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 もみもみ、もみもみ、と肩を揉み、時にリンパを流すように指を滑らせ、肩甲骨に沿ってぐっと指を入れてやれば「あー」とソファに座りながら下を向いている哲次が唸った。
この人本当に高校生ですか、と問いたくなる肩の凝りをしている哲次の額に手を当てて、頭を持ち上げるようにしながらうなじの上らへんを指の第二関節で刺激する。もう十分以上はこうして凝りを解してる。

「ヤバイなこれ、めちゃくちゃ気持ちいい」
「ああうん、哲次疲れすぎだわ……」

去年の九月に哲次が誕生日だというので渡した肩たたき券十枚中五枚目を使用するため呼び出された俺は、用事があったが約束の時間までなら、という条件で私服のまま哲次の隊の作戦室にやって来た。
用事というのも、俺が新斗さんに取り付けたものだ。
今まで逃げてきて俺が感じてきたのはいつもの日常だった。
前に伊都先輩と話してから何日か経っていたが、バイト先で会う倉須や本部で見掛ける新斗さんに見てとれるような違和感も変な視線も感じなかったし、二人も俺や伊都先輩に対しても何も言わなかったのでここまで逃げてきてしまったのだ。伊都先輩ともバイトで会うけれど、何も言わないで俺を待ってくれた。今の俺の状況は話を聞いたときより少し忙しいが、そういうときの方が行動しようと思えるのは何故だろう。
後ろでチン、と短い音が響いたので哲次から離れ、電子レンジで温めていた濡れタオルを取り出してソファに頭を置く哲次の目の上に置く。
本当は肩たたき券でこんなことするつもりはなかったけど、今日は哲次の隈が酷かったのでこうしたくなったのだ。

「なに徹夜してんの? マスターランクなったんでしょ? 焦ることないじゃん」
「、お前には関係ないだろ」

そう言ってタオルを乗せたまま上を見る哲次の言葉に荒々しさを感じた俺は「へえ」と隣に座りつつ物珍しさを覚えた。
確かに、今日呼ばれて来てすぐ機嫌が悪いのが分かったし、作戦室に他に誰もいなかったので、一人でまた頑張ってるのかなと思った。
前にも一度こんな風に隈を作ってる時期があった……影浦くん実家に行ったときくらいだから九月前半。その時よくよく話を聞けば、スナイパーのメソッドみたいなものを作るため奮闘していたらしかったので九月頃は俺もよく本部に来てたのもあって実験台にもたくさんなった。けれど、今はそのメソッドも形を成してきてマスターランクになれたし、哲次の最終的な目標であるパーフェクトオールラウンダーの量産にも近付いているのに。

「ごめんなー、」

私服のタートルネックの袖を伸ばしてそう言えば哲次は暫く黙り込んでから息を吐き、顔を上げてタオルを自分の太ももに落とした。
そしてばつの悪そうな顔で俺を横目で見ると「悪い、当たった」と眉間に皺を寄せたので、俺は気にしてないことを伝えるように笑う。

「いいよ、全然。哲次だから平気」
「…………んだよそれ」
「言葉の通りなんだけど、俺は哲次が好…………、大切だから何されても良いって思えるよ」

軽い気持ちで好きと言ってきたつもりはないけれど、迅にも日頃の行いを改めると言ってしまったので簡単に好きと言わないように努める。
哲次は俺の言葉を聞くといつも通り鬱陶しそうなアホを見るような目をしたが、それがいつもの調子を取り戻してきたように思えてホッとした。けれど、太ももに落ちたタオルを拾い上げた哲次がまた目にタオルを乗せ、何を思ったのか「ありがとな、」と呟いたのでまた物珍しさで驚く。

「えっ………やっぱり話聞くよ……哲次おかしいもん、俺の言葉を聞き入れるなんて………どうしたの? ん?」
「っだあああ! うるせえ! 喧嘩だよ喧嘩!!」
「喧嘩?」
「、そうだよ!」
「だれと」
「お前の知らねえやつだよ、」

