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 ボーダー入隊試験日の土曜の今日、倉須のことが気になってそわそわとしている俺は私服姿でボーダー本部に訪れていた。廊下で偶然ばったり会った風間さんのとなりを特に意味もなく歩き、昨日の夜送られてきた倉須の携帯のメッセージを思い出して眉を寄せたが風間さんがいる手前あまり失礼な態度はとれないので誤魔化すように咳払いをした。

「風邪か?」
「あ、いえ、」
「顔色がよくないとは思っていたが……………おまえ寝てないだろ」
「……………昨日は、あまり」
「言うまでもないだろうが体調管理は怠るなよ。只でさえおまえには前科がある」
「、気を付けます」

寝れていないのはたまたま昨日倉須から不可解なメッセージが来たからだと分かりきってはいるが、エレベーターでのことを引き合いに出されてしまうと何も言えなくなってしまう。最近はちゃんと寝てるつもりなのに。
寝不足の原因であるメッセージは昨日の……………いや、今日の午前一時に届いたもので、ここ暫く連絡を取り合う仲じゃなくなっていたので連絡が来たこと自体にも驚いたが、文面の方も酷く俺の頭を悩ませるものだったからかあまり寝れなかった。まあ、ボーダー試験日だからってのもあったけど。
そしてそれの内容は酷く簡潔で短くて直球で、だからこそ俺は真意を図りかねている。

「風間さん」
「なんだ」
「……………もし、なんですけど」

俺が話し掛けたことで風間さんの視線が此方に向き、赤い瞳が俺を見つめる。なんだか、まだ緊張するな。

「もし、何の脈略もなく『したい』ってメールが送られてきたとして……………それってどういう意味だと思います?」
「したい……………?」
「平仮名三文字で」

パーカーのポケットに両手を突っ込みながら歩く風間さんを見下ろしながら説明すると、風間さんは考えるようにして前を向いた。なんか、二宮さんがポケットに両手を突っ込んで歩く姿と風間さんがポケットに両手を突っ込んで歩く姿、似てるのに全然違うな。雰囲気というか威圧感が。もちろん、二宮さんの凄みが上という意味で。別に風間さんの凄みが無いって話ではなくて、二宮さんが人を寄せ付けないオーラを発してるということなんだけど。

「死に絶えた体、ではないんだろう?」
「さあ」
「……………その送り主は犯罪者かなにかか」
「違いますけどね。普通の……………普通かな? まあ、親友みたいな感じ……………だった人?」
「色々曖昧すぎるな」

風間さんは呆れたように溜め息混じりにそう言ったが、本当に言葉通りの関係なので俺は苦笑いして場を濁す。友達だと思っていたのは俺だけで、相手は恋愛感情込みで俺を側に置いていて、しかも初めは消えた幼馴染みの代わりだったんです、だなんて説明できる筈もないからな。
すると風間さんは前を向いたまま「難しいな」と呟くと、俺の方を見つめて言葉を続けた。

「答はあるのか?」
「今日、聞くつもりなんですけど……………なんか、怖くて」
「怖い? 元友人がか」
「元友人がというより、元友人が、俺の聞きたくないことを、言いそうで」

酷い言い方だと分かってる。分かっていても、なんだか今のギリギリで保たれているような関係が崩れそうで、踏み込むのがこわい。でもアレを送ってきたということは伝えたい何かがあるということ。なら、倉須が幸せになってほしい俺としては、会いに行かざるを得ないわけで。
廊下の角を曲がると風間隊の作戦室が目に入り、この話題に終止符が打たれることを悟った俺はヘラリと笑って「まあ、気にしないでください」と呟く。そして作戦室前に風間さんと立ち止まってから風間さんに手を降ると、風間さんはポケットから片手を出して手を挙げながら口を開いた。

「答は教えなくていいが、答を聞いた名字がどう思ったかの報告は頼む」
「え、」
「ポチの飼い主として、責任を果たさなくてはな」
「っポチ、!?」

風間さんは相変わらずの無表情でそう言うと俺の叫びを無視するように背中を向け、すでに中に何人か居るらしい風間隊の作戦室へと入っていってしまった。
俺は閉じられた扉を前に呆然と立ち尽くし、一ヶ月前の四月一日にそんな話もしたっけなあと思い出して息を吐く。嘘って言ったのに、あのときエイプリルフールだから俺をポチ呼ばわりするのは嘘って言ったのに、嘘ってことが嘘ってことか? んん?

