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 午前から午後六時にかけてのアルバイトが終わり、アルバイト先の更衣室で伊都先輩と並んで着替える。ロッカーが隣同士ということもあって会話をしながら着替えられるけれど、毎回伊都先輩の逞しい体を見せられて同じ男として悲しくなる。ここ最近何かにつけて走ったりしているけど継続して何かに取り組まないとその体は手に入れられないんだよなあ、なんて思ってレイジさんに訓練メニューでも教えてもらおうかと考えた。ほら、スゴい筋肉だから。
隣で着替え終わった伊都先輩が携帯を操作しているのを見て「彼女ですか」と白いロンTに腕を通しながら適当に訪ねると、伊都先輩は少し焦ったように「ち、違うよ、」と俺を"見て"否定する。ふむ、友達だったか。

「愛人ですか」
「いやいや、友達だよ」
「なんだ」

知ってたけど。

「残念そうだね。まあ、そいつが一月にあったボーダー入隊試験の過去問くれるって言うからさ」
「………へえ、その人一月にボーダーになったんですか」
「そーそ」

なら俺と同期か。
正直試験の内容なんて覚えてないが、覚えてないということはそんなに難しくなかったということ。だったら、勤勉な伊都先輩には簡単だろうに。そう思いながらハンガーに掛けておいたアウターを羽織り俺も携帯を確認するが、慶からメールが来ていることを確認してしまったのでしばらくの間何も見なかったことにすると心に決める。

「あれっ、マジか」
「え?」
「なんか…………ここのスーパーに持ってきてくれたらしい」

パタン、と互いにロッカーを閉じてリュックを背負うと、携帯の画面を見つめる伊都先輩が驚いたような声をあげてそう告げる。それを聞いた俺は靴を履き替えながら「、やさしいですね」と顔を逸らして返すが、内心では全く逆のことを考えていた。
いやだって、同期ならもしかしたら俺のことを知ってるかもしれない…………いや、自惚れとかじゃなくて聞くところによると同期の中だと俺は入隊式の日から有名人らしいし。ボーダー隊員であることだけじゃなくて噂のことを伊都先輩に知られたら、俺は死ぬ。精神が。

「じゃあ今日は一緒に帰れませんねー」
「いや、友達はこの後用事あるからすぐ別れるし、一緒に帰ろ?」
「…………そっすね」

靴紐を結ぶふりをして顔を俯かせて戸惑いを隠したが、伊都先輩はそんなことお構いなしにいつもの優しい笑顔で俺に微笑むので俺みたいな存在がその笑顔をないがしろに出来るわけもないために勝手に口が了承していた。
よし、か、考えろ。そもそも伊都先輩に俺がボーダーだということを隠しているのは、孤児院や倉須に隠している延長線なだけであって意味はない。ほら、だって伊都先輩はボーダー反対派じゃないし!

「よし、じゃあ行くか、」
「はい…………」

いや待てよ、ボーダーがバレたら俺の噂がバレるじゃん、友達絶対その事言うじゃん、そうなったら俺はこの優しくてかっこいい伊都先輩に人殺しだったのか、みたいな視線を向けられるんだろ? 苦痛でしかない!

「あー疲れた」
「先輩が疲れたなんて珍しい」
「春だからかなー」
「え? あ、はい」

いやでもでも待て、伊都先輩が入隊すればいつかはその噂が耳に入ってしまうかもしれないわけだ……そうなったら仕方ない、俺ここのバイトやめよう。

「今日あったかいなー」
「……春ですからねー」

そう、伊都先輩がボーダー隊員になったなら俺がボーダー隊員であることも噂がついて回ってることもいずれはバレることなんだ! そうだ! じゃあそれが早まっただけでなんの心配もいらないな! そしてその時の伊都先輩の反応次第では直ぐにでもバイトをやめよう! よし!
カツカツ、と伊都先輩の革靴がコンクリートの地面に当たるのを聞きながら薄暗いスーパーの裏手を通って店内への扉をくぐる。土曜の午後の六時ということもあって店内は家族連れの方や休みの学生らしき人達で賑わっていて、俺は自分の気持ちと反比例する店内の空気に眉を寄せた。

「お菓子コーナーにいるってさ」
「あ、そうっすか」
「なに? 初対面だから緊張してるの?」

にこにこ、といつもの笑顔を浮かべて俺の頭を撫でる伊都先輩に「まあ」と返しながら、初めて恨めしい気持ちになる。
あああ、何でこんなに良い笑顔を浮かべるんだよ伊都先輩!
伊都先輩が俺の頭から手を離し、精肉コーナー、惣菜コーナー、食品コーナーを通って目的地であるお菓子コーナー目指して歩みを進めるのを後ろからとぼとぼとついていくと、伊都先輩が不意に「あ、いた」と呟いた。

「ほらほら、行くよ」
「えっ、ちょっ」

お菓子コーナーへの角を曲がったかと思うといきなり俺の腕を逃げられないように掴み、ずんずんと歩いて一人の男の人に向かって引っ張っていく。くそう、こういうときに筋肉って必要だと思うよ。
すると、そんなことを知らない伊都先輩がお徳用のチョコレート菓子の裏面を見て暇を潰している男の人に「よっす、佐藤」と手を挙げて近づくと
相手の人は少し顔をあげてからこちらを向いた。

「よお、って……これ誰?」
「あぁ、この子は…………って名前?」
「お、お構い無く」

伊都先輩とグレーのパーカーを着ているお友達の方の二人が俺の視界外で会話しているのを聞きながら、俺は往生際悪く、その佐藤さんとやらに顔を見られないよう背中を向ける。自分の状況をを改めて考えると、なんだこの駄々だをこねている子供みたいな図になり頭を抱えたくなるが仕方ない。

