなんだよ、初めてのところだからそういう反応するのはわかるけど、女の子の部屋でもそういうことしたら引かれるぞ。
俺のTシャツと膝に穴の空いたジャージを着ながら本棚から色々な本を引き抜いては表紙を見る作業をする迅に、やっぱり俺と背丈とか色々おなじなのかなあなんて思いながらクローゼットを開いて自分の着替えを出す。

「あ、これ」
「ん?」

下着とスウェットの上を掴んだところで後ろから迅が声をあげたので、振り向かずに声だけで反応を返す。あーそうだ、布団も持ってこないと。

「上巻だけ借りて読んだことある」
「ふうん、俺が風呂入ってる間下巻読んどけば?」
「そうだなー」

ぱたん、とクローゼットを閉めながらその下巻を既に読み出している迅に向けて一応そう言っておき、閉めたばかりの扉を開けて風呂へと向かう。
俺はあの小説読んでないけどな。




              ◆◇



 風呂からあがってドライヤーを持ちながら廊下を歩いていたら後ろから名前を呼ばれたので振り返ると、そこには有言実行というか、俺が頼みに行くよりも先に布団一式を持った翔と眠い目を擦って枕を抱いている塁が居て少し驚く。

「お前、ほんと偉いな翔。今度撫でてやろう」
「いらん」
「てか、何で塁?」
「迅さんにおやすみって言おうと思って」

俺の言葉に溜め息をはく翔と、眠そうにして不思議なこと言う塁の温度差に少し思考が止まりかけたが、結局俺を含めた三人が俺の部屋に向かえばそれでいいので翔の手から敷布団を受け取って掛け布団を翔に持たせる。
そして何となく自分の部屋だけどコンコンコン、と三回ノックしてみると、部屋の奥から「どーぞー」という迅の声が聞こえて少し面白くなる。俺の部屋なのに俺がノックして迅が返事をするっていう所が。
ガチャっとドアノブを捻って先に二人を部屋に入れると、翔は「こんばんは」と挨拶しながら床に掛け布団を置き、塁はさっきまでの眠そうな顔は何処に行ったんだと思えるような満開の笑顔で「迅さん!」と言って俺のベッドに座る迅に走りよっていった。
あいつ今年中二だよなあ…………?

「はい迅さん! まくら!」
「お、サンキュー」

本を読んでいた迅に向かって勢いよく枕を差し出す塁に「ちょっと落ち着けないのかあいつ…………」と呟くと、近くの翔が「無理でしょ」と呆れ顔で塁を見つめた。

「あのね、迅さん」
「どした?」

いきなり枕を渡したかと思えばいきなりモジモジしだした塁の変わりように俺と翔はポカーンとしているが、迅は余裕そうに反応を返すと塁の顔を覗き込む。すると塁は顔を真っ赤にしながら「お、おやすみなさい」と迅の目を見つめて呟き、迅も「おー、おやすみ」と言って笑った。

「「えっ…………」」

俺と翔のシンクロした言葉を他所に塁は嬉しそうにうへへ、と気持ち悪く笑うと、俺と翔をスルーして素早く部屋の外へと出ていったその颯爽とした走りに俺と翔は何も言えず暫く見つめあっていたが、俺が迅に「ちょっとタンマ」と言って扉から出て廊下へ行くと、何も言わなくても翔が後ろからついてきたので俺は扉の影にしゃがみこみコショコショと小声で話をする。

「え、ちょ、名前にい…………あれやばくない?」
「ヤバイ、あんなアイツ見たことない」
「……俺はしらないからね」
「待って、」
「あの人、名前にいの友達じゃん」
「そうだけど……一応同じ家族なんだからさ」
「…………そうだけどさあ、てか、面倒事増やさないでよ」
「え? だって俺アイツにどういう顔して会えばいいか分かんないよ?」
「…………アイツって、どれ?」
「そんなの"勇に決まってんじゃん"…………」
「だよねー……」

俺の答えに溜め息を吐きながら同意する翔に、俺はこれだけ頼れる小学六年生は他に居ないと改めて思う。

「でも広間で塁が迅さんのことほめてたときはふつう、だったよね」
「それは本気にしてなかったんだろ、後から慶の話とかしてても逆にフォローしてたし」
「そっか…………」

