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 三月三十一日の午後四時、この時間帯なら迅もトリマルくんも居るということで、スーパーの近くにあるケーキ屋に寄り比較的安いシュークリームを適当に九つと普通の値段のいちごのショートケーキを二つ買い込み満を持して玉狛支部に向かうと、予想していた通り小南さんや陽太郎が居間にいたのでケーキ屋の箱を渡す。
俺としては感謝と謝罪を込めて迅とトリマルくんにショートケーキを買ってきたつもりだったけれど、何かを言う前に小南さんがショートケーキを選んだので俺は「どーぞ」と笑顔でそれを差し出すしかなかった。ほら、女の子がショートケーキ食べてる姿って正義じゃん。
そして陽太郎は安定のシュークリームを頬張り、口にクリームを付けながらうまいうまいと連呼し出したので、俺は残りのケーキを冷蔵庫に仕舞いつつ「よかったねー」と頷いた。ほら、幼い子がほっぺたに何かを付けて食べてる姿って正義じゃん。

「てかあんた、その首の絆創膏どうしたのよ」
「…………えっと、ちょっと爪で引っ掻いちゃって」

首筋に貼ってある大きめの絆創膏を指差して素っ気なく言い放つ小南さんに苦笑いし、絆創膏を手で隠しながら嘘をつく。血のにじんだ歯形とキスマークが付いてるので、なんて言えるはずもないから。

「あーえっと、そういえば、玉狛って迅の誕生日に何かするんですか?」
「誕生日? もうそんな時期?」
「あと九日ですよ」

フォークを使って上品にショートケーキを口へ運ぶ小南さんにそう答えつつ、冷蔵庫の扉を閉め、紅茶のある戸棚を開ける。勝手に使っていいってレイジさんに許可を貰っているのでたまに紅茶目当てで居間に来てたりする。

「多分誕生日パーティーとかはすると思うけど、なに? 参加したいわけ?」
「いやまさか。誕生日プレゼントとか、被ったら申し訳ないなと思っただけですって」

初対面から一ヶ月以上経った今でもツンツンした性格は変わらず、玉狛支部に所属しているわけでもないから当たり前なんだけど、部外者扱いされて少し寂しい。いやまあ、部外者だけども。
それに誕生日パーティーに参加するなんておこがましいことはもう二度とやらないと心に決めているので、そういう扱い方をされるのは願ったり叶ったりである。
ぱた、と紅茶のパックを戸棚から取りだし、目についたカップを取ると「あんたまた紅茶飲むの?」と聞かれたので肯定する。

「じゃあ、あたしたちの分もよろしく」
「あ、はい」

さっきまで陽太郎は緑茶飲んでた気がするけどな、なんて思いつつカップをもう二つと紅茶用の白いポットを取り出して台の上に置く。砂糖とか、一応持ってくか。

「で、あんたはなにあげんのよ」
「え? あー、誕生日プレゼントなら決まってません…………というか、皆さんの意見を聞こうと思って」

白いポットに紅茶のパックとお湯を流し込み、蓋を閉めて蒸らしながら机で頬杖をついてこちらを見つめる小南さんに苦笑いを浮かべる。すると小南さんは驚いたように目を見張ってから素早く顔を逸らし、どこに向かって言ってるのか分からないけれど「使えないわねー」と言葉を放った。

「おれは、迅のもとめているものがわかるぞ」
「え? なに?」
「それはな…………愛だ」

カップにお湯を入れてカップそのものを温めながら適当に陽太郎の言葉に反応すると、どや顔で深いことを言ってきたので少し驚いていたが、目の前にいた小南さんが「どこで覚えてきたのよ」と言ってチョップをしたので陽太郎はムッとしてパンパンと手を机に叩きつけた。
その振動に溜め息を吐きつつ紅茶のパックを抜き取って、カップのお湯をシンクに捨ててからそれらと布巾をトレーに乗せて運ぶ。

