26




 二限目の数学という睡眠時間が終わり、寝不足でぼんやりとした頭を小さく振りながら次の科目の教科書を出していると、後ろからするり、と首に手を回された。

「次の授業なんだっけ?」
「、見れば分かるだろ」

現代文の教科書を机から出して後ろの席の倉須の言葉に反応すると、倉須はおおー、と言ってからガサゴソと整理されていないであろう机の中から現代文の教科書を引き抜いた。その汚れた表紙に眉を寄せて倉須を見ると、何に眉を寄せられているのか全く見当がついていないらしい倉須が自分の指で俺の眉間を伸ばして笑みを浮かべるので、少しいらっとする。

「あ、メール」

自分でも不思議なタイミングで嵐山と哲次から来ていた二件のメールの存在を思い出した。首に回った手を振り払い、不快の原因である倉須をシカトして携帯を取り出すと、それをじっと見つめる倉須が「彼女?」と俺に彼女がいないことを知っておきながらつまらなそうにそう言うのでチラリと睨み付けてから小さく反応してやる。

「うっせー、友達だよ」
「女の子?」
「男の子」

片方はお前からもらったポスターの人間だよ、と思いながら携帯を開くと、また新たに二件のメッセージが届いていたのでそちらを先にみる。
えっと、どうやら出水くんと陽介くんからで、どちらのメッセージも短い文章で『なあなあ』とだけ。その二人の意図がよくわからないけれど、送られてきた時間も同じで文面も同じということは二人でなにかしているのかな? と見当をつけて最初に目に入った陽介くんに『なに?』と返信してから次に同じ言葉を出水くんにも送信する。

「なあなあ」
「お前もかよ」
「ん??」
「何でもない、なに?」
「…………今日ひま?」

出水くんと陽介くんと同じ言葉を俺に言ってきた倉須に一瞬気をとられながら、携帯のメール画面を開きつつ倉須の言葉に反応する。

「うんまあ」

時間帯的に哲次の方が早く俺にメールを寄越していたっぽいのでそちらを先に開くと『木曜日、実験台出来るか?』とメールでもため口になっている文面があったので少しにやけながら『いいよ』と返す。木曜日は明日だ。

「じゃあ、本屋行かない?」
「本屋? 珍しいな」
「買いたいものあるんだ」
「ふうん? いいけど」
「よし決まり」

そう言っていつものようにどうでもいいことではしゃぎながら勝手に俺の携帯を覗きこんで「今日は大丈夫だったか?」とカタコトのような発音で嵐山のメールの文面を口に出して読み出す倉須に、俺は思わず睨み付ける。こいつ…………。

「なにが? なんかあったの?」
「うるさいな……」
「心配なんだよ? わかるかね?」

んん? とわざとらしく言うと、俺の携帯をまた勝手に取り上げて俺に見えないように操作する。

「ちょ、おい!」
「うげっ、やらしいものでも入ってるの?」

その操作に嫌な予感を感じた俺は少し本気で倉須の襟首をつかんで引き寄せてから変な声をあげた倉須の手にある自分の携帯を引き抜く。
やらしいものじゃなくて、ボーダー関係のものが入ってるからだよ!

「ちげえよ、」
「ふーん? じゃあ、"嵐山"って誰?」
「、おいこら」
「もしかして、あの嵐山じゃないよね?」

俺の携帯を勝手に見て、しかも俺の言葉をスルーした倉須に少し舌打ちしながら視線を逸らさず口を開く。
隣の女子からの視線が痛い。

「それってボーダーの人のこと言ってんの?」
「そう、俺があげたポスターの人」
「ちがう」

さっきのにやにやとした笑みを消して真面目に質問してくる倉須に悟られないよう普通を装っていつものように嘘を吐くと、倉須は「だよなー」と言いつつ少し安心したような視線を俺に向けてから携帯を取ったことを軽く謝ってくる。別に隠すようなことでもないんだけれど、こいつがこうやって結局安心するから言わない方がいいんだなって判断してしまう。
そんなことを思いながら茶番めいたものを繰り広げているとキーンコーンカーンコーン、と予鈴が教室に鳴り響いた。俺は倉須に「もうしなければいいよ」と言ってから前を向いて、嵐山にお礼と大丈夫という言葉を添えた文面のメールを送る。

「名前ちゃん大好き、」
「、背中に乗るな」
「えー、告白無視かー」

現代文の先生が教室に入ってきたのを見ながら携帯を仕舞っていると倉須がまたいつものように俺の背中に乗って首に腕を回してきたので肘で突き放すが、運悪く目の合った先生に「きみたちは何時も仲がいいですね」と言われて何人かのクラスの視線が俺達に集まったのを感じてしまう。くそ、倉須め。
だからと言って倉須はあまり他の人とは喋ろうとしない人間だから、仕方なく八方美人に定評のある俺が代わりに「そんなことないですよ」と場を繋ぐ。

