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 いくら好きだと伝えられても、傍に居たい、離れたくないと言われても、そうそうすぐに「はいわかりました」って近くに居られるような関係じゃない。倉須とはあまり近づきすぎるのは良くないと実感した過去があるし、新斗さんとは忘れてはいけない佐藤家絡みの過去がある。二人の言う今を見つめるために未来のことばかりに目を向けるのは控えているが、過去を蔑ろにするのは俺の役割を否定することとなるから無理だと開き直った。
そしてその結果が、この様。

「おはよう、名字」
「……………はよ、」
「今日もイケメンだね」
「ああ……うん、」

学校の玄関で靴を履き替えていると肩に手が回ったかと思うと至近距離のまま、見慣れていた笑顔で挨拶された。つい昨日までまともに話さなかった期間だったのにも関わらず嬉しそうな視線を向けて話し掛けてくるもんだから、俺は戸惑って距離が分からなくなる。
物理的距離も相変わらず近いので然り気無く距離を開ければ、苦笑いした倉須が手を離して何も言わずに一人で教室に向かった。そのことにわりと安心している自分がいるのに気づいて俺も苦笑いをこぼす。
やりにくい。非常に、やりにくい。
新斗さんはまだいい、距離感が変わるでもなく関係が変わるでもない。それに、報われないとわかっていながら好きでいる悲しさも虚しさもわかるし、好きでいることがやめられないのも俺はわかるから。いつか離れていくのを待てばいい。
ただ、倉須はほんとうに、もう、難しい。
俺が幼馴染みの代わりで互いに過去に縛られてたのに、倉須には過去に縛られて欲しくないと願った日から俺が離れるよう仕掛け、そうかと思ったら倉須が俺という存在に心底執着していることが露呈した。

「……………まあ、」

元の関係に戻った訳ではなさそうだけど。
今の会話を過去に縛られてた倉須としていたなら、多分「そんな態度しないでさ、ね?」とか言ってふっついたまま二人で教室に向かっていたと思う。変わったのは俺だけでなく倉須もで、今は一応自分のこれからのことのためにも、って体裁で生きているからか分からないが、周りとの関係を壊さないようにしているらしく教室内でも無闇やたらに俺とばかり接することはしないようだった。これがもし『名字が俺のことを考えて出してくれた結果を壊したくないから』とかいう理由で周りの友人との関係を続けているんだったら、多分それを知った日の夜は泣く。

「……………はあ、はいはい、」

上靴に履き替えた自分の足を見下ろしてから溜め息混じりにそう呟き、とぼとぼと一人寂しく教室へと向かう。
あの公園前で話した日から四日経っているが、まだ会っていない。会う予定もつくってないし、連絡もとってない。けど、一週間のうちには会うよ。多分。
この選択が最善だったのかを知りたいが、知りたくない。教えてくれるかどうかも分からないし、そもそも俺と迅の最善っておなじなのだろうか。そこを疑問に思ったら元も子もないが。
はあ、と一人溜め息を吐きながら教室に向かう途中、この前俺に告白をしてきてくれた子とすれ違ったが、言葉も視線も交わさなかった今の俺の選択は最善だろうか? 俺にとっては最善だが彼女にとってはどうだろうか? なんてね。
自分の思考回路がまた未来に向き始めてるのを感知して意識的に思考を現実に戻し、自分の教室に入って席につく。既に倉須は席について友人と話しているらしく俺にはあまり向けないような笑顔を浮かべて楽しそうにしていた。こういうところを見ると、やっぱり一度離れて良かったと思える。無駄じゃなかったしやっぱり間違ってなかった。

「おはよーさんさん」
「……………おー、はよ」

俺に声をかけてきてくれた茶髪に返事をしてから背負っていたリュックを机の上に置くと、茶髪は空席になっていた俺の前の席に座って「なあなあ、聞いて」と嬉しそうな視線を向けて話し掛けてきた。