「はいはい、机叩くのやめてー」

トレーを机の上に置いてから小南さんと陽太郎の前にカップを滑らせ、それぞれに紅茶を注いでから濡れた布巾で陽太郎の手についているクリームをを拭う。

「……、世話焼きよね」
「まあ、俺の住んでる孤児院にはたくさん年下がいますから」
「ふうん、子供好きなの?」
「好きっていうか、構いたくなるんです」

大雑把に手を拭ってから陽太郎の隣の席に腰を下ろし、自分のカップに紅茶を注いでゆらゆらと揺れる水面を見つめる。
えっと、迅の誕生日プレゼントの話は…………あ、愛で終わったのか。

「てか、愛はちょっとハードル高いですよね」
「はあ? 本気にしてたの?」
「え、まあ折角教えてもらったんで」

音をたてないように紅茶に口を付けて首を傾げれば、小南さんは珍しく俺に『同情』の視線を向けて「はいはい」と受け流す。なぜだ。貶されたのかよく分からない視線に悩んでいると、ガチャリと開いた扉からトリマルくんが現れたので、カップに口を付けながら軽く手をあげる。

「名字さん、もう来てたんですか」
「うん、あ、学生証のお礼にケーキ買ってあるよ」
「マジすか…………って首大丈夫っすか」

そう言ったトリマルくんは近くのソファに鞄を下ろしてからそのままの足で台所に向かう途中で俺の首の絆創膏に視線を落とし、冷蔵庫を開けてがさごそと漁る。

「ほっとけば治るらしいわよ。あ、とりまるも紅茶居るならカップ持ってきなさい」
「ああ、はい…………てか、何でこんなシュークリームあるんすか」
「え? いやなんとなく、エンジニアさんとか居るじゃん」
「律儀っすね」

小南さんに代わりに返事をしてもらってホッとしながら、そう言って何故かシュークリームらしきものとカップを持って出てくるトリマルくんに苦笑いを溢す。ショートケーキは誰に渡るのだか。

「トリマルくんは、迅に誕生日プレゼントとかあげるの?」
「ああ、はい。まあ、安いのしか買えませんけど」
「値段は関係ないよ、陽太郎が言うには愛が大切なんだってさ」
「おお、なまえはのみこみがはやいな…………」

陽太郎は俺の言葉に感心しながらカップ…………まあ、俺たちより飲み口が少し小さい耐熱容器を持って頷くが、椅子に座って話を聞いていたトリマルくんはもぐもぐとシュークリームに噛みつきながら俺をみる。かわいいなおい。まあ当たり前なんだけど噛みついたままで喋れる筈もなく、俺は減った紅茶に視線を落としながらサイドエフェクトを意識させ、視線を読み取ってから言葉を紡ぐ。

「いやまあ、具体的に愛とかなんだって言われたらわかんないけど」
「…………」
「あー俺は、さっきも小南さんに言ったけど決めてないんだよ」
「…………」
「え、流石にそれはギャグ過ぎない?」



「ちょっとあんた、さっきからなに一人で喋ってるのよ」

紅茶を見つめながら話していたのが悪かったのか、小南さんはドン引きした目で俺を見つめて眉を寄せるが、隣で黙々とシュークリームを食べていたトリマルくんがやっとシュークリームから口を離して「サイドエフェクトっすよ」と助け船を出す。
というか、何故同じ玉狛支部でもトリマルくんは知ってて小南さんは知らないんだ。

「なに、あんたサイドエフェクトあるの?」
「視線を読み取るサイドエフェクトですよ。たしか『視線干渉』」
「視線を読み取る? なに考えてるか分かるってことなの?」
「まー、そんな感じです」
「ああ、今のはとりまるの視線を読み取ってたのね」

サイドエフェクトの大まかな受け取り方に頷く俺に小南さんが安心した視線を向けてから、隣のトリマルくんに何かを言おうとして少し黙り込んでから「あんた口にクリームついてるわよ」と軽く指摘する。

「マジすか、とってください」
「はあ? 嫌よ」
「そんなんだったら彼氏できませんよ」
「か、関係ないじゃない!」

なかむつまじく言い合う二人を眺めながら紅茶のおかわりを足し、シュークリームを食べ終わって布巾で手を拭いている陽太郎を横目で確認する。
平和だな、ここはホントに本部と違って楽だ。多分噂が出回ってないからっていうのがひとつの大きな要因なんだろうけど、それを気にしないでくれる人達ばかりだから楽なのかもしれない。
玉狛支部に転属してきた二人はどういう理由でここに来たのか知らないし聞けるはずもないけれど、来たときに俺と同じような気持ちになっただろうか。