「名前ー? 佐藤はこわくないよー?」
「え? 俺怖がられてるの? 初対面なのに?」
「いや、その、」
「顔が怖いんだよ佐藤」
「まじかー、ごめーん」

あー緩い。会話が緩い。絶対いい人。視線も俺を責めたりしてないし、本当に謝ってるわけでもないけど、こんな失礼な態度をとってるのに怒らないからきっといい人。なら、顔を見せても、もしかしたら気を使ってボーダーであることを黙ってくれるかもしれない!
そう思った俺は勇気を振り絞って油の足りないロボットのような動きで顔を後ろへ向け、気だるそうな佐藤さんとやらの顔を見つめる。

「…………こんにちは」
「……………………あ、うわ、イケメン」

あ、待って。気づかれてない!?
やった! きた!

「はいはい、良くできましたー」
「ちょっ、伊都先輩?」

頑張って振り返り佐藤さんと目を合わせて挨拶したことを褒めているのか、また伊都先輩はわしゃわしゃと俺の頭を撫でた。
初対面の人の目の前でこれをやられるのは些か恥ずかしいものがあるが、振り払うこともできないのでされるがままになる。いつものことだ。

「この子は俺のかわいいかわいい後輩の名字名前くん」
「え? あー…………、名字名前ね」

撫でながら俺の説明をする伊都先輩にされるがままになっていると、チョコレート菓子を棚に戻している佐藤さんが俺の名前を聞いた瞬間眉を寄せて『動揺』の視線を俺に向けた。
げっ!? やっぱり知ってた!

「きみ………、」
「は、はい」

ずいっ、と頭を撫でられたままの俺に顔を近付けて首をかしげる佐藤さんに、俺は思わず視線を逸らす。あ、佐藤さん少し屈んでるから胸チラして………刺青? タトゥー? みたいな黒いのが少し見えた気がした。

「…………孤児院に住んでねえ?」
「……………………はい?」


え?


「俺、その近くに"あった"教会に住んでたんだけど」
「…………ええっそっちですか!?」

まさかの元ご近所だったとは思わず、一瞬ここがバイト先のスーパーであることを忘れて大声で叫び、伊都先輩も「知り合いだったの?」と驚いたように俺の頭から手を離して佐藤さんの「多分」という言葉を聞き入れる。
た、確かにあの教会は佐藤という姓の人が自宅兼教会としていたけど、佐藤さんという言ってしまえばありふれた名前、俺の学年に三人いて先生にもいるくらい沢山いるし…………それに、教会も神父さんも…………。

「あの、佐藤さんって……今はどこに住んでるんですか」
「あぁ…………"今は"一人暮らししてた兄の家に住んでるわ」
「そう、ですか」
「そういえばあのとき、君が通報してくれたんだっけ?」

その佐藤さんの言葉に、俺は視線を伊都先輩に向けてから「近くにいた人に救急車頼んで、それから俺は知りません」と呟き返す。
あのあとボーダーが現着するまで時間があったし、ボーダーが出来ることはトリオン兵の排除だと知っていたから神父さんのからだの為に救急車を呼んで貰ったはず。まあ、頼んでから放心状態で知らないうちに家に居たから分からない。多分そのまま帰ったんだろう。

「、じゃあなんで俺は知ってるんでしょ」
「…………? さあ?」
「あー、あのー、話が進んでるところに水差すようで悪いけど、佐藤は俺に用事あるんじゃなかった?」
「あ? おー、そうだった」

話が停滞しそうになった空気を読んだ伊都先輩が俺たちの会話に参加してそう言うと、佐藤さんは紺の肩掛け鞄から紙束を取り出して伊都先輩に渡す。
すると一瞬佐藤さんが俺をチラリと『観察』してきたので、俺は不思議におもってサイドエフェクトを使う。

『こいつ、あのボーダーの名字名前だよな、』

やっぱり知ってたのかい!
初めて顔を合わせたときはマジで『イケメン』としか思ってなかったくせに! レイジさんと迅と実験したときみたいに、そっちの方が意思が強かったからか!?

「おう、さんきゅー」
「あぁ、うん」

俺のことを伺いながら伊都先輩に入試問題の過去問を渡す佐藤さんを見上げ、羞恥心を抑え込んで軽く右目でウインクして話を合わせてくれるよう頼めば、佐藤さんも伊都先輩に気付かれないよう俺を横目で見てから短く片目を閉じて合図を出してくれた。
きゅ、きゅんとした。

「じゃー、俺行くわ」
「あぁ、うん、ありがとね」

この二人の緩い空気感にほだされながら佐藤さんに頭を下げると、佐藤さんは変わらず気だるそうな表情できちんと手を振ってくれた。
すると伊都先輩がまた俺の頭を撫でて俺の顔を覗き込み、笑顔で「知り合いだったかー」と言うので俺は目をつむって撫でられながら「らしいですね」と返す。顔ちけー。これが天然だから怖い、俺のことをタラシだと言う人に伊都先輩を会わせたいな。

「ほんとかわいいね、名前って」
「…………伊都先輩はそればっかり」
「うまく騙せたと思ってるところもかわいい、」
「えっ、」

それだけ言うと伊都先輩は俺の頭を撫でていた手を耳の裏に移動し、それからするりと首筋を撫でて俺の胸に手を当てる。

「ほら、言い当てられて心臓が早くなってる」
「……それは伊都先輩が変な触り方するから、」


それに、周りからの視線が痛いから!