「なに? あのカラオケの子となんかあった?」
「、なんでわかった!?」
「最近のお前はそればっかりだろ」

サイドエフェクトを使うまでもなく簡単なことなのでリュックを机の横にかけてから適当にそう返せば、驚いた表情の茶髪は目を瞬かせてから俺の机の上に頬杖をつく。

「ちぇー、バレたかー」
「で? 何があったの?」
「……………ふふふーん、なんと、」
「あ、付き合ったんだ」
「っ先に言うな先に!!」
「よかった、よかった」
「玄人かよ!?」

ガンッ、と勢いよく俺の机に額を打ち付ける茶髪を横目に見つつ一限目の科目の教科書類を机のなかに仕舞い込むと、なにかが引っ掛かって奥まで教科書が入らなかった。置き勉はここ最近してなかったので何かと思い手を突っ込むと、指先に何か固いものが当たったのでそれをなんの気無しに引き抜く。

「……………?」

視界の端に映った見覚えのないシルバーの箱に小さく首をかしげつつ目の前の茶髪との会話を勝手に中断してソレに巻き付いた黒のリボンを引っ張る。するする、とほどけていくさまを見下ろしていると、俺の手元に気が付いた茶髪も机に乗り出して覗き込むようにしてから不思議そうに俺の行動を見つめ続けた。
なんだか、ここ最近ざわざわすることばかり起きている気がする。
心が感じているのか脳が感じているのか定かではないけれど、いいことでも悪いことでも、今と未来をかき回すような出来事が俺の周りに多発しているような感覚。
きっと、アキちゃんが死んでから、なにかが動き始めたのか、止まってしまったのか、俺の人生は一変した。今の俺と昔の俺が別々に存在しているような状態じゃそれも当たり前なのかもしれないが、それでもやっぱり俺の世界の歯車は『役割』によって流転しているようになったからか。
そんな漠然とした何かを感じ取りながら小さく息を吐いてからシルバーの箱の蓋を持ち上げる。

「? なにこれ、十字架のネックレス?」

きょとんとした表情の茶髪の声を聞き入れながら箱と同じ色をしている十字架のネックレスに目を細め、何処かで見たことのある十字架の意味とコレを置いた人物に思いを巡らせてみたが、なにか引っ掛かったまま答えが出なかった。
するとキーンコーンカーンコーン、と朝のチャイムが学校に響き渡り、教室でウロウロしていたり廊下に出ていた生徒たちが一斉に自分の席へと移動する足音で騒がしくなったからか思考がそちらへと引きずられ、目の前の茶髪も一度俺の顔を見てから「ファンからのプレゼントかね?」と言ってから前を向く。
チャイムが鳴り終わり最後の音が反響するように響いていると、ガラッと音をたてて教室の扉が開き、担任教師がため息を吐きながら入ってきた。相変わらず感情が出やすい人だなあ、と思いながら箱を鞄に仕舞い込んでそれを見つめていると、彼女に尻に敷かれて一年目の男が「せんせー! どしたのさー!」と叫ぶ。

「………先生はな、いま傷心してるんだー」

教卓に手を置いて頭を項垂れる先生はいつもの元気をどこかへ置いてきたかのようにしょんぼりしている。

「なんでー?」
「……………先生、好きな人がいたんだけどな、」
「あー、あの女の先生ね」

先生の発言に対してケラケラ、と笑う生徒たちに俺は首を傾げたが、どうやら先生の想い人というのは結構周知されているらしく、生徒たちは公に応援していたらしい。俺は先生方には興味がないから知らなかったが。

「実はな、あの人、……………教師を辞めたんだ」
「「「「「……………ええええええええ!?!?」」」」」
「今日付けで」
「「「「「、マジかよ!!!!」」」」」
「……………、っえ、」

周りのクラスメートに声をかき消されて自分の声が聞こえなかったが、ざわめく周囲とは反比例するように俺の頭のなかは静まり返る。

「いつもなら全校集会の場で発表するものだが、もうこの学校に足を踏み入れる権利がない、という理由で辞めてしまったらしく事務的に処理されてしまってな……………」
「ええ!?」
「マジ!!??」
「それって教師としてどうなの、」
「てか、暫く休んでたのそういうことか」
「なんでだろうな」
「そんな感じしなかったのにー!」
「いきなりすぎて何も感じねーわ」