「名前! ほんとなの!?」
「…………え? な、なにがですか?」
「名前がとりまるの親公認の彼氏だって!」
「なんでそ、…………の事を?」

なんでそうなった、と言いそうになったところをトリマルくんの視線で阻止されて、ゲイ疑惑があるというのに自分からそっち側へと突っ込んで行ってしまった。
くそう。ていうか話進みすぎじゃない? 名字のことってこの前栞ちゃんと話したことをネタにしたよね?
考えに耽っている間も俺の言葉を聞いた小南さんが「また裏切ったわね!?」とわなわなと震えながら俺に指差して言ってくるので、俺は気が気じゃなくてトリマルくんに視線で訴えかける。

「小南先輩、嘘です」
「…………え?」
「俺の名字を渡したとかそんなんないですし、そもそも俺は彼女側になるつもりはないです」
「だ、だましたの!?」
「すいません」
「す、すいません…………てか、撤回するのそこなのか?」
「はい、俺は男ですから」
「いや待て、俺もだ」
「はあ、ていうか、裏切ったってなんのことっすか?」

真顔で俺が女役だと言ってくるトリマルくんに変なことを思い出しつつ眉間を寄せて反論すれば、トリマルくんは妙に何かに引っ掛かったような口ぶりでそう言って隣の小南さんを見つめる。
裏切った…………? 俺もわからんな。なにか約束したっけ。てか一回でも裏切ったっけ。
すると小南さんは自分が失言したことに気づきあたふたと手振り身ぶりを大きくして誤魔化そうとするが、結局面倒になったのか「ああああもう!」と机を叩いて俺を睨み付けてまた指をさす。

「あんたのせいよ! もう知らない!!」
「えっ…………すみません」
「あ、謝ってんじゃないわよ!」
「えっ…………」

小南さんの表情と視線に謝るしか選択肢がないと思って謝ったのに、結果怒られた。そして小南さんは「ごちそうさま!」と律儀に言ってから机に手を叩き付けて乱暴に立ち上がり、椅子をガタンと傾けさせてからまた乱暴に扉を閉めて出ていってしまった。
そして急に訪れた静寂の中で目の前のトリマルくんと目を合わせて首を傾げ合い、答えが出るはずもないと悟って話題を戻す。

「そういえば迅さん、ここ最近本を読んでることが多いっすよ」
「本? 俺は読まないから分かんないけど、本読むときってなんかいるの?」
「さあ…………普通にしおりとかですかね?」
「あ、なるほど」

しおりとか勝手についてくるモノ以外で使ったことないな。ていうか、しおり単体で売ってるもんなのか。ふむふむ、と俺の知らない界隈の話に頷きながら、隣の陽太郎が席から降りていったのを横目にカップを持ち上げる。

「よし、考えてみる」
「お役にたてたなら良かったです」
「うん、ありがとう」
「いえ…………あ、陽太郎が迅さんの本持ってきましたよ」
「えっ」

俺の後ろに視線を向けて口についたクリームを舐めとるトリマルくんの言葉で後ろを振り向くと、一冊の本を持って俺の足の近くに寄ってきた陽太郎が「これだ」と誇らしげな顔して本を渡してくる。

あ、これ、俺があげたやつ…………下巻だ。
見たことのある花のイラストの表紙に瞬きをしながらページをぺらりと捲り、前半部分にノートの切れ端ようなものが挟んであるのを確認してから最初の遊び紙の次のページから小説の本文に入るまでずらりと花の名前と花言葉が載っているのを眺めて目を細める。これ、絶対読み飛ばすところだよな。

「おれは、われもこうだ」
「へ? 我も請う?」
「それか、せんにちこうだ」
「千日請う?」

ふん、と鼻をならして興奮したように言われたが、意味がわからず首を傾げれば陽太郎が本を指差して「はなの名だ」と言ってどや顔をする。
その言葉に「われもこう」と「せんにちこう」がこの花の一覧に書かれているのだと察して探すと、本当にその二つがカタカナで書かれていて、その隣に日にちが記されていた。って今気づいたけど、これ誕生花か。
ワレモコウは感謝、変化、愛慕、移りゆく日々。
センニチコウは変わらぬ愛情、安全。
他にもあるけれど、確かに陽太郎に似合うのはこの二つだな。

