王子隊に防衛任務を引き継ぎ、初対面でもない隊長さんに頭を下げてから俺は本部に戻って換装を解いた。そして私室に戻ってきて一番最初に目に入ったものがひとつのノートパソコンを男三人が見つめている図だったことと、その傍に見慣れない漫画が何冊か積まれていて俺は首をかしげるしかない。なんだ、電気くらいつけろ。
俺が扉を開いた音で気がついたのかサイドエフェクトで気がついたのか分からないが影浦くんが最初に俺を振り返り、隣に座る哲次にワザワザそれを教えてから「おせえよ」と呟いた。その声でやっと部屋に一歩入った俺は扉を閉めながら戸惑いつつも一言謝り、ソファで並んでいる三人に近づく。そうすることでパソコンに映し出されていた動画が何かの映画だということが分かったが、それを持ち出してまで俺を待っていたのだと思うと少し三人に申し訳なくなった。
すると影浦くんがソファの背もたれに手をかけながら俺を見上げて口を開く。
「めんどくせえこと考えんじゃねえよ」
「……………そう、だね」
影浦くんのその不器用な言葉に肩の力を抜きつつ、一度俺に視線を向けたきり此方を見ない哲次と映画に集中しまくってる鋼くんに溜め息を吐いてから積まれている漫画の表紙を見つめる。なんか表紙見たことあると思ったら、倉須も買ってたやつか………ていうかこの状況もしかして、映画が終わるまで続く?
そんなことを危惧しながらジャケットのポケットに手を突っ込んで二人の頭を見つめていると、隣で欠伸をひとつした影浦くんが立ち上がり、俺の傍に寄って「自販行くぞ」とすれ違い様に呟いたので黙ってそれについていくことにする。
たった今閉じたばかりの扉をくぐって廊下に出ると、俺が戻って来た方向とは逆の道に影浦くんが進むので、少し二人きりに緊張しながらも隣に並んでみた。きっとこの緊張も影浦くんに伝わってるのだろう、ごめんよ。
「ねえ影浦くん、来たとき出水公平いた?」
「別に、誰もいねえよ」
「そっか……………」
あのあと公平はどれくらい彼処に居たんだろう。
そんなことを思いながら俯いて影浦くんの隣を歩いていると、不意に影浦くんが「オイ」と言ったので顔を上げる。
「ん?」
「……………」
「……………なに?」
「、あああああめんどくせえ!」
「え、」
さっきまでいい感じに穏やかだったのに、なぜか突然怒りだした影浦くんにビクッと肩を揺らす。しかも言葉の内容も視線の内容もこれまた意味がわからなくて、俺には眉を寄せてサイドエフェクトを意識するしか選択肢が無かった。
『勝手に名前の呼び方変えんじゃねえよ』
え、かわいい。
「影浦くん」
「、テメー今のわざとだろ」
「影浦さんの方が良かった?」
「……………おちょくってんのか?」
「違うよ。純粋に聞きたいだけ、分かってるくせに」
見馴れすぎた廊下を右に曲がってから微笑みかければ、目の前に見えた自動販売機の前で立ち止まった影浦くんが俺を見てふん、と鼻で笑った。
難しいな、こういうサイドエフェクトを持っている同士の会話は迅とはまた違う難しさだ。
そして影浦くんはポケットから財布を出して小銭を自動販売機へ投入すると、上段の一番端にある黒い炭酸ジュースのボタンを押してからその隣にあるミルクティーのボタンを押してお釣りを吐き出させた。そして俺が屈んで二本のペットボトルとお釣りを掴む影浦くんを視界の端にとらえながらコーヒーのボタンに浮かんでいる赤い売り切れの文字を見つめていると、立ち上がった影浦くんは「おら」とぶっきらぼうに言いながら俺の顔の前にミルクティーのペットボトルを差し出してくる。
「え、くれるの?」
「……………お前の顔にピッタリだろ」
「? それは、褒められてるのか」
白いパッケージの巻かれたそれを受け取って目を見つめながらお礼を言うと、影浦くんは俺を一瞥すると何も言わずにジュースの蓋を開けてそれを飲みだした。紅茶は好きなのでミルクティーは嬉しいけど、俺の顔に合っているというのはどういう意味なんだろう。
カチ、と音をたててキャップを外し、同じようにミルクティーを喉に流し込んでいると、俺たちが来た曲がり角から哲次と鋼くんが並んで歩いてきたのでペットボトルから口を離してチラリと影浦くんを盗み見る。
「よお、二人揃って居るとは思わなかったぜ」
「いつの間に名字さんと仲良くなったんだ、カゲ」
「うっせーよ、お前らあの映画に集中し過ぎだろ」
「因みにまだ途中だ」
「マジかよ」
ペットボトルの頭の方を片手で持ちながら呆れたように視線を二人に向ける影浦くんに、俺は苦笑いしながらジャケットのポケットに手を突っ込んで静かに震える携帯を三人から気付かれないように少しだけポケットから出す。
誰だ?