こんなにもここに居ない人のことを考えるのには訳があるが、それを知っているのは俺たち二人だけだったりする。
俺たちの会話を聞いていれば多分多くの人が何を言いたいかわかるだろうけれど簡単に言えば、勇は塁にお熱だ。それは、この俺を含めた孤児院の子供たちは二種類で分けられることが原因で、その二種類の内の一種類に俺と勇と翔は属しているのだ。

「何年越しの恋だよ…………七年? 八年?」
「そんくらいらしいね…………」

その二種類を分ける境界線は、物心がついた頃に孤児院に来たかそうでないかだ。俺たちじゃない方の塁とか幼稚園組は赤ん坊の頃からここに拾われ、俺たちは小学一年生くらいから捨てられてここにいる。
つまり今ここで重要なのは、俺たちは他の家族の記憶があるから……心の根底で無意識に孤児院のことを家族と思えないということだ。俺は血の繋がりは無くとも守るべき大切な家族だと認識しているけど、翔は今は孤児院が家族だと思ってはいても『でも、血の繋がりはないし』とかハッキリ思ってしまえる種類の方で、一方塁たちは心の奥底からここが家族だと認識している。
そして一番厄介なのが、勇。勇も俺たちと同じように他の家族の記憶を持ちながら孤児院を家族だと認識しているが、初めてこの孤児院に来たとき塁に一目惚れしてから……塁だけは違う目で見ているわけだ。

「…………取り敢えず俺たちは勇が気づくまで黙っていよう、塁も元々惚れっぽいから気が変わるかもしれないし」
「おっけ」

この事は多分カズエさんも知らないし、アキちゃんも知らなかったはず。
知っていたら『良くできましたのチュー』制度なんて作らないだろうし、アキちゃんも勇と塁の部屋を別々にするときに反対なんてしなかっただろう。これから起きるであろう面倒なことに肩を落としながら二人きりなのでいいかなあ、なんて思って頭を撫でてやると、翔は目を逸らしてから大人しく撫でられ続けるので、やっぱりかわいいやつだなあ、と思い立ち上がる。

「じゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」

秘密の密会を終えて扉を開けて部屋に入ると、いつの間に布団を敷いたのか迅はその上に寝っ転がって塁から貰った枕を顎置きにし、本を読み進めていた。

「髪まだ濡れてる?」
「うん、まあ少し」
「じゃあ乾かしてやる」
「…………なんだそれ、子供扱い?」

本に視線をやったまま呆れたように言う迅に「そうかも」と思いながらコードを繋いでぶおーん、と風を吐き出すドライヤーを手に持ち、迅の敷布団に胡座をかいて「迅くん、布団から出て座りなさい」と布団をポンポン叩いて子供扱いを続ける。

「なんか嫌なんだけど…………」

そう言いながらも布団から這い出ると俺の前に胡座をかいて本を読みふけるので、俺は迅の後ろでたち膝をして髪にドライヤーの温風を当てる。
結構時間が経ったからか表面は殆ど乾いているようだけど、頭皮の近くになればなるほどまだ水気があったので手櫛で迅の茶色の髪をとかすと、ほんのりシャンプーの嗅ぎ慣れた匂いが香ってきて思わず笑う。

「うわ、髪の毛から俺と同じ匂いする」
「そりゃ同じの使ってるし」
「でもちょっと迅の匂いもするよ」
「そんなんあるか?」

迅はくんくん、と本を読むのを一度中断して自分の腕を嗅いで結局よくわからなかったのか、本を読むのに戻った。

「…………」
「…………」


この時間が、やっぱりなんだか変な感じだと思うのは俺だけだろうか。廊下のときと同じ思い。
迅がこんなにも近くに居て、まるで普通の学生同士のお泊まりみたいに迅が俺に髪を触らせて、俺の部屋で、俺の本棚にあった本を迅が読んで。これがもし慶とか出水くんとかトリマルくんとかなら全然普通に想像できるのに、どうして、迅だとおかしいんだろう。どうして違和感を感じるんだろう。

「熱くない?」
「おー」
「…………大丈夫?」
「大丈夫だって」

じゃあ、大丈夫じゃないのは俺の方?
ぶおーん、とドライヤーの音だけが響くこの部屋にどうしようもない違和感を感じるのは、俺だけ?