相談することに慣れてないのか耳を赤くして舌打ちする哲次に、俺は安心して一人にこにこ笑う。なんだよかった、青春か。喧嘩して寝れなくなるなんてかわいいなあ。
喧嘩って言う喧嘩は俺もここに来てから慶くらいとしかしてないけど、あんなのはただの日常だから気にしたのは周りだけで本人たちはなんも気にしてない。倉須については喧嘩というより、決別に近いし。今はその倉須もどう思ってるのかわからないけど、視線ではいつも変なものは読み取れてない。

「………喧嘩は、仲良しだから出来るよね。いいなあ、俺も喧嘩したいなあ……って喧嘩してる人に言うことじゃないね」
「ああほんとにな……」
「んー、喧嘩で怒ってるってことは仲直りする気があるってことだよね? 俺、小さいとき喧嘩ばっかり見てたから分かるよ。本当に駄目なときは相手のこと居ないものとして扱うから」
「………んだよ、それ」

夫婦なのに、同じ家にいるのに、まるで空気のように相手を扱う人達を見て育った俺はその記憶が強くあるので断言する。好きの反対は無関心なんて、よく言ったものだ。
ぬるくなったタオルを外して気を使うような目を向ける哲次に、俺はへらへら笑いながら米神をかいて、哲次が察しのいいやつだってことを思い出す。へたこいたかな。

「とにかく、大丈夫。哲次と絶交なんてしても損にしかならないし………俺なら哲次と離れたくないって思うなあー」
「、はあ? お前の話じゃねえ!」

そう言って照れの視線を向けながらタオルを俺の顔面にぶつけてきた哲次の攻撃に「ぎゃっ」と叫ぶと、丁度タイミング良く半崎くんが炭酸飲料のペットボトルを持って作戦室の扉を開けた。
そして濡れタオルを顔から外して首をかしげる俺と、投球フォームのまま固まって半崎くんの方を見る哲次を交互に見た半崎くんは沈黙してから無言で出ていってしまう。すごい面倒くさそうな視線送られた。

「哲次の威厳大丈夫?」
「んなのねえよ」
「そうかな…………」

俺はよいしょ、といいながら立ち上がり、もう一度電子レンジにタオルを入れてから哲次の後ろに回って肩に手を置く。哲次も何をされるのか分かったのか、ソファに座り直して俺の手の重さを享受するのでなんか嬉しい。
これから俺は多分だけど、複雑な気持ちになりに行く。倉須と新斗さんと関わるといつもそうだからだ。だけど孤児院に居る間ずっとその事を考えてから待ち合わせ場所に行くより、今の方が遥かに心の状態が良い自信があった。

「哲次のおかげだなー」
「、なにが」

さっきやったときに哲次が気持ち良さそうにしてたツボを親指でぐりぐり軽く押しながらそう言うと、哲次が反応したので「何でもないよ」と返す。
俺が来たことで機嫌が良くなったわけでもないし友達関係へのアドバイスが出来た訳じゃないけど、肩の凝りは確実にマシになってるし血行も良くなってると思うので、凝り固まった思考も少しはマシになればいいなと思う。

「疲れたらまた呼んでね、哲次凝りやすいし。肩たたきに飽きたらマッサージも出来るよ」
「無駄にハイスペックだな」
「うちの家庭はスポーツマンがいるからね」
「…………そうかよ」

チン、となった電子レンジに呼ばれた俺はもう一度目にタオルをかけながら手のひらのマッサージを続行した。


              ◆◇



 さて、これからが本番だ。
腰に手をあてて仁王立ちの俺は家族向けマンションの一室の扉の前で決意を固めていた。年末まであと三日だからか、隣の部屋の扉にはしめ飾りが掛けられている。
そもそもここで会う約束ではなかったが、久しぶりに家に居るので来ないか、と誘われた為、厚意を無下に出来ないと答えた俺は新斗さんに「言うと思った」と返されてここに来た。どうやら新斗さんの他には誰もいないようだったが、なんだかんだ上がるのはじめての場所なので緊張し、繰り広げようとしている会話の内容も緊張するので二倍緊張して立っている。
こうやって立ち往生して五分は経過していることに気づいた俺は、寒さに耐え兼ねて意を決してインターホンをならす。