「……………もういいや、今更猫でも犬でもタコでも」

人殺しやゲイ扱いされるよりは遥かにマシだとは思ったが、比較するには噂のほうが酷すぎる気もした。それに、人間扱いされている方が酷いってどういうことだよ。
小さく息を吐きながら風間隊の作戦室の前から離れ、自分の私室へと移動する。あと約二時間で終わるであろう試験後に倉須と会う約束を取り付けてある俺は本部で時間を潰そうと目論んでいて、特にそれまで用はないので友人の少ない俺は私室に篭るくらいしか選択肢が浮かばない。
知り合いはありがたいことに何人か居て、防衛任務等で知り合った人も居れば、諏訪さんや穂刈くんや風間さんのように誰かの繋がりで知り合った人も何人か居る。最近はその事実が、未来の不安の種になると分かっていながらも嬉しくて仕方ない。
四ヶ月ほど前までは大切な人が増えることがただ恐ろしかったのに、今は誇らしくもあって、同時に心強いときがある。手離しに信頼することはできないが、それでも前まで意識的にも無意識的にも作り上げていた壁みたいなものは薄れてきたのではないかと自分でも思う。
思う、うん、思うけど、だからってこういう暇なとき自分からすすんで連絡を取ることはまだ出来ない。迷惑じゃないかなーとか、呼び出してもなに話していいのかなーとか、会いたいわけじゃないしなー、とか遠慮してしまうから。だったらまだ私室で一人閉じ籠ってる方が面倒じゃないんだよなあ。

「なんてね、」

そんなことをうだうだと考えながら慣れてきた道のりを歩いて私室にたどり着き、この間部屋の前に二宮さんが居たことを不意に思い出して素早く私室に入る。
俺の私室は他の人の部屋と違ってボーダー隊員の私室のために造られたものじゃないから構造が他とは異なっていて、前に他の人の私室をチラリと覗いたときにあった玄関も玄関から部屋への廊下のようなものも無い。扉を開けばすぐそこに大きな白い空間があって土足でオッケー、しかも置いてあったのは机とソファと照明のみ。俺が持ち込んだものと言えば嵐山のポスター、はい終了。

「……………だった筈なんだけど」

はあ、と息を吐いて机の上に積み上げられた漫画と白いノートパソコンに視線を滑らせる。漫画は所謂バトル物の少年漫画で一巻から十巻までが縦に積み上げられていて、白いノートパソコンはどこの隊のものか分からないエンブレムが入っている。勿論どちらも俺の私物ではない。漫画に至ってはここに置かれて二週間近く経っているが、全く減る気配がないし寧ろ巻数が増えていく一方だ。
背負っていた何時ものリュックをソファに投げてから自分もソファに座り込み、おもむろに一番上に積まれた一巻目の漫画を手に取る。

「……………影浦くん、たまに一人で来ては勝手に俺の私室使うからな……………」

決していつも鍵を開けっ放しにしているわけじゃない。俺は自分が居るときだけは鍵を閉めていないのだけれど、影浦くんはその時にノックも声もかけずに勝手に入ってきては何も言わずにソファに座って持ってきた漫画を読みふける。この空間で居座れるのはこのソファしかないので大体そういうときは俺もソファに座っているんだけど、構わずに影浦くんは勝手にソファを占領してくるんだよなあ。別に心の距離が縮まったみたいでいいんだけど、せめて漫画は持ち帰ってほしい。あと、俺が防衛任務で居なくなった時も使い続けるなら、俺が帰ってくるまで待っててほしい。何故なら誰もいないのに鍵が開いてる、って状態になるから。