『新斗さん』
どうやら電話ではなくメールらしいが、差出人が俺の今の悩みのひとつでもある人間だったので少し気がかりに思いながらも三人の会話に俺の名前が挙がったのでそちらを見る。
「お、それカゲに買ってもらったのか」
「まあな」
「てか聞きそびれたけど、なんで嵐山さんのポスターあんの」
「え? あーあれは、」
ポケットに携帯を戻し、三人の会話に参加しようと一歩踏み出そうとして、不意に、今まで何度も犯してきた自分の過ちを思い出す。
……………自分の今の状況だけでなく、周りの人間を見ろ。
二宮さんにも言われたことだ。
三月八日の倉須のときも、遠征から帰ってきた迅のときも、佐藤さんのときも、俺は自分の環境しか見れていなかった。これでいいのか? いま、ここで新斗さんのメールを後回しにして俺は後悔しないのか? 俺は言うほど成長しているのか? 停滞していないか?
考えすぎ、考えすぎだったならそれでいい、けどもし、もし、何かあったら。
「あー………ごめん、ちょっとソコのトイレ行ってくる」
一番近くにいた哲次に飲みかけのミルクティーのペットボトルを押し付け、三人に違和感を与えないように笑顔を取り繕いながら返事を聞く前に目先にある男子トイレへと走る。
自動販売機の向こうにある男子トイレの入り口に手をかけながら中に誰もいないことを確認するように覗き込み、足を踏み入れてから携帯の画面を見つめてメールを開く。するとそこには短い一文のみが表示されていて、俺は思わず眉を寄せた。
良かった、罪を重ねずに済んだかも。
瞬間的にそう思った俺は携帯から新斗さんの連絡先を探し当て、呼び出し音が響くのを聞きながらトイレに踏み込んで中にある鏡に映る自分を見つめる。するとぷつ、と呼び出し音が切れ、電話の向こうからこちらのものとは違う空気の音を感じた俺は、相手の声を聞く前に口を開く。
「いま、何処にいる?」
『………あれ、名前?』
「っ伊都先輩? 新斗さんは?」
『新斗ね、新斗はバカみたいにお酒のんで死んでるよ』
「……………未成年っすよね?」
新斗さんの電話番号へかけたはずなのに多少酔っているであろう伊都先輩の声が返ってきて思わず溜め息を吐きつつ、鏡に映る自分から『安堵』という視線を向けられていることに舌打ちをうつ。
安心すんな、ここからだろうが。
「今何処っすか」
『え? 俺の家』
「、それ何処ですか」
『……………来るの?』
「行きます今すぐに、」
戸惑ったような伊都先輩の声を聞きつつ、チラチラと鬱陶しい視線にイラついた俺は手元にあった蛇口を捻って水を出す。そしてその冷たい水に手を突っ込んでからその手で掬った水を見つめ、目の前の鏡に思いっきりかける。するとバシャ、っと軽い音をたてて鏡が濡れ、水の屈折で歪んだおかげで見えなくなった俺の姿でやっと自分の視線が分からなくなった。
分からなくなった? バカか。視線が分からなくたって俺は俺だろ、分からない筈がない。俺はどうするべきか、わかるだろ。
「住所送っといて下さい、検索して行くので」
それだけ言ってから俺は電話を切り、流れ出る水の勢いを見つめながら濡れた手で携帯をポケットに戻して蛇口をさっきとは逆に捻る。そしてそのまま廊下へと出て自動販売機の前で話し込んでいる三人のもとへと走ると、また一番初めに影浦くんが眉を寄せて此方を見た。
もうわかっているんだろうか、俺が今何を言おうとしているのか。
三人の近くに走り寄ってから哲次が無言で差し出してきたミルクティーを受け取り、揺れる液体を見つめてから三人に頭を下げる。
「ごめん、俺、これから行くところができた」