『あ、名字くん。鍵空いてるから入っていーよ』

新斗さんは俺の気持ちを知るよしもなく、インターホン越しで一方的に軽くそう言ったのでドアノブを引くと、本当に簡単に空いてしまったので呆れを通り越して心配を抱く。防犯の欠片もない扉に鍵をかけてから「お邪魔します」と言うと奥の部屋から入っていいよー、と同じことを言われたので、脱いだ靴を揃え新斗さんの声のもとに行く。
扉が三つある廊下を抜けてリビングのような部屋に辿り着くと、テレビの前のソファに寝ていた新斗さんが起き上がって俺を見た。すると新斗さんは俺に近付き、いつもより嬉しそうに笑う。

「来てくれて嬉しい」

その言葉通りの視線を向けてくる新斗さんに照れて「うん」と返すと、腕時計の付いた左手を取られたので既視感を覚えた俺は体を強張らせる。
そして予想通り新斗さんは俺の目を見つめながら俺の手の甲に唇を押し付け、それから掌にもキスを落とした。

「………新斗さん、俺はそんなに尊敬できる奴じゃないよ」

静まり返った部屋に俺の声だけ響く空間。
新斗さんがさっきから俺をじっと見つめて嬉しそうにするのがくすぐったくて視線を床に逸らせば、空いた手の人差し指で俺の顎を持ち上げて目を合わせるので逃げられない。佐藤さんとは似つかないつり目に見つめられ、どうしていいかわからない俺は新斗さんが口を開くのを待つ。
手の甲のキスは敬愛、手のひらのキスは懇願。
何を懇願されてるのかはわからないけど、敬意はいつも会うたびに思い知らされる。

「、尊敬出来るかは、本人が決めるもんじゃないだろ」
「………俺は、」
「いいんだって、願わくば俺のものにしたいなーって思うときもあったけど、やっぱり名字くんには幸せになってもらいたいからな」
「…………ありがと」

そう言って俺から手を離す新斗さんにお礼を言うと、少し驚かれた。けれど、また嬉しそうに「変わった」と笑うので、俺も笑う。
新斗さんはさっきまで寝ていたソファに俺を座らせると、キッチンに行ってしまった。周りを少し見回すと大きな窓から差し込む太陽光が棚の上に当たり、上に置かれた十字架の置物がピカピカ光っている。本棚には聖書があったり、佐藤家の集合写真が飾られていたり、そんなものを見つけただけで俺は嬉しくなる。

「紅茶好きなんだろ?」
「え? あ、はい」
「倉須から聞いた」

いつのまにか、くん付ではなくなってる倉須の呼び方にまた少し嬉しくなった俺は、新斗さんから紅茶の入ったカップを受け取る。そのときに顔をガン見されたけど気にしない。なぜなら新斗さんはいつも俺をガン見するから。
貰った紅茶に口を付けると、冷えた体に紅茶が染み渡っていくようでポカボカした。寒々としたなかに五分ほど黙って仁王立ちしていたからかな。
俺の脱いだコートをハンガーに掛けてくれた新斗さんにお礼を言いつつ、隣に座られたことで何の目的でここに来たか思い出した俺は一つ咳払いしてカップを机におく。

「あのね、新斗さん」
「待って」
「…………なに?」
「もう少し"俺だけ"の幸せ噛み締めさせて」
「、なにいってんの」

俺の隣に座って頬杖をつく新斗さんが俺を見つめていつもみたいに笑うので、視線で照れる他ない俺は熱くなる耳を手で隠してそう返す。けれど、新斗さんはやめてくれない。いつまでも俺を愛しそうな視線で見つめるから、そういう意味じゃないと分かっているからこそ照れる。