「まさかあの″佐藤先生″がね」







ああ
俺の周りはこんなんばっかか。


騒がしい教室内に自分も居るはずなのに、まるで自分だけが違う世界に隔離されているかのように静まり返っている感じた。
自然に眉を寄せていて何故だか頭がガンガンと痛くなった俺は机にかけたばかりの鞄にゆっくり手をかけ、中に入っている十字架のネックレスの意味を知るために無言で席から立つ。
初めはざわめきに包まれた教室内では俺の行動に気が付かずにいる人も多かったが、次第に俺の近くの席の生徒から俺の存在を注視ししだしたので、教壇の前で項垂れている担任を一瞥してから教室の扉を開けて廊下へ出た。うしろで俺の名前を呼んだクラスメートがいた気がしたが、今は平常を保ってあの空間………いや、この学校に居られないと分かっていたのでなんの反応も返さずに後ろ手で扉を閉める。

今、自分が何を考えているのかわからない。

ただここに居てはいけないような気がした。
行く場所があるからなのか、ここに居たくないからなのかもわからないが、なにもしないで席に座っていることができなかった。
佐藤先生が教師をやめた?
その資格がないから?
それならば、そんな思考に至ってしまった理由はやっぱり。

「……………、新斗さん、」

前に新斗さんは姉のことは任せろと言っていた。
だから本当はこれ以上俺から関わることを避けたかったのに、こんな風に彼方から思いもよらない形になってしまったらもう、これがどういう意図なのか聞かざるを得ないだろう。けど俺は佐藤先生の連絡先など知るよしもないし、佐藤家の今の住所だって知らない。だったらやっぱりこういうときに頼るのは、新斗さんか兄の佐藤さんしかいない。何時もなら迷わず新斗さんに連絡して聞き出すけれど、今回はちょっと気が引ける。もしかしたら佐藤先生のことについて俺から関わることを、新斗さんは信用されてないと思ってしまうかもしれないから。

なら、



「、名字!」

そんなことを考えながら無意識に早歩きで階段を降りようとしていると、教室のある方から焦ったような声と『心配』の視線が一つ向けられたのでチラリとそちらに視線をやる。
するとまあ、思っていた通りに鞄を提げて此方に走ってきた倉須が立ち止まっている俺の近くまで走り寄ると、何かを言う前に俺の片手の手首を握り『逃がさない』という視線を俺に向けて口を開いた。

「、俺、何かできない?」
「……………え?」
「……………名字がさっき、すごい辛そうな顔して出てったから……きっと名字が俺の立場ならこうするし、俺もそうしたい、から」

少し息を乱しつつも視線を逸らさずに俺を見つめてぶつけてくる倉須の『懇願』という感情に、俺は胸の辺りが痛くなって眉を寄せる。
ほんの少し前、三ヶ月前までちょっとスキンシップの激しい普通の友達でしかなかったのに、好意を知って伝えられてしまっただけで今じゃこんなにも、こんなにも俺の傍に居たいとすがる相手になった。俺は好意を受け止められないと言っているのに。
バカだけど、バカにさせているのは、きっと俺。
でも、変な形で突き放したり、諭したり、いろいろなことをして、俺のことを嫌いになる要素なんて沢山あるのに、それでもこんな風に俺の手をとって自分の有用性を主張して。
まるで、置いていなかないで、と行動で示しているような。
そんな不安を抱かせてしまった原因も、俺?

