「、てめー、調子のってんじゃねえぞ!!」
その響き渡るような怒号と共にガタッ、ゴトッ、と何か硬いものが当たったり落ちたりする音を耳にいれた俺は思わず足を止め、瞬きを何度か繰り返してから視界の端にあった青色の記号を見つめてから息を吐く。おいおい、誰だよ男子トイレで喧嘩してるのは。
言い合っている訳ではなく片方が一方的にキレているような雰囲気を察しながらタイミング悪く男子トイレの目の前を通った自分を呪ったが、ここでなにも聞かなかったフリをするのは今の俺の信念みたいなものが許さなかったので偽善者だと自覚しながら男子トイレに足を向ける。ただ、防衛任務が終わって私室に向かっていただけなのに。
嫌々ながらも角を曲がって中に入ると床に知らないC級隊員が寝転んでいて、その上でマウントポジションを獲得してC級隊員の胸ぐらを掴んでいる男の人が居て思わず目を見張った。
というか、知り合いだった。
というか、それは影浦くんだった。
一瞬おののいた俺と、怯えた視線を向けてくるC級隊員と、バツの悪そうな視線を向けてくる影浦くんの三人の間に沈黙が流れたが、汚いであろう床に仰向けになっているC級隊員が「た、たすけてください!」と俺に向けて言ってきたのを皮切りに空気が動き出す。あれ、喧嘩の仲裁をしに来たけど、これどうすればいいんだろ。
「うーん、影浦くん、ここの床汚いから膝つかない方がいいよ?」
助けて、と言われてしまったので取り敢えずその体勢をやめさせるためにそう言うと、影浦くんは何故か俺をじっと見つめてから舌打ちをして立ち上がり、俺にずんずんと近付いて来て今度は俺にガンをつけてきた。
C級隊員もうシカトされてるじゃねえか。もう俺が標的じゃねえか。でもまあ、C級隊員の人を助けたというよりは影浦くんに問題を起こしてほしくなかったっていう方が正しいからどっちでもいいんだけど。
「おいテメエ、」
「ん? あ、君、今のうちに出ていったら?」
影浦くんの声を聞きながら、床に手をついてぼんやりと此方を見てくるC級隊員にそう言えば、そのC級隊員は我に返ったように素早く立ち上がると俺たちの方を一瞥もすることなくびゅん、と横を通り過ぎて男子トイレから立ち去った。
その勢いで俺の髪がなびくと、マスクを顎下にずらして何も言わずにそれを見つめた影浦くんが気を削がれたように視線の熱を下げたので、俺は心のなかで一息吐いてからわりと近い距離の影浦くんに口を開く。
「何かムカつくことでも言われた?」
「……………うるせえ」
俺の言葉に再度舌打ちを鳴らした影浦くんは俺から目を逸らすと期限悪そうにマスクを元の位置に戻し、逃げるように鏡のある方を向いた。
けれど鏡に映った俺を見ているらしく視線が途切れないことに気づいた俺は遠慮なくその視線をサイドエフェクトで読み取り、自分の予想が正しかったことを確認する。
お、どうやら俺が第一声に影浦くんを責めるのではなく、影浦くんが自分から暴力を振るうような人間ではないと信じるような発言をしたことに変な気持ちになってるらしい。なんだ、他人に期待出来るような人だったのか……って、まだ高校生だもんな。俺もだけど。
それよりも、影浦くんと会うのは一週間くらい前に哲次と鋼くんとランク外対戦した以来なのに、まさかのこんな場所こんな状況で再会するとは思わなかったよ。
「今日防衛任務?」
「……………ちげえよ」
「そっか」
「、おまえは」
「俺は終わって帰るところ」
ここで起きたことをこれ以上探るつもりもないので話を変えれば、珍しく俺に問いかけてきた影浦くんの言葉に冷静に答える。
すごい、前まで会話のドッジボールしかできなかったのにぎこちないキャッチボールが出来るようになってるじゃん。それは俺が変わった訳ではないと思うから、多分影浦くんが変わったんだと思う。俺が変えたのは呼び方くらいだし、単純に影浦くんと話す場数を踏んでから影浦くんからの視線が厳しくなくなったから、やっぱり変わったのは影浦くんだ。すごく嬉しい。
「おい、何喜んでやがる」
「影浦くんと話せたから」
「、気持ちわりぃんだよ」
「ごめん。でも思っちゃったものは仕方ない」
「……………お前ってバカだろ」
「そんなことない。一応進学校通ってんの」
多分そういうバカだと言ってる訳じゃないと分かっていて返すこの言葉には慣れたものだ。俺はそれだけ言って影浦くんに肩を竦め、トイレに用があるわけでもないので「じゃあ、」とだけ言って背中を向けた。
一応喧嘩を止めるという目的は達成出来たし。それにほら、俺は一刻も早く孤児院帰らなきゃ。今日は中学生組の勉強を見る約束をさせられたから七時までには家に戻ってないと塁にうるさく怒られるよなあ。
「名字、」
「ん? な、…………………………に」
え?