本部のどこを見ても同じような床を見つめ、三つの視線を受ける。ここまで待たせておいて自分勝手、分かってるけど放っておけない。
二つの視線が俺の行為に驚いていたが、直ぐに状況を把握した誰か一人が溜め息を吐くとその二つはそれぞれ『承諾』と『呆れ』に変化し、近くにいた哲次が俺の肩を叩いた。
「お前はいつも忙しそうだな」
「……………俺が、そうありたいんだ」
「大丈夫ですよ、オレだってトランプの時カードを名字さんに押し付けて抜けましたし」
「、影浦くん、は」
「っああ? 前々から思ってたけどな、お前はもっと適当に生きろっての」
そう俺を睨み付けるように言ってから目を逸らし、頭を掻いて「さっさと行けよ、」と言ってから「奢るのはこれでチャラだかんな!」と叫び、多分、自分の作戦室の方向へと歩き出していってしまった。
「へえ、アイツ結構名前のこと心配してたんだな」
「え?」
物珍しそうに影浦くんの背中を見つめてそう言う哲次に俺が首をかしげると、それを見ていた鋼くんは少し微笑んで言葉を紡ぐ。
「色々あるんじゃないか? きっとオレらには分からない名前さんのことも分かってたり」
「エレベーターの事件とか気にしてたのも、案外名前のいたエレベーターだけが被害に遭ったからかもな」
「あと、C級ブースで名前さんが叫んでたのを気にしてたこともあったな」
憐れな同類。そんなことを言われたのを思い出す。
「……………なんていうか、奢られる義理がなかった気がするよ」
「そう思うならカゲの店に金を落としてやればいい」
「なるほど」
濡れた手で前髪を横に流し、片手に持ったミルクティーに視線を落としてから二人に視線を向け直して「俺の私室、使ってていいから」とだけ告げてから手を挙げて二人のもとを去る。そして一度私室に戻ってリュックを背負い、机の上におかれたパソコンに映画が停止されたままにされているのをチラリと見てから携帯に送られているであろう住所へ向かうため私室を出た。
◆◇
メールで送られてきていた住所を検索にかけると出てきた場所は思っていたよりも南部にある本部への出入り口から近いところで、本部のなかをトリオン体で移動したこともあって早く新斗さんの住むアパートへ着くことが出来た。305号室が新斗さんの部屋だということで、オートロック式のアパートの玄関を目の前に三つの番号を押してインターホンを鳴らす。
『、はい』
「名字です」
『わ、ほんとに来たんだ、まーまー上がってよ』
俺のいきなりの行動にも優しい声色で対応してくれた伊都先輩に感謝しつつ、ウィーンとスムーズに開いた自動ドアを見つめてから目の前にあるエレベーターの上の矢印を押して扉の開いたエレベーターへと乗り込む。ボーダーに入隊してからエレベーターでいい思い出一つもないな、なんて思いながら階数ボタンを押し、上に上がっていく感覚とともに階数表示が3になったのを見上げ、止まったエレベーターが扉を開けるのを眺めた。
視界の左側に広がる空をとらえながら305という数字を目指して灰色の廊下を歩き、数字よりも先に『伊都』という苗字が確認できた鉄の扉の前に立って息を吐く。
ほんとうに勢いだけでここまで来てしまったが、大丈夫だろうか。
そんなことを思いつつ無礼なことをしている自覚だけはなくさないようにと心に決めながら白色のインターホンを押し、相手が出てくるのを待つ。
すると扉の向こうからガチャリと鍵の開く音がしたかと思うと何の躊躇いもなしに扉が開かれ、その隙間から部屋の主である伊都先輩がいつもより火照り気味の顔をだしてふにゃり、と笑った。
あれ、この人も酔ってる。
「あの、伊都先輩、大丈夫っすか」
「名前? 名前だ」
こりゃやばい、俺が来るまでにまた酒でも飲んだのか?