「まあ、面と向かって言えませんけどねー」

表紙をぺらり、と捲り、一枚絵のあとに始まった漫画の一コマ目に書かれていた世界観の説明を読み飛ばしながら綺麗な絵柄だなあ、と感想を持つ。
ごろり、とソファに寝転がって横を向き、閉じられたノートパソコンに視線を向けてから次のページを開く。因みにこの白いノートパソコンはエンジニアの人が余ってるからと言ってくれたもので、昔の隊のために支給したけど忘れていってそのままになっていたものらしかった。貰ったときは埃を被っていて正直不安だったが、少し古い型だけれど性能に問題があるわけでもなかったのでたまにログを見るとき等に使わせてもらっている。あとは、哲次がお勧めしてくる映画とかを防衛任務の待ち時間で観たり。
なんだか他人の手によってこの私室が生活感を帯びていくような気がして少し複雑だが、悪いことだとも思わないので何処までいくか少し楽しみだと思うことにしている。このままだと俺の部屋がまんが喫茶みたいになりそうな気がして不安に駈られたこともあるが、まあ、別にそれでもいいかなあって思ってしまうので特に気にすることでもないのかもしれない。

「、わあ、なんか武器に糸使う人がいる」

ストーリーがあまり興味をそそられるものじゃなかったのでペラペラと適当に読み飛ばしていたが、不意に敵キャラで『糸使い』為るものが現れて思わず凝視する。俺が生きているこの世界には存在しない物質で作られた糸らしく、なんていうか、色々な人を輪切りにしている描写があって思わず自分を重ねた。俺もよくシャンアールでモールモッドをこんな風にするよ。

「あーこれ、俺もやってみたかったんだよなあ」

そのキャラクターが自分の味方の体にその糸を巻き付けて攻撃を回避させたり、糸を細かい格子状にして編んで盾のような要領で使ったりしているのを読んで少しワクワクする。もし俺も他の人と連携するようなことがあったり、もし本部の目を気にすることなくシンクルーを使えれば……………こういうことが出来るかも。それが何時になるのか分からないけど、倒すだけじゃなくて守ったり誰かの為に使えるようになりたい。それが五線仆の本当の意味での使い方だと思うから。
五線仆の勉強にもなるかと思ってこの漫画を読み耽り、まるで影浦くんに仕組まれたかのように読む巻数を重ねていく。
横になっていたのと寝不足だったのが原因で途中から眠くなってきたが、眠るほどの時間はないと思っていたので体を起こして背凭れに背中を預けた。そして読み終わった巻数が三巻に届こうとしていた頃、後ろにある扉がコンコン、と控えめに叩かれたので漫画から目を離す。
誰だ? 誰とも約束してないけど。
読んでいた漫画を閉じて机に置き、立ち上がって「はーい」とゆっくり扉を開けると、其処には久しく見ていなかった顔があって思わず眉を寄せる。

「よっ、久々だな?」
「ごめんなさい」

ぼんち揚の袋を片手に持ち、反対の手を挙げて挨拶してくる迅の言葉に俺は直ぐに頭を下げて謝る。
一ヶ月とまではいかないが、多分三週間近くは会ってない。
普通会えなかったことを謝るのは付き合いたてのカップルくらいだが、俺の未来を視る為に一週間に一回は会うようにしようと提案されていた関係として俺は謝らなければならない。何故なら意図的に避けていた節があるからだ。

「防衛任務が重なったこと何回かあったよな?」
「……………そうだね」
「この前おれのとこの学校に来たんだって?」
「……………はい」
「勿論本部にも来てたんだろ?」
「……………その通りです」
「……………」
「……………ま、避けられるのは分かってたけどな」

気まずくて視線を逸らす俺と真面目な顔して俺を見つめる迅は沈黙の中、互いに口を開こうとせず時間だけが流れていく。
会えなかった説明をするためには迅への気持ちを明かす必要がある。会ったら迅が好きだと確信してしまうようで怖かったからとか、どきどきするからとか、好きなのに報われないと教え込まれるからとか。
そんなの言えるはずもないんだけど。