「えー、でも倉須って名字としか話さないじゃん」

俺の言葉にそう言うのはクラスの中でも一際よくしゃべる二つ前の席の男子生徒で、俺はそいつの視線から『興味』の視線を読み取りながら「はいはい」と受け流す。そいつが只のいいやつなのに、たまに言葉の選び方が真っ直ぐすぎて誰かを傷つけがちなのは科学の実験で同じグループになってから知ったことだ。

「ねえねえ、倉須くんは名字のことどう思ってるの?」

すると、そいつと仲のいい女子…………つまるところ彼女である倉須の隣の席の女子生徒がこしょこしょと内緒話をするように倉須に話しかけるが、授業前に先生の言葉が発端で展開された会話だけあって殆どのクラスメートが静まって聞き耳をたてているため、全く内緒話にはなっていない。
というか何故俺だけ呼び捨てなの? いいけどさ。

「うわっ、おまえ倉須と話してんの? ずりー!」
「うっさいわね! 黙りなさいよ!」

ほら、只のいいやつ。
けれど、カップルでも彼女の方が立場的に強いらしく、黙れと言われたそいつは他のクラスメートに笑われながらも黙りこむ。ていうか先生は微笑んで見守ってるし、何この倉須に対する皆の暖かさ。

「どうって…………」

後ろから俺と話している時とは全く別物の声色で彼女の言葉に反応する倉須の言葉が聞こえたが、何となく顔を見るのが気まずくて前を向いたまま会話の成り行きを見守る。

「好きだけど」
「えっ、そういうことなの? 友達としてみたいな?」
「ホモ!? ホモなの!?」
「ちょっとエリカ黙って」

「…………うーん、」


さっきより騒がしくなった教室内で倉須が言葉を発すると、また微妙に沈黙が訪れる。なんなの、皆の倉須の声がそんなに好きなの?
俺の周りのクラスメートだけでなく、遠くのクラスメートや先生でさえ倉須の声に聞き耳をたてて固唾を飲むように言葉を待つこの状況に多分俺だけが疑問を覚えているんだろう。そして何故かさっきまで話していた彼女ではなく、俺の隣の席のエリカちゃんが後ろ…………つまり倉須の方にからだの方向ごと向けて「なになに?」と言葉の続きを促すと、倉須がポツリと呟いた。


「俺は名字だけが居ればいいから」


静寂。


そして、俺に向けられる『嫉妬』や『同情』の視線の嵐。
だから何でそんなに倉須は好かれてるんだよ!
その視線と先生からの何もかもを見透かした微笑ましそうな表情に耐えられなくなった俺は痺れを切らし、後ろを振り向いて口を開く。

「あのね、倉須?」
「ん? なに?」

だからそうやってコロッと俺にだけ声色を変えるんじゃないよ、俺の隣の席のエリカちゃんがまた何故か興奮しただろ。

「あんまり、その、な? わかるだろ?」
「んん、照れてんの?」
「は? うっせえ」

照れてるのが事実でもここでそれを言わなくたっていいだろ、と思いながら倉須を睨み付けると、あれだけ静かだったクラスがざわついて倉須のことや俺のことをコソコソと話し、二つ前の席のやつも椅子の上に膝立ちして此方を見る。
おい誰だ、俺の口の悪いところを褒めたやつは。

「ええー、俺も倉須と話したいー」
「、話せばいいじゃん」
「無視されるしー」
「無視? そんなんしないって、な?」

にこっ、と二人きりなら絶対に向けない笑顔で倉須に同意を求めると、倉須は少し驚いたように俺の笑顔を見てから、自分も対抗するように見たことのないような超絶笑顔で答える。

「俺は、名字が居るなら話すよ?」


『嫉妬』『同情』『嫉妬』『嫉妬』『驚き』『嫉妬』


「ええー、じゃあ話したいときは名字連れてくかー」

さっきから嫉妬してんのは女子なのか男子なのか、そこが気になるところだけど。何でこんな人気なのこの人。
なんて考えていると、ことの発端である先生が「はいはい、そこまでねー」と言ってから教段に立つと「そこからの仲良しは授業の後」と微笑んで皆の視線を集めてやっと授業を始めた。
そして散っていく視線に俺がホッと息を吐くと隣の席のエリカちゃんが真顔で「ありがとう」と何故かお礼を言ってきたのでどもりながら「う、うん」と返して俺も前を向く。
なんかどっと疲れた。




               ◆◇




 一日の授業が終わって掃除の時間になると掃除当番である俺は荷物を倉須に預け、掃除用具箱からホウキを取り出して同じグループのエリカちゃんにソレを渡す。

「わっ、ありがとう」
「うん、いいよ」
「あと、今日は良いもの見せてくれてありがとう」
「ん? うん、」

どこら辺が良いものなのか分からないけれど、多分二限目の時の出来事だろうと推測して頷く。
でも実際あのあと大変だった。クラスメートが授業が終わると何人か倉須の席に集まっては俺を通して会話しようとするし、昼飯だって二人で食べていたのに今日は何人か増えていた。いやそれ自体は倉須に知り合いが増えて良いことなんだけど、俺を通して話すから食事が全く進まなくて正直迷惑だったなあ。これからもあれが続くんだろうか。