「…………ばかかよ」
「? なんか言ったか?」
「いーや」

ドライヤーの音でかき消されたらいいのにと思って吐いた俺の声を拾った迅が頭だけをこちらに向けて無防備な顔を晒す。なんかすこし、かわいい。けれど、それを見て俺が神妙な顔をしたら変だってことがバレるので誤魔化すようにドライヤーの温風をぶおー、と迅の顔面に当てる。
その風に目を細めながら「なにす、んの」とドライヤーを持つ俺の手を掴んで顔から遠ざける迅に「振り向くお前が悪い」と返して迅の頭をわし掴んで向きを元に戻した。

「そりゃそうか」

そうやってへらへら笑って呟いてから俺の手を離す迅のうなじを見て、俺はドライヤーの電源を切る。そして何となくちょっとだけうなじに触れてから「終わったよ」と告げれば、迅は本に栞を挟んでから俺の方を振り返って「次はおれが乾かすよ」と言って俺の後ろに回り込んだ。
別に俺はいつもドライヤーとか使わないけどなあ、なんて思いながらドライヤーの電源が入った今から断るのも億劫なので胡座をかいて目を閉じる。

「…………目つむってんの?」
「うん」
「なんか名字って猫みたいだよな」
「猫はドライヤー嫌がるよ」
「あ、そうなの」

ずっと昔に、ここじゃない家族の時に飼っていた猫のことを思い出しながらそう言うと、迅は俺の耳を引っ張って「形全然違うけどなー」と笑う。

「にゃーって言ってやろうか」
「いや、そこは女の子に言ってほしい」
「ここじゃ言ってくれる女の子は、塁くらいじゃね?」
「あー、あの子塁っていうんだ」

お前に気がある女の子だよ、と心の中で思いながら再び翔との密会内容を思い出して気が重くなる。

「塁かわいい?」
「うん? まあ、かわいいよね」
「アイツ中二なんだよ」
「ふーん、って、なんかその言い方変じゃないか?」
「お尻とか触れる?」
「うーん…………」


俺の言葉にそう唸ると、何を考えているのか黙り込む。


「ダメだ、触ったら怒られる」
「、そりゃそうだろうな」
「あの子じゃなくて、もう一人の男の子に」
「…………」
「…………ここも、意外と大変なんだな」
「……そうだよ」

それだけ言うと、ぶおーん、とまたドライヤーの音だけが響く空間になってしまった。
なので何となく沈黙を壊そうと思って後ろで立ち膝をする迅に寄りかかって体重を預けると、より迅との距離が縮まる。

「、やり憎いんだけど」

そう言ってくる迅の声に顔を上に向けると呆れた表情と視線で俺の顔を上から覗き込む迅の顔があって、何となく「ふうん」と呟いてから迅の青い瞳を見つめる。俺にも少しくらい音が聞こえたらいいのに。

「ふうんじゃなくて、濡れた髪の毛のせいでTシャツに染みるから」
「塁がさ、迅のことかっこいいって」
「話聞いてないし…………まあ、それは普通に嬉しいけどあとがこわいな」

俺の言葉にいつものへらへらとした苦笑いを浮かべる迅に俺は何となく片手を伸ばし、掌で迅の頬をふにふにと触ると、迅はたいした感情を湧かせるわけでもなくじっと俺を見つめ返す。

「俺も迅の顔好きだけどね、出水くんの次に」
「次に、ね」
「良かったな」
「はいはい」

迅の頬を撫でながらそう言うと迅が少し目を細めながら「てか、胸冷たいんだけど」と続ける。俺の濡れた髪が迅の来ている服に染み込んでいるのだろう。
「迅、」
「なんだよ」




「…………迅と近いと俺はちょっと不安なんだよ」

もちろんそれは俺が考えて出てきた言葉ではないけれど、迅もよくわかってないようなのでいいか、と思って何となくで言葉を続ける。

「近いと怖くなる、俺がまだ与えられてばかりなんだって思い知るから」


あ、視線が変わった。


「けどさ、迅は与えてるなんて思ってないもんな」
「…………サイドエフェクトめ」


迅が眉を寄せてそう言ってからドライヤーの電源を切り故意的に静寂を作り出したので、俺はその意図を汲み取りながらじっと見つめてくる迅の後頭部に片手を回して自分の顔に引き寄せる。