「へえー、誕生花って一日に何個もあるんだなあ」
「誕生花? おあつらえむきですね」
「え? あーいやいや、男が男に花なんて…………」
「いいじゃないっすか、似合ってますよ」
「ん? それ誉めてる?」

そう言ってぱくり、と最後の一口のシュークリームを噛み締めるトリマルくんに苦笑いを浮かべながらも手が無意識に四月九日の誕生花を探し、そこにあたるページを開く。

「なにがかいてある?」
「迅は…………サクラとか、ペーパーカスケードとか、」
「ぺーぱー、かすたーど?」
「ペーパーカスケード」
「陽太郎のだと紙のカスタードになりますね」
「むなしいな」

意味は、小さな思い出。まあ、流石にミモザとかよりはマシかな。
頭に疑問符を浮かべる陽太郎の頭を撫で、誕生日プレゼントをペーパーカスケードに決めた俺は笑みを浮かべてついでにトリマルくんの誕生花を調べる。たしか携帯の連絡先を交換したときに登録されてたのを見て…………五月九日だったかな、迅と一ヶ月違い。

「トリマルくんは、ミズキ、ヤエザクラ、とかだってさ」
「へえ、それはどんな意味っすか」
「ミズキは成熟した精神、ヤエザクラはしとやか」
「…………合ってないですね」
「そう? …………、あ、めっちゃ合うの見つけた」
「え、なんですか」
「…………言わなーいもん」

紅茶に口をつけてから聞いてくるトリマルくんに、俺は意地悪して本を閉じ、自分の背中の後ろに隠すとトリマルくんが一瞬ポカンとしてから「何かわいこぶってんすか」と乗り出して俺の腕をつかんで本を取り上げようとしてくるので、そのトリマルくんの体重を片手で支えながら俺が近くにいた陽太郎に「へい、ぱす!」と言って渡す。すると、陽太郎がキメ顔をしながら「まかせろ」と呟いた。さすが。
そして小南さんが乱暴に閉めた扉を雷神丸に乗った陽太郎が開け、本を持ってどこか…………多分迅の部屋にそれを戻しに行ったのを見つめてから、俺は机越しに俺の腕を引いて『逃がさない』という視線を向けて答えを求めてくるトリマルくんにひきつった笑みを返す。

「あの…………落ち着いてね?」
「言ってくれたら離します」
「あーほら、トリマルくんの誕生日のときにあげるから! その時教えるから!」
「…………約束ですからね、」
「わ、わかったってー」

机に乗り出して俺の両手をつかんで体重をかけてくるトリマルくんにへらへらと笑って約束を取り付けて許しを請うていると、キキー、と陽太郎が閉め忘れた扉が開いた音が部屋に響き、陽太郎戻るのやけに早かったな、とか思いつつ二人でそちらを向く。

「…………」
「…………」
「ああ、おかえりなさい」

すると目を向けた先には雷神丸に乗った陽太郎ではなく、用事を終えて帰ってきたらしい迅が『気まずい』という視線を俺に向けて立っていた。俺はそれを不思議に思ってサイドエフェクトを意識しようとしたがその前に視線を逸らされる。本能的にそうしたのか、未来を視てそうしたのか、あるいは俺のサイドエフェクトを警戒してそうしたのかは分からない。

「迅さん、遅かったっすね」
「おー、まあねー」
「…………迅、おかえり」
「はいはい、ただいま帰りました」

ははは、と視線を逸らしながら俺達の言葉に答えていっこうに部屋に入って来ない迅にトリマルくんが至近距離で首を傾げて俺を見てくるので、俺も首を傾げた。
するとそんな俺たちを見た迅が「あー、」と声をあげてから先に部屋に戻るわ、と言い放って最後までこちらを見ずに去っていったので少し不思議に思いながらもトリマルくんの手を離す。