「……………取り敢えず、入る?」

逸らしていた目を迅に向け、ずっと向けられていた『疑心』の視線を真っ直ぐ受けてそう尋ねれば、迅は小さく「そのつもりだったし」と呟いて俺の私室へ足を踏み入れた。扉を開けて迅を迎い入れてから気が付いたが、倉須に会いに行こうとしていた時間まであと三十分しかない。漫画に集中していたせいで時間の流れを忘れてしまっていた。

「名字」
「、なに?」

扉を閉めた瞬間、後ろを振り向いた迅が俺の名前を呼んだので顔をそちらに向けると、胸の辺りにぼんち揚の袋を突き出されて思わず受けとる。そのがさごそとした音を聞きながら何事かと迅の顔を見つめる俺は、何故か大きく深呼吸をしだした迅に向けて首をかしげた。
そして迅は息を整えてから俺を見据え、口を開く。






「会いたかった」

そう告げた迅はいつものように適当にへらりと笑いながら何でもないように振舞い、ポンポンと俺の肩を叩いた。けれど向けられている視線には『不安』や『怒り』なんかがチラホラと見え隠れしていて、俺は自分の感情だけで行動していたことを思い知らされた俺はぐっ、と眉を寄せる。
学習しろよ、俺。
迅は俺の未来のために会おうとしてくれていたのに俺は自分がどぎまぎして嫌だからって理由で意図的に遠ざかったりして………こういう周りを鑑みないところは全然直っていない。たまに反省してもまた同じ過ちを繰り返す。逃げてばかりで、周りに迷惑をかける。
でも、迅がどれだけ俺の未来を視てくれているのか知っていて、夢に見るほど俺のせいで辛くなることがあるのを知っている。
自分がどれほど迅に恩を抱いていて、どれほど迅が好きなのかを知り始めている。だから、俺は俺のためだけに会わなかった訳じゃない、迅を困らせないためにも会わなかったのだ。本当はもっと整理がついてから会いたかったけど。
迅は黙り込んだ俺から呆れたような態度のまま離れ、さっきまで俺が座っていたソファに向かって進んで勝手にソファに腰を下ろす。この部屋に来た大抵の人間はそこに行くので何の問題もない。筈だったが、他の人と違って迅が相手だと隣に座るのさえ憚られて一瞬怯む。
そして持たされたままのぼんち揚を見下ろしてから決心して歩みを進め、漫画を片付けるふりをしてそのまま話しかけた。今の俺回りくどいな。

「……………俺、迅のことはちゃんと信じてるから」
「、そう思ってくれてるっておれも信じてる」

やめて、舞い上がらせないで。

「だから、会わなかったのは……色々あったから」
「………まあ最後に会ったときに視た未来も忙しそうだったしな、言ってることは分かる」
「そ、そう」
「でも、それでも約束したろ」
「……………ごめん」
「それに未来のこと忘れたら許さないって言ったよな?」
「、別に忘れてねえよ」

途中まで読んでいた漫画の三巻目を漫画の山の一番上に積み上げて少し強めに言うと、迅も少し眉を寄せて視線を逸らした。
あーばかー、俺のばかー。

「……………名字は酷いやつだ」
「、は?」
「……………おれ以外の人と居るときの方が未来変えてるし、」
「っそれは俺が意図的にしてることじゃない、」

ただ迅から何かを与えられるのが申し訳ない、って思ってるだけ。
あれ、これが関係してるのか? いやいや、ないない。

「前も言ったけど、迅は未来じゃなくて俺自身を変えたんだからな?」
「実感ないけどなー」
「あってたまるか」
「そんなもんか」

肩をすくめてそう言うと、迅はそんな俺をじっと見つめてから不意に部屋を見回して「物、増えたな」と何故か安心したような表情で話を変えた。その視線が人に向けられている訳ではないので読み取ることは出来ないが、それでも何ヵ月かの付き合いで保護者のようなあの視線をしてるんだろうなあと見当をつけることは出来る。