「ていうか、何でアイツあんなに人気なの?」
「え? んー…………色々あるんじゃないかな?」
「色々?」

会話しながらホウキで床を掃く俺たちに同じグループの、あの彼氏を尻に敷く彼女がモップを持って混ざってきたかと思えば「有名人だからじゃない?」と言う。

「え? いつの間に有名人になったの?」
「いやいや、名字のせいでもあるよ?」
「俺、?」

八方美人でいろんな噂だけは舞い込んで来ていると思っていたけど、どうやら倉須の噂は、俺が倉須と近すぎて俺には伝わって来なかったようだ。

「ほら、名字って学校にファンクラブあるんじゃないかと噂されるイケメンじゃん?」
「ないけどね…………」
「で、そんな人間が唯一言葉荒げて何時も仲よさそうにしてる奴が居れば、そりゃ女子も男子も気になるじゃない」
「…………男子も?」
「ほら、倉須とか名字とかと仲良くしてれば自分もモテそう、みたいな?」
「…………でも、嫉妬とは違うよね?」

確かにそういう視線を受けたことがないと言ったら嘘になるけれど、今日のように倉須と話していて俺が嫉妬の対象になることは無かった。

「嫉妬? 嫉妬なら単純に倉須くんが有名人なのに、名字にだけベッタリだからでしょ」
「うんうん、倉須くんって名字くんと並んでるから分かりにくいけど、普通にかっこいいし、学祭とかでバンドしたりするから人気だよ?」
「へえ、そうなんだ」
「「今更!?」」

学祭のバンドのギターをやったのは知ってるけど、学祭準備期間前の昼休みに「誘われたんだよね」「ふーん、やるの?」「どっちがいい?」「やれば?」みたいな会話交わしただけだし、俺は委員会あったから実際には見に行ってないし。

「、倉須がモテるのはわかった」
「そう?」

適当にホウキを動かしながら三人でごみを教室の後ろに追いやり、二人に熱弁された内容を思い返す。そうか、確かにクラスの外で倉須と話してるとたまに視線が痛かったけど、そういう意味があったのか。ワザワザそんな視線を意識することもなかったから分からなかったな。

「因みにね、二人が席近いのはくじ引きで倉須くんが名字くんの後ろの人とくじを交換したからなんだよ?」
「えっ、」
「ほんと、倉須くんが彼女出来ないのは名字のせい」
「わたしは二人がくっつけばいいと思うの」
「ちょっとエリカ? 黙ろ?」
「すみません」
「…………? まあでも今日、倉須が他の人と話してるの見てたらちょっと嬉しかったよ。あいつちょっとだけ人と関わるのを避けるようになったから、あいつの世界が広がると俺も嬉しいし」
「…………名字が言うと、なんか漫画のワンシーンみたいね」
「多分ここで背景にきらきらーってなってるよ」
「話聞いてます?」

そう言ってホウキを壁に立て掛けてから机を持ち上げた俺の言葉を茶化す二人に溜め息を吐くと、黒板を消していた眼鏡の委員長が俺に「流石、イケメンはちがうな」と茶々を入れる。聞いてたんかい。

「だから何て言うか…………俺のことなんかどうでもよくなってほしいんだよな」
「はいここで、影のエフェクトね」
「もの寂しげな雰囲気ね!」
「そこの二人ほんとに聞いてる?」

すると二人は「聞いてる聞いてる」と笑いつつ、エリカちゃんの方は「でもさ」と続けた。

「私たちが話したいって思ったり、名字くんが世界を広げてほしいって思っても…………倉須くんがこっちを向いてくれないとね」
「…………そうだよな」

倉須が極端に俺としか関わらなくなった理由を俺から話すのはちょっと無理があるし、多分これからも倉須は誰にも言わないんだろうけど、でもそれでも、あいつが毎年三月八日にああならないくらいには普通の人間関係を築いていってほしいなとは思う。だってもう今年には高校三年、クラスは変わらなくても高校最後の年になる。
じゃあおまえは進まなきゃ、過去に縛られたままじゃ倉須はダメだったんだ。俺とは違う。それに俺だって、いつまでも一緒に居られるわけじゃない。未来はまだ変わらないんだから。





「じゃあさ、クラス会とか開けば?」
「おおいいじゃん! このクラス騒ぐの好きだし!」
「いいねー、もうすぐ春休みだし!」

黒板を消し終えたらしく暇をもて余してる委員長がそう提案すると、女子二人が目を合わせて同意する。今は三月の前半、春休みまであと三週間位あるから企画するのには十分すぎる期間ではある。

「じゃ、私企画しちゃおー! 勿論アイツ使って!」
「アイツって…………自分の彼氏をそう言うのすごいね」
「まあまあ、名字の仕事は倉須くんを呼ぶことね!」
「あ、うん。てか、日にちだけでも早めに決めないと、あいつ来ないかも」

