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 陽介や公平の言葉、三輪くんとの距離感、迅との信頼なんかで心の余裕が生まれつつあった日常にもやっぱり見てみぬふりは出来ない陰がある。それは言ってしまえばしこりのようなもので、いくら医者が正常だと訴えてもその塊が有る限り不安感を拭えないのと似ていて、いくら忘れようとしたってそれは無かったことにはならないし、忘れないようにさせてくる他人もいるのだ。
今日は高校三年生が始まって一週間。俺は一番後ろの席で教室全体を見回し、空席になっている斜め左前の席に少し眉を寄せた。俺の目の前の席の芽衣ちゃんが言うには風邪で休んでいるらしいけれど、どうも気になって仕方ない。倉須は風邪を引きません、だなんて言い切る根拠もないし風邪を引いているところを見たことだってあるから一概には嘘と言い切れないけれど、このタイミングで一週間連続休まれてしまうと深く考え込んでしまうのは当たり前なんじゃないかなと思う。現に、倉須と色々あった俺だけではなく何人かのクラスメイトも不思議がっているようだったし。だからと言って自分には家に突撃することも此方から連絡することも出来ない状況だからやっぱり何も出来ないで、ただ戻ってくるのを期待して待っているしかない。それがどうしようもなく不安でも。

「なあ、やっぱり倉須変じゃね?」

昼休み、俺が一人で食事しているのを見かねて集まってきてくれた委員長の言葉を聞き、示し合わせたように他の二人……茶髪とサッカー部のやつに視線をぶつけられた俺はパンを咀嚼しながらその視線に目を伏せる。

『なんか聞いてるだろ』『どうなんだ?』

知らねえよ。俺だって聞きてえよ。
なんてキレ気味に言えるはずもなく、咀嚼したパンを飲み込んでから「風邪って聞いてるけど」と芽衣ちゃんから聞いた言葉をそのまま返す。すると委員長もそれは知っていたらしく溜め息を吐いてそういう視線を向けてくると、箸を持ったまま言葉を続ける。

「そーじゃないだろ、多分」
「なんで?」
「……………なんとなく」

弁当箱に入っている黄色い卵焼きを箸で半分に割りながらそう言う委員長は、そのまま視線を落として自信なさげにそう呟いた。その様子を見たサッカー部のやつが少し考えるように天井を見つめてから委員長に視線を向け、あっさり簡潔に「嘘っぽいよな」と同意する。

「なんでさ」
「だってさ、ほら、なんか名字に何も言わないって変じゃん? それが名字から卒業するぞー! って意味だとしても、納得出来なくね?」
「あー名字離れって言っても、風邪引いてるけど心配しなくていいよ、くらいの連絡はあるべきだよな」

そう言ってモグモグと惣菜パンを食べるサッカー部と倉須の物真似をした茶髪の言葉を聞いて、俺はその隣にいる委員長に溜め息を吐く。
もしかして委員長今の俺と倉須との関係をこの二人に相談したんじゃないだろうか。いや絶対そうだ、サッカー部のやつが突然今の言葉のような発想になるわけがない。それはコイツの頭が悪いとか察しが良くないからとかじゃなく、このクラスメイト全体が俺と倉須の仲が壊れることはないと思っていて、倉須が俺から離れるなんて発想に至らないらしいからだ。

「いやその前に、本当に風邪を引いてるのかって話だろ」

そうストレートに言って卵焼きを完食する委員長の言葉に俺は心のなかで同意しつつ、水筒の蓋を開けてお茶で喉を潤す。その事について俺も真実を知らないので何も言えずただ食べ終えたパンの袋を伸ばして意味もなく結んでいると、なんだか染々と居ないのにこんなにも心配してもららえる倉須が本当に愛されてることを思い知らされた。
すると不意に背後から名前を呼ばれる。