そんなことを思いながら酔っている伊都先輩の肩を押して失礼に失礼を重ねるように部屋の中へ足を踏み入れ、肩を押してる俺の手をつかんでくる伊都先輩の体温の高さに苦笑いを浮かべる。俺越しに扉の鍵をキチンと閉めるだけマシかな、なんて思いながら寄りかかってくる伊都先輩を少し引き離して顔を覗き込むと、伊都先輩はわずかに理性の残っているらしい視線を俺に向けてから笑った。
なんか、色気垂れ流してる気がする。
「どうしたのいきなり、新斗に用事?」
「え、あ、はい」
脈略もなく俺の頭を撫でまわしてそう言う伊都先輩の体重の半分くらいを支え、さり気無く靴を脱いで俺の手を引く伊都先輩に俺は流されて靴を脱ぐ。耳元にかかる息がどうしようもなく酒臭いが、酔った人間の視線を受ける経験は初めてなので多少の新鮮味を感じながら自分の首に回りかかっている伊都先輩の腕をつかんで部屋の中へと運んでいく。
部屋の中は新生活のような新品の家具が目立ち、大学生活が始まるのをきっかけにここに越してきたのだろうか、なんて推測を立てながら低いテーブルの上に並んでいる空らしい缶を見つめ、さっきから途切れない視線に呆れを抱きつつ俺より少し上にある伊都先輩の顔を見上げる。
すると思っていたとおりずっと俺の横顔を見ていたのか、にこにこと笑う伊都先輩は俺の頬を触っては「ふにふにー」とか意味の分からないことをほざ……言った。
「、先輩、手、邪魔っす」
「えー」
「で、新斗さんどこですか?」
「トイレー?」
とりあえず先輩の威厳もくそもなくなった伊都先輩を近くのソファに寝転がせ、顔の前に膝をつくようにして尋ねると伊都先輩は笑いながらそう言った。さっきから酷い。緩んだ笑顔がはがれず少し火照った顔と焦点の合ってない瞳がイケメン度を増強させている。はあ、と息を吐いて立ち上がり、こんなところを彼女さんが見たらどうなるんだろうか、なんて考えながら伊都先輩を放置してこの部屋にあるトイレを探す。そういえばさっき来た廊下に一つ扉があったっけ。
床に散らばったつまみの袋やらビール缶やらを避けながら道を戻り、通ったばかりの廊下に面している扉をノックもなしに開ける。
「……あー」
するとその中には床に丸まって寝ている新斗さんがいて、その手に丸まったトイレットペーパーが握られているのを見つめて酔いのまわり具合を察した。こんな状況でよくメール打てたな、なんて思いつつ扉を開けっぴろげて床に膝をつき、ペシペシと床に転がる新斗さんの頬をたたいて声をかける。顔が熱い。
「新斗さん、おい、新斗さん?」
「っんー?」
頬をたたく俺の手を退けようとしてくる新斗さんに俺は何度目かわからない溜息を洩らし、力づくで上体を起こさせて便器に寄りかからせる。うん、やっぱりどこもかしこもきれいな家だから、新居なのかも。
便器に寄りかかりながら薄く目を開けた新斗さんの視線に気が付いた俺が伊都先輩にやったように顔を覗き込んでやると、暫くぼーっと俺の顔を見つめていた新斗さんは真顔のまま俺の首に手を回してきた。おいおい。
「あつい、」
「……………はいはい」
この行動が「起こしてくれ」という意味なのかな、と考えたが、視線は酔っているからかわからないし、この行動も無意識に行われているのか正解がわからないので取りあえずトイレから出そうと首に回さされた新斗さんの腕をつかんで足に力を入れる。
「わっ、」
が、その瞬間、なんの前触れもなく回された腕によって体が引き寄せられ、前に倒れそうになった俺は反射的に壁へ手をついて新斗さんの腕から手を放してしまう。
「……………」
「……………」
「……………あ、の、新斗さ」
「ちゅー」
「、っ!?」
するとギリギリ至近距離で止まることのできた自分にほっと息をついていたのも束の間、首に回されていた新斗さんの両手が俺の頬を包むと、変な効果音とともに濡れた唇が重ねられた。
へ?