それに俺もボーダーのことが入ると困るし、何て思いながら呟くと、エリカちゃんが「そこだけ先に決めちゃおうか?」と言って教室にかかっているカレンダーを壁から引っこ抜いて持ってきた。

「二十五日から四日まで春休みだから、土日の二十八か九かな?」
「オッケー、んじゃあグループに一斉送信で提案しとく」
「…………みんな、倉須のこと好きなんだな」
「…………好きっていうか、好きになりたい? みたいな?」
「そうだなー、アイツ名字といるときしか笑わないから気になるんだよな」
「倉須くんは隠れアイドルなんだよー」

そう言って委員長がポケット携帯を取り出して操作するのを傍観しながら少し驚くと同時に、何時も一緒に居る倉須がアイドル扱いされていることに少しの疑問を覚えるけれど、いじめとかに発展するより何千倍もマシなので安心する。

「そっか、嬉しい」
「うわっ、ずりー、」
「え?」
「イケメンがそういうのって、ほんとにずりいな」

教卓前で携帯をいじる委員長の言葉に首をかしげてみるけど、迅も「ずるい」ってよく言うから同じようなことかな、と何となく察すると、その言葉を吐いた委員長が携帯を閉じて机に近付いてため息混じりに言葉を吐く。

「でもまあ、日にちも決まったから掃除再開しようや」
「あー、そうだったそうだった」
「倉須くん待ってるもんね」
「ほんとに倉須のこと好きなんだな…………」

そんな三人がチラリと教室の外を覗いたのを見て俺も覗いてみると、廊下に面した窓に頬杖をついて俺のリュックを背負ってる倉須が見えたので少し笑って俺も机を運ぶ。好かれてることを知るのはきっと良いことだから、少しでも倉須が幸せになればいい。
そして俺たちの努力のお陰でいつもより早く掃除が終わり、教室内で解散してから俺は真っ直ぐ俺のリュックを背負ってる倉須に声をかける。

「倉須、終わった」
「お疲れ」

そういえば一緒に帰るのは久々だな、なんて思いながら倉須の手からリュックを受け取って背負うと、後ろから三人がチラリと教室から頭を覗かせてこちらを見ているのが見えたので隣に立つ倉須に「じゃあね、って言いたいらしいよ」と告げる。

「? 言ってないじゃん」
「俺はエスパーだからわかるの、」
「ふーん、」

とそれだけ言うと、俺が動き出さないのを不思議そうに見つめる。
だからそうじゃなくてさ…………。
俺の言いたいことを察せなかったらしい倉須の腕を掴んで教室に戻り、俺は三人に向かって「じゃあ、よろしく」と告げて手を振る。

「あ、おう」
「じゃあね」
「また明日ね」

そして俺に手を掴まれたまま頭の上にクエスチョンマークを浮かべて俺を見つめてくる倉須に「おまえも言うの」と言いながら倉須の顎を掴んで強制的に顔を三人の方に向けると、倉須は瞬きを繰り返してから「じゃあね」と素直に呟いた。

「お、おう! またな!」
「じゃあね、!」
「まっまた明日ね!」

なんだその変わり身の早さ。
でもまあ、クラス会を提案してくれたし色々企画してくれるらしい人たちに何もしてやれないのは少し申し訳なかったから、これでチャラにはなったかな?

「よし、本屋だっけ?」
「んあ、そうそう」

少し過保護すぎるような気もしないけれど、こうでもしないと他の人と多分話したり関わったりしようとしないから今は仕方ない。
そんなことを思いながら教室を離れて倉須の腕から手をはなすと、倉須は俺のとなりに並んでから首をかしげて「何あれ」と訊ねてくる。

「何が?」
「いや今の名字変だったじゃん」
「今の俺が変なんじゃなくて……何も気がつかなかった前の俺が変なの」
「? 意味わからんし」
「分かんないなら、分かるように努力しなさい」
「えー…………答え教えてよー」

ダルそうに「ねえねえー」と俺の制服の袖を引っ張る倉須を「うっさい」と言って振り払いながら階段を下りて玄関に向かう。
すると確かに、今までよくわかってなかった視線が何となく意味のあるものに感じて内心で腑に落ちる。

「名前ちゃーん」
「うるさいなあ…………」
「俺、名前ちゃんのことなら全部知りたいな?」
「気持ち悪いです」

上靴を脱いで外靴に履き替えながらそう言う倉須に、俺も外靴の爪先を床にトントン、と履きやすいようにしてから足の踵を靴に入れて素っ気なくそう言う。こんなこと言う人間とそこまでして仲良くなりたい理由が分からないけど、こんなこという人間だと俺たちの会話を聞いているクラスの奴等は分かってて仲良くなりたがってるんだから不思議だよな。