「そ、そう?」
「…………無意識なんですか? それはちょっと彼女さんが可愛そうですよ」
「えっ? ホントに?」

視線で意識的にやってるわけじゃないと最初から分かっていため、これがモテる男のテクニックなのかと少し驚くと同時に妙に納得する。これだと他の女の人は期待しちゃうし、彼女さんは不安になるだろうし単純に嫌がると思うんだけど。

「彼女さんが他の人にこれやってたら嫌じゃないですか?」
「…………これくらいは良くない?」
「良くねーっす」
「でも、俺だって誰彼構わずやってるわけじゃないよ」
「…………佐藤さんにはするんですか?」
「佐藤? まあたまにするかも、意識してないから分かんないけど」
「…………彼女さんにも?」
「まあ、するね」
「、キスは?」
「そりゃね!」
「佐藤さんには?」
「っしないよ!?」
「ふーん、伊都先輩はスキンシップのハードルが低いんですね」

胸に当てられていた手を退けてそう言えば、伊都先輩は思惑通りそれについて考え込む。よし、きた。このまま俺がなにかを隠しているのを思い出すな!

「俺の知り合いにもスキンシップの激しいのが居ますよ。話しかけるときに後ろから抱きついてくるとか」
「あー、たまに佐藤にはするかも」
「…………なんかちょっと、想像が出来ます」

はあ、と溜め息を吐いてお菓子コーナーから足を動かすと、伊都先輩も貰った入試の過去問を鞄に仕舞い込んで俺のとなりに並ぶ。
あああ、思い出したくなかった奴の顔を思い出しちゃったよ…………。倉須め、今度会ったとき、教師にバレないようにしてる透明のピアス引きちぎってやろうか。

「頭撫でられるの、嫌だった?」
「、そこじゃな…………」
「…………」
「…………嫌いじゃないです」

俺の気も知らず、容赦なく上から『答えて』という視線をぶつけてくる伊都先輩に負けて本当のことを呟く。
まあ頭を撫でられるのは恥ずかしいけど、好きだ。年下が多かったからあまりされてこなかったし、アキちゃんを思い出せるから。ちなみに、今のところアキちゃんに一番近い撫で方をしてくれたのは嵐山だったりする。風間さんとの戦闘のあとに撫でられて、悔しいけど凄くお兄ちゃん感がして少しアキちゃんに似ていた。一番遠いのは諏訪さん、あれはあれで嬉しいけどヘッドロックが余計。

「素直でかわいいね、頭を撫でてあげよう」
「…………わーい、」

棒読みで伊都先輩の撫でを受け入れてスーパーから出ると、すれ違った家族連れの人が「兄弟かな?」と呟いたのを聞いた。まあ、仮にこんなお兄ちゃんいたら…………かっこいいし筋肉あるし優しいし頭いいし、自慢なんだろうなあと思いつつスーパーの出入り口で足を止め、伊都先輩をじーっと見つめる。

「ん? なに? キスしてほしい?」
「何でですか!?」
「いやあ、さっきそういう話だったからつい」
「…………俺にするなら佐藤さんにもしてくださいよ」
「げっ、それはやだなあ」

俺だって嫌だし、なんて思いながら歩みを進め少し遅れて俺のとなりに並んだ伊都先輩と方向が別々になるいつもの交差点まで歩いた。
そしてまた来週、なんて言って別れてから『伊都先輩の思考を別のものにする』という目的が達成されたことに充実感と未来への不安を抱き、帰るために信号待ちをする。
あーあ、なんかつかれ、た。ん?



「あ、慶からメール来てたんだった」



               ◇◆



 慶の『バイト終わったら俺の部屋来いよ』というメールに、何でおまえが俺のスケジュール把握してんだよと思ったが、前に話したことがあったのを思いだし苦渋の決断をするように『いいよ』と返して今に至る。

「ということで、餅を焼いてくれ」
「…………俺はおまえの召し使いじゃねえ」

甘えろとか言っといて、これだもんなあ。
甘えられねえよ。おまえが甘ちゃんだよ。

「時給千五百円」
「はい、喜んでー」

俺はボーダー本部にある慶の部屋の扉を開けて開口一番に放たれた言葉にイラッとしたが、次に出てきた言葉によって魔法のように俺の体は慶の部屋のなかに引き寄せられた。あらまあ、お金って怖いなあ。俺に時給を払うらしい主である慶は机の上でパソコンとにらめっこしたり手書きでなにかを書いたりしているが、見たことのある用紙が目に入ったので本部への報告書を埋めていることがわかる。

「醤油飽きた、きなこ食いたいけどねえや」
「あ? 冷蔵庫なんかあんの?」
「知らね」
「ふぁっく」

ソファに自分の背負っていたリュックとアウターを放り投げて孤児院では絶対使わない単語を吐き、着ているVネックのロンTを腕捲りしながら冷蔵庫を開ける。玉ねぎ(半分)、魚肉ソーセージ、のり、ボトルの醤油、お茶二本、ソフトうどん、ケチャップ、マヨネーズ。
なんでいっつも魚肉ソーセージあんの?