「…………」
「…………」
「…………迅は、俺の迅への信頼が回復してないと思ってる。でも騙されたこと忘れてないけど別に恨んでない……迅はただ優しいだけ」
「そんなわけない、おれは名字を市民を助けることに利用してる」
「だとしてもそれは間違ったことじゃないし、俺以上に俺のこと考えてくれたからこそああいうすれ違いが起きたんだろ」

人生で迅とこの距離になるのはこれから何度あるのだろう。
いやらしく開いている迅の口許が変に気になる。
この近さが心の距離だったなら、お互いの息が唇にかかったり、焦点の合わない視線だったり、やっぱり香る迅の匂いに俺はきっとおかしくなるんだろうな。

「迅、」
「……なに?」

俺が迅の名前を小さく呼ぶと、返事をした迅はドライヤーを持っていない方の手でゆっくり俺の濡れた前髪を横に流す。その行為が妙にくすぐったくて逃げるように視線を転がってる本の方へ逸らすと、迅が何に対してかわからない視線で『かわいい』という視線を送られた。


ああそうだ、だめだ。このままじゃ俺はきっと孤児院のみんなより優先して



"迅を助けたい"って思ってしまう。
そんな気がする。 このやさしくてちょっとなきそうな音のする迅が誰よりも幸せになればいいのにな、って思ってしまうような気がする。
迅の行動全てが報われて、迅に救われた人とかどうでもよくて、迅自身が救われればいいのにって。そんな傲慢なことを。



だめだ、アキちゃんの言葉も忘れたくなるような見たくも考えたくも想像もしたくない自分になってしまいそうで少し怖い。ボーダーの隊員と仲良くなっても不安に感じるけれど、そんな比じゃない。なにかが変わる。


「…………」
「…………」


いや、落ち着け。
ちょっと待て、うん。
迅が俺に死んでほしくないのは、ただ迅がそういう優しい人間だって話。そういう未来を見過ごせないやつってだけで、そんなこと玉狛支部の屋上で話したときから知っている。だからそれに俺は恩を感じてるんだよ、そうだ。

けどこの気持ちは、なんだ?
俺の中の優先順位が変わっていく感覚が、する。
どうすればいい?
どうしていけば、ずっと今の俺のままでいられる?
いやいや、どうもしなくていいだろ。忘れろ。なにかを。
いつもと同じように、俺はアキちゃんの代わりに皆を守らなきゃ。
役割を果たせ、その為に生きてきている。
役割を果たすために生きる未来を想像するのが今の俺のやるべきこと。

「名字、?」

俺から話しかけておいてなにも言わずに迅の首に回す手に無意識で力を込めていたからか、迅が不思議そうに少し顔を離してからその青い瞳で俺を射抜く。







「うわ、好きだ」
「…………、」

また、考えていないのに勝手に口から小さく言葉が出た。
でもそれは明らかにおかしなもので、前も同じ言葉を迅に向けて言った筈なのに俺の頭か心かのどちらかがその言葉に前とは違う意味を持たせたように思えて焦る。

「……………………えっ、いや、今のはちが……くないけど。その、人として」

なにどもってんだよ、俺。別に嘘ついてる訳じゃないのに。
てか、今冷静になってみたけどめっちゃ近いな、これ。
俺が少し首を伸ばすか、迅が少し頭を下げれば確実に…………。

「…………名字」
「っえ? あ、髪の毛? 冷たい?」

迅が俺の名前を呼ぶ声に小さく反応してから迅の首に回していた手を離し、腹筋を使って寄りかかっていた上半身を起こす。
嘘、本当は迅の視線から髪の毛のことなんて読み取れなかった。でも、これ以上ああやって近付いていったら、やっぱり今の自分から離れていくようで怖かったから逃げ出した。

「てか、迅のTシャツ色変わった」

迅の手に握られていたドライヤーを取って電源をつけながら笑って指差せば、迅は俺の顔をじっと見てから「だから冷たいって言ったんだけど」と溜め息を吐くので、俺は安心しながらドライヤーの電源を入れて迅のTシャツに温風をあてる。

「あったかい?」
「まあまあ、っておれはいいから先に名字だろ」
「俺はいっつも乾かさないから」

今触られたら、多分俺はどっかにいく。絶対流される。
なんて思いながら笑って迅を見つめるけれど、迅には視線は読み取れないから「うわ、野蛮人」と言うだけでそれについてはなにも言わない。