「……………倉須」
「なに、?」

やっぱり人生ってのは上手くいかないのか。
他人が関わると、もっと上手くいかない気がする。
幸せにもなりたいけれど、それより幸せになってほしいのに。
倉須と新斗さんの幸せが俺の傍に居ることだとしても、このままじゃどちらも俺に固執しすぎてしまう。倉須なんかは一度離れたせいだろうか。でも間違ったことをしたつもりもない。

「……………なんでもないから、教室戻れよ」
「、……………うそつき。信用されてないのは知ってるけど、さ」
「っ信用してないわけじゃない」
「じゃあ、全部俺に話せるの?」

そう言って俯いた倉須のつむじを見つめつつ、その言葉に少し思考を止める。
全部……………?
そういう曖昧な単語を使われると、色々なことが頭の中を駆け巡る。役割のことや未来のこと、ボーダーのことや佐藤家のこと。サイドエフェクトもそうか。


「全部、は、誰にも話してな………」


……………迅には話してるか。


「、やっぱり今の俺は名字にとってそんなに必要じゃないよね」
「っはあ?」
「佐藤さんだって居るしジンユウイチも居るし、ボーダーにもきっと俺なんかより大切な人が沢山いるもんな」
「、……………」


なんだ、……………?誰だよこんなにコイツを、甘やかしたのは。
俺か? 俺なのか?
てか、すごく俺のことを考えてくれてるつもりだろうけど、湾曲し過ぎて自分の為にしか動いてないということに気づいてないのか。


「くら、」
「それでも傍に居たいんだ、だから、何でもいいから使ってよ」
「……………」


あ、ヤバイ。
なんかちょっと、腹が立ってきた。









「おい、おまえ……………」

俺は頭がいやに冷静なことに気がつきながら目の前で懇願する倉須の胸ぐらを捕まれてない方の手で引き寄せ、色々なことでよく回ってない頭と無意識に出た態度で倉須に向き合う。

「置いてかれたくねえって気持ちが強いのは分かる。けど、二人の代わりだからって俺に全部押し付けるのはちがくねーか?」
「……………あ、昔の名字」
「っ聞いてんのかオイ」
「、うん」


嘘つけよ、視線が何でか知らないけど嬉しがってるじゃんか。
ムカつく。


「………お前が俺を求めんのは好きだからだろ」
「うん、好き」
「っだったら、




 ……………俺の気持ちも考えろよ」


俺が慣れない言葉を掠れた声でそう言うと、倉須は物珍しそうな視線を向けてから、ゆっくり俺の腕から手を離した。
そして顔を逸らしたかと思うと自分の首もとに手を当て、そのまま目を合わせずに「だって」と呟く。

「名字、全然自分のこと話さないじゃん」
「……………そんなことない」
「あるよ。きっと昨日だって沢山言いたいことあったのに、もっと俺の知らない弊害が沢山あるだろうに、隠してたでしょ」

弊害。
それは誰にとっての弊害なのか。

「それに、昔の名字が出てくるほど俺にムカついたなら、もっと言いたいことあるんじゃないの?」
「それは……………」

そりゃ沢山ある、好きになるのをやめて他の人を好きになってほしいとか、俺を変な形で束縛するのをやめろとか、もっと他の人を見ろとか……………遠征の存在を知ればきっとお前は、とか。
ってあれ?
立場変わってね?
てか、もしかしてコイツ、わざとさっきのムカつく態度……………。
なんだその駆け引き……あれ? でも最初の視線は本物だったし、でも途中からうつむき気味だったし。今も目を逸らしてる、し。



「、あーーーもう!! うるせえ!!」
「っえ?」
「そんなに俺が好きか! そんなに俺が知りたいか! だったら今は何も言わずについてこいクソが!!!」


サイドエフェクトも使えない状況に何もかもがヤケクソになり、思考が一旦違う方向性になったからかこんなところで時間を重ねていく暇など無いことを思い出した俺は、倉須の胸ぐらを乱暴に離してから、まだ静まり返ったままの廊下でそう叫ぶ。
そしてその声を受けた倉須がどんな顔をしていたかさえ確認せずに階段を早足で降りると、後ろから同じようについてくる音が聞こえたので俺は盛大にため息を吐くしなかった。