「おまえこれ、いつも何食ってるかモロ分かりだな」
「なんか買ってこいよ」
「んー、売店になんかあったっけか」
「……野菜とかちょっとあるんじゃね?」

野菜とかあっても調味料がこれだからなあ、なんて思いつつ冷蔵庫から離れ、有無を言わさず慶の鞄から財布を抜き取って無言で慶の部屋を出る。なんというか、ここで横着しても面倒なだけだからな。まあ、慶の部屋からなら食堂も売店も太刀川隊の作戦室にも行けるので迷うことはないが、割りとコンビニみたいな品揃えではあるが結局は学生用の売店なので調味料とか売ってるとは思えない…………。
どうにかしてあの状況で慶の納得するものを作れないか、と考えた俺は慶の財布を脇に挟みながらジーンズのポケットに入れていた携帯で調べる。

「…………ふーん」

簡単に『餅 レシピ』と検索して一番始めに出た一つのサイトに目を通して一人小さく唸る。
あーー、ピザみたいにするのもいいな、玉ねぎあるし、肉は…………魚肉ソーセージでいいか? ウインナーとかベーコンあればそれ買うけど…………。
バター餅? すげえな秋田、バター無いけど。
あとは…………まあ、マヨネーズとソースと青のりでたこ焼きみたいな?

「チーズは前みたときに売店にあったな、ソースは…………どうだろ」

ていうかもう、うどんに餅をトッピングすればよくね? 好物二つ食べれて万事解決じゃね?
とか思いながら携帯をポケットに入れて角を曲がろうとすると、いきなり影から「わっ!」という比較的大きい声が発せられ、それと共に肩に手が置かれて思わずビクッと体が跳ねる。

「っ、迅と、嵐山!」
「ははー、びびったな?」
「おまえなあ…………サイドエフェクトずるい」
「おれのもの何だから、どう使ってもいいだろ?」

曲がり角で驚かしてきたのはまさかの迅で、嵐山は迅の後ろで「俺はやめとけって言ったんだぞ?」と言いつつ一緒に笑っている。なんだこいつら仲良しかよ。なんか腹立つわー。

「まったく…………いいけどさー、別に」
「拗ねんなって、な? ほらほら、良いこと教えるから」
「なに? いいこと?」

俺の両肩をぽんぽん、と叩いて相変わらず軽い態度でそう言う迅に首を捻って訊ねると、迅がニヤリと笑って答える。

「太刀川さんは、ピザがいいってさ」
「…………あー、オッケー」

その迅の言葉は一瞬いきなり何を言われたのかわからなかったが、今さっきみたサイトのことを思い出して頷く。じゃあ、取り敢えず確実に置いてある記憶があるチーズだけかえば良いのか。てか、別にそんなに良いことじゃないな。

「で、ものは相談なんだけど」

そう言ってちらり、と嵐山を見つめてから俺の顔を見つめ直す迅の『提案』という視線に、頬を掻きながら目を伏せてサイドエフェクトを発動させる。すると、俺の遥か遠い記憶に関連するどうしようもない提案が読み取れたので「はいはい」と告げてから迅の両手から逃れ、売店へと歩く。

「取り敢えず"それ"は明日な」
「えー、今日頼むよー」
「なんでさ」
「こいつ、今日も玉狛来るから」

そう言って提案の根源でもある"ポスター"に写っている人物を指差して溜め息を吐く迅に、不思議そうな顔をしている嵐山を見ながら俺は足を止める。

「あれ見られたの?」
「…………見られてないから早くしてほしいんだけど」
「なんだ」

だから嵐山は話の流れが分かってないのか。いや、ポスターのことを分かってても俺たちの会話じゃ分からないか。なんて、そんなことを思いつつ迅の隣に立つ嵐山を眺めながら考え、ポリポリと頬を掻きながら妥協して口を開く。

「じゃあ、餅ピザ作るの手伝えよ。それが早く終われば早く行けるし」
「…………嵐山どーします?」
「? 悪いが俺は何も分かってないぞ?」
「「だよねー」」

そんな嵐山と迅に、取り敢えず立ち止まっている時間が無駄なので売店行こうぜ、と言うと、二人は来た道を戻る形で俺と共に売店へついてきてその過程で迅が嵐山に今の流れを説明した。もちろん、ポスターのことを除いて。緩いペースで二人が話しているのを聞いてから俺は売店に入り、前に見たチーズとおつまみ用のベーコンと、大きい肉まんがあったのでそれを二つ買った。慶の金で。

「で、どうする?」
「嵐山も行くってさ」
「太刀川さんの報告書が上がらないと同じく任務にあたった此方も迷惑を被ることを忘れていた」
「報告書? あぁ、やっぱりあれ報告書か」

袋から肉まんを取り出しながらさっきの慶の様子を思い出して呟くと、嵐山は俺の言葉に「やはりまだか」と肩を落とす。そんなイケメンのしょんぼりした姿を見た俺は、なんだか可愛そうになって慶の金で買った肉まんを半分ちぎり「じゅんじゅん、元気だして」と嵐山に渡した。

「あぁ、悪いな」
「ぶふぉっ! 嵐山、名字にじゅんじゅんって呼ばれてんのか、」
「た、たまにな」
「あ、迅も嵐山のファンならじゅんじゅん、って呼ばないといけないんだぞ、トリマルくんが言ってた」

半分になった肉まんに噛みついてモゴモゴしながらそう言うと、迅はジト目で「名字が強制的にさせたんだろ」と呟き、俺がくわえている肉まんから一口サイズちぎって自分の口に放り込んだ。

「強奪された…………」
「名字がくれないから」
「ん? 俺のもやろうか?」
「もらうもらう」

お兄ちゃんスキルが発動した嵐山から迅は遠慮なく一口もらい、結果三人とも共犯となった。そんなことを思いながら三人で並んで廊下を歩いていると、昨日防衛任務でシフトを交代するときに会ったB級のソロの人が反対側から歩いてきたので「お疲れさまです」と頭を下げる。すると、ダルそうに手を挙げながらその人は眼鏡越しに『珍しい』という視線を向け立ち止まったかと思うと、勝手に袋の中を覗き込んで「肉まんじゃん、」と呟いた。