「名字ー!」

後ろを振り向くと聞き覚えのある声から予想していた通り担任教師が教室の扉から頭を出して手招きしているのが見え、呼び出される理由に見当がつかない俺は目の前の三人と顔を合わせて首をかしげてから立ち上がったついでにコンパクトになったパンの袋をゴミ箱に捨てる。担任教師が変わったわけでもないからボーダー関連で呼びれることも無い、だったら成績のこととか委員会のとこか。
色々と見当をつけながら先生に近寄り「なんですか?」と尋ねると、先生は廊下まで俺の手を引いてから教室の扉を閉め、小声で申し訳なさそうに両手の平を重ねて頭を下げてきた。

「悪い、倉須に教科書届けてくれないかっ」

お願いポーズで頭を下げてくる担任教師に俺は顔をしかめ、放たれた言葉の内容に眉を寄せた。取り敢えずこっちが逆にお願いする形で頭を上げさせてから担任教師の『懇願』の視線を受けとめ、好奇の視線が少し向けられていることも加味されて俺は自分がえらく断りにくい状況に立たされていることに気がつく。
正直すごく断りたい、俺のためにも倉須のためにも。

「俺じゃなくても……………」
「? おまえ以外にいないだろ?」
「芽衣さんとか」
「いやいや、絶対お前の方が適任……あ、もしかして喧嘩してるか?」
「いやあの」
「おっ、じゃあ任せられるな?」
「…………………………はい」

なんともまあ押しきられる形で担任教師のお願い事を引き受けることになり、今日どうしても渡さなければならないのに会議で行けないという担任教師の代わりに重たい教科書の束を倉須の家まで届けることとなった。そこから職員室に寄って受け取った教科書の重さより、倉須の家に行かなければならなくなった自分の足取りの重さの方が遥かに大きくて、一度引き受けたことを取り消すつもりはないにしても辛いものがある。精神的に。
両手で何教科もの教科書を抱えながら教室へ戻ると、そんな俺を見た三人は一瞬で物事を察したらしく『同情』『安心』『心配』と様々な視線が向けられた。どさっ、と自分の机の上に教科書の束を置いてから自分の教科書を置き勉するつもりで机のなかに突っ込み、倉須の教科書を鞄の中へ押し込む。

「それ倉須の?」
「そう」
「真相解明出来んじゃん! やったぜ!」

委員長の言葉に簡潔に答えると、それを聞いた茶髪がキレのいいグッドサインを向けて笑う。こいつ俺の気持ちを知らずにいい笑顔しやがって、垂れ目の女の子のメアドゲット出来たのは誰のお陰だと思ってるんだ。いや、俺のお陰だと思ってるからこそこんなに真摯なのか。なんて八つ当たりの激しいことを考えながら「そうだなー」と軽く答えて自分の席に座る。

「俺は、お前と倉須が仲良さそうに話してるの好きだけどなあ」
「わかるわー、特に倉須の表情!」
「あーわかるわかる、」
「……………んなこと言われても、」

俺だって、一緒に居たい。けど叶わないことは分かってるし叶えちゃいけないのも分かってる。それに、倉須が何を考えているのかもまだ分からないから、やっぱり今の俺には同意はできない。
そんなことをへらへらと笑いながら考えつつ連絡を入れてから倉須の家に向かおうかなあなんて携帯を出そうとしたが、丁度タイミング悪く昼休みが終わったらしくチャイムが学校に鳴り響いた。

「おっと、次は英語か」
「うわーめんどくせー、特に宿題ー」
「あの先生の宿題って独特だよなー、うんうん」

昼飯の残骸を片付けながら英語という教科よりも先生自体に文句を呟く三人の変わり身の早さに言うほど三人は倉須と俺のことに関心がないことが分かってホッとするが、視線からは『どうせ仲直りするだろ』みたいなものが読み取れて、何となく俺もそんなに片意地張らなくても済むような問題なのかもしれないなあと感化される。それがいいことなのか悪いことなのか区別をつけられるような立場には居ないけれど、色々な問題を抱えている今の俺には有り難い感情の変化だった。



