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 目を覚まして一番最初に目に入ったのは知らない天井で、次に目に入ったのは窓から差し込む優しい朝日だった。






「、っ帰らなきゃ」

寝ているときでさえ重かった身体を白いベッドから強引に起こし、腕に刺さっている点滴の針に疑問を持ちつつソレを引き抜く。いや、ドラマとかでよく見るような乱暴な取り方ではなく、ゆっくり。そして丁寧に揃えられた俺の靴を立ち上がって履き、自分の服装が制服のままであることを確認する。やっぱり、エレベーター事故のときから俺起きてなかったのか。ふと冷静になると、頭が締め付けられる感覚がしたので俺はそっと自分の頭に触れる。布にしては固い感触が手にあたり、これが包帯だとするならば、エレベーターが止まったときの揺れで頭の側面に傷ができていたということになるのかな、と他人事のように思う。
そういえばあのエレベーターに居た時、頭にぬるっとしたのが触れたのは佐藤さんの血じゃなくて俺の血? やたら頭が痛かったりクラクラしたのは、そういうこと?
カーテンで締め切られた空間の隅に俺の私室にあった筈のリュックが置いてあり、考えるまでもなくそれを掴んでからカーテンを引く。

「あら、起き……………って、点滴は!?」

開けた視界の先には運悪く白衣の看護士らしき人が居て、言い訳をする気もないし口論する気もないので視線をあわせることなく「元気になりました、」と返し小走りで医務室を出ようとしたが、後ろから腕を掴まれて振り返るよう強制される。掴まれた力の強さに強引な看護士さんも居るもんだなあ、なんて考えていると点滴を抜いたばかりの腕を引っ張られ後ろに引き戻された。

「いっ、なんです……か、って」

さっきまで針が刺さっていた部分を強く掴まれて正直物凄く痛いが、そんなことよりも目の前にいる人物が酷く辛そうな表情で俺を見つめていることが気がかりで、進めようとしていた足を止める。
頭に包帯を巻いている、きっと俺と同じだ。唇を噛み締めて『悔しい』と俺のことを見つめているのは、きっと過去を思い出しているからで、その過去がエレベーターのときのことなのかそれよりもずっと前のときのことなのか分からないけれど、俺に関係していることであるのは確かだった。

「どうして私を助けたんですか、」

力強く掴まれた自分の腕にあった点滴の跡から血が滲み出していることに気がつきつつ、その血液が俺の腕を掴む人間………つまり佐藤さんの腕に伝って床に落ちていくのを見つめて震える声を聞き入れる。

「……助けなかった理由が無かっただけです」
「、だったら……………!」

俺と佐藤さんの状況を遠目に見ている医務室の人や何人かの患者さんからの『心配』や『驚き』や『焦り』や『好奇』、全て無意識に受け取りつつも、そのどの感情より一層目立つ『恨み』の視線に俺の心は静かに支配されていた。まあそりゃ理解できる、佐藤さんのその視線の意味はアキちゃんから受け継いだサイドエフェクトを使わなくたって今の俺は理解できるよ。でもだからって、認めることはしない。


「だったら、どうしてあの日はあなたの父親を見殺しにしたのか、ですか?」


俺が目をそらさずにそれだけ言うと、佐藤さんは心底驚いたように目を見開いた。
周りからの視線が痛い。


「佐藤さんが俺のことを父親の敵だと思っていることは存じています」
「、新斗ですか」
「……この話題に触れられたら言おうと思っていましたが、それは濡れ衣ですし、はっきり言って貴方が流した『人殺し』の噂の真相は違うところにあります」
「、……………それは」




、は?




「っ? え? なっ、『"わかっている"』って、?」


俺の言葉に眉を寄せた佐藤さんのまさかの視線の内容に話そうとしていた内容が消え去るほど今度は俺が驚き瞠目する。
わかっている、って、なんだよ。それって"俺が人殺しではないってことはわかってる"ってこと、か?
その真相を知る術を持ってるっていうのに、それをサイドエフェクトで知りたくなくて俺は沈黙に負けることなく佐藤さんの言葉を待つ。