後ろから名前を呼ばれて反射的に振り返ったが、そこに立っているのが影浦くんであることと耳に残っていた今の台詞があまりにミスマッチなことに気が付いて、思わず大幅なタイムラグをつくって返事を返した。
え? え? は?
いま、俺のなまえ、を。
色々思考してるつもりでも結局堂々巡りしているだけの頭の中と、状況についていけてない俺の体。俺の時間だけが止まっているようにポカーン、と影浦くんを見つめていると、影浦くんは眉を寄せて顔を逸らし何も言わずに俺の隣を通り過ぎて男子トイレを出ていってしまった。
「、ちょちょちょ、待って!」
「っ離せクソ野郎!」
早足で離れていく影浦くんの背中を追って思わず腕を掴めば、俺の方をかたくなに見ようとしない影浦くんが俺の手を引き剥がそうと廊下のど真ん中で立ち止まって抵抗しだした。
俺のことをいつも「おい」とか「てめえ」とか「おまえ」とか言って名前呼んでくれたことなんて一度たりとも無かったのに。
待って、マジで今のなんか、ずっとなつかなかった猫がデレた感じ、すごい、泣きそう。泣かないけど。俺の方が年上なのに呼び捨て、とか言ってられない。
「は、おま、なに感動してんだきめえんだよ!」
「き、キモくないし」
「……………なに普通に傷付いてんだよ」
影浦くんが言うからこそグサッとくる台詞に掴む力を弱めれば、それに気づいた影浦くんが俺の手を振り払ってから小さくそう呟いた。
そっか人と接してると、こんな風に思えることがあるんだな。迅に感謝しよう、ここ十日くらい会ってないし『一週間以上会えなかったら、会えるようにして』とか言われたのに会おうとしてないけど。
相変わらず俺の方を見ず壁の方を見てる影浦くんに、はあ、と息を吐き、一時だったけどいい思いをさせてもらったなあとさっきのことを思い出していると、ふと何処からか視線が二つ向けられた。俺を知ってるらしい視線だ。そして視線を感じて直ぐに背後から背中を叩かれビクッと肩を揺らして振り向くと、そこには携帯での連絡のやり取りだけの知り合い一人と、知り合いと言っても良いのか分からないような関係性の人間が一人が立っていて思わず目を見開く。
「名字さん、おひさー」
「……こんばんは」
「えっと犬飼くんと、……………待って…………………………あ、辻くん?」
「おー、正解正解ー」
俺が記憶から絞り出して放った答えに隊服……………いや、スーツ姿の犬飼くんはパチパチと拍手しながらそう言って同じくスーツ姿辻くんの肩に手を回すと「おんなじ二宮隊の辻ちゃんでーす」と言って体重をかけた。なかいいな。
するとその犬飼くんの声にまた後ろから「あ?」という機嫌の悪そうな声が聞こえたかと思うと目の前の犬飼くんは飄々とした笑顔を貼り付け、その声の主に手を振る。
あー、これ、ヤバイわ。哲次から聞いてたわ、この二人仲悪い……………というより、一方的に影浦くんが嫌ってるって。
それを思いだした俺は男子トイレで起きたことの二の舞になるよりも早く影浦くんの方を振り返る。
「影浦くん、この前俺の私室に忘れ物したでしょ?」
「、は? この前は行ってねえだ」
「いーや行ったね!! そして忘れたね!! だから、ちょっと先に行って取りに行ってよ!!」
「……………チッ」