「実感、あった」
「へ?」
「いや何でもない」

なんだよ。
てか、なんだか、前まで普通だったことが今では普通ではなくなっている。例えばこのよくわからない時間に対する居心地の悪さとか。迅から見たら俺と対面した時点で用は済んでる筈なのにここに居座っているし。

「あのさ、もしかしてこれから俺が会おうとしてる奴分かってたりするのか?」
「ん? あー、」
「……………迅も会うつもり?」
「そういうんじゃない……………ま、″どっちにしろ″な」
「どっちにしろ……ボーダー入隊するしなってこと?」
「それもある」

意味ありげな迅の言い種に俺は首をかしげるが迅は多くを語ろうとせずに頬を指で掻いて誤魔化した。そして刻々と予定の時間に近づいていく腕時計の針を眺めてから、俺は迅の言葉の真意をはかるよりもこの場をどう収めようかという思考を重要視してしまう。

「……………名字、人殺しの噂の件はどうなった?」
「え? あ、あーまあ、少し歪みが残ってるけど取り敢えず一件落着してるよ」
「そうだな、まあソコは名字ならいつものように上手くやれるだろ」
「ふうん?」
「………今から会うクラスメイトくんのことはこれからか?」
「? 倉須のことも一応落ち着いてるつもりだけど……………もしかして、なんか視えたのか?」
「………それを今教えてもな」

そう自分にも問い掛けるように言ってから涼しい顔をしてソファに体重をかける迅に、俺は少し疑問を覚える。
俺の最期の未来がどんなに確定していても諦めないのに、今回はやけに素直に諦めるんだな。そもそも俺の死ぬ未来は変えたい未来で、今回の未来はそうじゃないのかもしれないけど。それでも倉須が関わることで迅が視た未来にあまり良い想い出がない俺は、少し″そういう風なこと″が起きる覚悟をして息をはく。

「変えた方がいいのか?」
「んんー、名字次第って感じ」
「…………迅はどうしてほしい?」
「? 変なこと言い出したな」
「? 別に変じゃない。未来を視た本人から助言を貰いたいなって話だろ」

これは半分本当だけど、もう半分は周りを見るための練習だ。
そんな、別に、好きな人の考えを聞きたいからとかそんな、甘ったるい考えじゃないとだけは弁解しておく。誰にかは分からないけど、多分自分に。ほんとだぞ、ほんとだからな。

「名字の未来を変えるのが何なのか未だに分かってないからなんとも言えない、けど」
「けど?」
「おれは、″最善を選んでほしい″かな」
「? なんだそれ」
「時間が来ればわかる」

そう笑って曖昧に答えた迅は俺から視線を逸らし、息を吐いてソファから立ち上がった。その行動に何を言うでもなくじっと見つめている俺は漫画の山に手を置いてから同じように小さく息を吐く。
本当に俺の顔を見に来ただけなんだなあ、責任感が強いっていうかどうしようもないっていうか、心配になる。俺が言えることじゃないんだと思うけどさ。

「今度会えるのはいつかね」
「名字が会いに来てくれた時だといいけど?」
「ああ……、気を付けます」

思わず敬語になるほどには反省してるつもりなので短くそういえば、迅は対して期待してないように俺を一瞥してから「じゃ」と短く言って俺に手を挙げると、俺の返事を聞くことなく部屋から出て行ってしまった。
放置されたように一人になった俺は机に置いたままのぼんち揚の袋とまんがの山を見つめて何気なく耳たぶを触って目を細める。


「……むなしい」



                  ◇◆



 入隊もしていない人間がボーダー本部に足を踏み入れられるわけもないので迅が立ち去ってからすぐに私室を出た俺は、告げられたばかりの未来についての言葉を頭の片隅に置きながら倉須の家へと向かっていた。というのも、昨日のメッセージに一文字も返事を返していないので、今から会いに行こうとしていることも倉須は知らない。待ち合わせなどしているはずもないのだ。なので確実会う方法……つまり、必ず戻ってくるであろう場所で待ち伏せをしようということだが。