「あ、それあげます。どうせ太刀川のなんで」
「えっやった、じゃあ今度なんかおごるわ」
「マジすか、お願いします」

それだけ言うとその人は肉まんを袋から取り出し、手を振って歩いて行ったので俺も止まってくれた二人にちらりと視線を向けてから歩いていってしまった。

「…………迅、その視線やめろ」
「あー、やっぱりバレた?」

二人が普通の表情をしていても、片方の視線で『ほほえましい』と読み取れればそれがどう考えても迅のものであることは明瞭である。またいつもの保護者タイムだ。どうせ、おれの知らないところで順調に交流が増えてるみたいで良かった良かった、とか思ってるに違いない。

「おまえは俺のなんなの」
「…………何がいいわけ?」
「なに、…………少なくとも保護者じゃないでしょ」
「はは、そりゃそうだ」

迅からそんな恥ずかしい視線を受けつつ目的地の慶の部屋にたどり着き、どうせ鍵は掛かってないだろうからそのまま扉を開けて足を踏み入れると、まだ報告書と格闘している慶が顔を上げる。

「買ってきた」
「おー、遅かっ…………なんか二人増えてね?」
「買ってきた」
「…………いらんもん買ってくるなよ」
「肉まんでの買収完了」

そう言ってしかめ面をされたことをスルーし、慶の財布を袋から取り出して机の上におけば、対して驚かずに慶はそれを鞄のなかに仕舞い込む。

「いらんもんとか…………」
「報告書が終わってない人に言われたくないのですが」

二人は苦笑いしながら慶の言葉に言い返し、机に広がっている報告書を覗き込む。

「うわー、これ締め切り明日だよ太刀川さん」
「安心しろ、その隣には今日のがある」
「ちょっと太刀川さん、しっかりしてください」

報告書を見て苦い顔をする迅と、またお兄ちゃんスキルが発動した嵐山を横目に俺は冷蔵庫を開けて玉ねぎを取り出す。ジャーッ、と水を流して手を洗いながら台所に常備してある餅の存在に今更疑問を持ったが、答えが出ないことを知っているので水を止めて包丁とまな板を出す。ここの時点で二十分か…………まあ、七百五十円は決定だわ。

「なんかすることありますかね?」

隣に立って俺の手元を見つめてくる迅に後ろで報告書を手伝っている嵐山を振り返りながら「餅並べて置いといて」と呟くと、迅も俺につられるように後ろを振り返りながら「わかった」と苦笑いで返事をした。
ほんと嵐山っていいやつだな。ナイスガイ。すてき。あんなぐーたらなやつのために自分の労力を惜しまないなんて。

「そういえばさ、」
「ん?」
「あの画像見たけど、なかなか恥ずかしいな」
「あの画像ってな…………あ、あれか」

しゃくしゃく、と音をたてて玉ねぎを洗ってから切っていると、隣で爪を立てて切り餅の袋を開けている迅がそう呟いて俺は思い出したくなかった記憶を思い出す。男としてどうなの、って感じの猫耳コラ画像を頭に浮かべていると勝手に包丁の速度が下がってくるが、正直あのときの俺はもうちょっと考えるべきだったと反省すると少し冷静になれた。
てか、そういえば慶も持ってるんだよなあ。
諏訪さんのせいで年上にも回るし、哲次のせいで年下にも回るし、そのお陰で同年代の迅にも回ってるし。

「おれはレイジさんからもらったけど」
「レイジさん!? なにそれ恥ずかしい!」

思いがけない人物の名前が挙がって思わず力強く玉ねぎを切りつける。
れ、レイジさんが俺のあの醜悪な姿を見たかと思うと、もう二度と顔を合わせられない気がしてくる。会いたいから会うけど。

「おれはいいのかよ」
「? 迅とか今更…………てか、迅から始まったんだから、俺への猫扱い」
「あー、そうなの?」

ぺりぺり、と小袋から切り餅を四つ並べる迅にケチャップを塗るよう指示してから切った玉ねぎを水にさらし、次にベーコンを切る。
後ろからも嵐山から慶への指示の声が聞こえた。

「にゃーとか言ったのは名字からだけどな」
「それは迅にしか言ってないからいいの」
「…………あ、そう」

一瞬、俺の言葉のあと変な視線を向けられたが、すぐに逸らされてしまって読み取れなかったしベーコンを切っていて視界でも確認できなかった。誰の視線だ。

「はい、塗った」
「んー、じゃあちょっとしてから玉ねぎ乗っけて」
「ちょっと?」
「…………オーブン温まったらでいいよ、めんどい」

元々おつまみようなので小さかったベーコンもすぐに切り終わり、あとは玉ねぎとチーズとベーコンを乗せて焼けば完成なので、取り敢えず電子レンジを温めておくことにする。
お腹すいた、今日のご飯はなんだろう。

「名字、」
「ん?」
「今日、なんかあった?」
「今日…………?」

台所のシンクにもたれ掛かりながら、オーブンを温める設定をする迅を見つめて言葉を繰り返す。違和感のある話題転換だ。

「おまえとボーダーに関わることは…………バイト先の先輩がボーダー入隊試験受けるから、過去問をその先輩が持ってきた……っていう状況に俺も出くわしたくらい」
「…………その友達の人は流石にまだC級だよな」
「さあ? そうじゃない…………かな」