俺の必死な言葉と感情に言いたいことを察したらしい影浦くんは、俺ではなく犬飼くんを見てマスク越しに舌打ちをかましたかと思うと、軽く睨み付けてから犬飼くんと辻くんの横を通り過ぎて俺の私室がある方向へとは逆に向かっていった。いやうん、分かってたけど。
「あららー、行っちゃった」
「……………先輩、重いです」
影浦くんの背中を追って見つめていた犬飼くんがそう言うと、体重をかけられたままの辻くんが鬱陶しそうにほんの少しだけ眉を寄せたので、俺は苦笑いを浮かべて手首の五線仆に触れる。意味はない。
「今日誕生日なのになー」
「え? 誰が?」
「……………誰でしょ?」
「……………犬飼くん」
「お? またまた正解ー」
辻くんに寄り掛かるのをやめた犬飼くんはへらりと笑ってそう言うと、拍手してからそのままその両手を俺の目の前に広げて「はい」と目を見つめてきた。
え、いや、今何かを催促されても、鞄も財布も私室だし……………。
「……………今は何もないよ」
「ちぇー、二宮さんは焼肉奢ってくれたのになー」
「二宮さんと比較したらダメだよ、ダメ、絶対」
「じゃあ逆に今何持ってんの?」
「携帯」
「携帯……………あ、あるじゃん。あるある、プレゼント」
「携帯は無理だよ」
「それはいらない」
犬飼くんはしっしっ、と手を払いながらそう言い、隣に並ぶ辻くんの手を引くと二人揃って俺の隣に並んだ。どういうことだよ、と思いつつ真横の犬飼くんを見つめて首を傾げると犬飼くんは勝手に俺のジャケットのポケットに手を突っ込んで俺の携帯を取り出す。そしてまたまた勝手に携帯を弄ってカメラを起動すると、自撮りが出来るように内側のカメラを使えるモードに切り換えて携帯の画面に辻くん、犬飼くん、俺の順で映るように手を伸ばした。
「はい、辻ちゃん顎ピースね」
「顎ピース……………?」
「こういうの」
辻くんにポーズの指定をしてからお手本を見せる犬飼くんに少し放心状態になっていたが、辻くんのひきつったような表情を見てから我に返った。
えっと? 写真が誕生日プレゼントになんのか? 個人的に写真にはいい思い出がないんだけどさ。
「名字さんは虫歯のやつでいいよ」
「……………?」
「こうやって、」
「こう?」
「っ、あはは! それ!」
ボーダー本部の廊下ど真ん中で頬に手を当てるとか何をしているんだ俺は。
辻くんと俺がそれぞれポーズを習得すると犬飼くんは手慣れたようにカメラを少し上の方に構えて「撮るよー」と言うので、少し上目遣いにならざるを得ないままシャッター音が切られるのを聞いた。
そして犬飼くんはその写真を見てぶふぉっ、と吹き出しそうになるのを耐えて操作をしたかと思うと何も言わずに俺に携帯を返してきたので、少し戸惑う。
「え? 今のでいいのか?」
「いいのいいの、俺の携帯に送ったから。あ、後で辻ちゃんの携帯にも送っておくから安心して」
「、はあ……………」
「てかあれ? もしかして辻ちゃんって名字さんと話すの初めて?」
「………今さらですか? そうですよ」
呆れたように肩を落とした辻くんを見てから俺は「よろしく?」とだけ言って笑いかける。すると辻くんは一瞬俺の顔を観察するような視線を向けてから、その事が失礼だと思ったらしく頭を軽く下げて「よろしくお願いします」と視線を逸らした。
「お? 名字さん、疲れてる?」
「、ん?」
「笑顔に輝きがなかったから」
「……………んんー」
なんで分かるの。てか、そんな理由?