「遅い……」

迅と話して少し遅れたとはいえ試験終了時間から二十分後くらいに本部を出た俺が倉須よりも早くここにたどり着くはずがない、つまりこんなにも待たされているのは倉須がどこかへ寄っているからとしか考えられない。待ち合わせの約束をしているわけでもないので文句を言う資格はないが、このままだと俺が不審者かなにかだと思われて通報されてしまうような不安に駆れる。倉須の両親は今日も帰ってこないんだろうか……というか、倉須がボーダーに入隊しようとしていることは知っているんだろうか。最近倉須と関わっていないせいかそういう事情はサッパリわからないが、心配をかけるようなことをしていなければいいけどなあなんてお節介にも考えてしまう。
ぼんち揚の入ったリュックを背負いなおしてから白文字で書かれた『倉須』の表札を横目で見つめて息を吐いた。小学生のときはこういう苗字の表札を家の前に飾れている他人が妙にうらやましかったっけ、なんて昔のことを思い出しながら門に寄りかかって時間をつぶしていると、不意にどこからか『疑心』の視線を向けられて思わず苦笑いを浮かべる。
うわ、ついに不審者扱いされたか?
寄りかかっていた門から背中を離してキョロキョロと顔を見回すと、俺が来たのと同じ方向から見たことのある服装の人間が歩いてくるのが見えて何となく手を振ってみる。

「あ、」

手を振った俺に気が付いたらしいその人は視線を『疑心』から『驚き』に変えたかと思うといきなりこちらに向かって走り出してきた。
ああやっぱり倉須だったか。
そして、倉須だと確信できるような距離まで近づいてきたので試しに笑いかけてみると、同じようにリュックを背負っている倉須が俺の前に立って少し息を切らしながら眉を寄せた。その視線がなんだかよくわからなくてサイドエフェクトを意識すると『会いに来てくれて嬉しい』とか『何を言えばいい』とか『どこまで許される?』とか混乱しているのが読み取れて、やっぱり倉須の中の俺が消えるまでにはもう少し時間がかかるのかなあと他人事のように思う。

「倉須、試験お疲れ」
「、……………うん」

頭のなかではごちゃごちゃと考えているわりに倉須の口から出てきた言葉が短くて、その気持ちが分かる俺は米神を指で掻きながら視線を逸らして言葉を紡ぐ。

「どうだった?」
「たぶん、上手くできた」
「そっか、良かったな」
「……………名字のおかげだよ」
「そんなことねえよ」
「あるよ」
「、そう?」

倉須がボーダーに入隊することが分かってる身としては手応えがあると言われても「だろうな」としか思えないけど、それもこれも倉須が努力してきた結果だと理解しているので、その努力に少しは助力したつもりの俺は素直に喜んでおく。
久しぶりの倉須との会話に多少どきまぎするがそれ以上に倉須が戸惑っているっぽいので逆に俺は冷静になれて、なんていうか、良かった。倉須のことはそういう意味で好きだったからもっと緊張すると思っていたけど、想像していたより頭も心もスッキリしてる。吹っ切れたのだろうか。
でもそれはきっと俺だけで、倉須は違うのだろう。

「ほんとはさ、試験日だからって理由で会うつもりはなかったんだ。倉須と俺はもう………関わらない方がいいと思ったから」
「、うん」
「でも、お前が昨日変なこと送ってきたから気になって…………メールで聞いても良かったけどさ、何となく直接聞きたいなと」
「……………なんで?」
「なんで? 何となく……………心配になったから?」

倉須の部屋で会話したあの日から、倉須からの連絡といえばボーダー試験に関することだけだったのに、昨日の訳のわからないメッセージが深夜にいきなり届いたらそりゃ心配になるだろう。試験が不安なのかと思えば試験の調子はいいみたいだし。そもそもどういう意味なんだあの言葉。

「『したい』ってなに?」

その三文字の発音すら分からなくて適当に発言すれば、倉須は困ったように笑ってからなにも言わずに目を逸らした。

「……………」
「……………」

俺は倉須が言葉を発するまで待とうと沈黙を保ち、何となく倉須の横顔を見つめる。少し痩せたようにも見えるその横顔や、この距離感に懐かしさを覚えるほど離れていた。物理的にも心情的にも。それはもちろん俺と倉須が選んだ最善の選択の筈なのに、やっぱり少し寂しい。