               ◆◇


 本当に何も言わずについてくる倉須をチラ見してから俺は目的地である駅近くの大学にたどり着き、一般の人も図書館等が利用できることもあって警備員の人もこちらを見ることなくスルーしてくれたのでそのまま門をくぐる。平日のこの時間で制服姿だと逆に授業の調べものかなにかだと思われてるのかもしれないなあ、何て思いつつまるで一人でいるかのように自己完結させた。
移動してる間、佐藤さんに「佐藤先生のことで今から話したいんですけど」と連絡したところ、この大学の図書館を利用しているとのことだったので、大学内にある広場で落ち合おうと提案してくれた佐藤さんの言葉通りに指定された場へ足を向ける。
因みにこの大学……慶と伊都先輩がいる大学で、ボーダーとの関わりが大いにある大学であるため、知り合いが居そうで少しソワソワとしているのは内緒だ。まあ、午前九時前後ということもあって人は少ないし、出会う可能性は低いだろ。

「あれ、名字じゃんか」





と思っていた時期が俺にもありました。


声をかけられた後ろに嫌々顔を向けると、いつぞやボーダー本部の廊下で肉まんをあげた眼鏡の男が軽くてを挙げてヘラヘラと笑っていたので、意外な人物の登場に驚いて俺も「おお!」とか言いつつ返事を返してしまう。

「久々じゃんかー」
「そうですねー、全然会いませんしね」
「なにしききたの? サボり?」
「……………まあ、そんなとこです」
「なんだ、意外と悪いやつだなー! まあ、俺も今遅刻してんだけどさ」

ヘラヘラと笑うB級ソロ隊員の名前も知らぬ人は、高めのコミュニケーション能力を駆使して俺との会話を展開していく。すると、まあ当たり前だが、隣の倉須に目を向けると「友達?」と首をかしげた。

「……………今は、只の従者です」
「っ只の従者!? 只のっていうほど従者って名字の日常にありふれてんの!?」
「いやいや、まさか」
「……………全然、説得力皆無やん」

わりとツッコミ体質らしい眼鏡の先輩に笑顔を返しておいたが、全く話そうとしない倉須の存在で俺の言葉に本物さを感じ取ったのか「ドン引きやー」とエセ関西弁で言って一歩離れた。けど、視線からボケで言ってることを知っているので俺も笑って「引かんといてー」とか返すことができる。やっぱり俺はもうサイドエフェクト無しじゃ上手く生きていけなくなってるのでは。

「あの、この大学に広場ってあります? なんか、赤い像? モニュメント? みたいのがあるらしいんですけど」
「ん? あーあるよ、つってもそこの角曲がったら直ぐなんだけど」

そう言って図書館らしき棟の人通りの少なそうな近くの脇道を指差す先輩にお礼を言い、これから入りにくい空気の講義に参入しに行くであろう先輩を激励してから脇道の入り口で別れた。
するとさっきから一言も何も言わなかった倉須が「だれ?」と尋ねてきたので、わざと無視して道を突き進む。

「………聞いてる?」
「うるさい」
「……………」
「……………」
「……………さっきの『引かんといてー』のときの名字、死ぬほどかわいかった」
「、うるさい」

そう言いながら変な視線を向けてくる倉須を無視し続けて周りを見渡すと、赤いモニュメントらしきものの近くにある幾つかのベンチのうちの一つに人が座っているのが見え、その人物のシルエットにも覚えがあったのでそちらに近づく。
俺と倉須の足音に気がついたのか、その人物、つまり佐藤さんは読んでいた本から顔を上げると俺を見つめ、後ろにいる倉須の存在に首をかしげつつ立ち上がると礼儀正しく頭を下げてきた。

「わざわざ来てもらってすみません」
「いえ、お時間とらせたのは此方なので。あ、あと先に言っときますけど、この後ろのやつは居ないものとして扱ってください」
「え?」
「あと、学校のとこも触れないで……………」
「………ああはい、貴方が言うならそれで構いませんよ」