「えー、でもそんな俺が好きなんでしょ?」
「…………」

バカなのか、と言いたくなるけれど、そう言えばこいつの『照れ』の視線ってあんまり読み取ったことないなーなんて思って言葉をすり替える。

「好き」

リュックを背負い直し玄関を出て校門に向かおうと歩きながら答えると、隣で笑っていた倉須がぱちぱちと瞬きをしてから嬉しそうに「だよな!」とまたいつものように後ろから抱き付いてきた。目を瞑っているのからか視線が読み取れないので少し残念。なんのためにさっきの言葉を吐いたのかわからん。

「、おもい」
「俺もねー、名字が好きよー」
「はいはい、」

あの二人の次にだろ、と何時ものように思いつつ後ろにぶら下がる倉須を半分引きずって校門を出ると、倉須も俺から離れて隣に並ぶ。

「あ、そうだ」
「ん?」
「名字の写真撮っていい? てか撮るわ」
「は? 何で?」

校門を出るなりいきなりそう告げてポケットから携帯を取り出す倉須に俺は眉をひそめてその行動を目で追う。
あ、そういえば出水くんと陽介くんの返事見てないな。
倉須の携帯を見てそう思った俺は倉須と同じように携帯を取り出し、二人からメッセージが返ってきてることを確認して文面に目を通す。
えっと…………『よっしゃ、勝った!』『なんでアイツの方から先に連絡するの!?』って、何だっけ、なんの話だっけ。二人とも同じ文面で来たから、最初に表示された陽介くんに先に返事をして…………あぁ、競争でもしてたのか。かわいいやつらめ。

「、またメール見て笑ってる」

そう言ってカシャッと横からシャッター音を鳴らす倉須に、少し驚いて横を見るとまたカシャッと写真を撮られる。

「何撮ってんの…………許可してないからな?」
「大丈夫大丈夫、売らないから」
「そんな選択肢あんの?」

目の前の信号が赤になったので歩みを止めながら眉にシワをつくって言い寄れば、倉須は「はい、イケメンの困り顔ありがとうございまーす」と言ってまた写真を撮った。

「なんなの、俺のファンなの?」
「ファンじゃない」
「いや普通に返されても…………」

ぶおーん、と目の前で何台もの車が通り過ぎるのを視界の端に捉えながら唇を尖らせる倉須から呆れて視線を外すと、倉須が「名字の写真一枚もなかったから」と拗ねたまま答えた。

「要らないだろ、」
「…………要るの」

つーん、と何にいじけてるのか分からないけどそっぽを向く倉須に俺はサイドエフェクトを使おうとしたけれど、信号が青に変わったので足を動かすのを先決にして握ったままの自分の携帯の画面を覗く。
えっと? 二人が競争してたとして、俺はなんて返せば?
取り敢えず二人に『競争してたの?』と送ってから、携帯を制服のポケットに入れ、学校から徒歩五分のところにある小さな本屋の前まで歩く。

「ねえ、お腹すいた」
「えー…………めんどくさいから本屋行ってからな」
「…………あのさ、今日は用事ないの?」

そう言いながら写真を撮るのをやめて携帯を仕舞い込む倉須の言葉に「ないよ」と返して道を曲がる。今年になって俺がボーダーに入ってからは一緒に帰ることは減ったし、会話することも学校だけになった。そりゃボーダーのことを言わないようにしているから俺にとっては仕方のないことだけど、そういえば倉須はどう思ってるのだろう。

「俺が一緒に帰れなくなって、帰り誘うのとか遠慮してた?」
「ん? んーまあね、」
「そっか、それはごめん」
「いいよ、名字は…………俺のものじゃないもんな」
「…………そりゃな」

そうやって視線を逸らして茶化してはいるけど、そっか、少しは寂しい思いをさせてたのか。
それならやっぱり俺以外の誰かと人間関係を作るべきだな、と改めて考えながら「ついた」という短い倉須の声に頭をあげて本屋の看板をくぐる。
うぃーん、と自動扉が開くのを少し待ってから本屋に足を踏み入れ、客が少ないことを視線や見たまんまの感想として感じて隣の倉須に「何買うのさ」と今更ながら訊ねると、倉須は一瞬黙り込んでから俺の方に顔を向けてへらり、と笑った。

「さんこーしょー」
「参考書? え? 参考書に倉須がお金をかけるの?」
「そうそう、驚きだよね」
「いや…………ほんとにな」

成績はいつも底辺をウロウロしている倉須が、まさか自分から参考書を買おうと思うなんて…………何があったのだろう。

「何で困ってんの? 喜んでよ」
「え、いや…………うん」
「喜んでない」
「、わーい、やったー」
「うん、よし」

わざとらしく小さく手を挙げて喜ぶ俺の反応をお気に召したらしい倉須はひとつ頷いてからキョロキョロと店内を見回して参考書のコーナーを探す。因みに俺はまだ現実味がないので自分と同じ制服を着た倉須の背中について回るだけ。
…………あれ、こんなにこいつ大きかったっけ。