                 ◆◇


 見慣れた扉の前に立ち、重たいリュックを背負い直して何度目か分からないインターホンを押すと扉の向こうでその無機質な音が鳴り響いたが、いっこうに出る気配はない。ちなみに、五分ほど前からここに立ってインターホンを鳴らし続けているのは確実に倉須がこの家に居ることがわかっているからだ。ここに来る前、携帯で『家行くから』とメールで送ったのに返事がきていない時は家に居ないかもと思っていたが、三回目のインターホン音を聞いている途中どこからか『苛つき』の後に『驚愕』の視線が向けられたため、その視線が倉須のものだと確信した。
絶対そう、絶対!
自分でも何故めげずにここから離れようとしないとか分からないけれど、無意識にこのタイミングを逃したら二度と対面できないような予感を感じているのか、何年か前のときのような引きこもりに戻った倉須を想像してしまった俺は多分客観的に分析してみてもここから退くことはないだろう。もし、倉須が過去から進めるといいなと思ってしていた俺の言動が逆効果だったのなら、俺が責任をもってそこから這い上がらせないといけない。

「っていうのは理屈の話で、顔を拝みたいだけなんだよな」

ご飯はちゃんと食ってるか、ちゃんと睡眠とってるか、両親と会話はしているか、やつれていないか、一人で泣いてないか表情を見て視線を読み取って、ただ安心して帰りたい。それだけなんだけどなあ、なんてもう一度インターホンを押してから深くため息を吐くと、不意に『疑問』の視線をぶつけられ、背後から鉄製の門の開く音がした。

「あら、やっぱり名字くん? 久し振りね」
「っこんにちは、お久し振りです」

俺の名前を告げた声に振り向くと、そこには何ヵ月ぶりかに見た倉須の母親の姿があって、相変わらず綺麗でファッションデザイナーという職らしく流行を先取った服を着こなしている。多分。
この時間に帰ってくるなんて珍しい、というか帰ってくること自体が珍しい。倉須に似ている目元は優しく俺を見つめていて、視線が懐かしさを感じてくれているのを読み取ったので少し頭を下げてから笑顔を携えておく。

「息子に用事?」
「ああ、はい」
「……………あの子、最近学校行ってないでしょ」
「来てないですね」
「やっぱり。私が家を出るとき大抵寝てるから確認できないんだけどね、何となくそうじゃないかと思ってた」

そう言って紙袋を提げながら門の内側に入り、白の鞄から鍵を取り出して溜め息を吐く倉須の母親に俺は苦笑いを溢す。やっぱり倉須、母親に何も言ってないのか。前の幼馴染みのことについては家族ぐるみの付き合いだったから嫌でも母親に勘取られていたけれど、今回については俺と同じくちんぷんかんぷんなのかもしれない。倉須の母親は困ったような疲れたような表情で鍵を開け、俺を見つめて「もしかして、あの子出なかったの?」と聞いてきたので俺は隠してもどうせバレる嘘を吐く意味はないと思ったけれど、何となく倉須の体裁を庇って「今インターホン鳴らそうと思ってました」と返した。

「……………名字くんはスゴい子ね、相変わらず」
「? いえ、全然」
「……………そんなに速答する原因は知らないけど、少なくとも私にとってはスゴい子よ。息子のことをこんなに考えてくれるんだから」

どうやら思っていたよりもすぐにバレたことに多少驚き、サイドエフェクトを意識すると『さっきインターホンの音が聞こえたのに』という視線が読み取れたので誤魔化すように視線を逸らす。倉須の母親はそう言ってから扉を開き、どうぞと俺を招くので、少し躊躇いつつも一歩進んで玄関に足を踏み入れた。
見慣れた風景だ、本当に。中学の頃は殆ど毎日通っていて、倉須が学校に来ない度にここに訪れてはお節介を焼いて倉須に嫌がられたっけ。
高校に上がって倉須が学校に来るようになってからはゲームをしたり漫画を借りに来たり、話をしたり、当たり前のように時間を過ごして。この前は色々あったけど宿題もキチンと二人で終わらせられた。でも、そういうこともこれから無くなっていくのだろう。それが悲しいと思う俺は、やっぱりちょっと昔の俺を引き摺ってる。