なんで唇が濡れてんの、なんてどうでもいいことに頭を支配されそうになっていたが、自分の顔の角度を変えて口づけを深めてきた新斗さんの唇の感覚に我を取り戻して片手で新斗さんの胸を押す。
「ぅ、ちょ」
「んんー」
この酔っぱらいのどっからこの力が来るんだよ、と思えるような力の強さに眉を寄せ、壁についている手をどうにか使うことができないもんかと考える。けれど薄目を開けてそこだけはキチンと俺に『欲情』の視線をぶつけてくる新斗さんはヒートアップするように俺の唇の隙間から舌を割り込ませ、遠慮なく体重を俺に乗せてマウントポジションをとった。
あれ、これやばくね、マジで迅の言う通りキスされてしまったぞ。
「ん、ふ」
俺の足の間に新斗さんが自分の足を滑り込ませ、無意識なのか膝で俺の股のところをグリグリと刺激しながら口許ではぴちゃ、ちゅうっ、といやらしい水音をたて、アルコールの味とかすかに甘い味のする舌を俺の舌へと絡ませてくる。あついと本人が言っていた通り新斗さんの舌はあつくて、自分の咥内の温度と違うものが動いているという存在感と弱く与えられる膝の刺激に生理的な涙が滲んできた俺は新斗さんのざらりとした舌の感覚に眉を寄せ、手慣れた様に俺の服の裾から手を突っ込もうとする行動にイラついて力の加減もなしに新斗さんの舌を噛んだ。
「、ったー……」
俺の口内から舌を引き抜いて顔を離したかと思うと舌の横らへんを少し赤くした新斗さんがちろり、と舌をだして俺を見下ろすので、俺は口に残った唾液を床に落ちていたトイレットペーパーで拭きとる。
これ、さっき新斗さんが握ってたやつか。
「なんか興奮したかもしんねー」
「、いいから退いてよ新斗さん」
「……………あれ、名字くんだ」
とろん、とした瞳で視線の内容があやふやになっている新斗さんは、まじまじと俺の顔を見つめて今さらそう言ったかと思うと、おもむろにまた顔を近づけようとしてくるのでガシッと肩を掴んでそれを回避する。
俺のサイドエフェクトが正常に働いていても、相手が正常じゃなければ上手く読み取れないらしい。というかなにこれ。
「、新斗さん、メール送ってきたでしょ」
「メール……………あ、うん」
「だから予定踏み倒して来たの、に」
ぐぐっ、と話してる途中でも構わずに距離を縮めてようとする新斗さんの肩を押しながら顔を見上げ唇を噛み締めると、それに気がついたらしい新斗さんは何を思ったのか近づこうとする力を弱めて俺の唇の端に親指をあてがってから自然の流れのようにその親指を俺の口に滑り込ませてきた。
「、んぁ、へ?」
「……………あの言葉だけで、会いに来てくれたのか」
頭だけ廊下に出ている状況なのでどうにかして伊都先輩に助けを請えないか考えたが、さっきの感じから見て伊都先輩も正常ではなかったのであまり期待はしないことにした。
俺の口に指を突っ込んでいる腕の手首を掴んで引き抜こうとするが、咥内を荒らす指が人差し指と中指に変わっただけで何故か微かに『悲しみ』の視線を向け続けてくる新斗さんはへらへらと笑う。
なんなんだ。携帯がここにないってことは、トイレで寝る前に打ってきたはず。そのときは意識がはっきりしてたんだろうか。
「『ごめん』って打っただけだろ、たしか」
「っ、あやまふこと、さへた、んらとおもっへ」
「……………謝ることさせたんだと思って? んー、相変わらずどうしようもないな」
「ん、ふぁの、やえへ」
「あ? はは、かわいいな名字くん」
聞き取れないのなら指を抜けばいいのに、二本の指で俺の舌の上を撫でたり上顎を引っ掻いたりする新斗さんは俺の言葉を解読してそう言うと俺の唾液で濡れた指を引き抜き、その指で自分の下唇をなぞった。
ちょ、これ18禁の光景だろ。
「、っ新斗さん、退いて」
「……………やだ」
「な、なんで」
上に乗る新斗さんの膝を押してこの状況から脱出しようと試みるも、上に乗った年上の男が子供みたいにそう言うので思わず聞き返してしまう。
不思議とさっきわいた怒りは何処かに消えていて、明らかに新斗さんの行動が良くないことで怒って然るべきなのに上から浴びせられる視線が微かに悲しみを帯びている限り俺は何時までも強気になれない。
