玉狛支部から出て折り返しの電話をして第一声『……ごめん、死ぬ』と言われた。声のトーンから良くないことが起きたのが分かったので、いまいきます、と答えるとここに呼び出されたから足を運んだわけなんだけど。
「ちょ、伊都先輩?」
やけに熱い伊都先輩の背中や手に疑問を持ちながら引き剥がすと、ふらついた伊都先輩は顔を少し赤らめてへらりと笑い、俺の頭を乱暴に撫でた。なんだかいつもと違う撫でかたに疑問を持ちながら『後悔』と『動揺』の視線を向けて「あのね、」と話し出す伊都先輩にサイドエフェクトを意識する。
すると『移すかもしれないのに、というか何で名前呼んだの俺は』と読めた。うーん、風邪引き二号か。
「伊都先輩、暑い? 寒い?」
俺より高いところにある額に手を当てながら尋ね、その熱がわりと高熱であることに顔をしかめると、伊都先輩は「さむい?」と一言だけ言う。そして俺の腰に回したままの手で俺を抱き締め直して暖をとろうとするのでもう一度引き剥がし、前回来たときに知った寝室へ手を引いて廊下を歩く。
この季節本当に風邪引くんだな。独り暮らしだから、こういうとき大変なのだろう。
廊下を抜けて部屋に入り、そのとなりにある寝室の扉を開けてベッドを目視すると周りには水と薬だけが置かれていた。さっき通ったときキッチンに使った形跡がなかったのを見ると、これは栄養が足りてないやつだな……と推理できる。
「伊都先輩、寝てて。今下のコンビニ行ってなんか買ってくるから」
「えー…………なんで?」
ベッドに座らせて布団を掛けようとすると、こてん、と首を傾げて伊都先輩が俺を見上げるので、そのイケメンの破壊力にやられそうになった俺は一旦視線を逸らして眉をひそめる。
酔っぱらいの時も思ったけど、色気出てる………調子崩すと魅力的に少し思えてしまうのは、きっといつも完璧にそつなくこなす姿しか見てないからだろうな。
なんて思って小さく溜め息を吐くと、くいっと弱い力で首に手を回されて「こっちみて、名前」と甘えられる。子供みたいだけど、本体がただのイケメンだからギャップにしかならない。
「、伊都先輩、ご飯最後にいつ食べたんすか?」
「………昨日の夜」
どうしても俺で暖をとろうとするので仕方なく一度きゅっ、と瞬間的に抱き締めてから三度目になる引き剥がしを行い、問答無用で寝室の扉に手をかける。
こんな種類の子供が孤児院に居ないから少しやりにくいが、まあ、伊都先輩とは付き合いもそれなりなので大丈夫かな、なんて思いつつ「ちょっと行ってくるから、布団被って待っててくださいね」と返事を聞く前に部屋を後にした。
コンビニで本日二度目の購入となるような類いの商品と、あと、マスクと何食分かのお粥を買って部屋に戻ると、寝室で大人しく寝転んでいた伊都先輩が「おかえり」とマスク姿の俺を見て辛そうにしながらにこにこと笑った。
その伊都先輩に近寄って膝をつき、寒いと言うくせに被っている布団が薄手の一枚しかないことに気づいてキョロキョロと辺りを見回す。
「毛布とかってどこですか?」
「うんー、多分持ってきてない」
「…………そっすか、じゃあ勝手にクローゼット見ますからね」
独り暮らしってほんとに、色々大変だな。
「吐き気は無いんですか? 頭いたいとか」
「吐き気はないよ、頭は痛いかも」
「………でも寒いなら冷やせないから、暖まったら冷やしましょーね」
クローゼットから靴下とダウンジャケットを拝借して着てもらい、とりあえずこれで暖まってもらうしかないかなと思いながらキッチンへ移動した。そして寝室ではない部屋の窓を開けて空気の入れ換えを行いながら、午後八時を過ぎたことに焦りを覚えた俺は、カズエさんへ『友達の看病するので帰り遅くなります』とだけメールを打ってお粥を作る。
電子レンジが無いようなのでそこら辺にあった鍋に水を張って火にかけ、湯煎する形でお粥を作ることに決めた俺はお粥にいくつかの種類があることを思い出して寝室へ戻り、伊都先輩の近くでまた膝をつく。すると、それを見た伊都先輩が面白そうに笑った。
「名前かわいい、」
「っえ? ああ、またそれ……」
「ちゃんと膝ついて視線合わせてくれるんだね、ありがとう」
いつもより少し弱った笑顔を見せる伊都先輩にまた眉間を寄せ、何となく邪魔そうだった髪を横に流して「優しいって言ってって、いつも……」と呟く。
伊都先輩は俺の手の行方をじっと見つめてから、自分の髪に触れた俺の手をとってきゅっと握った。
「………名前」
「はい?」
「俺ね、彼女と、別れちゃった」
「…………」
「…………」
「…………………え?」
顔の半分を布団で隠すようにしてそう言う伊都先輩に瞬きを繰り返し、後ろでお湯の沸く音を聞いた俺は一度伊都先輩から離れる。
えっと…………。
とりあえず火を止めて、お粥の種類を聞きに行ったことを今思い出した。そしてシンクに手をついて三秒くらい思考を停止する。
え? 別れた?