「……………したい、なって」
「? へ?」

突然前兆も脈略もなく小さく呟かれた倉須の言葉に再度問いかけると、倉須の瞳が真っ直ぐ俺を射抜いたまま俺を映し、同じ言葉を発した。

「したいなって、思ったんだ」
「……………したい、なって?」
「そう」
「……………ああ」

したい、って、何かをしたいって願望の言葉か。
その分かりにくい言葉を俺に送ったってことは、俺に何かをしたいのかと勘くぐった俺は迅との会話を思い出しつつ目を細める。

「、なにがしたい?」
「……………言えない」
「言えない?」
「うん」
「言いたくないんじゃなくて?」
「言いたいけど、言えない」

人通りの少ない住宅街だけど夕方ということもあって遠くから子供たちの声が聞こえ、その騒がしい声と消え行くような倉須の肯定の声が混ざりあって何だかどうしようもないもどかしい気分になる。また、お節介を焼いてしまいそうになる、そんな気分に。
赤くなりかけている夕焼けがここら一帯を照らしているのに、方向的に倉須の顔に影を落とすのが妙に嫌だと思った俺は考える前に二歩ほど進み、倉須の腕をつかんでぐいっと力を込めて立ち位置を逆にし、驚いたような表情の倉須を無視してへらりと笑う。
そして「うん、こっちの方がいいな」と俺が自己満足でそう言うと、顔に当たった夕日が眩しいのか、倉須も目を細めながら俺を見つめて「……………ほんと、眩しいね」と笑った。
その笑顔がなんだか自然なものに思えて、さっきまでの居心地の悪い空気が少し薄まったような気になる。

「好きになって……………ごめん」
「、うん……………ごめん」

好きになるなって言われて、はいわかりましたって簡単になれないのくらい今の俺なら分かる。だけどそれが倉須の良い未来に繋がると思うから、だから俺は我が儘を通した。
というよりもそれが理由で嫌われるとも少し思っていたのに、こんな風に辛そうな表情でこの台詞を言わせてしまうほど倉須の気持ちは揺るがないものだと思い知らされてしまう。
そして倉須も、俺が倉須の為に離れたことを知っていて、それを無にしないためにも離れることを決意したのに、結局こんなことを言ってしまって後悔している。自分を変えたいって思ったのに、って。
互いに罪悪感を感じていて、互いに互いを尊重し合ってるのに上手くいかない。

「……………名字」

倉須はポツリと俺の名前を呼ぶと、ついに手を伸ばして俺の人差し指を掴んだ。スキンシップ過多の奴がぎこちなく。
その指から倉須の熱が伝わって思わず眉をひそめ、そのいじらしさと締め付けるような『好意』の視線がひしひしと向けられて俺は無意識にからだを強張らせる。
好きだとか、愛してるだとか、尊敬だとか恩だとか、もう。


「、なかないで」
「っ泣いてねえ」


もう、全部くるしい。
心が苦しくなるのも、未来だとか役割だとか他人の最善だとかに挟まれて身動き出来なくなるのも。全部やめにしたいし無かったことにしたい。
でもそんなこと出来やしないし、出来たとしてもきっと後悔する。分かってる、そんなこと分かってるけど、でも、考えてしまう。
もしあのとき倉須の想いをすぐに否定していたらとか、
もしあのとき迅と出会ってなかったらとか、
もし、アキちゃんが死んでいなくて、
自分が死んでいたならとか。
迅は前に「良い未来を選んでる」って言ってくれたけど、俺が生きる為にはこんなことまでしなくちゃならないのか。

「もう、うんざりだ」

風間さんになんて報告しよう、なんて訳のわからないことを考えながら倉須を見ていられなくて下を向こうとしたが、それを遮るようにして辛そうな顔をした倉須が俺の顎を掴むとクイッ、と上げて目を合わせた。
さっきまで触れるの躊躇ってたくせに……………こんなときだけ。