「伊都にはもう言ったけど、俺、好きなんだ、尊敬してる」
「、はい?」
「好きになったから、ちゃんと頑張らないといけないのに」
「……………新斗さん?」
ぽす、といきなり俺の胸に顔を埋め出した新斗さんに俺は上体を起こし、胸元にある頭を見つめて頭をフル回転させるが、情報が足りなすぎてどうしようもできないことに気がついた。なので、よいしょ、と新斗さんの肩を押して顔を上げさせ、ずりずりと這い出るようにしながら新斗さんの下から逃れてやっと解放されると、それをボーッと見ていた新斗さんがまた俺の首に手を回したので、二の舞にならないようにと力を込めながら立たせて伊都先輩の転がっているであろうリビングへと移動させる。そして俺の肩に寄りかかりながら俺の耳の裏に鼻を寄せてすんすん、と嗅いでくる新斗さんを押し退けつつ、しゃがみこんでソファの前に寄り掛からせた。よし。
「ん? あれ、新斗帰ってきた」
ソファに寝転がりながら新斗さんの髪の毛を容赦なく引っ張る伊都先輩は、相変わらず赤い顔で俺を見つめてゆるゆると笑った。そしてされるがままの新斗さんは目を瞑っているのに俺の手を掴んだまま離そうとせず、濡れた自分の下唇を舐める。やめて。
「取り敢えず水持ってくるから、新斗さん離して」
「やだ」
「、またそれ……………ちゃんと帰ってくるから、ね?」
なんだか孤児院の子供たちを諭している時のような気分になりつつ新斗さんの手を握ると、新斗さんは目を開けてからぼんやりと俺を眺めて手を離した。あー、全然サイドエフェクト役に立たないぞ?
「伊都先輩も要りますよね?」
「うん、ありがとう」
「コップ何使っても大丈夫ですか?」
「大丈夫大丈夫」
大学に入ってすぐ酒に手を出してしまう気持ちは分からなくは無いけれど節度ってもんがあるよなあ………なんて年下の俺は呆れながら立ち上がり、勝手に棚から二つコップを取り出して冷蔵庫に入っていたペットボトルの水を注いで二人に手渡す。
「伊都先輩、危ないからちゃんと座って下さい」
「えーふへへ、名前がお兄ちゃんみたいでかわいい」
「、やめてくださいよ」
「何言ってんの、名字くんは何時だってかわいいに決まってんだろーが」
「知ってるー、俺の方が名前のことわかってるし」
「はあー? 俺の方が知ってるっつーの」
互いに俺を見つめながら言い合うが、内容が俺にとって恥ずかしいことこの上無いので視線を逸らして聞いていないふりをする。
かわいいって、伊都先輩は昔からそう言ってたけど、新斗さんまでからかって言わなくていいのに。かわいいっていうのはもっとこう、きゅんとくる人のことだろ。女の子とか、子供とか。男だと………後輩とか。あ、俺は後輩か。
「ほら見て、なんか真面目に考え込んでてかわいい」
「だーから知ってるって」
「……………もういいですから、」
こんな状況になるくらいなら来なくて良かったんじゃ、なんて思いつつ空になった缶やゴミを拾い上げて机の上に置き、膝をつきながらコップの水を飲み干した二人を見つめると、新斗さんは俺にコップを手渡す流れでまた俺の腕を掴んで引き寄せた。
「、新斗さん、近い、って」
「近くしてんの」
「な、なんで」
「え? 好きだから」
「え? は………え?」
その誰かにも言われたような言葉をさらり、と発せられたことに思わず受け取ったばかりの空のコップを落としそうになるが、相手は酔ってるし、そのせいでサイドエフェクトは役に立たないしで真意が分からないためどんな反応をしていいのか困る。すると比較的理性の残っている伊都先輩が「うわ」と声を漏らすと、ソファに座ったまま言葉を続けた。
「俺の居るところで言うなよー」
「何でだよ、別にいいだろ」
「雰囲気とかあるでしょーが」
「雰囲気? さっきトイレでキスしたし、今更」
「え、それはどうかと思う」
いやほんと、その通り。
というか、伊都先輩が茶化さず真面目に意見を返している時点でこの告白は本気って受け取ってしまいそうになるんだけど、どうなんだろうか。そもそも俺がここに来たのは酔っ払いの介抱をするためでもなく、その告白を聞くためでもなかったはず。