「辻ちゃんは初めて見るから今のでも驚いたかもしんないけど、本当の笑顔のときは輝きがすごいよ」
「輝きですか」
犬飼くんの前でそんなに笑ったっけな? 何て思いつつ苦笑いを溢すが、当たらずしも遠からずなので、本当に俺を観察していたのかもしれないと思い直す。
そういう好奇の視線を向けられるのには慣れていて、寧ろ慣れすぎているから印象に残っていないし探ろうとも思わないのだ。
「疲れてるっていうか……………」
相変わらず役割のことや孤児院のこと、未来のことなんかは俺の根底に深く沈んだままだけど、最近の悩みと言えば新斗さんが佐藤さんと佐藤先生と話し合ってから一週間以上経っているというのに佐藤先生が学校に出てきていないことと、新斗さんの好意のことだ。佐藤さんとはボーダー本部でばったり会ったときに謝られたり何やらして殆ど丸く収まっているが、佐藤先生と新斗さんに関しては新たに問題が浮上して困っている。佐藤先生の件で俺が何かをするべきなのかは分からないが、少なくとも俺が切欠で佐藤先生の軸が揺らいだのは紛れもない事実なので夢見が悪いというか、罪悪感を抱いてしまう。
そして新斗さんの件については問題と言ってしまったら語弊があるけど、どうしようも出来ないから困っている。佐藤さんにも「私は弟も大事ですが、命の恩人であり義理もある貴方に幸せになってほしいんです」とか言われたので、その大事な弟と俺のどちらもが傷付かないようにと新斗さんとの関係がこれ以上深くなる前にもう一度告白をきっぱり断った。
前にも断ったつもりだったけど……………それが多分、三日前。
まあ、新斗さんは俺に、なんていうか、恩? 信頼というか、言ってしまえばちょっとした尊敬の念を抱いているような視線を向けて「側に居たい、だからその為に俺は頑張ってるだけ」とか言ってきたので、俺は混乱して「うん?」と言うだけで否定ができなかったんだけど。恋愛感情というより、なんていうか、本当に側に居たいっていうか、信仰心に少し似てる。けど、好きって言われたから……………うーん。
「はあー、まあ、うん、疲れてる」
俺はサイドエフェクトを得てから人より感情に敏感で、佐藤先生を抜いた佐藤家が俺に抱いている感情がむず痒くて仕方ないのだ。影浦くんのような感情受信体質とかそういう話ではなく、なんか、ぞわぞわとする。期待され続けているような、そんな感覚。
そんな感情を発する人が二人も現れ、その内の一人は好きだとか言ってくるし。そもそも俺は自分の中の好きに対して決着がついてないというのに、俺の周囲を蔓延る感情は増えていくばかり。ボーダー本部であまり噂が流れなくなって視線が減ったばかりなのに、厄介なのが俺の中にも外にも生まれたからあまり気分的には意味がない。
「でも、まあ大丈夫」
「ふーん?」
「……………名字さんって、過労で倒れたって聞きましたけど」
「っ辻くんまで知ってるんだ」
「いえまあ、そのエレベーターの件があった日の引き継ぎが俺たちの隊だったんで」
「……………、!?」
「あ、固まった」
なん……………だと……………。
そうだったっけか……………。
あの日気絶して朝帰りしたことは孤児院の子供たちやカズエさんにすらバレてないのに。
そうなると、あ、ににににに二宮さんともう会えない……………。
「に、二宮さん……………おこって、た?」
「……………まあ」
「……………少し」
「あ……、俺、帰る……………」
「今さら逃げても仕方ないでしょー、もう一週間位前だし」
「それよりも前から顔を合わせてないんだよ……………そっちはこれから防衛任務でしょ?」
「んんーまだまだだけどね。てか、そんなに怯えること?」
「犬飼くんと辻くんが知らないところで俺は二宮さんと色々話してるんだ……………うん……………会わないように、すぐ帰る……………」
「……………頑張って下さい」
「ありがとう、辻くん」