「ねえ、探してんの?」
「え、あ、いや…………参考書ね、参考書」

探していないことがバレたので俺は逃げるように倉須から離れ、店内を一人で歩き回る。ええっと参考書…………ここは確実に雑誌コーナーだな。
何も考えずに足を動かしていると立ち読みをしている人が多い雑誌コーナーに来てしまい、違う場所を探そうと視線を下に向けると、ばちっ、とその雑誌の表紙に載っているかわいらしい猫と目があって思わず立ち止まる。マンチカン、という言葉の響きに覚えのあった俺は何となくそれを手にとって中身を開く。嵐山が言ってたんだっけ…………あ、あのときの画像に似たマンチカンがいる、かわいいなあ。

「、ねこか、」

そういえば時枝さんが飼猫を飼っているっていってたけどどんな猫なんだろ…………俺が昔の家で飼ってたのは黒猫のメスだったけど、可愛かったなあ。
なんて考えながらいつのまにか昔の家にいた猫のことを思い出して、あのさわり心地が懐かしく思えた。ひっかき傷とかあったのに、もう全部消えちゃったなあ。

「何してんの」
「うわっ、」

雑誌を見ながら昔の思い出に浸っていると、現実に引き戻すように後ろから俺の首に倉須が抱き付く。

「なに? 猫?」
「うん、かわいいなあと」
「…………そういうの見てる名前ちゃんがかわいいよ」
「っおい、ふざけるときにそうやって呼ぶのやめろ」
「いてっ、そっち?」

俺の耳元に唇を近付けてわざと囁く倉須に呆れながら後頭部で頭突きし、離れて自分の額を擦っている倉須を見て何も持ってないことに首をかしげる。

「無かったのか?」
「いや…………名字に選んでほしくて」

そう言うってことは参考書のコーナー自体は見つかったのか、と思って「どこ」と尋ねると、倉須は「こっち」と言って先頭をきる。
すると、こうやって後ろから倉須を見ると分かるけど俺より少し背が高いんだなあ、なんてどうでもいいことに気が付く。いつも倉須は俺の後ろに居るし、抱きついて来るのも後ろからだし…………いや、前から来られたら腹を殴るだろうけど。
いつからか俺の後ろにばっかりついてくるようになってたんだな。

「ここですよ、」

ひとつの棚の前で立ち止まった倉須に続いて俺も思考を絶ちきってから立ち止まり、その白い指で指された先の本の列をぼんやりと眺めて首をかしげる。

「えっ、これ、」

そして本の列の種類とその内容を改めて頭のなかで反芻して思わずぎょっとして、本の背表紙から倉須を見て、また背表紙を見る。





「そそ、ボーダー入隊試験の参考書」

その倉須の言葉通りそこには俺達の進学校が推奨している数学や物理なんかの参考書ではなく、多分一部の人にしか求められていない種類の参考書が一列だけ並んでいて、俺は恐る恐るその中の一冊に手を伸ばす。その青い表紙の本には『ボーダー入試対策問題』と書かれていて、その隣の本には『十分で分かるボーダー試験の対策と傾向』とか『ボーダー入試試験の裏側』とボーダーの入試試験の参考書ばかりが並んでいて、本当にここを倉須は指差したことになる。

「名字がこの前言ったんだろ?」
「でも、あ、あれ…………もういいって」


あまりの出来事に上手く喋れていないのを自覚しながら、参考書を閉じて倉須を見つめる。


「あの後、名字が『このままじゃ進めねえだろ』って言ったことを思い出してさ……確かに俺ずっとこのまんまだなって気付いたんだ。中学の時も名字は色々考えて出した結果を教えてくれたり、毎年あの日の0時に電話くれたり、この前だって俺のためにあんなボロボロに怪我してまで来てくれたり」
「…………それは、俺が勝手にしてたから」
「そうだとしても、俺はそれで救われてる。なのに俺はその厚意を受け取ってばっかりで何も返してあげられてない…………」

適当に抜き取った参考書をペラペラと最後まで捲ってからそれを棚に戻し、また適当に違うものを取り出す倉須に俺はまだ動揺を抑えられないまま視線を落とす。

「そ、それって…………俺のためにボーダーに入るってこと?」
「ちがう、俺が進むためだって」


嘘つき。視線は違うことを言っている。


「ほんとのこと言えよ」
「、…………エスパーってずるい」

なあなあにして流そうとしている倉須に向かって真面目な表情でそう言えば、倉須は少し苦笑いしてから「あー…………」と言って言葉を続けた。

「俺は今のボーダーがとことん嫌いだけど、」
「…………けど?」
「、何て言うか…………あいつら二人のことも知りたいし、それに、名字が嬉しくなるならって」

そうやって照れたように本を捲る倉須の横顔を見て、俺は締め付けられる胸に手を当てて倉須に気づかれないよう小さく息を吐く。それじゃあダメなんだって、俺やあの二人という過去に縛ってる存在のためにボーダーに入るってことは、結局倉須はここから進めないんじゃないのか?