俺の度を越えた我が儘に、にこりと優しく笑って微笑んでくれる佐藤さんの表情と視線を受け、これがなんの引っ掛かりも隠し事も負い目もない佐藤さんの笑顔ならすごく優しい笑顔だなと思えた。きっと今の佐藤さんになら、雷神丸もなつくんじゃないかな。
何て思いつつ佐藤さんと同じように日陰に入り、倉須が違う方に視線をやりつつも話を聞いていることにため息を吐きながら佐藤さんと向かい合う。

「えっと、妹のことでしたっけ」
「……………はい。今日付けで退職されたとのことでしたが、」
「そのようですね。私と新斗も先日そうすることを聞かされたばかりでして………」
「、その……………大丈夫、ですか?」

尋ねてもいいものなのか分からずに恐る恐る上目遣いで聞くと、佐藤さんは微笑むと「ええ」と安心させるような声色で返し、俺から視線を外して晴れた青空を見上げる。

「どうやら、日本を出たようです」
「……………え?」
「、自分の価値観を一掃し、また新たに自分の力で造り上げたいと」
「価値観を……………」

今までは二つの価値観に挟まれていた佐藤先生。
兄である佐藤さんに押し付けられた価値観、自分でこれまで築いてきた教師としての価値観。
その狭間で生きていて、どちらが正しいか分からずにどちらにも寄り添って生きてきて、つい最近その片方が崩されてバランスの取れなくなっていた先生は、新たな一つの価値観を手にいれるために動いている?

「アレは私たちの家族のなかで、一番強い。だからこそ私のせいで折れそうになっていたのでしょう」

へらりと笑って俺の方に視線を向ける佐藤さんの視線はどこか寂しげであり罪悪感が見え隠れして、向けられた俺すらも胸が痛んだ。
けれど、そう感じなければならないほどのことをしたのは佐藤さんで、ある種の償いでもあるその感情は捨てずに生きていてほしいとおこがましくも俺は思う。そうすればたぶんきっと、佐藤さんは妹に負けない強さを得られると思うから。
人の感情の起伏に目敏く気が付けるほど優しくて、それを拾える強さを持てる人は素晴らしい。俺が言えるようなことじゃないけど、佐藤さんはそれを成し遂げられる器を絶対持ってる。

「よかった」

少し湿気の混じった五月の風が頬を掠め、佐藤さんの髪を揺らすのを見つめてホッと肩を撫で下ろす。
佐藤家は全員佐藤家になれただろうか、俺はもう佐藤家のなかで邪魔な存在になってないだろうか。
そう思いつつも、佐藤さんの本当の笑顔や、新斗さんの顔色の良さ、それに鞄に入ったままのネックレスから言葉にできない温もりが感じられるようで、誰かに答えて貰わずとも分かるような気がした。

「貴方のお陰ですよ、名字さん」
「……………俺は新斗さんにしか優しくしてませんから、二人を変えたのは新斗さんです」
「、そうですか?」
「はい」
「……………けれど貴方を起因として私たちが強くなれたのは事実です。私も新斗もきっと妹も貴方に恩を抱いていますから、何かあれば言ってください」
「え、いや、……………」
「ね?」
「……………まあ、はい」
「ふふ、優しいですね」

新斗さんとは似つかない綺麗な笑い方をする佐藤さんに俺は微笑み返し、制服のポケットで震えている携帯に気が付きながら会釈して「じゃ、じゃあ学校あるので失礼します」と言ってから背中を向ける。佐藤さんも「来てもらってすみませんでした」と微笑んで言ってから俺へ会釈し返すと手を振ってくれたので、俺はそれに振り返した。そして、後ろをついて歩く倉須の存在を思い出してこれからどうしようかと考える。
携帯に電話が来てるのは多分カズエさんか学校だろう。
だったら学校戻るか、と思いつつ携帯を取り出そうとポケットに手を突っ込むと、ずっと黙りこんで俺を見ていた倉須が「名字はさ、」と話しかけてきた。