「……………」
「……………」

今がそうとう早い時間なのか外は少し薄暗く、俺たちの声で起きる人たちが数人目に入った。迷惑だろうなあ、こんなところで怪我人同士真面目な話し出したり、勝手に点滴はずしたり、床を血で汚したり。
俺の質問に答えないわりに『困惑』の視線を逸らそうとはしない佐藤さんに俺はイラつきを覚え、血の滴る手を乱暴に振り払う。わざと。

「……………帰ります」

俺は佐藤さんにそれだけ言って腕から流れる血をワイシャツで拭って止血し、目だけで医務室の人に挨拶してから踵を返そうとすると、それを阻止するように佐藤さんが「すみません、でした」と比較的大きめの声で謝った。

「すみませんでした、これまで、濡れ衣を着せて、恨んで、」

年下の俺に頭を下げる佐藤さんを横目で見つつ、周りが見えていないらしい佐藤さんに変わって俺が看護士さんや患者の人の視線から逃れるように手を引いて医務室を出る。
そして早朝で誰も居ない廊下に出てからすぐ近くにあった透明な喫煙室に入り、逃げ込むように佐藤さんを連れ込んで目を合わせると潤んでいることがわかってしまって、こんな俺みたいな人間の前で泣いてしまうほどのことをさっき公衆の面前で言おうとしていたのか、なんて考えた。今だって公衆の場だけれど人のいる医務室よりかは幾分かマシだろう、なんて俺に人殺しの濡れ衣をかけてきている相手に気を使う今の俺は、やっぱり新斗さんが言うように頭がおかしいんだろうな。

「それで、なんでわざと濡れ衣を?」
「……………逃げ、です」
「、逃げ?」

未成年だから当たり前だが初めての喫煙室や染み付いたヤニの臭いに意識を削がれつつも、目の前で泣きそうになって『悔しい』とまた俺を見つめる年上の人間がとても弱々しく見えて、だからといって慰めることもできないので俺は視線を逸らす。さっきから、何が悔しいのだろう。俺にこうやって謝っている自分が悔しいんだろうか。

「、私は弱い人間なので、貴方という逃げ場がないと生きていけないと思ったのです」
「俺が、逃げ場」
「……………私はあの日あの時、貴方と一緒に"あの場所"に居ました」





あの日あの時あの場所。
全てが曖昧な言葉でも、頭の中に現れたのはひとつの場面のみ。
約二年前の近界民が襲ってきた時、壊れた教会の場所。
アキちゃんが死んだ日でもあり、神父さんが死んだ日。
悲しくて、悔しくて、思い出したくなくて、忘れてはいけない日。
あの時、あの場所に居たというのなら俺が神父さんを殺したのではなく近界民がしたことだと見ていた筈、なのに今の佐藤さんはそれを知った上で俺を人殺しに仕立てあげ、それが弱い自分の逃げ場だと告げた。
弱い人間、それは俺も同じで、あのときは更に弱くて愚かで。悔しいのは、自分自身の愚かさに対してで。

「私は、何もできませんでした」

そうだ、俺もそれが嫌で、役割を果たすためにここに来たんだっけ。
そんなことを考えながらまた滴り始めた血液をワイシャツで押さえて流れる血液を染み込ませる。

「教会の瓦礫に挟まれて、父親が目の前で死んでいくのをただ隠れて見ていました。そこに貴方ともう一人が現れ、その人が貴方を庇って大きな怪我を負うのを見ていました」
「…………、」
「そしてその怪我を負った彼が今で言うブラックトリガーになり、貴方はそれを起動して近界民を倒し、父親のために近所の方へ通報を頼んだのも……………私は全部……………」
「、それが、なんで?」
「……………見ているだけの自分が許せなくて。弱いだけの自分が許せなくて、その自分が見ているだけしかできなかった理由を、全て貴方に押し付けました」
「……………それはつまり、俺が早く来なかったからとか、俺が助けなかったからとか、ですか」
「…………………………はい」

涙ながらに、なんてことはないけれど、初めて俺から視線を逸らして俯きながら話す佐藤さんは何だか昔の俺のようで酷く腹が立ち、そして同時に同情を覚えた。自分が弱いと嘆くことに意味がないとは言わないし、誰かのせいにして過去にすがって逃げ場を確保することがいけないこととは言わない。そういう生き方だってあることは身をもって知ってるし、絶対に良い生き方も絶対に悪い生き方も存在しないと思うから。