「あ、陽太郎大丈夫ですかね」
「え?」
「一応、勝手に本を持ち出してきたわけですし」

そんなことで迅さんが怒るとは思えませんけど、と付け加えるトリマルくんに息を吐きながら椅子から立ち上がり、座ったまま見上げてくるトリマルくんに「見てくる?」と誘うが、普通に『億劫』という視線を向け、カップを持ち上げながら「遠慮します」と断られたので仕方なく一人で迅を追う。まあ、紅茶飲んでた方が有意義だわな。
一人で立ち上がった俺は追いかけるためついでに開けっぱなしだった扉を閉めつつ、廊下の先に青いジャケットを着た迅が見えたので曲がり角を曲がられる前に「迅!」と叫んで呼び止めて駆け寄る。

「おーおー、どした?」

足を止めてはくれたが、視線を横に向けて俺と目を合わせようとしない迅に何となく、本当に何となく本部でのC級の人たちの態度を思い出して寂しくなるが、全体的に俺がサイドエフェクトを持ってることが影響しているのでワザワザ他人に文句は言わない。それに今は時間稼ぎが出来ればいいし。

「あの、さ、」
「あー…………さっき変な態度とって悪かったよ」
「…………じゃあ、何で今も俺の顔見ないの」
「…………それはまあ、それとして」

時間稼ぎのための話題を考えなくてもよくなったけれど、頬を掻いて反対方向に視線を動かす迅に思わず眉を寄せ、俺も迅から視線を逸らしてため息を吐く。

「もういいや、」
「っえ」
「取り敢えずお前に迷惑かけた代わりにケーキ買ってあるから、腐らないうちに食べて」

目を合わせたくないなら強要はしない。どうせ陽太郎も多分怒られないだろ。それに、ただでさえ迷惑をかけたばかりの人に嫌われるようなことをする必要もない。
そう乱暴に事を決め付けた俺は少し寂しさを感じつつ、こちらを向かない迅に手をひらひらと振ってから背中を向けてトリマルくんのところに戻ろうとする。

「ちょ、待った」

すると、俺が後ろを向いた途端『焦り』の視線を俺に寄越し、いきなり俺の両肩にガシッと手を置いて身体を固定してきたかと思うと「こっち見ないで、」と言葉を吐いた。は?

「? おまえが俺を見てたらサイドエフェクト関係ないだろ」
「さ、サイドエフェクトとかじゃなくてだな」
「…………サイドエフェクトじゃないの?」

振り向こうとすると肩に置かれた手の力を強めて前を向けさせられるので、仕方なくそれに抗わずに前を向くと、迅はホッとしたような視線を向けてから直ぐに疑問の視線をぶつけてくる。

『あれ、なんで引き留めたんだっけ』



どういうことなんだよ。


「…………迅の顔が見たい」
「それは、今は無理っぽい」
「今は?」
「…………もう少しして、忘れた頃になら大丈夫なんだけどな」

その言葉の聞こえ方に違和感があったのと視線が読み取れなくなったことを感じ、今の迅が下を向いているのではないかという仮定をたてる。そしてその仮定を信じて身体をなるべく動かさないようにして顔だけをちらりと後ろに向けてみると、仮定通り下を向いている迅の頭が見えたので、何となく顔を覗きこむ。

「…………えっ」
「ちょ、見ないでって言わなかった?」

するとそこには眉を寄せて頬を赤らめた表情があり、俺に覗き込まれたことに気付いた迅がバッ、と俺から離れて両の手のひらで顔を覆った。
そのせいで視線が読み取れなくなったけれど、耳まで赤くしている今の迅が照れていることくらいサイドエフェクトが無くても分かるし、そうやって照れて逃げられると本当に嫌がってる訳じゃないって分かっちゃうから…………つい、構いたくなる。
迅、と呼んで一歩近付くと、迅が廊下の壁際にしゃがみこんで意地でも顔をあげません、という体勢をとって「ストップストップ、」と俺に手のひらを向けて言う。

「何が無理なんだよ」
「えーあー、顔を見るのが」
「、見られるのが、じゃないんだ」

壁を背にしてしゃがみこむ迅の前にしゃがみこみ、方手で顔を覆ったまま膝に顔を埋める迅の赤い耳をくいっと少し引っ張る。身動ぎするのがちょっとかわいい。かわいい? まあ、かわいい。