「…………それでいいのかよ」
「、それしか方法がないなら、俺は嫌いな組織にも入るよ。流石に今年は嫌だけど」
「……そっか、」

いやでも、ボーダーに入ればもっと違う理由が出来るかもしれないし、人間関係を新しく構築するチャンスにもなるのは確かだ。俺だって迅とか色々な人と出会ってそうなったから。
それに、俺がボーダーに入ってるのがバレるのは時間の問題だろうけど、それでバレて俺が嫌われたって、倉須にとっては過去に縛り付ける俺という存在が消えるというだけのこと。
むしろ好都合か。

「だから、名字に選んでもらいたくて」
「…………うん」

倉須が考えて決めたことを、薦めた俺がとやかく言う資格などない。
俺は友人というだけで倉須の人生は倉須が決めること、その倉須がそんな俺の言葉を考え抜いて理由をつけてまで進むことを選んでくれたんだから…………大丈夫だ。
そう言い聞かせ気持ちを切り換えて息を吐き、よしっ、と下に向けていた視線を本に移そうと顔を上げた瞬間、



ポタッと何かが自分の頬に触れてから流れ落ちたのを感じ、ぱちぱちと思わず瞬きをする。


「えっ、?」

その俺の横顔を見て、倉須が驚いたように声をあげた。


「…………あれ? 俺、泣いて」
「な、なんで?」

瞬きをする度に頬に雫が伝っていくのを感じて手で拭うと、透明な液体が手を濡らしていて驚く。

「ちょ、ま、え?」
「っ何で泣いてる本人が一番驚いてるのさ」

焦りながら自分の制服の袖で拭おうとすると、隣で困ったように顔をしかめる倉須が俺の手を掴んで自分の親指で優しく涙を拭い、されるがままの俺の顔をじっと見つめて目を細める。

「わ、わかんないけど…………」
「名字、」

俺の顔を少し上に向けて両手で俺の頬を包む倉須を見つめ返しながら頭をフル回転させて言葉を探すけれど、うまい言葉が見つからない。
わかってる。俺は結局、倉須がボーダーに入隊しようと思ってくれたことが結果的に俺たちの関係を壊すことになるのが悲しくて、でもやっぱり倉須が進んで変わってくれるのが嬉しくて、どうしようもない複雑な気分で心が締め付けられて涙が出ているんだ。そう理解しながらもそれを言葉に出来ずにいることもなんだか嫌で、どうしようもできない俺は頬を包む倉須の手を掴みながらへらり、と笑ってごまかす。
すると、何も知らない倉須は俺の涙を拭いながら俺の表情に眉を寄せると、神妙な表情をして小さく呟いた。


「くっそかわいい」


あ、ダメだこいつ。


「あー…………よし、おさまった、離せ」
「えー」

俺の頬に触れていた手をぱしっ、と軽く振り払ってから俺は心を入れ換え改めて本の列を眺める。ええっと確か…………。
右から五番目くらいに並べてあった一冊の本を抜き取って中身を見ずに倉須の胸に押し付けて「中身見ないの?」と尋ねてくる倉須を目に残った涙を拭いて無視する。俺はこれを買ったことはないけれど、伊都先輩が絶賛していたので間違いないだろうと確信して俺は歩みを進める。

「それ買ってきなよ、」
「あぁ、まあ名字が言うなら」
「…………俺はあの雑誌を買います」
「あの猫の?」
「そう、マンチカンめっちゃかわいい」

全然買う気はないし今だってそんなに欲しくないけど、その参考書を買っている倉須を見てると胸がぱーんってなりそうだったので誤魔化す為に雑誌コーナーへと足を運ぼうと倉須に背中を向ける。

「待ってよ、」
「っなななんすか」
「どもりすぎだろ」

何時ものように後ろから首に抱き付かれただけなのに、隠し事をしているというのと泣いているところを見られたという今更襲ってきた羞恥心に思わずどもる。

「ていうか、ここ本屋わかる? 学校じゃないの」
「わかってる」
「なら離しなさいよ」
「じゃあ、俺とマンチカンどっち好き?」
「んあ????」


バカなのか? 知っていたけど改めて倉須が変人だと思い知らされる。


「倉須」
「うわあ、そっかあー」
「うるせえな…………ほら、離しなさい」
「俺のこと好き?」
「あー好き好き」
「誰が? 誰が好きなの?」
「倉須が好き、」
「どのくらい?」
「すっごい好き、だから離せ」

珍しく駄々をこねる倉須の問いかけにすべて適当に答えながら何時までも離さない倉須の足を踏みつけて最後に命令口調で言うと、緩んだ顔で俺を見つめた倉須が「じゃあ、買ってくる」と言って俺から離れ、レジの方へと走り去っていった。
なにあれ、俺のこと好きすぎだろ。早くボーダーに入隊させないと。
まあでも大丈夫だ、クラス会にボーダー入隊、倉須が幸せになれる機会はたくさんある。ふう、と一息ついてさっきから絞められてばかりの首を回し、羞恥心が薄れてるけれど言ってしまった手前買わなければ行けない使命を与えられたので、俺は一人雑誌コーナーに戻ってマンチカンの雑誌を買ってレジでカバーをかけてもらっている倉須を横目に本屋を出る。本屋の袋を提げながら馬鹿みたいに明るい空を見上げて、何となく、本当に何となく今日迅と話したことを思い出して無性に眠りたい気分になった。
救われないだとか、報われないだとか、そんなこと。