「きっと、わからないだろうな。この家に来てくれて俺がどれだけ嬉しいか」
「………わかんないよ」
「それでいいよ」
「、なんなのもう」

俺を照れさせるのが無駄に上手い新斗さんに翻弄されつつ、ピカピカと光る十字架を見つめて目を細める。佐藤先生から貰った十字架のネックレスは勿体なくてとっておいてある、一番最初に付けるときは佐藤先生に会うときがいいなと思ったから。
そういえば、佐藤先生も新斗さんも十字架のタトゥーしてたっけ。
耳から手を離して思い出した俺は、新斗さんの視線に負けずに見つめ返して口を開く。

「新斗さんって、胸のとこにタトゥーあるよね。佐藤さんはどこにあるの?」
「兄貴は背中だったかな」
「先生は耳の後ろだよね」
「って、何で俺の場所も知ってるんだ?」
「一番初めに会ったとき、ちらって見えた」

初めて会ったときは、きっともっと昔なんだろうけど。
そんなこと言わなくても、俺のバイト先でのことだと分かった新斗さんはその時のことを思い出したのか「えっち」と気だるげに笑う。
えっちって………と思いつつ、いつまでも待てばいいのかな、なんて紅茶に口を付けていると、隣からシャッター音が聞こえたので視線だけそっちに向ける。するとそこには携帯を構えてまたシャッターを切る新斗さんがいたので、何か言うのも億劫になった俺は適当にピースしておく。うわ、連写された。

「ねえ、もう話していい?」
「ん、いいよ」

画像を取り捨て選択してるのか携帯を覗く新斗さんにため息を洩らしつつ、本題に入るべく、結局こういう聞き方しか出来ない俺は口を開く。

「倉須、と、なんかありました?」

そう言った瞬間自分が少しずつ緊張していくのが分かった。
ここから先、何か怖いことを言われるかもしれない。もしかしたらこれは俺と伊都先輩のお節介で、本当は何もないのに引っ掻き回してるだけなのかもしれない。けど、そうなったとき俺には伊都先輩がついている。
だから、

「…………、バレた?」



「、え、」

新斗さんはそう言って携帯から顔をあげると、視線を俺から逸らして目を擦る。
な、なに? バレた?
ってことは、伊都先輩の思った通り二人の間には何かが起きてて、それは伊都先輩ではなくて俺が知らなきゃいけないこと。伊都先輩は言っていた『名前にフラれてから』ってそれはもう、一年以上前で。

「………どういうことか、説明してほしい」
「いいよ、勿論…………本当はずっとしたかったけど、"俺一人じゃ助けられないって最近分かったから"」
「、たすけ、?」

その言葉の意味が分からなくて、その言葉の響きが嫌で、聞きたくないのに聞かなきゃいけない俺は新斗さんに携帯を手渡される。
そこにあったのは一つのムービーで、それを見てくれという意味らしかった。

「…………あ、」

なんか、嫌だ。これは、多分ダメなやつだ。
複雑な気持ちになるとかそういうレベルじゃない、見たら俺はきっと何かを後悔してしまうようなそんな予感がした。俺のこういう悪い予感はあたるから。

「本当は………見たくなかったら見なくていいよ、って言いたいんだ。傷付いてるその顔これ以上みたくないから」

そう言って俺の顔に手を伸ばし長けれどなぜか何処にも触れずに手を下ろした新斗さんに戸惑う俺は、自分の顔に手をあてて心を落ち着かせる。
『傷付いてる』って俺が? 違う、傷付いてるのは、この視線は新斗さんのだ。
それに気づいた俺は我に返り、視線を意識するため目を伏せる。