「あの子どうせ自室だから、尻叩いてやってほしいの」
「……………はい」
「私や夫じゃ残念だけど難しいから、お願い」
「、はい」

馬鹿な俺。本当は嫌なくせに。
離れるのも、俺のいない世界に倉須を引き戻すのも、嫌なくせに。
でもだからってこの倉須の母親の頼みを断る気は全くないし、俺はそのためにここに来たんだから受け入れるのは当然のこと。間違ってない。
それに、母親が息子のことを他人に任せるっていうのは悔しいことなんだろう。多少『諦め』も入っているけれど、大部分が『後悔』に溢れた視線を浴びせられていても俺はきっとほんの少ししか気持ちの辛さがわかってあげられていないんだろうな。
そんなことを考えながら靴を脱いで家に上がり込み、それだけ述べてリビングに向かっていった倉須の母親の背中を見つめてから階段を上がって一つの扉の前に立つ。

「……………」

扉に付いているドアノブの鍵を見ると青い印が付いていて、それが鍵がかかっていない証拠になっている。俺にとってそれがもう意外だったけれど、それを眺めていると部屋の中で隠すでもなく物音がしたことにも意外性を感じた。中学で引きこもっていた時は鍵をかけて物音や返事なんて全くしなかったのに。過去に縛られていたあの頃とは、いい意味で少し違う。

「、倉須?」

こんこんこん、と緊張しながら扉をノックすると一瞬静寂が訪れ、はあーと深い溜め息が聞こえたかと思うと倉須の部屋の扉が開いた。そして目の前に現れた倉須は眉を寄せて扉に寄り掛かり、俺を見つめながらなにか言いたげに口を開いて何も言わずに閉口する。視線も戸惑っている。やっぱり俺のせいか、こんな状態になってるのは。

「……………顔色、良いみたいでホッとしたよ」

そんな沈黙を作る倉須にへらっと笑ってそう言えば、倉須はより一層眉間のシワを深くしてから無言で視線を下に落とした。少しの沈黙のあと、ぽたりと何かが視界の下方に映ったので俺もつられるように下を向くと、裸足の倉須の足の甲に透明な液体が一粒二粒落ちているのが確認できて、なんというか、俺はまたもや倉須を泣かしてしまったんだなあと冷静に考える。
俺より少し背の高い倉須に手を伸ばして頭を撫で、これが最後なら出来るだけ優しくしてやろうと思った俺はそのまま何も言わずに部屋の中に一歩入り、倉須の首に手を回して抱き締めた。

「よしよし」
「……………子供扱い、」
「おまえは子供だ」

母親を心配させてる子供だ。俺の肩を涙で濡らしていく倉須の頭を撫で続けるが、抱き締められたままの倉須が抵抗しないことに引っ掛かりを覚える。俺が嫌いになったわけではないんだろうか。少し落ち着いたらしい倉須の呼吸を感じとり、鼻を啜った倉須から手を離して部屋の扉を閉める。

「名字、」
「ん?」
「……………ごめん」

俺を見るでもなくフローリングの床を見下ろして鼻声で謝る倉須に俺は前に玄関で話したときのことを思い出し、改めて自分が原因で倉須を泣かせてしまったことに罪悪感を感じる。でもだからといって今回の俺は多分、間違ったことはしてない。

「倉須、何で学校来なかった? 風邪じゃないだろ」
「……………ごめん」
「何でごめんなの、」

俯いた倉須の目の前に立ったままカーテンすら開いていない暗くてじめじめした空間を見回し、昔の状態と既視感を覚えつつサイドエフェクトの通じない状態の倉須に視線を戻す。すると倉須は自分の拳をきゅっ、と握りしめ、無意識なのか指に爪を食い込ませていく。