「…………あ、そういえばこの本名字読んだ?」

そんな俺をじっと見つめてから自分の髪の毛を鬱陶しそうに耳にかける迅は、そう言って誤魔化した俺の横にある本を手にとってペラペラと捲る。

「読んでない、なんで?」
「色んなの挟まったままだったからさ」
「あぁ…………うん、それあげる。あと上巻」
「いや別に、そんなつもりで言った訳じゃないんだけど」
「じゃあ誕生日プレゼント、誕生日知らんから」
「随分早いな」

自分の心臓の高鳴りを押さえ付けながらそんなことを呟く。
俺はあまり読書とかしないくせにアキちゃんがしていたから真似して買ったものがまだまだ本棚にたくさんあるし、本もきっと読んでくれる人の元に行ったほうが良いに決まってる。

「貰ってよ、俺のプレゼントが受け取れないわけ?」
「読まないだけじゃん…………まあ、要らないなら貰っとくけどさ」
「よし、誕生日プレゼント代浮いた」
「うーん、まあ、一応ありがとう」

ぱたん、と本を閉じて不満げながらにも礼を言う迅に「どいたまして」と笑って返すと、迅は呆れたように笑いながら自分の着ているTシャツの濡れた部分に触れる。まだ少し色が変わっているけれどさっきよりはマシかなあ、なんて思いながら俺もわさわさとTシャツを撫でると、何故か迅が故意的に視線を逸らし、誤魔化すように俺の手からドライヤーを取り上げてから俺の顔面に温風を当ててくるので反射的に目をつむる。あったかい。

「てか、迅の心臓はやくない?」
「それ言う…………?」
「え、なんて?」

顔面に当たるあたたかい風に少し眠気を誘われたのと単純に開いてると目が渇くので目をつむって迅の声を聞いていたけれど、ひとつの感覚を遮断したら他の感覚も鈍くなるあのよくわからない関係性によって迅の呟きがよく聞こえなかった。
すると迅…………目をつむっているから絶対とは言えないけれど、九分九厘の確率で迅の思われる手が俺の顎の下に指を這わせて爪をたてるので渇くのを承知で目を開くと、やっぱり迅が俺の顎の下を弱くひっ掻いていた。

「なにこれ、また猫扱い?」
「猫っぽかったから、つい」
「ふーん、…………ごろごろー、にゃー、」



「…………やっぱ無理!」

がおー、とやる時のように手を猫の手にして迅に向かってやれば、迅は目を見開いてからドライヤーを放り投げ、自分の顔を覆って敷布団に後ろから倒れた。
てか、やっぱりってなんだよ…………未来でもこの場面視てたのか?
その迅の行動に瞬きし、放り投げられたドライヤーの電源を切ってからコードを引っこ抜き机の上に置く。

「なにしてんの……………」
「名字が…………面白すぎるからわるい」
「えっ、じゃあなに、笑ってんの?」

それにしては随分静かに笑うんだなあ、とか思いながら顔を覆ったままの迅に股がってやろうかとも考えたけれど、どうやってもいい方向に転がりそうもないので俺は立ち上がり、壁にある電気のスイッチに触れながら「電気消すからな」と言ってから返事を聞かずに消す。明日も普通に平日だし、何故だか防衛任務に一人で当たらなきゃいけないし。
パチッ、と音をたててスイッチを押して電気を消したはいいけれど、意識して倒れていた迅の位置を把握していたわけじゃないので暗闇になれない今、全く何処を歩けばいいか分からない。

「迅どこ? 俺どうやって歩けばいいの?」
「なにその質問」
「踏みそう」
「…………踏まないから大丈夫だって」
「お、わかった」

その言葉を聞いて瞬間的に迅が言うならそうなんだろう、と無意識に考えた自分が少し怖い気がしたけれど、多分迅のサイドエフェクトを知っている人なら誰でも思うことだと信じて歩みを進め、迅の言った通りなんの障害物にぶつかることもなくベッドへと辿り着く。