『倉須を、助けたい』

意味は、まだ分からない。ムービーを見ればわかるのだろう。
これを見たら傷付くって俺は知ってしまっている。
けど、これを見ても見なくても新斗さんは傷ついていて、しかも自分ではなく倉須を助けたいって思ってくれている。そして俺も倉須を助けたいし、新斗さんには傷ついてほしくない。
なら、今の俺がすることは一つだろ。
そんな思いで意を決した俺だけど、ほんとは傷付くことが怖くて呼吸が浅くなってることに気がつきながら、再生ボタンを押して画面を見つめた。






 二分にも満たない映像を見て、俺は映像のなかで何が起こってるのか理解したくなくて思わず沈黙する。

ムービーの映像は簡単に言うと、倉須と新斗さんの情事前の会話を隠し撮りしたものだった。
その二人の関係と事実に羞恥を感じたのも一瞬で、その会話の内容に俺は頭を混乱させるばかりでその後の行為について何かを考える余裕もなかった。
なんで、どういうことなんだ。
ここから逃げ出しても、こんなこと伊都先輩にも言えない気がして逃げ場もなくなった気持ちになる。
倉須が情事に誘うのにまず『どっちやるの、今日は』と聞き、それに新斗さんは黙り込んでからどっちでもいいと答え、結局新斗さんがやることになるところから始まった。この時点では何のことか分からず俺はこれを見せられていることにただ照れていたが、新斗さんが押し倒されて上半身の服を脱いだ倉須が上に乗り、新斗さんの頬に触れた瞬間の言葉に俺は絶句した。



「………なんで、倉須が新斗さんのこと"俺の名前で呼んでから"愛してるって、言うの、」

自分でも尋ねた声が震えていると分かった。
理解したくなくて、意味も分からなくて、喪失感のようなものが生まれて俺は視界がぼやけたことに気づいたが、どうしようも止められなくてそのまま目から落ちた水滴を服に染み込ませる。
何で? 何で俺? としか今思えなくてぽろぽろこぼれ落ちる涙を拭くのも嫌な俺は、画面の暗くなった携帯を隣にいる新斗さんの膝において口を開く。

「、いつから、こうなの」
「………倉須が大学に通ったくらいから」
「…………知らない、そんなの」

自分が何を言ってるのか分からない。
けれど、虚しくて悲しくて、本当は隣で同じように悲しんで俺を見てる新斗さんに「大丈夫だよ、」って笑いたいのに出来ない。誰かを気遣う余裕がないことが腹立たしい、アキちゃんならきっとすぐに自分の気持ちなんて後回しにできるのに。俺にはやっぱり難しい。
ぐいっ、とセーターの袖で涙を拭いたからか頬がヒリヒリしたが、そんなことなどどうでもいい俺は、新斗さんを見つめる。
するとそこには同じように泣きそうになってる新斗さんが居て、俺はその姿にまた泣いてしまう。

「………ごめんな、本当は名字くんが一番泣きたいのに。でも、俺も倉須が好きだから本当は助けたかったのに出来なくて、傷付けたくないって思ったら、こんなかたちになって」
「新斗さん、」
「俺は、なにも出来ない。倉須の穴を埋めるのも、名字くんの涙を拭くのもそんな権利ないから……俺も倉須の気持ちもわかるから」

この人はまた前と同じように、自分以外のことで傷ついている。
誰が悪いとか良いとかじゃない、これは。ただみんな、好きな人が居てみんな報われてないだけなんだ。
いや俺はまた周りを見れてない?

「………俺は、また……最低だ」

ポツリ、と呟いた俺の言葉に新斗さんは眉を寄せ、俺の肩をつかんでからだごと自分の方へ向けさせた。
そして新斗さんは真っ直ぐ俺を視線で射抜くと、ゆっくり口を開く。

「俺の尊敬する人のこと、最低って言うんじゃねえよ」
「…………、でも、俺」
「、幸せになってくれって思ってるんだ……この一年ずっとほんとうに、だから最近楽しそうにしてるの見ててすごくすごく嬉しいんだって。だからよ、自分が幸せだったこと後悔すんなよな」