「そうですか、」

でも、それについて謝るくらいの覚悟なら、俺は許さない。悔しい、って視線を俺に向けるほど自分の過去の行いを後悔するくらいなら。

「……………佐藤さんのそれは弱さじゃなくて、甘えです」
「……………、つまり、私が弱い自分を完全に肯定すれば、許すと?」
「ええもちろん、許します。恨むのも罵倒するのも許します、父親の死にたいして自分が何もできなかったことに対しての悔しさも、俺にぶつけて構いません」
「、な、んで」
「? 何でって……………」

自分がそれを望んでたんじゃないのか、なんて思ったけれど、やっぱり佐藤さんは弱い自分に成りきれてないから今の俺の言葉に疑問を持つんだろうなと思い直す。弱さに開き直っていれば多分ここでお礼を言うだろうし。
驚いて顔をあげる佐藤さんを見つめ返し、ここからどういう流れに話を持っていけば"新斗さんが幸せになるのか"を考える。うーん、というか新斗さんは佐藤さんが意図的に俺へ濡れ衣を着せているってことに気が付いているんだろうか? その答えによって俺のやるべきことは色々変わってくるよな、うん。

「うーん、じゃあ日を改めましょう」
「……………」
「……………」
「……………え?」
「え? いやだから、ちょっと今の俺たち二人で話すには情報が足りない気がしますし……………俺は孤児院へ早く帰らなきゃいけませんし、そもそも今日は平日なので学校へ行かないと」
「で、でもこのまま……………って、腕から血出てませんか?」
「え、今更……………? あ、ほら、俺たち二人とも怪我してますし、それまでちょっと休戦ってことで。まあ戦ってないんですけど」

さっきまでの殺伐とした空気はどこへいったのか、お互いに抜けたところがあるのか話題がコロコロと変わっていく雰囲気にさっきまでの空気が薄れ、俺は血をダラダラと流しながらも笑顔を浮かべられた。そしてその傷口……というか点滴跡を押さえたまま腕時計を確認し、針が午前四時半を指していることを知って少し焦る。早く帰ろう。

「では、」
「え? ああ、え? はい」

そして戸惑う佐藤さんの横を通りすぎ、喫煙室の出入り口に手をかけてそのまま訓練生の姿へ換装して孤児院へと急いだ。本部までしかこの姿で居られないけど、本部を走る分にはこっちの方が早いよな。



                   ◇◆



 自室の窓から静かに孤児院へ侵入し、丸めた血だらけのワイシャツを脱ぎ捨ててゴミ袋に突っ込んでいるとマナーモードにしていた携帯がリュックのなかで振動する音をたてた。その長いバイブレーション音に電話かな、と見当をつけながら腕に付着した血が乾いて固まったところを爪で剥がし、携帯の画面に表示された名前を見る。そしてその名前に思わずため息を吐きかけたが、出来るだけ音をたてたくないので素早くソレを飲み込んで通話を開始させて口を開く。

「おまえ、電話で済ませようとするな」
『……………あー、やっぱりバレた?』

あははー、とわざとらしい笑い声をあげて誤魔化そうとする迅に、俺もなかなかサイドエフェクトが無くても人の心がわかるようになってきたんじゃないかと少し調子に乗る。バカな話だ、サイドエフェクトがあっても人の心なんてわかりやしないのに。
なんてセンチメンタルな気分に陥りやすくなっている自分に気が付きながら携帯の画面で時刻を確認し、佐藤さんと話してから一時間近く経っていることに気がつく。もう、れっきとした朝だ。うん。

「で?」
『あーいや、言い訳でもしようかなーと』
「言い訳?」
『昨日のこと覚えてるか? 名字がおれに防衛任務終わったら絶対来いって言ったの』
「? あ、覚えてる。思い出した」
『その約束はちゃんと守ったからなって』
「……………俺が寝てるときにってことだろ? なら、俺の荷物持ってきたのも迅か?」
『そういうこと』
「、でも、それじゃ俺が許さないって分かってて電話してんだろ、おまえ」
『まーね、』

寝顔を見に来て、はいおしまい、なんて俺が納得する筈ないのに、それを分かってて電話してくるのが意味わからん。納得しないって分かってるならもう一回俺に潔く会いに来てその時にでも今の言い訳をすれば良かったんじゃないのか。なんて迅に聞かなければ答えの出ないことを考えつつ、聞く気もないので改めて気を取り直し、昨日のことを思い出す。影浦さんに勝ったり迅に負けたり忙しかったあの日は、もう俺の知らないうちに昨日のことになってるんだもんなあ。