「……………名字は、さ」
「うん?」
「……………ずっと俺のために傍に居て穴を埋めてくれてたのに、俺はそれだけで感謝するべきだったのに、好きになって迷惑かけた」
「……………」
「しかも、優しい名字は俺から離れていこうとしないって言うから、それに甘えて好きで居続けとようとまでした」
「……………うん」
「名字は俺のために傍に居てくれてたのに、苦しめた」
「、……………」
「名字が一緒に居たいって言ってくれたのは死ぬほど嬉しかった、本当に。けど、でもやっぱり俺は名字を見るたびに好きだなあって思うから、だったら名字のためにも俺のためにも会わない方がいいかと思って」

今まで溜め込んできたであろう気持ちをつらつらとぶつけられ、それを受け止めた俺は真摯に倉須と向かい合う。予想通り、やっぱり俺の言葉のせいで色々考えさせてしまっていたようだけれど、でも、それが少し嬉しいって思うのは最低だろうか。
薄暗い部屋の中、目の前の倉須の頭に手を乗せて「ごめんな、今の俺には無理だけど、昔の俺はお前のこと結構好きだよ」と呟けたらどんなに俺の心は救われるだろう、なんて思いつつ伸ばせない手の力を抜いて重たいリュックを下ろす。真摯だなんていっておいて、このざまか。この家にたどり着くまで何度もシミュレーションしてきた言葉を頭の中で反芻し、俺は自分が報われないという未来を受け入れながら言葉を放つ決意を固める。





「俺さ、ボーダー隊員なんだ」



「、え?」

俺の言葉に顔を上げた倉須に今日初めて目があった感覚を感じた俺は笑顔を浮かべ、いつも同じ場所に入れている訓練生用トリガーホルダーを手にとって倉須に見せる。すると予想した通り『驚愕』の視線から『悲しみ』の視線に変わったことを読み取れたので、俺はそのまま話を進める。

「今年の一月からボーダーになった。倉須と一緒に帰れなくなったのも、ボーダーの仕事が入ってたからなんだ」
「、っ何で」
「何でって………前英語の宿題のときも言ったけど、皆を守りたいから」

下に倉須の母親がいることを忘れるほど素直に今まで並べてきた嘘の種明かしをする。アキちゃんが居なくなってしまったことを知ってるから、それを思い出してくれてるんだろうか。指に爪が食い込んでいたほどの力はもうなく、放心したように濡れた瞳で倉須は俺を見つめてくる。視線も混乱しているようで、色々な感情が生まれては消えていく。それを読み取った俺もなんだか泣きそうになるが、泣いたらいけない気がして無意識に堪えてしまう。

「おまえはボーダーが嫌いだから言わないでいたけど、倉須が前に進むためにボーダーっていう機関が必要だと考えてお前を誘った。ダメ元だったけど倉須が入隊試験受けるって言ってくれて、滅茶苦茶嬉しかったし……………」

悲しかった、

「だから、前に俺が『倉須はいつか俺から離れていく』って言ったのは、ボーダーに受かった倉須がボーダー本部で俺の存在に気づいて嫌悪感を抱くだろうからって意味で……………、こんな風に倉須が苦しんでまで離れていかなくても良かったんだよ」

へらり、と笑いながらそう言いきって倉須の反応を待てば、倉須は考え込むように沈黙を作り出し、なにか言いたげに口を開いてはまた閉じた。
大丈夫、待てるよ。
そして言葉にする内容が決まったのか、倉須は息を吐いてから滲んでいた涙を静かに目に溜めながら言葉を放つ。

「名字はそれで、良かったの」
「……………良かったよ、俺の存在は倉須を過去に縛り付ける存在とも言えるから、離れられるならそれはそれでいいと思った」
「、嘘つき」
「……………嘘じゃない」
「じゃあ、何か隠してる」
「……………隠してる、でも言えない」

そう言うと、俺の言葉に眉を寄せたせいで倉須の瞳に溜まっていた涙が一筋伝っていく。間違ってないことを言ってる筈なのに、何で倉須は泣いているんだろうな。笑ってくれとは言わないから、怒って俺のことを突き放してくれたらもっともっと楽なんだよ。
すると倉須は俺に一歩近付き、距離を縮めてから力なく垂れていた俺の片手を弱くつかんで少し引っ張る。けれどそんな力で俺のからだが動くはずもなくそもそも強く引き寄せる気もないのか、ただ駄々をこねる子供のように俯いた倉須は俺の手を引く。