「ねえ、」
「ん、?」

もぞもぞ、と布団に入りながら暗闇になれてきた目で声の方を向くと、ぼんやりと迅が座りながら窓の方を向いて話し掛けてきているのが分かった。

「話のつづきしてないけど」
「話…………あ、その為に来たんだっけ」

脱衣麻雀で俺が勝ち越した後にした電話での話をしにここへ来た筈なのにいつのまにか時間が過ぎて、その事がオマケのような扱いになってしまった。確か『ボーダーに知り合いが増えることは名字の生存率を上げる』っていうのが迅の主張で、俺的には『そんなことなかったじゃん。てか、アキちゃんから遠ざかりそうだからやめない?』って感じだったはず。

「ていうか迅、なんで結果が着いてきてないのにそれを推すわけ?」
「視えないんだよなあ、そのベンチに座ってる人の顔が」
「? 顔?」
「…………まあいいか、」
「おい?」
「で、あの電話の時点では確かに『意味無いのかも』とか思ってたけどさ、…………」


いきなり話が跳躍したような気がする。


「どゆこと?」
「あー…………今日名字と会って視た死ぬときの未来が、少し良い方に変わってた」
「え、市民は!?」

もしも俺が助かったって市民や知らない誰かも一緒に助けられなきゃ意味がない。
そう思って食いぎみで尋ねると、迅は俺の方に視線をチラリと向けてから暗闇のなかで微笑みながら言葉を返す。

「…………大丈夫だ、そこは変わらない」
「マジかー、やったな!」
「やったのは名字だろ。でも一歩…………いや半歩くらい良くなっただけで、」
「わかってるよ、でも半歩は前進だろ」
「…………そうだな」

何が変わってその未来が視えるようになったのか分からないが、とにかく俺も迅も救われるような希望が明確になってきたということだ。というか前なら俺のことを配慮して絶対こういうこと隠してきたのに、あの屋上で話してから俺にも隠さず言ってくれるようになったのは少し嬉しい。

「で、理由は?」
「それはおれが聞きたい。昨日なんかあった?」
「昨日、は」


倉須のこと、くらいしか思い浮かばない。


「…………友達が、過去に縛られるのは良くないなと…………考えてた」
「じゃあ、その友達とやらが名字に『死にたくない』って思わせてくれたんだな」

そう言って迅は息を吐くと、それ以上なにも聞かずに話を進める。

「その人のおかげで、名字は少し自暴自棄にならなくなった」
「…………なってたの?」
「まあね、おれがどんなに死ぬなって言っても変わらなかったのにさ」
「、…………それはなんか、ごめん。でも、ちゃんと分かってるつもりだよ」
「いいって別に。会ってから数ヵ月の人間の言葉なんてたかが知れてるってことだろ」

その諦めたような言いぐさに少しカチン、ときたけれど、ここでキレる権利は俺にはないことは百も承知だし、俺も同じことを思ったことがないとは言い切れないので、心を落ち着かせてから言葉を返す。

「…………で、それは別にボーダーの人と関わり合いを持つ理由にならないだろ」
「…………いや、今の状況であるからこそ未来 が変わったんだ、ワザワザ体制を変える必要もない」
「体制? ボーダー隊員と積極的に知り合おうって体制?」
「そういうこと。それに、知り合いが多いからこそ守れるものだって沢山あるでしょ」
「…………例えば?」


くそ、的確に俺がなびく言葉を選んできやがる。


「んー……これから起きることは色々あるし、そんなのおれなんかじゃ拾いきれないから分からないけど」
「曖昧だな」
「でも防衛任務とか侵攻とか、やることやられることが分かってるときに知り合いが多いと協力できるだろ? だから助けられる人は増えるって」
「…………確かに」

一理ある。
アキちゃんも、そう言われたらなびきそう。

「きっと知り合って良かったって思う日が沢山くるから、またおれを"信じてよ"」
「…………」
「おれも名字があの未来を覆せるって信じてるから、これを話してるんだ」

ぽつり、と寝転がりながら顔だけを俺の方に向けて呟く真面目な表情の迅に、俺は一瞬目を見開いてから小さくため息を吐く。





「なんだよ、それ」

前に一度信じろと言っておいて、孤児院を優先している俺を騙して確実な未来を取りに行ったことが俺が一番無関心だった『俺の命』のためのこととかふざけんなって感じだろ。
お前はずっと正しいことをし続けてて、その結果に俺が私情だけで駄々こねてるだけとかカッコ悪すぎるから、


「俺は騙されても利用されても変わらず、迅を信じるに決まってるじゃん」

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