「ごめんね、もうこんなこと言わないから、泣かないで」
「っちがう、そうじゃなくてな」
「うん、ごめんね、」

みんなが俺の知らないところで幸せになってくれればそれでいいのに、上手く事が運んでくれない。俺の事が好きだと言ってくれて本当は嬉しい筈なのに、素直に嬉しいとか恥ずかしいとか思えなくなってる自分が嫌になる。未来だとか役割だとか、俺は優先するべきことがあるから他人の好意を蔑ろにして、そんなこと許されないと分かってても、未来だとか役割だとかを蔑ろにする方がもっと許されないから。
誰かの好意を受け取れない理屈は分かってて、仕方ないことだと思っていても、辛いものは辛い。好きだった人に同じく好きだと言ってもらえて、絶対嬉しい筈なのに。離れたくないって同じように思っているのに。
でも、ダメなものはダメだ。

「やり直しに戻れたら、いいのに」
「……………ちがう」
「、え?」
「……………俺と倉須の思っているの時期は多分、ちがう」

倉須は多分、俺と一緒に居れた頃を思い浮かべている。けど俺はもっと前、倉須の幼馴染み二人が居る頃に戻ってやり直したい。幼馴染み二人が消えないように図って、俺なんかが必要にならない生活を送れるように努めたい。

「……………でも、戻りたいのは一緒でしょ」

倉須は囁くようにそう言うと、寂しそうな笑顔浮かべて俺から手を離した。そして横目で自分の家を見ると静かに視線を落として「今なら」と呟く。







「今なら、少しは戻れるかもよ」

そう言って俺に手を差し出してきた倉須に、俺はあの未来に繋がる選択を迫られていることを直感した。
この選択次第で、多分、何かが変わる。
実際、倉須がこの話題を持ち出してきた時点で答えるべき選択肢は分かっていた。先程会った人物が言っていたのを覚えていたから。つまりここで選ぶべき"最善の答え"は、倉須から差し出された手に応えないということ。そうすればきっと、未来は迅の言う″最善の未来″に繋がるはず。
けど、その最善の未来ってのは多分、俺にとって最善の選択なだけで、倉須の最善の未来には繋がらないと思う。前までは拒否することだけが倉須の幸せに繋がると思っていたけれど、こんな風に俺のことを引きずってしまうなら、だったらもう、俺が出来ることといえばひとつだけ。

「……………倉須」
「、ん?」
「倉須に会わせたい人が居るんだ」


選択肢を、……………増やせばいい、よな。


過去に戻るためではなく、倉須のための未来へ進むために差し出された手を掴んでそう言うと、倉須はその人物を予想しているのか視線を横に逸らしてから少し嫌そうにして「じんゆーいち?」と呟いた。その視線に『嫉妬』が混じってるのに気づいた俺は、カラオケのトイレでのことを思い出す。
そういえば倉須は俺が迅を好きだと思ってるんだっけ。今となってはあまり間違いじゃないけど、何となくやりにくいな。

「迅はそのうち。今日はちがう。本当はお前がボーダーに入隊してから紹介しようと思ってたんだけど」
「…………ボーダーの人?」
「おいこら、嫌そうにすんな」
「だって……………ボーダー嫌いだし……………ボーダーになったのは、自分の為と名字の為だし……………」
「そういうの、……………」

言葉尻が小さくなっていく俺に倉須は何故だか嬉しそうに微笑んだが、サイドエフェクトを持っている俺はその笑みが、自然に会話できていることの嬉しさから出たものだと分かるので、少し居心地が悪くなる。

「で、今から会いに行くの?」
「その人に連絡してからな」
「……………思いつきだったんだ」
「うんまあ、人生は思いつきのお陰で上手くいくときもあるさ」
「いきなり深いこと言うね」
「なんとなくな」
「流石だねー、名前ちゃん」
「その呼び方やめろ」

引っ張られるようにテンポよく出る言葉に少し驚くが、にこにこと笑う倉須が嬉しそうなので深く考えないことにした。

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