「名字、は、ズルい」
「……………うん」
「ズルくて酷い。俺のことを考えすぎてるくせにそれを一切伝えてこないのがズルくて、それが俺にとって正しいと思ってるところが酷い」
「、ごめん、」

俺の今日初めての謝罪に倉須は掴んでいる手の力を強め、顔をあげて俺の顔を見つめる。そして小さく息を吐き、決心した視線で口を開いた。


「そういうところが、……………大嫌いだ」






『大好き』


「……………そ、うだよな」

おい馬鹿。
俺に目線を合わせたまま言わなければ、俺は、こんなに泣きそうにならなくて済んだのに。

「俺は……………名字のことなんか代わりとしか思ってないし、近くに居たから自然に好きになっちゃってただけなんだ。それに俺の嫌いなボーダーに知らないうちに入ってて? 守りたい? ほんと勝手だよ」
「、ごめん」
「なのに俺のために、嫌われるって分かってて俺のためにボーダー薦めるとか馬鹿過ぎて同情する。だから同情ついでにボーダー入隊試験は受けてあげるけど、名字のことは、一生、一生許さないから」
「……………ごめん、ほんとうに」

正反対、放たれる言葉とは正反対過ぎる視線が容赦なく浴びせかけられ続け、それについに耐えきれなくなった俺はつーん、とする鼻の痛みを感じながらぼやける視界に倉須を映して謝罪の言葉を口にする。

「許さない、何年たっても忘れてなんかやらない。絶対この想いは倍にして返してやるから」
「、待ってるから、だから早く幸せになってくれ」
「わかってる、……………だからさ、」

倉須は途中までそう言いきると頬に流れていた涙を手の甲で拭い取り、そして俺の手を掴んでいる反対の手で今度こそ俺を強く引っ張ると、そのまま抱き締めてから俺の耳元に口を寄せた。






「それまで絶対、死なないで」
「っ、」


その優しい言葉を耳元で聞き入れ、その言葉がすーっとからだの中に染み込んでいく初めての感覚に俺は自然と涙を目に溜めていた。強く抱き締めてくる倉須の体温も耳元で鳴る鼻を啜る音も、全部手放したくない。けどそれが叶わないことを知ってるからこんなにも悲しいんだ。

「わ、かってる」
「、名字、」
「っ、俺は、消えて置いていかないから、」
「……うん、」
「この五年、間………身代わりにしかなれなくて、ごめん」
「っああもうそういうのズルいって、」

男二人、薄暗い部屋の中で抱き合って泣きじゃくって、多分、最後になるであろう時間を過ごす。なんだかそんな青春の一ページみたいなことをしているのが自分だなんて可笑しくて、倉須の叫びみたいな言葉を皮切りに俺は少し吹き出す。

「、はは! 学校で会ったらめっちゃ、気まずいやつだ、」
「……………た、しかに」
「……倉須は俺のことが嫌いだから、話すこともないだろうけど、うん、俺はちゃーんと見ててやるから」

倉須から離れ涙を拭きつつ強めに肩を叩いて笑顔を向けると、倉須は驚いたような表情をしてから複雑そうに「ああそう」と返してきた。なんだこれ、馬鹿みたいだ。そんなことを思った俺は一瞬で肩の力を抜き、倉須の腕から逃れて窓際に歩みを進めてからバッと勢いよくカーテンを開いて太陽の光を部屋に入れ込み、倉須を振り返って仁王立ちする。

「倉須は、もう過去に縛られてない。それにもし、もしなにかあったら連絡してこい」

ビシッと片手の人差し指を倉須へ向けて言い放つと、倉須は太陽の光を背にした俺に視線を向け、眩しそうに目を細めて今日初めての優しい笑みを浮かべながら「、考えとく」と呟いた。
視線は『ズルい』と読み取れた。そうか、うん。