「迅、何で俺の顔みて照れる?」
「、かっこいいから」
「嘘つくな」

そんなんだったら今さら照れるわけないだろ。なんて自意識過剰のようなことを考えていると、肩を落としてため息を吐いた迅が諦めたように手を緩め、指の隙間からちらりと俺を見てまた眉を寄せて視線を逸らす。





「…………な、何で今『欲情』した、?」

ちらりと見られたときの視線があまりに非現実的過ぎて思わず何も考えずに声に出すと迅がまた溜め息を吐いてから手を外し、背中に体重を預けてから横目で俺を見つめて「名字のクラスメートのせいだ」といじけたようにポツリと呟く。流し目がいつもいやにさまになるよな、こいつ。
てか、クラスメートって…………倉須のこと、だよな。

「あの未来視てからまともに名字の顔見れないし、絆創膏の意味も分かるし」
「…………あ、と、といれの」

この前電話してその事に触れたときにはあんなに冷静だったのに、いざ会うと…………やっぱりダメなのか。
でも引くのは分かるけど、よ、欲情ってなると…………。
なるほど、やっぱり彼女が欲しくなくても人間の三大欲求ってのは、気の迷いで男相手に欲情するほど強いんだな。

「おれ、大分やられてる…………破壊力が高過ぎた、」
「、やられてるのは俺から見てもわかるよ」
「だってさ、あの泣き顔はずるいだろ」
「そ、そこ?」


いや、そこっていうか…………終始泣いてたからそこしかないのか。

「こっちは名字の顔見るたびあの泣き顔思い出すんだけど」
「それは、ごめん…………」
「いやごめんとかじゃなくてな、」

目の前で呆れたように座り込む迅に頭を下げて謝ると、後頭部を弱く叩かれる。いやでも、男友達が男友達にふ、ふぇらされてるのを見せられるって相当なことだよな。大抵の人のものは気分が悪いし、接し方に困るし、ていうか損しかないし、きっと迅みたいな優しい態度はとれない。

「俺は、どうすればいい? どうすれば普通に接してもらえるようになる?」

頭に置かれた手を掴もうとしたが、触るのもだめなのかもしれないと思い立ってそのまま自分の手を床に落とす。すると、迅はそんな俺の姿をじっと見てから俺の顔を両手で挟み、前に諏訪さんにやられたようにタコの口にしてきた。

「…………」
「…………?」
「さしすせそ、って言って」
「……しゃししゅしぇしょ」
「、ぶはっ!」

真顔の迅の言われた通りにさ行を言うと、迅はいきなり吹き出してからくくく、と笑って少しうずくまり、手を離してからまた俺の顔を見つめて「キス顔して」と笑いながら言う。そして従うしかない俺は、言われた通りに目を瞑って唇を少し突きだす。
なんなのこれ。

「うーん…………、太刀川さんの真似して」
「…………『テストは結果は見るの怖いから捨てた』」
「くっ……! 顔っ、! はは!」


因みに台詞は、確か中三の頃のノンフィクションだ。


「っ次、嵐山、!」
「えっ…………『やぁ名字! 今日は天気がいいな! 暇なら散歩でもしたいくらいだ!』」
「うははっ、声、! つか、言いそう、っ」
「言われた、しかもめっちゃ曇りの日」
「っあー、それ、絶対疲れてるときだな」
「うん、めっちゃいい笑顔だったけど焦点あってなかった」
「あいつは休むべきだよ」

はあ、と息を整えて涙を拭う迅に俺は少しホッとして笑うと丁度良く曲がり角から雷神丸に乗った陽太郎が視界の端に見えたので、迅の手を取ってから立ち上がり、引っ張って迅を立ち上がらせる。

「これで大分平気だな」
「ふーん? 顔見れる?」
「見てるだろ」

へらへらと笑う迅に俺は安心して手を離し、陽太郎の方を向いて迅に陽太郎の存在を知らせる。
迅の視線が俺から外れたのを感じ、俺の泣き顔がいまの変な無茶ぶりで上書きされたのかな、なんて漠然と考えながら近づいてきた雷神丸と手ぶらの陽太郎に小さくグッドザインを送ると、陽太郎は小さく頷き返してから何事もなかったかのように迅を見上げて口を開いた。




「おそかったな、ぺーぱーかすたーど」
「? ぺーぱーかすたーど?」
「、こらこら…………」

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