『また未来に関係ありそうな、』

「…………あー…………」


サイドエフェクトを意識してからさっと視線を逸らし、カタン、と包丁とまな板をシンクに落としながらスポンジを手に取る。
前の失敗を糧にして迅から視線を読み取れたはいいけれど、本当に俺の目の前でこういうことを考えてくれていたのだと改めて考えると正直、申し訳ない。けどまた同じ失敗はしない、俺は俺のことをきちんと考えて、迅には俺のことなんかじゃなくてもっと考えるべきことを考えてもらえるようにしないと。スポンジに洗剤をかけて泡立てていると隣で俺の横顔を見つめる迅が何時ものようにへらっと笑う。

「紹介してよ、その方が未来がよく視えるし?」
「…………先輩は入隊してきたらね」

包丁を洗いながら視線を迅に向けずに答えると、迅は少し間を開けてから「それもそうだ」と言って、無駄に一歩近づいてきたので思わず二度見する。近くないか。

「え、なに?」
「もう一人居るよな、入隊するかもしれない人。たぶんこの前話してた人だと思うけど」
「…………あ、ああクラスメイトね。倉須っていうんだけど、」
「おおー、クラスメイトの倉須? 覚えやすいな」

包丁とまな板の水気を布巾で拭いていつもの場所に置き改めて迅を見ると、何故か首を傾げてきたので俺は流れた迅の髪を見て何となく…………こう…………ぐっときて迅に触れたくなった。そして何となくその場の流れで、湿ったままの自分の手を迅の指に絡めてぎゅっと握る。

「こういうスキンシップしてくるから、気を付けろよ」

顔の高さまで上げてぎゅっぎゅっと二回くらい握って笑えば、迅が顔を逸らして何かをを呟いた。

焼くとく? 焼くと食う?

その言葉に今度は俺が首をかしげていたがぴぴっ、と電子レンジから温まったと知らせる音が響いたので、迅から手を離し、後ろから放たれた「まだかー?」という慶の声に「うるせー、あと十分耐えろ!」と答えながら餅に水気をとった玉ねぎとチーズとベーコンとまたケチャップをかけてオーブンにぶちこむ。

「よーし、あとは待つだけ」

自分のさっきの所業に少し疑問を抱きながら倉須の行動を人に触れるためのダシに使ったみたいな気持ちになって少し沈んでいると、迅が電子レンジの中を覗きながら「うまそー」と呟いたのでそちらに目を向ける。その電子レンジのオレンジ色の光が迅の顔を照らしていて、孤児院に泊まりに来た時廊下で話していたのを思い出した。
あ、やばい、また触れたくなる。
手でも肩でも頬でも、何処でもいいから体温を感じたいって…………迅が泊まりに来てから、俺はなにか変だ。

「…………」
「、…………」

だからって同じ失敗を短時間で二度するわけにもいかない。
そんなことを思いつつ俺は迅からさっと気づかれないように視線を逸らし、何かを押し込めるようにして冷蔵庫からお茶のペットボトルを二本取り出して報告書に奮闘している慶と嵐山の元に向かう。その途中後ろでゴンッと何かがぶつかる音がして振り返ったけれど、何故か迅が壁に頭を軽く打ち付けてただけっぽいので特に心配はしなかった。

「今日提出の分は終わったみたいだ」

近づいた俺を見上げて笑う嵐山に「おつかれ、流石嵐山」とお茶を渡してから慶を見ると、死にそうな顔で「まあ、まだあるけどな」と呟いた。自業自得なんだよなあ。

「そういえば嵐山、俺マンチカンの雑誌買ったんだよねー」
「おお、そうなのか?」
「うん、買ったはいいけど読まないから嵐山にあげたいんだけど」
「…………じゃあ何で買ったんだ、」

ぎぎっ、と慶の隣の椅子を引いて座る俺に苦笑いを浮かべる嵐山は終わった分の報告書を纏めながらそう言う。

「うーん、嵐山ことを思い出して買っただけだからあんまり俺に必要なかった」
「そうか? ならその厚意を受け取って有り難く貰うとするか」
「そーして、厚意ってか、俺の嵐山ファン愛がつまってるから」
「おお、それならより一層受けとるしか選択肢がないな」
「だろ」

慶の額にぐりぐり、とペットボトルの底を押し付けながら机に広がっている明日締め切りの報告書を見つめて嵐山に返事を返すと、隣で額を擦っていた慶が俺と嵐山を交互に見てから「なんだお前ら…………」と呟いた。なにが。すると電子レンジの前から此方に歩み寄ってきた迅が嵐山の隣に座ってため息を吐くと「おれたちには真似できないよ、太刀川さん」と言って憐れみの視線を慶に向けていたので俺と嵐山は首をかしげる。

「てかさ、取り敢えず明日の分のもやっちゃえよ」
「余裕は持っていて損はないですからね」
「ほら、餅もあと十五分くらいで出来るらしいしさ」
「…………それもそうだな」

二人のさっきの憐れみの視線に少し疑問は残るが、俺のムチの言葉と嵐山の正論と迅の飴の言葉に説得された慶が珍しく締切日前日なのにやる気を出したのでどうでもよくなった。







そして十五分後。
ピーピー、という電子レンジからの『できたよ!』的な意味合いの音を聞いた俺は報告書を書いていた手を止めて立ち上がろうとしたが、さっきから報告書に目を通していた嵐山が休息を求めている視線を向けてきたので、俺は腰を椅子に戻し「めんどくさいから、嵐山行ってきて」とわざと頼む。