俺が苦しめてきた時期もあるから余計に後悔して欲しくない、と静かに続けた新斗さんに、俺は唇を噛んで言いたいことを飲み飲む。だってその時期は新斗さんが苦しんでた時期だから、俺だけじゃないのに。俺よりもっと苦しくて寂しい人がいたのに。
幸せになりたい、そう願った。幸せになってほしいって、そう願った。でも叶えられているのは今は前者だけ、それってやっぱりダメだろ。
けど今だけは、少し、自分のことで泣かせてくれるというなら………言いたいことを言ってしまおう。

「新斗さん、ごめん。ちょっと、弱音吐いていい?」
「…………たくさん吐きな。聞きたいしさ」
「っ…………なんで俺ってこう上手くいかないのかな。俺は間違ってたのかな……俺はやっぱりなにもわかってないのかな、っ倉須は俺のために俺以外と幸せになるって言ったのは何だったの………、新斗さんたちは新斗さんたちなのに、何で俺の代わりになってるの…………? 俺が代わりをやめたら俺の代わりが出来て……、」
「倉須は去年の秋くらいから頑張ってたよ。今でも頑張ってる、これじゃいけないって分かってるから…………でもその背中を押すのは俺じゃないみたいでさ」
「っあほ、新斗さんのあほ、倉須のばーか、もう…………嫌だ、」

俺は一人で泣きじゃくりながら会話を交わし、どうしようもないどうにもならない現状に目を痛めるほど涙を流した。きっと腫れてしまうのだろう。
前は一人で全部抱えていたけど、今回は新斗さんも一緒になって苦しんで悲しんでいたから、余計に辛くて余計に自分に腹が立った。
倉須の異変に気づけなかった自分の言い訳が『視線では読み取れなかった』とか言うサイドエフェクト頼りのものだったのも、俺が自分の幸せを感じて未来に向かっていたときに新斗さんは誰かのために苦しんでいたのに気づかなかったのも。倉須は大学に進学して俺はフリーターになって生活サイクルが変わって、バイト先を紹介したのは俺じゃなくて伊都先輩だし、接点も減った。

「ほんとうに…………ごめん」
「、何で結局いつも名字くんはそうなのかな、誰かことばかり………。そういうところを好きになったんだけどさ、今回はもっと自分のことで悲しんで欲しい」
「ううん、俺は………もう大丈夫」

へらり、とやっと作り笑いで笑えるようになったのでそう言うと、新斗さんは驚いて目を見開いた。
そしてじっと俺の顔を見つめると「かっこいいな、やっぱり俺の大好きな人だわ」と胸の辺りの服を掴んでから、俺の手をとる。するとそのまま手の甲にキスをしようとしたので、それを察した俺はくいっと自分の手を引いて指先にキスを落とさせた。
俺の行為に驚いた新斗さんだったけど、俺をじっと見つめると改めて指先にキスを落とし、掌にもちゅ、と音をたてて唇を当てる。

「ね、新斗さん………指先のキスの意味は知ってる?」
「、賞賛、」
「うん、今されたのは俺だけど………もっと新斗さんは自分がしてきたこと褒めて。かっこいいのは新斗さんだよ」

そう言うと新斗さんはぱちくり、と瞬きをした。
そしてまた俺のことをかっこいい、と呟いて視線を向けてきたので、そのいつも通りの視線にぶはっ、と吹き出した俺は作り笑いではなくほんとうに笑う。
前と同じように誰かのことで傷ついて、自分の愚かさに後悔して、もう嫌だなってまた泣きたくなる。
けれど、前と違うのは俺は一人じゃないってことだ。それは弱味でもあるけれど何より強みでもあって、これから倉須を助けたいって思ってくれた新斗さんを助けるために、俺はなにか行動しようと心に決めた。それが倉須の幸せに繋がり、俺の幸せに繋がると今度こそ信じたい。

でもやっぱり、ダメなことはダメだと伝えないと。
傷ついてるひとがいるってこと、わからせないと。

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