いつ? なぜ?
というか、ええ?
そんな思いを胸にとりあえず伊都先輩の元に戻ると伊都先輩はベッドに座っていて、ポンポンと俺に隣へ座るように促す。それに応えるようにゆっくり腰を下ろすと、伊都先輩は何を言うでもなく視線を床に落とした。
こういうとき、俺は何て言えばいいのかな。
「………なんで、別れちゃったんすか、」
「ん? んー、なんか、浮気されたみたい」
「う、わき…………」
視線を床に落としたままそう自虐的に笑みを浮かべた伊都先輩に、ふとバイト先でのことを思い出した。
ボーダーの合否は五月中に発表され、倉須は勿論受かったが、伊都先輩が受かったことを五月末のバイト中に聞いた俺は良かったと思う反面、自分があの噂によって嫌われるのではないかと危惧したが、目の前で喜ぶ伊都先輩を見てるとそんなこと本当にどうでもよくなった。きっとまだボーダー内での俺の存在は知られていないのだう。
前にボーダー試験を受けるとき何のために受けるのか、という話になった事を思いだした。
その時伊都先輩は大切な人を守れるようになりたいと言っていて、そのなかに彼女も確かに存在していた。そしてそのために努力して結果を出したのに、今こんな現実を叩きつけられている。
もしかしてボーダーになったこと、もうすでにどうでもよくなったりしてるのだろうか。守る対象が一つ無くなったのだから…………季節の変わり目とかもあるけど、精神的に傷ついて弛んでしまったから風邪をひいてしまったのかもしれない。そう思うと、いつも完璧に近い伊都先輩だからこそ他人に影響されて体調を崩したことが、とても可愛そうにおもえた。
「伊都先輩は、優しいのに」
「…………うん、」
「誰かのために優しくなれて、それで、強くて、目標達成できる人でかっこよくて……たまにスキンシップ多いしドSだけど、真っ直ぐで…………」
「…………」
「他にこんなひと、いないのに…………」
「、うん」
「彼女さんは後悔する、きっと」
浮気なんて、なんてバカなことをしたんだろう。彼女さんは。
浮気………伊都先輩よりいい人なんてそうそう居ない………でも俺は、そういう人が浮気されたりすることが多いのは何となく知っている。相手が完璧過ぎて…………誰かに取られてしまうのではないかという不安から逃げたくて、他に拠り所を作ってしまうらしい。もし、別れてと言われたときのための逃げ場を。理屈はわかるけど納得はできない。
「…………名前は、ほんとにかわいい後輩だなー」
俺のたどたどしい言葉を静かに聞いてから俺をきゅっと抱きしめ、体重をそのままかけてくる。俺が背中から倒れると、伊都先輩は俺の上に乗ったまま頭を撫でた。撫で方がくすぐったい。
風邪でからだが上手く扱えないのか力が入らないのかわからないけど、この体勢で上に乗られ続けていると俺が潰されて呼吸しにくいので、伊都先輩の肩をポンポンと叩く。
すると伊都先輩は上体を起こし、俺を見下ろしてじっと見つめた。俺はその視線に心が締め付けられて思わず泣きそうになる。
「伊都先輩、」
「ん? って………こんなことしてたら新斗に怒られるかな」
そう言いつつ上から退かずに俺の眉間の皺を指で伸ばす伊都先輩に、俺は手を伸ばして何となく、何となく頭を撫でた。
すると伊都先輩は驚いたように目を少し開けたが、すぐに受け入れるように俺の手に一度だけすり寄ると、俺から離れた。
「名前は不思議だね」
「、え?」
「たまに、びっくりするよ」
そう言って笑った伊都先輩に俺はなんだか無理に笑ってほしくなくてベッドから立ち上がり「…………梅とたまごと紅鮭と何もないやつ、お粥、どれがいいっすか」とちょっとだけ濡れた目尻を拭きつつ問い掛けると、伊都先輩は少し笑ってから「うめ」と短く答えたので、それを作りにキッチンへ一人戻る。