二宮隊は隊長さんがアレだし強いし隊服もキチッとしてるから防衛任務の時から近寄りがたい雰囲気があったけど、隊長さんがアレなだけで他の隊員は人当たりがいいんだよなあ。鳩原さんは少し人見知りが入ってるけど話せば誰にでも優しい人だとわかるし、犬飼くんは掴みにくい性格してるけど根本的には悪い人じゃないしコミュ力あるし、辻くんはキチンと先輩をたてつつ初対面の俺の話を聞いてくれるし。オペレーターの人は例に漏れず知り合いじゃないけど、多分、きっと、二宮さんよりは近寄りがたくないだろう。失礼か? いや、事実だ。慶と同じ年齢だと言うのが嘘のようだ、と思えるのは慶が馬鹿だからだけじゃないだろう。
そしてそんな二宮さんに厳しい態度をとられている俺が二宮さんを苦手に思うのも仕方ないと思う。
「じゃあ、その、隊長様によろしく……………」
「はいはーい」
「お疲れさまです」
「うんお疲れー」
二人が作戦室に向かうであろう方向とは逆に体を向け、トボトボとした足取りのまま手を振ってその場を離れると、二つの視線が俺から外れた。犬飼くんと辻くんも移動したのだろう。俺はもうさっさと私室に戻って孤児院へ帰ろう。誰にも会わないうちに素早く帰ろうよ、うん。
誰かに対して言ってるわけでもないがそんなことを思いつつ私室へ向かうため影浦くんが行ったのとは逆方向の角を曲がる。すると廊下の奥、丁度俺の私室の前近くに身長の高い男女二人が立っており、なにやら話し込んでいるのが見えて俺は立ち止まる。
あ……………。
「最近の俺って、試練与えられ過ぎじゃないか?」
行き先で立つ二人のうちの片方が腕を組み、片方がポケットに手を突っ込んでるのを遠くから眺めてから思わず天井を仰ぐ。
あれは紛れもなく隣の部屋の加古さんと、さっきまで話に出てきていた二宮さんだろ。噂をすれば影、なんて昔の人はよく言ったもんだ。俺はもう帰りてえよ。穏便に帰りてえんだよ。たとえ穏便にことが進まない原因が俺の体調管理のことだとしても。
素早く角を曲がる前まで後退し、壁に寄りかかりながらしゃがみこんで頭を垂れるが、そんなことをしても時間が早まるわけでもないので自分の手元にあるモノが携帯と部屋の鍵しかないことに思考を巡らせる。
もういっそ私室の荷物は置いていって明日の朝イチに取りに来ようか、なんて思ったけど、自分が疲れていることを思い出して明日の自分が早起きできる筈がないのでその案は静かに却下した。
あーーーー、よし、
「……………やっぱり、逃げるか……………いやでも逃げるのは疲れるし……………でも後から怒られるのも嫌だしなあ、」
「あれ? なにしてんの?」
「、!?」
独り言のつもりで呟いた言葉に被さるように話しかけられて思わず顔をあげると、さっき影浦さんが向かった方向から珍しく黒縁眼鏡をかけた新斗さんが歩いてきていたので俺はピシッと固まる。
うわー、新たな試練来たー、てか悩みの種来たー。
眼鏡のせいで視線を向けられていることに気が付かなかったが、新斗さんを視界に入れた今なら俺がサイドエフェクトを使用すれば難なく読み取れるので、立ち上がりながらそれを実行する。
『こんなところで会えるなんて、すげー嬉しい』
うーん、やっぱりやりにくい。
「、あー…………いや、ちょっと私室に荷物取りに戻れなくて」
「なぜに?」
「ほら、彼処の二人が俺の私室の前で話してるから……」
「……………会いたくないのか?」
「そう、いうわけじゃないけど、」
壁に背中を預けてへらりと笑えば、俺の目の前まで近付いてきた新斗さんは二宮さんと加古さんの方を見つめていたかと思うと、いきなり俺の顔のすぐ横の壁に手をついて首を傾げた。
「俺が取ってくる?」
「、えっ、……………いいの?」
この体勢にならなければいけなかった理由が分からないが近くにある俺より少し上にある瞳を眼鏡越しに見つめてそう返すと、新斗さんは少し嬉しそうに「おう」と呟いてから真剣な眼差しで俺を見つめた。あん?