「あの、新斗さん、ちょっといい?」
「ん? どした?」
いつもの気だるさと酔っ払いの雰囲気が合わさって酷くアンニュイな表情で俺を見つめる新斗さんは、俺の指に自分の指を絡めると、わざとらしくきゅっと握って首をかしげた。
「うわうわ、新斗が媚びてるところとか見たくない」
「うっせー見んな」
「………はあ、勝手なんだから」
新斗さんの言葉に仕方ないな、と言いたげなため息を吐いた伊都先輩は空になったコップを机の上に置くと、その手で俺の頭を撫でてから何も言わずに立ち上がってフラフラと隣の部屋へ移動していった。寝室だろうか? 自分の家だというのに友人に気を使って捌けていくところは流石、俺のなかで優しいことに定評のある伊都先輩である。
「……………ごめんな、色々」
「、新斗さん、?」
そんなことを思いながらその背中を見つめていると俺の腕を掴んでいた新斗さんがメールと同じ言葉をぽつりと呟き、しんみりと言葉を続けた。酔っていても伊都先輩がいる手前じゃ話せないと理解していたんだろうか。
「あのあとすぐにでも話そうと思ったんだ、でも、勇気がでなくて」
「……………あぁ、佐藤さんと先生にか、」
「、名字くんが折角してくれたことを無駄にしたくなかった、けど、やっぱり色々怖くてさ」
そう言って俯く新斗さんの頭を至近距離で見つめ、この一週間、勇気の出せない自分を毎日責めていたんじゃないだろうかと考えたが、問いただすことでもないので口をつぐむ。
約二十年間、仲間はずれだと意識して生きてきた人間がいきなり同じ家族になりたい、と発言するのに、どれだけの勇気が必要なのか俺にはわからない。想像することは出来てもそれは単純な想像でしかなく、きっと本人にとっては俺なんかに謝ってしまうほど重荷になることなのだろう。
けれどこれは新斗さんが自分で場を作って三人だけで話さなければいけないこと。俺が新斗さんに二人の状況を告げ口したから、あとは新斗さんがそれを受け入れて和解すればきっと新斗さんも自分が最初から佐藤家にいたことを実感すると思うのに。
「不安なんだね、新斗さん」
自分の指の間に新斗さんの指が絡まった手に力を込め、孤児院の子供たちにやるように顔を上げさせてからできる限り優しく微笑む。すると新斗さんは俺の顔をじっと見つめてから顔を赤らめ、目を合わせたまま小さく「そう」とだけ呟いた。
今さら酔いが回ってきたのか、それとも今さら照れているのかわからないけれど、どっちにしろよくわからないタイミングで頬を赤らめた新斗さんの頭を撫でてみる。
「好きだから、応えようとしたのに」
「、?」
「名字くんが好きだから約束を果たそうとしたのに、どうしてもできなかった」
その言葉の最後にごめん、と呟いた新斗さんは、目を細めて俺を見つめると自嘲気味にへらりと笑う。
それを見た俺は、なんだか似ていると思った。
誰かに恩を返したいと悲しそうに笑う新斗さんが、どうしようもなく自分に似ているような気がして泣きたくなった。
佐藤家の三人は何処かしら俺と似ている。
佐藤さんとは自分の弱さのせいで過去に縛られてるところが。佐藤先生とは、二つに挟まれてうまく身動きがとれないところが。新斗さんとは、他人への恩で行動しようとしているところが。
だから捨て置けない。誰も責められなくて蔑ろに出来ない。人殺しの濡れ衣をかけられていても、無条件に嫌われていても、見当違いの好意を向けられていても、否認できない。
「大丈夫だよ」
だから、俺は自分が救われたい方法で、新斗さんを救ってあげなきゃならない。いや、救いたい。自分のためにも。
「大丈夫、俺がついてるよ」
「……………ん」
「新斗さんには佐藤家になってほしいから、もし本当に辛いなら俺も話し合いに参加するから」
「それは、ダメだ。非難が全部名字くんに集まっちゃうだろ」
「それは普通のこと。新斗さんに集まるはずがないし、俺に集まらないはずがない」
ね? と前にやったように笑って顔を覗きこんで見ると、新斗さんは「かっこいい……」と俺を見て呟いてから自分の心臓の上に手を当てた。