ボーダーになったこと、きっとどうでよくなってなんかない。
ただあるのは悲しみと、彼女に対する申し訳ないって気持ちばっかり。その優しさと報われない現実に、俺がやるせない気持ちになった。
少し冷めたお湯を温め直してからお粥を湯煎し、深い皿を勝手に借りて盛り付ける。コップに新たな水を入れてお粥と一緒に持っていくと、嬉しそうに受け取ってくれたので少しほっとした。
「俺、今日泊まっていいですか?」
「…………ダメ。風邪移るから」
「そんなの今更じゃないっすか、」
「ダメー、ご両親困らせるから。未成年でしょ、君は」
「…………はい」
誕生日を迎えて二十歳になったらしい人に言われると言い返せないが、それでも、傍にいたいと思った。でも、俺には孤児院のみんながいる………もし、もし今日があの日と同じようなことが起きる日ならって考えてしまうと…………俺は無力だと思い知らされる。
「来てくれて、本当にありがとう。好きだよ」
「…………俺も好きです、伊都先輩」
「うわ、…………」
「?」
「あーはは、本当にこれは新斗に怒られそう……」
にこにこと最初に来たときよりは元気の出た笑顔を見て少しほっとした俺は、お粥以外の買ってきたものをベッドのサイドテーブルに置き、散乱している水のペットボトルを回収しがてら空気の入れ換えを行っていた窓を閉めた。空には星が少し見えたけれど、それを見てきれいだと思える心の状態じゃない俺はカーテンを閉めて、ペットボトルをゴミ箱に突っ込んで少し経ってから伊都先輩から空になった容器を受け取りにいく。
そして空の容器をお礼と共に俺へ渡した伊都先輩に、無性に何か言いたくて、でも何を言いたいのかも分からないまま無意識にマスクを下にずらして口を開く。
「あの、伊都先輩…………」
「ん?」
「…………えっと、」
「…………うん、どうした?」
伊都先輩は俺がマスクを外したことを少し心配そうにして俺の顔を覗きこむ。
あー、やっば、ダメだよこんなの。
「俺…………伊都先輩がボーダーに、なってくれて嬉しいです」
「…………え?」
「ボーダーにはたくさんの人が居てその…………、たくさん学ぶことがあります」
「、…………うん」
「価値観を変えられることなんてよくあるし……悔しくなることも嬉しくなることもたくさんあります」
不意に、受け取った空の容器を持ちながらそんなことを語り、自分が何のために何を言ってるのか把握できないけれど、言いたくて止められない。
伊都先輩が優しく見つめてくれるからかな。
それに、なんでかな………好きな人が報われないのは、嫌なんだ。救われないのは、だめなんだ。
「けど、きっとその全てが人生の糧になるって、そう思える。今悩んでることも苦しんでることもきっと過ぎたときには、いい思い出だって…………思える環境です、彼処は」
「名前…………」
「だから、ボーダーになったこと、誇りに思ってください。これから家族や、顔も知らないような人達を守れることを誇りに思ってください」
なんだか話している俺が泣きそうになったので逃げるように背中を向けようとすると、熱い手に腕を掴まれ、立ち上がった伊都先輩が反対の手で俺の顔をゆっくりと上げる。
目の前にある伊都先輩の表情は優しくて、それでまた泣きそうになった俺は泣かないようにぎゅっと眉を寄せるけど、伊都先輩は両手で俺の頬を包んでから親指で俺の目尻を拭った。
「名前は、ボーダー隊員なんだね」
手つきも視線も表情も全部優しくて、俺なんか気遣う必要ないのに、でも俺が泣きそうになってるのが良くなくて…………わかってても止められない。それは伊都先輩が辛いくせに優しいから、代わりに泣きそうになるんだ。伊都先輩が悪い、伊都先輩が悪いから俺もダメになる。
