番外編1
桜の時



「引き受けたらいいじゃん」
「やだ、絶対」

食事の後の片付けをしながら、最近来るようになったという“センセイ”の話を聞く。

「烏養さん、教えるの上手いと思うけどなぁ」
「そういう問題じゃねぇ」

カウンターキッチンからソファに座って頬杖をつく烏養さんが見えて、私は思わず笑ってしまった。

「なんだよ」

むすっとした表情で、面白くないと言わんばかりに私を見る。

「だって、烏養さん押しに弱いし優しいもん。いつまで持つかなって。
私が良い例でしょ」
「あのな、俺はお前に押し負けたわけじゃねぇ」
「え、じゃあ最初から私に惚れてたってこと?」
「そっ…!…っ!あー!もう!なんとでも言え!」

いよいよ顔を真っ赤にしてそっぽを向いてしまった烏養さんが可愛くて、私はまたくすくすと笑った。


私はつい1ヶ月前に高校を卒業した。
今は仙台市内で短大生をしながら、1人暮らしをしている。

あの日、桜まつりの日に烏養さんに言われたことを胸に、私は残りの高校生活を過ごした。

卒業してまだ少ししか経たない今、もうすでにあの時烏養さんが言わんとしていたことが分かる気がしている。

翻る制服のスカートの端。
親友と大きな声で笑い合って歩いた廊下。
後輩の恋愛についてしたり顔でしたアドバイスとか、1人の美術室で描いていた絵のこととか。

あの時間というか、あの空気感は、“高校生”という特殊な時期の特別なものだったと今なら分かる。

烏養さんへの気持ちは結局褪せることなく、むしろ増していって、それも私の青春に素敵な色をつけてくれたと思う。

制服のまま急いで烏養さんに会いに行っていたあの時間の、あの胸の高鳴り。
触れそうで触れられない距離感のもどかしさ。
きっとあんな素敵な恋は、もう2度とないに違いない。

卒業式の日。
ぐずぐずの顔で烏養さんに会いに行ったことを思い出す。

『っはは!ひでぇ顔』
『う…うるさいです!』

私の泣き腫らした顔を見て笑った烏養さんは、満足そうな嬉しそうな、暖かい顔をしていた。

『烏養さん〜…!私、』
『おう。分かってる』

思わず飛び込んだ厚い胸の中で、ぎゅうぎゅうに抱き締めて烏養さんが言ってくれた言葉を、私は生涯忘れないだろう。

『名前、俺はお前のことが、ずっと、心底大切で、心底好きだよ』




「オイ、何にやけてんだ」
「…ちょっと思い出して」

烏養さんの呆れた声に我に返って、恥ずかしくなる。
今私は、烏養さんの彼女なのだということを自覚して。

「名前」

名前を呼ばれて顔を上げると、ちょいちょい、と烏養さんが手招きしているのが目に入った。
洗い終わった食器をカゴにおいて、手をタオルで拭く。

「なぁに?」

近付くとグッと腕を掴まれて引き寄せられて、腰に腕を巻かれた。
烏養さんが私のお腹に顔を埋める。

吃驚して顔に熱が上ってくるけど、ふわふわの金髪が愛おしくてそっと触れた。

「…やっと、こんなふうにできるようになったのに。
コーチなんかしたら、お前といる時間減る。それも、やだ」

ー…な、に?!それ?!ちょっ…!反則でしょ、これは!

あまりの可愛さに心中で悶える。

「…私をこれ以上惚れさせて、とどめ刺そうとしてます?」
「うるせぇ。本気だ」

顔を上げずにぐりぐりとお腹に顔を押し当ててくる烏養さんに苦笑した。
知らなかった、烏養さんのこんなところ。

「…私は、烏養さんに散々待ってもらったし、彼女としていられるだけで全然いいよ。
烏養さんがしたいようにしてほしいと思ってる。
だからもしも気持ちが動いて、コーチやりたいなって思ったらやってね。
烏養さんの人生を楽しんで欲しいし、私がいるからって理由で諦めないでほしい」

いつか烏養さんに言われた言葉を反芻するように、言葉をかけて思う。
あぁ、私本当にこの人に大切にされていたんだなぁ、と。

「……お前、いい加減名前で呼べよ」
「え」
「烏養さん、烏養さんって。俺ばっかり名前で呼んでるじゃねぇか」

むくりと顔を上げた烏養さんの顔を見下ろして吹き出す。

「…えっと、繋心」
「もう一回」
「繋心?」
「…あーもう…何だよ。こんなの、カッコ悪ぃ」
「ふふ。好きだよ、繋心」
「っつ〜〜…………!!!」

目を逸らして照れる彼が可愛くて、私はその頭をぎゅうっと抱く。

これからいくつも巡る季節を2人で過ごし、桜の花びらが舞う季節を何度も2人で見たとして、きっと私はずっとこの人を好きでい続けるに違いない。