「…………ほんと怖いな」
「なにが?」
「、何でもないよ」

後ろから向けられる視線で人がいることは分かっていたけれど、まさかそれが倉須だとは思わず少し驚く。だってほとんど毎日会ってる奴に『綺麗』とか思われても、なんのこと? って感じだろ。嬉しいけど。

「何にやけてんの」
「……倉須が変なこと考えるから」
「あ、エスパーの力使ったの?」
「そうだよ」
「ふうん、でも、イケメンずるいなあっていつも思うよ」

買ったばかりの本を袋ごと鞄のなかに仕舞い込む倉須はそう言うと、ちらりと俺の顔を盗み見てくる。

「なにそれ、倉須だってモテるくせに」

その『嫉妬』でもなんでもないただの視線を受けながら、今日仕入れたばかりの情報をあたかも前から知っていたように話す。
そうだよな、中学の頃から居るから微妙に分からないけどよくよく見たら、整ってる方なのかも。俺は断然出水くんの顔の方が好きだけど、なんてここにはいない人物の顔をぼんやりと思い出して一人歩みを進める。

「そうなの?」
「…………そうなの」
「えー、でも告白とかはされないけど?」
「それは倉須が他の人と話さないからだろ」

隣にならんで不思議そうに首を捻っていた倉須へ叫ぶようにそう言えば、倉須は納得いかなそうに「ふうん」と呟いてから、またいじけたように唇を尖らせて言葉を続ける。

「だって俺には名字がいるし」
「おまえな…………そんなんだから、」

そんなんだから彼女ができないんだぞ、と茶化そうとしたところでふと、あの倉須と幼馴染みの女の子の顔が浮かんだ。俺はその口を閉じてから、仕切り直すようにまた言葉をすり替える。

「そんなんだから、俺とくっつけばいいとか言われるんだぞ」
「言われたの?」
「うんまあ」
「ふうん、やった」
「やめなさい」

その言葉の意味を本当に理解しているのかと問いたくなるような反応を無表情でする倉須に、俺はここが公の場であることを考慮して呆れながら咎める。

「なんで?」
「……………なんで、って」

道を曲がって、腹がすいたらしい倉須のためにこの先のコンビニでも寄るかなあと思っていたら、いつもなら終わっている筈の会話を掘り下げて大真面目に俺を見つめる倉須が俺の反応を無視して言葉を紡ぐ。

「だって俺のこと好きでしょ?」
「好きって…………そういう意味じゃないだろ」
「?」
「…………、?」
「じゃあ、どういう意味…………?」




「えっ、」

その言葉に俺は道の隅で足を止め、思考が停止しそうな自分の脳内を意識してフル回転させる。
え、なに? それは俺がおまえのことをそういう意味で好きなのが"当たり前"だと思ってるってことか?

「いやでも、おまえ」

幼馴染みの女の子が何時までも好きで、言ってしまえば死人に恋している筈のおまえがそういう発想になるのって、おかしいだろ…………?
だって俺はそれを傍観しながらおまえを見守る立場で。

「名字?」

俺がいきなり立ち止まったことに疑問を覚えたのか俺の顔を覗き込もうとする倉須に、俺はビクッと肩を揺らしてから一歩下がる。
あれ、俺なんか、すげえ警戒してる? でもいきなりそんな急展開を迎えられても困るし、こんなところじゃ込み入った話も出来やしない。
この状況をどうしようかと倉須の顔を見ず下を向いて考えていると上から多分倉須のだと思われる『困惑』の視線を受けて俺は思わず顔をあげる。
何してんの、俺。何で自分のことしか考えられないんだ。学べよ。

「ごめん、困らせた。ちょっとその、不足の事態が」
「…………不足の事態って、俺の言ったこと?」

顔をあげるとやっぱりそこには不安そうな顔をした倉須が居て、俺はまた自分を責める。ジリジリと建物の壁に追い込まれながら苦笑いでこの状況を回避しようとするが、不安そうな表情で俺を見つめる倉須に気をとられて上手く頭が回らない。周りの視線も痛い。
すると倉須は俺の腕に手を伸ばしてぎゅっとすがるように掴むと、何かに耐えるように眉を寄せてから視線を地面に落として呟いた。

「…………今日、暇なんだろ?」
「、うん」
「じゃあ、家来てよ。誰もいないから」

この時間の倉須の家に倉須以外の誰かが居ること自体珍しいのでその事には疑問は湧かないけれど、何故か、何故か今だけは誰か居て欲しいな、なんて思った。でも、今ここでこれを断ったら何かがダメになる気がして、俺は自分の意思とは反対に「いいよ」と呟いていた。

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