「昨日の防衛任務、大丈夫だったか?」
『一番始めに聞くことがソレって名字らしいな。大丈夫だった、問題なし』
「? それはよかった」
『おれはさ、この電話に名字が出た時点で結構身体のこと心配してるんだけど』
「俺の? 俺は多分大丈夫だよ、サイドエフェクトも暴走してないし、気絶する形で寝たから睡眠もとれたし」
『もうその言い方がすごい不安だからね』
「え? じゃあもう、すごい元気百倍」
『はいはい』

煩わしいし心配をかけるし目立つので頭の包帯は取ったし、終わってなかった点滴を途中で引き抜いたことは内緒にしておこう。はたから見たら俺の行動は異常だと分かっているし。

「……………まあいいや、電話で済ませるか」
『なにを? あ、おれへの詰問?』
「そうだな、そういうこと」

ガリガリ、とベッドに座りながら腕に付着した塊を爪で剥がしつつ肩と耳で携帯を挟みながら通話を続け、床に血液の塊が落ちていくのを見て、みんなが起きたら掃除機でもかけようかなと考えておく。
確か昨日、気絶する直前のことで俺が迅に聞かなければならないなと思ったことが一つあって、言いたいことがたくさんあったはず。

『昨日のエレベーターの事故は、訓練生がエレベーター内でトリガーを使ったことが原因。それで回線が繋がってた幾つかのエレベーターが長い間停止してた』
「? ああ、そうなの」

別にそれは気になってなかったけど。

『おれはそれを視てたから、閉じ込められて怪我をする人が多かったのもあって回避しようとした。てか、大部分は上手く回避出来たけど、名字のだけ出来なかった』
「え、そうなんだ………おまえ頑張ったね」
『……………そこじゃないだろ。おれが名字のエレベーターだけ間に合わなかったのは、名字を後回しにしたからだ』

そう隠しだてせずに告げる迅の言葉にかさぶたを取っていた指が止まり、何となく床に放置したゴミ袋が視界に入った。
これは俺からの詰問というよりは、迅の贖罪を聞かされている気分だ。前なら俺が問いただすまで秘密にされていたのに、色々迅から話してくれることが増えていやに嬉しい。こんなことで舞い上がるのは可笑しいだろうか。

「何で後回しにした?」
『……………何となく名字ならそうしろって言うと思ったから』


ほら、嬉しい。


「それなら許す、けど、だったら自分が選んだ未来に自信もてよ」
『ん?』
「あのとき『申し訳ない』って思ったろ、そりゃ迅は優しいから必要のない責任まで背負いがちだけど、あんまああいうこと考え過ぎるなって」
『…………優しいのはそっちだ』
「、違うって、てか返事は?」
『へーい』

俺が言ってる迅の優しさと、迅が言ってる俺の優しさは雲泥の差だ。迅の優しさと、優しくありたいと思う俺の優しさの質は全く違うし、価値だって全然違うんだ。なんてまたセンチメンタルになりかかってる自分に気づき、俺は点滴の跡やワイシャツに固まっている血液の赤黒さを見つめて目を細める。ワイシャツはもう今日にでも捨てよう、カズエさんにバレないうちに。

「でもまあ、そういうことなら俺としてもあまり言うことねえや」
『もっと叱ってくれよ』
「……………早朝から何いってんの」
『その為に早く起きたんだって』
「嘘つき」
『嘘じゃない』
「ホント?」
『ほんとほんと』

それはそれでヤバイ。
というか、迅に対して感謝や恩を感じたり、腹が立ったり、悔しかったりすることはあっても、一方的に此方から叱るってのは無いと思う。叱るっていうよりも、玉狛支部や知り合いの人に心配かけるなよって忠告する位しか思い浮かばない。それに叱ることがあったとしても、俺は迅を叱れる立場に居ないじゃんか。
でも、折角迅が自ら欲しがってるし、ふざけて言っているんだとしてもボケ返してやりたい。