「、まかせろ」

テレビ向けの笑顔に三割くらい疲れが入ったような笑みを向けてきた嵐山に同情し、無言で報告書と格闘している慶に「生きてるか、?」と肩を揺する。

「…………聞いてくれよ名前」
「んだよ」
「この時間ものすごく集中できた気がするから褒めてくれ」
「よくやった」
「そうじゃなくて、孤児院のやつで」
「…………絶対無理」

無表情で何を言い出すかと思えば、まさかの良くできましたのチューの催促だと誰が想像しただろう。しかも二人きりならともかく嵐山と迅が居るなかでそんなことをしたら、確実に『名字名前はホモ』とかいう噂がねじれて出来た印象が強くなるに決まってる。
                 
「まあ、そうだろうな」
「…………わかってんなら言うなよ」
「いやいや、分かってても言うことに価値があるんだぜ?」

無表情でグッドサインを突きつけられても内容が内容だから全然響かねえー、とか思っていると慶の言葉を聞いた後、多分迅からだと思われる強い『同意』の視線に疑問を感じた。なんの同意だよ。

「旨そうに出来てたぞ」
「おおー、天才かよ」

餅を移しかえてくれたらしい皿を両手にもった嵐山に慶が釘付けになってるのを見て少し微笑む。
こいつなんでも天才扱いするんじゃね? この前うどんになんかトッピングしたときもそうだったな。

「俺は要らないから慶二つ食っていいよ」
「マジか」
「うん、マジ」

甘やかしているとわかっていても、こういうキラキラした顔されるとどうしても弱い。前に孤児院の前でアイス取られたときと同じ気持ちだ。
そんな俺たちを嵐山は微笑ましそうに笑って皿を机の上に置き、迅は「はいはい」と煩わしそうに言ってから嵐山が持ってきたフォークで餅を刺して食べる。

「おお、うまい」
「俺も食うかな、」
「おっ、んじゃあ、俺も」

フォークが二本しかないのでもう一本を嵐山が使い、慶は熱そうだけれどなれた手つきで餅を手でもって食べる。ぱくぱく、パリパリと三人が食べているのを眺めてから途中でやめた報告書に手をつけると、隣で慶が「また今度呼んだらこれ作ってくれよ」とモゴモゴしながら話すので、俺は目を擦りながら口を開く。

「いいけど、材料揃えておけよ」
「なに買えばいいんだ?」
「…………自分がピザに必要だと思うもの?」

咀嚼音だけが響く部屋でぺらぺら、と今日提出の報告書を参照しながら空白を埋めていると、いきなり慶の足元にあった鞄からピリリリリリ、という機械音が鳴り響いた。慶と迅は餅をくわえながら首を傾げ、嵐山は口のはしにケチャップを付けて「電話か」と小さく呟く。
けれど何故か本人の慶が動こうとしないのでどうしたの、と言おうとして視線を報告書から隣の慶に向けたが、尋ねる前に慶の手元を見てすべてを悟った俺は椅子から立ち上がって慶の鞄のなかをまさぐる。そして見慣れた携帯を取り出し、ふーん、と小さく呟きながら画面を見ながら椅子に戻る。

「こう…………出水くんだわ」
「んあー、出るかー」

もぐもぐと餅を伸ばして食ってるけどな、とか思いながら勝手に着信に出て携帯を自然に慶の耳に当てる。

「もしもし? …………どしたおまえ? あ? あー、まあ言ったな」

慶の耳に携帯を当てながら俺は自分のポケットから携帯を出し、カメラを起動させて『同情』の視線で俺を見つめてくる二人のうちの嵐山を不意打ちで撮る。すると、嵐山は落ちそうになったベーコンを手で受けながら「ん!?」と言って目を見開いた。
おおー、流石写真写りがいいねー、口のはしにケチャップついてるけど。

「はい迅、ぴーす」
「、ん」

二番目の迅にはカメラを起動していることがバレたので適当にポーズを催促すると、ノリよく迅はフォークに刺さった餅をくわえたままフォークを持った方の手でピースしてくれた。
おお…………よし、これは塁に自慢しよう。勇の前以外で。

「あーつか、俺じゃなくて本人に聞け、…………いやいや、ここにいるし、っうるせえな…」

慶は煩わしそうにそう言うと俺の方をチラリとみて携帯から顔を離して「お前にだ」と呟いて、何でもないような顔をして餅にかじりつく。
片手に放置された慶の携帯の画面に公平くんの名前が映し出されたままになっていることを確認し、すこし嫌な気持ちになりながら自分の携帯をポケットに仕舞い込んで椅子から立ち上がって三人の話し声を背後にソファへと移動する。

「あー、えっと、もしもし?」
『はあ!? ああああもう名字さん!?』
「え、うん、」

ソファの上にある自分の荷物を避けてそこに腰を下ろしながら、ものすごい勢いで俺の名前を呼ぶ公平くんの声を聞いて苦笑いを浮かべて「大丈夫?」と続ける。

『、大丈夫ってか、そのおれ…………名字さんに謝りたくて、その』
「? 謝る?」
『あー、その相談するために太刀川さんに電話したのにさあ!!』

布の擦れるような音が向こうから聞こえてくる。
この時間帯ならもう家かな。きっと勇気を振り絞って慶に電話してきただろうに蔑ろにされて、聞こうと思っていた相手に勝手に代わらされて、戸惑いつつも言葉にしようとしてるんだろう。