「その代わり、持ってきたら褒めて?」
「……………なに、え?」
「ほら、良くできましたのチューってやつとか」
「な、んでそれ」
「前にさ、海外ドラマかなんかで流行らなかったか?」
「……………ああ」
なんだ、そっちか。
視線を逸らしながら言われた台詞だけど、ここでそんなに疑うことでもないので納得しておく。
すると俺の反応を聞いた新斗さんは俺を見つめ直して口を緩く開いたかと思うと、壁についていた手の肘を曲げ、反対の手で俺の頬を指でするりと撫でた。
近い近い、ここボーダー本部ですけどー、廊下ですけどー。
「あの、新斗さん、近くない?」
「……………わざとだしな」
俺の耳元でそう囁いた新斗さんに俺がバッと素早く耳を押さえて目を見張ると、新斗さんは『愛しい』とかいう視線を俺に向けてから懲りずに俺の下唇を人差し指でひと撫でし、なにも言わずに俺から離れた。そして勝手に俺のポケットに手を突っ込んで私室の鍵を取ると、いつもの気だるげな笑顔より五割増しくらい機嫌が良さそうな表情で俺に笑いかけてから私室の方へと歩いていってしまう。
その背中を見つめながら俺は放心状態の自分に鞭を打って自我を取り戻し、二宮さんと加古さんの横を通り過ぎて俺の私室に入ったのを見守りつつ、今何が起きたのかを整理する。
「……………あー」
なんというか、好きって、いろいろ厄介だな。
好き……………愛しい……………確かに、恋愛感情以外にも母親が赤ん坊にキスをするっていうこともあるし、女の子同士とか友達同士でできる人もいる。好きってのは、色々なものを飛び越えられる概念。それが良いことにも悪いことにもなり得るから怖いんだ。自分が好きになることも、自分が好きになられることも。
そんなこと、わかっている。わかっているけど好きになる。だから人は好きという感情に振り回されて、泣いたり怒ったり苦しんだり笑ったりするんだ。
「、うわ」
そんなセンチメンタルなことを思いながら角から覗いて新斗さんを見守り、部屋から出て俺のリュックを手に持っているのを確認して一息吐いたが、新斗さんが俺の私室の鍵を閉めている間うしろの二人がじっと新斗さんを見つめているのが分かって思わず声をあげた。そしてそのままサイドエフェクトを意識し、二つの視線を読み取った俺は顔を引っ込めてから無表情で携帯を取り出して、とある番号に電話をかける。
はあ……………釘刺してなかった俺も悪いのか。
耳元でコール音が鳴り響き、その機械音がプツリと鳴り止んで『んあ?』と久し振りに聞いた声が携帯から発せられた。
「マジでふざけるなよ、慶」
『……………なんだ? 唐突に怒られるようなことしたっけか?』
「、二宮さんに俺の私室のこと喋ったろ」
『あー、? あーそんな気するわ』
さっき読み取った二つの視線のうちひとつの視線から『太刀川の野郎、ガセ流しやがったか』とかいう口の悪い視線があったので二宮さんだと当たりをつけた。少し強引だったかもしれないが、加古さんがそんな口調使うはずないと思いたかったし、そもそも加古さんは彼処が俺の部屋だと分かっているし。
『え? それだけで俺怒られたのか?』
「そーだよ、重罪だ」
『マジかよ、』
「恨むぜ」
『そんなレベルかよ……………なに、二宮のこと嫌いなの?』
「きききき嫌いなんてそんなおこがましい感情抱いてるわけないだろばか野郎!」
『戸惑い過ぎだろ』
徐々に近付いてくる新斗さんのであろう足音を聞きながら電話の向こうで雑踏に紛れて『つか、別に教えたところで減るもんじゃねえし』とかぬかした慶に眉を寄せ、前々から公平へ俺の個人情報をペラペラ話すことなんかも加味され、今度キチンと叱らなければと思い直す。俺のことに対して軽率に何でも話しすぎだ。
「バカ、お前バカ。今度会ったら覚えてろ」
それだけ伝えて電話を切り、携帯をポケットに仕舞いこんでいると丁度新斗さんが俺のリュックを手に提げて俺の目の前に現れた。そして新斗さんは俺の携帯一瞥しつつ「ほい」とリュックを手渡すと、腰に手をあててから肩の力を抜くようにして息を吐く。
「なんかあの二人怖くね? めっちゃガン見された」
「あー……………それは、ごめん」
「何で謝る? てか、あの二人に狙われてんのか?」
「狙われてるっていうか、二宮さんの方は完全に俺に一言物申しに来てるかな。加古さんはわかんないけど」
炒飯を入れていたタッパーは前に返して感想も述べたし、正直に。そしたらすごく有り難がられたけれど。
「二宮? あー、あの男が二宮か、聞いたことある」
「そりゃまあ、上位隊の隊長だし……………てか、リュックありがとう。これで帰れる」
「ん? んーん、俺がしたかったんだって」
「、そう?」
「そうそう」