「うーん、迅はズルい」
『それ、孤児院のときも聞いた、』
「迅は俺をズルいって言うけど、迅はもっとえぐいズルさ。ラスボス級とかじゃなく、単に種類が違う」
『種類?』
「……………俺は幸せにしたいと思ってズルいこと言うかもしれないけど、迅は幸せになってほしいって思ってズルいこと言う」
『なんだそれ、』
「絶対誰かに言ったら分かってくれるって」

俺が使えるサイドエフェクトはその場のことしか分からないから必然的に自分発信でしか何かを出来ないけれど、迅は色々な人の未来が視えるから伏線なんか張って間接的に何かを起こしたり仕掛けたりするから長い目でモノを捉えることが出来る。短期的か長期的か、直接的か間接的か、そういうこと。

「迅のズルさはわかりずらい、俺のサイドエフェクトだから分かることって絶対多いだろ」
『それ叱ってなくないか?』
「………じゃあ、迅はもっと、こう、バカになれ、」
『おっ、その心は?』
「……………先のこと考えずに行き当たりばったりなことしてる迅が見たいから、もっとバカになれ」

突然の無茶ぶりに少し焦ってそう言えば、迅は電話の向こうでベッドのスプリングの音をたてながら『ほら名字はズルい』と笑って小さく呟いた。んん? 今の俺はサイドエフェクトないぞ?

「じゃあ、バカになる練習として俺の相談乗ってくれ」
『んあ?』
「俺さ、今さっき起きて今さっき医務室飛び出して今さっき帰ってきたんだけどさ」
『だろうな』
「このあとの俺はどうすればいいかな? カズエさんが俺の部屋に突撃してくるのを土下座して待ってるか、俺からカズエさんの部屋に突撃して土下座しに行くか」
『土下座は決定事項なのか。でも夜に名字視たときはあんま叱られてなかったぞ』
「いやいや、え? 俺のお叱り聞いてた?」
『?』
「だからさ……………未来ならーとかじゃなくて、迅ならどっちが良いと思う? って聞いてんの」

はあ、と溜め息混じりに返しながらヤレヤレと立ち上がり、ワイシャツの詰め込まれた袋をリュックに仕舞い込んで迅の返事を待つが、迅は微かに『そっか』と呟いたきりしばらく言葉を発しなかった。何を考えこんでるのか知らないが待つ時間はいくらでもあるので、クローゼットから新しいワイシャツと予備のブレザーの存在を確認しておく。よし、ある。制服のブレザーを佐藤さんに使ってから返ってきてないし、それを返してもらう為だけに会うには勇気が足りないからな。
すると電話の向こうでボスッと大きな布の擦れた音がしたかと思うと唸り声が聞こえ、流石に気になった俺はクローゼットを静かに閉めながら「どした?」と尋ねる。

『なんか怖いな、名字の言葉って』
「は? そんなキツいこと言ってないけど、多分」
『そういうことじゃなくてさ、何て言うか、妙に浸透してくるんだよなー』
「浸透……………」
『心に』
「心に浸透?」
『すんなり入ってくるというか、名字の言葉を素直に受け入れちゃってて、受け入れたいなって思う隙すら与えて貰えない感じ』
「んん……………誉めてる?」
『結構』
「なら、いいか」

つまりどういうことなんだろう、なんて思いつつベッドに倒れこんでいるであろう迅を想像し、俺もベッドに再度座る。それに浸透してくるとか隙を与えて貰えないってのは分からないけど俺だって迅の言葉はわりと素直に受け入れちゃってると思うけどなあ、なんて自己分析してみたが、それを迅に伝えようとは思えなかった。恥ずかしいから。迅との距離は難しい、友達なのかすらわからない。

「ま、取り敢えず今回は色々迷惑かけたけど、これからは俺も頑張るから」
『頑張るってなんだよ、別に迷惑なんて』
「いいの、俺が……………迅から与えられてばかりだなあって勝手に反省してるだけ」

笑いながらそう言い、今迅は俺の言葉を聞いて呆れてるか真顔で不思議そうな顔してるんだろうなと予想して、じゃあね、と一方的に言ってから通話を切った。ツーツー、と鳴る機械音を消し、携帯を枕元に放ってから毎日自動的にセットされる目覚ましの時間まで寝てしまおう、と迅のように俺もベッドへ倒れこむ。


「友達……………に、なりたいようでなりたくない、うん」

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