「あー謝るのは俺の方だよ、だからさ謝らないでい、」
『嫌だ』
「へ?」
『、あのさ、おれが良いって言うまで聞いてくんね?』
「え? あ、うん?」

嫌なの!?
百歩譲ってダメとか、申し訳ないからとかならわかるけど、そうじゃなくて嫌…………なら仕方ないか、嫌がることはさせられないし。なんて思った俺は渋々口を閉じて言葉を待つ。すると公平くんは一つ息を吐いて呼吸を整えてから、冷静な声のトーンで話し出した。

『おれは太刀川さんから色々聞いてたしエレベーターでも聞いたから色々考えたなんて言ったけど…………全然考えが足りなかったなって思ってさ』
「…………」
『さっき、米屋から「名字さんが心配してた、怖がらせたとか言ってた」ってメール来て、おれが名字さんに心配させてどうすんだよとか考えたら…………おれ馬鹿だなあと』
「、…………」
『だから、わるかった。でも名字さんの未来こと見て見ぬふり出来る自信もねえし、したくねえ』
「……………」
『……………ごめん』
「…………もういい?」
『、おー』

さっきから言葉の合間に鼻をすする音が聞こえて気が気じゃなかったけれど、やっと本人から喋る許可が出た俺は、出来るだけ安心できるように言葉を選ぶことを心掛けながら言葉を紡ぐ。泣いてるわけじゃないんだろうけど、それでもなにかが嫌だから。

「…………電話とか苦手だから上手く言えないかもしれないけど。俺はすごく申し訳ないって思ってて、でも、それ以外にちょっと嬉しいんだよね」
『、なんで?』
「俺のことでそんな風に心配してくれる後輩が居てくれて、俺ってほんと恵まれてるなって思って」
『…………そんなん知ったら、誰だって心配になるだろ』
「たとえそうだとしても今それを知ってる後輩は一人だけだから、嬉しいよ。だから代わりにありがとうって言っとく」
『…………変な人だな、ほんと』

そう言いつつ少し笑ったような雰囲気になった電話の向こう側に少しホッとしながら、台所からジャーッと水を流す音が聞こえて視線をそちらに向ける。あー、慶が皿洗ってんのか。ちょうどいいや。

「死ぬ未来のこと慶には言わないで、てか、誰にも言わないでな」
『言わねえよ。それが"誰かのため"……太刀川さんのためっていうのは、今のおれでもわかる』
「…………ほんと、いい子だね。目の前にいたら抱き締めてた」
『ふーん、ちょっと残念』
「……かわいいこと言うじゃん」

ジャーッと水を流しっぱなしにして食器を洗う癖がある慶には今の会話は聞こえないだろう、と踏んで再度口止めをしてから体の向きを戻す。

『それで名字さんは幸せなのかよ』
「うん」
『嘘だろ、』
「嘘じゃない、そのことが"今の俺の本心じゃなくても嘘じゃいけない"からね」
『じゃあ、それが本心だな』
「…………公平だから教えてあげたんだよ?」

くつくつ、と笑いを止めながら言葉の端をあげて言えば、公平は『よ、呼び捨てに、なったのかよ』と動揺しながら呟いた。
あーあ、ほんとに目の前にいてくれたら良かったのに。いまの公平絶対かわいい。

「嫌?」
『い、嫌じゃねえけど』
「じゃあ、俺も名前で呼んで?」
『あー…………名前さん』
「そうそう、いい子いい子」
『…………ほんっっっと、ずるいし意味わかんねえ!』
「はは、そんな俺が心配なんだろ」
『うわーうっざ、今のは太刀川さんレベル』
「は!? マジで!? 慶と同類はやだ!」

公平にうざい、きもい、と言われるのは慣れているけれど、慶と同列に扱われるのは解せないと思い電話越しに叫べば、皿を洗っている慶が「呼んだかー」と言ってきたので顔をそちらに向けて首を横に振る。舌打ちを足して。戦闘と指揮を執ること以外ではことごとく残念な慶と同列なんて、不名誉でしかない。

「…………取り敢えず俺は俺で頑張るけど、もし辛くなったら助けてね。勿論俺も公平のためなら出来る限りなんだってするよ」
『そんなん、もう言われたから分かってる』
「ん?」
『"誰かのため"の中におれも入ってるんだろ?』
「、話が早い」
『…………だったらちゃんとおれにも甘えろよ、それがおれのためになると思ってさ』

どこまでも適切な言葉で俺の逃げ道を塞いでくる優しい公平に苦笑いしながら俺は立ち上がり、背筋を伸ばして視線を足元に落とす。
与えられるだけの自分から早く卒業しないと。
ボーダー隊員としてはまだまだだけど、それでも。

「うん、じゃあまたね、公平」
『…………、おう』

呼び捨てられるのに慣れていない様子の公平が戸惑ったように返事をした声を聞き、慶の携帯の通話を終了させて画面を見つめる。もう七時半過ぎだ。千五百円は確定。初期設定から弄っていないのであろう待受画面に浮かぶ時刻表示を見つめて、俺は改めて自分が公平に言った言葉と、指摘された自分の未来に思いを馳せる。

「…………あー、」

今の俺はくそ野郎だ。いや、昔からの俺もくそ野郎だ。

まだまだアキちゃんに近づけてない…………いや、というより、そこだけは多分絶対変えられない。
元々の俺の名字名前としての積み重ねが有る限り。
でもだからって役割を果たせない訳じゃない、だったら、多くを一人でなんとか出来る位まで成長しなきゃ。公平にも慶にも迅にも、誰にも心配されないように。

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