「言ってなくて、すみませんでした」
「いーや、言わなきゃいけない義務なんてないし、別に秘密にされてたって何も怒ったりしない」
きっと涙目になって見上げている俺の顔を手で包んで「かわいい、気にしすぎ」と呟く伊都先輩に居たたまれなくなったが、伊都先輩が言葉を続けるので黙って見上げる。
「励まそうとしてくれたんだよね。そういうところも、かわいくて好きだよ」
俺の前髪をはらり、と撫でる伊都先輩にアキちゃんを思い出した俺はまた泣きそうになったけど、ぐっと耐えて見つめ返す。
アキちゃんは伊都先輩より頼もしくないし格好いいことばっかりじゃないけど、でも、風邪を引いている伊都先輩の手つきは何だかアキちゃんに似ていて………懐かしくてもっとダメになりそうだ。
泣くのが嫌で弱く伊都先輩の手を払うと、伊都先輩は小さく笑った。
「俺は優しいってあまり言わないんだ。その時の俺に都合がいい人って言ってるみたいで」
「…………そうっすかね」
「俺はそう思うってだけ。でも、初めて思うよ…………優しいってこういう人のこと言うんだって、かわいいって思うよ」
ポンポンと俺の頭を撫でて俺から空の容器を取ると、キッチンの方へと行ってしまった伊都先輩の背中を見て鼻を啜る。
優しいって…………どっちがだ。
そんなことを思いながら一つ息を吐き、サイドテーブルにあった風邪薬と水の入ったコップを持って背中を追った。
そしてこれから絶対、ボーダーに入隊したこと後悔させたくないと強く思った。
帰り道、使ったマスクをコンビニのゴミ箱にでも捨てようとコンビニに寄り、いつもなら通らないような道を通って帰路についていると、住宅街にぼつんとある自販機の前で何人かの男の姿と声が聞こえて、少し嫌な予感を覚えた。
近寄るごとに聞こえる荒っぽい数人………見たところ三人と、一人眼鏡の子が追いやられるように自販機に背中を向けていた。
「おい三雲、今日お前調子に乗ったよな? あ?」
「先生にそんなに認められたいか!」
「、ぼくはただ、見て見ぬふりが出来なかっただけだ」
その眼鏡少年の言葉に怒りが沸いたらしい三人のうちの一人が手を振りかぶり、そのまま眼鏡少年の頬に拳を放つ。
その一部始終を見せられた訳なんだけど、何て言うか、ここで見て見ぬふりが出来ない人生になってしまったことを少し面倒に思ったことも無くはないが………まあ、今日はもう考えることが億劫なのでそのまま四人のもとに直進する。
すると何人か俺の足音に気がついたのかこちらを向くと、自分より背が高くて年が上だと判断したのか、耳打ちするように小声で何か言うと「次は覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて三人は逃げ出していった。
その後ろ姿を自販機の前で何も言わずに見つめている眼鏡少年に、はあ、と溜め息を吐いて目を擦る。あ、目尻に涙固まってた。
「ね、なんか飲む?」
「え?」
自販機にお金を入れてからお茶を買い、欠伸をしながら尋ねると『驚き』の視線を向けられたので適当に冷たいココアを買って渡す。
「はい、俺は名字。君は?」
「、え? あ、えっと……三雲です」
「そう。じゃあもう知り合いだから、これあげる。ほっぺ冷やしな」
押し付けるようにしてココアを渡し頬を指差して微笑むと口を開けながらじっと見あげてきたので、三雲くんの顎を指であげて口を閉じさせる。
そして特に何か言うことがあった訳じゃないので、そのまま何も言わずに立ち去る。
『緊張』した視線を背中に受けていたけど、俺が曲がったところでその視線が消えたので、俺がその子について考えることは無くなった。
何ヵ月か後、再会するとも知らずに。