「うんじゃあ、まあ、俺は教科書渡して帰るかな」
「おー……帰れ帰れー」

そう俺の言葉に返しながらしゃがんで俺のリュックに勝手に手を突っ込んで勝手に教科書の束を取り出す倉須を見下ろし、何だか悲しいのに強い安心感を抱いた。うん、倉須はきっと幸せになる。
ジジーッと俺のリュックのチャックを閉める倉須に息を吐き、窓際から離れてそのリュックを持ち上げると倉須も重たい教科書を机の上に置いてから立ち上がった。明るい場所で見る久しぶりの倉須の顔に俺はしみじみと嬉しさを感じ、これから未来に進んでいく倉須を想像してその未来に俺が関わらないとしても、ひっそり生きてれば良いなと思った。

「名字、あのさ、」
「ダメ」
「っちぇー、エスパーずりー」

こっちが染々と嬉しさを噛み締めているというのに、最後だからキスしていいかなあなんて考えている倉須の提案を俺が易々と受け入れる筈もない。そんなことを思いつつはあ、とため息を吐きながら「空気の入れ換えしろよー」とだけ言って軽くなったリュックを背負い、倉須の部屋から出ようとドアノブを捻ったが、……………これが俺達の最後だと思うとイマイチ一歩踏み出せなかった。
バカだ、俺。寂しいんだ。
だから仕方なく、最後だから、と自分に言い聞かせながら振り返り、俺のことが嫌いという体裁のくせに見送ろうとしていたのか分からないけど案外倉須が近くにいたので、俺はわざとチラリと顔を見上げて視線を合わせる。

「倉須」
「、なに?」
「思い出って、大事だよな」

俺のことが嫌いな奴にキスさせるのは許さないけど、倉須のことが心配な俺からキスするのはいいかな。許されるかな。
そう思った俺は倉須の胸ぐらを掴んで引き寄せる。
近くに寄った倉須の頬に自分の唇を当て、暫くその体温を感じ、反対の手で倉須の目を塞いでから目を伏せてゆっくりと唇を離す。倉須の手は行き場を知らず中に浮いていた。ちょっとおもしろい。

「、これは嫌がらせだから…………てか、明日学校来いよ」
「えちょ、名字!?」

それだけ言って倉須の顔も視線も読み取らずにドアノブを捻って部屋から出て、最後がしんみりとしたサヨナラじゃなくて良かったな、とだけ感じながら素早く階段を下りる。どうせ追い掛けてこないだろうけど、恥ずかしいから自然と足が早くなる。
倉須は今の行為をどう思ったかな、決意を乱されて怒ってるかな、今まで俺の勝手な思惑で振り回されてきた延長線だと受け入れてるかな、何だっていいけど、本当に嫌われたってちょっとは構わないけど。

「明日学校に来てくれる要因になれば、それだけでいいかな」

最後の階段を下りてから息を吐き、下りてこない倉須を確認しているとリビングから髪をおろした倉須の母親が笑みを携えて「どうだった?」と既に答えを知っているような視線を向けて聞いてくるので、俺はさっきの自分の叫んだ言葉がここまで届いていたことを察する。

「来てくれるんじゃないかと、思います」
「そう、やっぱり名字くんってスゴいわね」

倉須の母親はそれだけ言うと「またいらっしゃい、」とだけ続けてリビングへ戻って行ってしまったので、その視線に『嫉妬』が少なからず含まれていたことを感じ取った俺は「お邪魔しました」とだけ返して玄関へ踵を返した。母親にとって当たり前の感情だから俺がとやかく言う必要もないだろうけど、きっと、俺はもうここに来ないから、倉須の中に倉須の母親の居場所が作られるのも時間の問題だろう。
そんな予測をたてながら俺は靴を履き、もう二度と訪れないであろうこの家の空気と風景を心に刻み付け、一人家を出た。


「さよなら、どうぞお幸せに」

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