二宮さんは確かこのあと防衛任務だからまだ本部に居るだろう。つまり今帰れば鉢合わせにはならなくて済む筈。
そんなことを思いながらリュックを背負い、変に意識しそうになってしまいそうになる視線を意図的に無視して「あー、」と呟きながら頬を指で掻く。
「キス、は無理だけど、そのー、ありがとう」
「おお、本気にしてくれたのか?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「……………わかってる。それでもいいんだ」
新斗さんは目を細めてそう言うと、俺が何か言う前に「あと、」と笑って言葉を続ける。
「姉貴のこと名字くんは何もしなくていいから」
「、え?」
「っていうのも、これ以上迷惑かけたくないからさ」
「迷惑なん」
「迷惑なんて思わない、名字君が本気でそう思ってくれてるのはわかってる。そう言うと思ってたし。でも、俺が嫌なんだ」
いつもの気だるげな笑顔を携えて向けられる視線に俺は眉を寄せ、その言葉を聞き入れる。
俺はその気持ちが痛いほど分かってしまうのだ。
罪悪感という固有名詞だけじゃ説明しきれない感情が視線を介して浴びせられ、その感情は俺がよく迅に向けてしまうものだと心で理解する。自分だけで解決するのが難しいことだと分かっていても、手を貸して貰いたくない。なのに相手は何かと理由をつけて手を貸してくれて、しかも恩なんか感じなくていいと言う。これは自分の為でもあるから、なんて言ったりして。そんなの、ずるいから。
「……………わかった」
「よかった」
「でも……………」
「ん?」
「……………どうしても辛いときは頼ってほしい。逃げ場にでも捌け口にでもしてくれていいから」
俺より少し高い位置にある新斗さんの目を見つめてそう言えば、新斗さんは驚いたような表情をしてから「は、」と息を漏らす。
そして、何を思ったのか俺に近付いてきたかと思えば正面から俺の肩にぽすっと額を乗せてきた。その首もとにかかる息になんだか玉狛支部での迅を思い出す俺は最低かもしれない。
ていうか肩に眼鏡当たってますよ。
「あー新斗さん、?」
「ねえ」
「、へ?」
「誰にでも、そんなこと言ってんの?」
するり、と首の後ろへ自然に回された腕にびくっと肩を揺らしたが、耳元で囁かれた声に俺は意識を向けるだけで精一杯だった。
「、いい言ってな、い」
「……………うそ」
「っ、?」
新斗さんは俺の言葉に対して小さくそう呟くと身体を少し離し、至近距離で眼鏡を外したかと思うと何故かそれを俺にかけさせて「イケメーン」と笑った。
なんだこの人は。前から掴めなかった人がさらに悪化したぞ。
かけさせられた黒縁眼鏡には軽く度が入っているらしく距離感がよく掴めず俺が眉を寄せると、それすら楽しそうに笑う新斗さんは俺を見つめてからその俺の手をとる。
そして俺が何かアクションを起こす前に俺の手を軽く持ち上げたかと思うとそこに顔を寄せ、優しく唇を当てるように手の甲へキスを落とした。
「、し、んとさん?」
驚きと当たった唇の感覚に思わず手を引こうと力を入れたが、その手を握っている新斗さんは俺を見つめながら次に指先の腹に軽くちゅ、と音をたててキスを落とし、次に手のひら、次に手首と唇を滑らせていく。
ややややばい、ここ、本部の廊下。今は視線ないけど。いつ誰が来るかわからないし、というかそもそも俺に『好き』だなんて視線を向けてきてる人にこんなことさせちゃダメじゃん。
「すき、傍にいたい」
「……………、うん」
「俺のすきって気持ちに応えて欲しいけど、応えてもらわなくて構わない」
「、新斗さん、こんなキャラだっけ」
「ん? こんなんだってばよー」
気だるげに視線を落としてから手を離した新斗さんに瞬きを繰り返して手を引くと、少し寂しそうにするもんだからやるせなくなる。ああもう、どうすりゃいいんだよ。告白断ってもこんなんだし、尊敬するのやめてって言っても絶対退かないだろうし。嫌われるって言っても、新斗さんを傷つけるようなことはしなくないし。
……………あ、ほだされてしまう。これだめなやつ。
よしもう、帰ろう。
うん、目の前のやるべきことをやってから次を考えよう。
そう思い立った俺は大きく息を吐き、新斗さんの眼鏡を外してから新斗さんのワイシャツのポケットにそれを入れて「じゃあ、孤児院に用あるから」とだけ告げて返事を聞く前に背中を向ける。
それに、こんだけ話していても二宮さん達が来る気配はなかったけど一応怖いから逃げとかないと……………別に新斗さんから逃げてる訳じゃないぞ、ただちょっと遠回しにしているだけ。
「名字くん」
「、はい?」
「今度二人で遊ぼうよ」
「え、」
「なんか奢るからさ、ね?」
「……………は、い」
でも、出来るなら、逃げたい……………。