「なんだか罪深いね」
「……………は?」
「たくさんの人が名字に恩を抱いてるのに、ちっとも返させてくれない」

どこかで聞いた台詞だ。
俺が言いまくってるからだろうな。

「、そんなこと」
「あるよ。力になりたいって思うのに、名字が何に困ってるのか全然わからないから何も出来ないし、何か出来ないかと聞いても『ないよ』って言われるから」
「だからそれは無いからだろ」
「……………じゃあ、最近ずっと眠れてなかったのはなんで?」
「、よく見てるな……………まあ、いろいろだよ」
「ほら、教えてくれない」

ムッとしたように返す倉須に俺もムカッときて、図書館横の脇道を出て広い道に出てから隣の倉須に目を向けるが、倉須はこちらを見てないようだった。
ていうか、前までは寝れない理由の一つはお前だったんだけど! と言いたい、

「、前までは寝れない理由の一つはお前だったんだけど」
……………あれ、言ってしまった。


「……………なんで?」
「、なんで? ふざけてんのか? お前が俺を、好きだとか言うから、」
「困った?」
「……………困ったし、傷付けたくないし、幸せになってほしいし、でも俺は一緒に居られないし、辛いし……………って何を話してんだ」
「……………はあ、…………すき」
「…………………」

どこまでも真っ直ぐに好意の視線を向けてくる倉須の瞳から目をそらして携帯を見ると、そこには予想を外れた新斗さんからの着信履歴が表示されていて思わず目を見張る。
すぐに折り返しの電話をかけて携帯を耳に当てると、初めのコールですぐに『、名字くん』と名前を呼ばれた。

「もしもし? どうかしました?」
『どうかって、……………いま兄貴に会いに行ってんだろ?』
「あぁ、もう終わったよ」
『姉貴のことだよな、ごめん』
「……………なんで謝る?」
『俺が名字くんに伝えたくないわけないだろ、ここまで俺達のこと考えてくれてたのに………でも、姉貴が言うなって、』
「先生が?」
『……………自分をキチンと見付けてから自分で話したいって』

二十年近く生きてきてその内の何年間共にしてきたのかは分からないけれど、きっと長い間一緒に過ごしてきた二人と本当の家族になってきたのがつい最近なんだ。佐藤さんや佐藤先生は家族だと思っていたと思うけど、新斗さんは違うんだ。
佐藤さん達とは違って家族の距離感がまだ掴めていないから、言うなと言われたら言わない、それが最善だと思ったんだろう。

「そっか」
『……………ごめんな』
「ううん、俺は新斗さんが家族を優先してくれて嬉しいよ」
『、俺は、佐藤家になれてる?』
「……………新斗さんは元々佐藤家だったよ。ただ新斗さんが佐藤家だと思えなかっただけ……………だから佐藤家になるとかじゃなくて、新斗さんが佐藤家だと思えればいいんだよ、きっと」
『……………そうだったな』

そう言ってからなんだか嬉しそうに笑った新斗さんは息を吸うと、気持ちを切り替えたように『ありがとさん』と呟いた。そして今日の午前からボーダー本部に用があるらしい新斗さんは今から家を出る準備をするらしく、俺の学校の出席日数について茶化してから電話を切った。佐藤家の三人が前を向いて生きている、これが最善なのか俺には分からないけど、新斗さんの元気そうな声を聞けているからきっと最悪ではない。

「……………名前」
「、え?」

またしても黙って俺の横に立って俺を見つめていた倉須は珍しく俺の下の名前を呼ぶと、一呼吸置いてから「寄り道しない?」と微笑んだ。
用の済んだ携帯をポケットに戻しながら首をかしげ倉須の意図を探ってみたが、特に目ぼしい視線も読み取れなかったので時間を確認しつつ「どこに」と素っ気なく返す。

「公園」

そう短く言った倉須は俺の目をじっと見つめてから何も言わずに俺の前を歩き、先導するように歩みを進めていった。
よくわからんな、今日のアイツは。
ため息を吐いてからその見慣れない倉須の背中に着いていく俺は、そんなに嫌いじゃない目の前の景色に一人で笑って歩みを進めた。

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