「いい、俺が、一人で今日話す」
「そっか……………うん大丈夫、きっとうまくいくよ」
「……………ん、兄貴と姉貴の前で堂々と名字くんの話が出来るようになりたいから」
他人の受け売りの言葉だけど自分を何度も鼓舞してくれる言葉でもあるから、俺に似ていることを考えている新斗さんにきっと届いたはず。
「ねえ」
「なに?」
「なんか話して」
「なんか、って……………」
「じゃあ、好きな人いる?」
「、わからない」
「……………そっか」
誰とも似つかない笑顔で気だるげに笑う新斗さんに俺は眉を寄せる。
やっぱりこれが本当の言葉なのかわからない。けど、サイドエフェクトがない頃はこれが普通だったはずなのに。
すると、新斗さんは眉を寄せて黙りこんだ俺の下唇を端から端までなぞると、掴んでいた俺の腕を引き寄せて優しく抱き締めてきた。
「好きなるの、ダメ?」
「……………ダメ、じゃないけど、俺は好きかもしれない人がいるよ」
「でもいい」
解放された腕を新斗さんの背中に回すことも出来ず、だらりと床に手をつきながら初めて知った新斗さんの香水の匂いに目を逸らす。
倉須の場合、過去から逃れるために俺が居てはいけなかった。だから嫌でも離させたし、嫌でも離れた。俺が占めていた場所を誰かが補っていけるような環境にして倉須の中に色々な人を入れたかった。それは結局上手くいっていて、今は寂しくもあるけど大部分が嬉しさと安心感で満たされている。それに俺にしか向けなかった笑顔を最近では色々な人に向けているから、俺を好きでいない方が良かった、って証拠になっている。
けれど新斗さんは違う。新斗さんは仲間外れだという過去の自分から逃れるために俺を必要としてくれている。今だって俺は自分の口から「俺がついている」だなんて言葉を吐いてしまったわけだから、倉須と同じ理由で告白を突っぱねることはできない。
でも、今の俺は倉須のことが完全に忘れられていないくせに、迅のことが好き、に、なりかけてるんだと思う。
それが良いことなのか、と問われれば首を横に振るしかない。死ぬ未来が変わってないうちに誰かを好きなることは、ある種の罪であり俺にとっての拷問だろ。
「………ねえ新斗さん、俺が人を紹介したいって言ったの覚えてる?」
「ん? あー、イケメン?」
「そう、イケメン」
然り気無く俺の首筋に鼻を擦り寄せる新斗さんにそう尋ねつつ、ここ暫く一言も言葉を交わしていない倉須の顔を再び思い浮かべる。まあ、一言も言葉を交わしていないが、最近ボーダー試験のことについて連絡が来て、試験日を教えてもらったという接点はあったけ。五月初めにあるソレに向かってボーダー関連の情報を集めているらしく、俺がボーダー隊員だと知った今となってはたまに質問されたりする。試験の内容や面接のこと、入隊式のこと。
きっと受かる。迅のことを信じるとなれば、倉須は受かる。
「その人五月の試験でボーダーに入るからさ、仲良くしてあげてほしいんだ」
「いいけどさ、何で今言うわけ?」
「…………なんとなく」
「ふうん?」
本当は、倉須や俺のためっていうのが大きいけれど、これで新斗さんが俺に恩を感じてる分を返したことにするつもりでもあるから御互い様だと思う。
けれどそれを明言する気のない俺に新斗さんは何かを感じたのか、抱きついたままチラリと何かの視線を向けてから、ちゅっ、とわざとらしく音をたてて俺の鎖骨に唇を落とした。
「そういうことにしておいてやる」
新斗さんは意地悪い声でそう言うとぺろ、と味を確かめるように同じ場所を舐めて小さく笑う。ぬるりとした感覚に思わず体を捩らせ、新斗さんの肩に手を当ててそのまま押して慌てて距離を保ったが、離れた新斗さんはいつものようなへらへらとした気だるげな笑顔を浮かべているだけで反省の色は全く見えなかった。
こんなことまでして……本当に俺のことが好きだと言ってくれてるなら嬉しいけど、でもやっぱり未来の変わってない今じゃ応えられないから……………でもここで否定したら話し合いの時に支障が出てしまうかも。
「あー、イケメンだなーマジで」
「……………なんだかなあ」