01
(金木犀の花はまだ咲いているか?)
久しぶりに地元の駅に降り立ち、すでに懐かしい空気を吸い込んだ。
キャリーバックを引いて迎えの車に乗り込む。
「ただいま」
「おかえり!!」
待ってたわ戦力!と、早速姉が車を出す。
大学1年の夏。
大学の夏休みは長い。
主要なレースもインターハイも終わり、後は各々夏休みを過ごすことになっていた。
俺は実家の手伝いと、箱根での自主練の為地元に帰ってきている。
「どう大学は」
「そうだな。楽しいよ」
「へー。巻ちゃん巻ちゃんって泣いてたくせに」
「泣いてはいないな?!」
失礼なことを言う姉に食ってかかれば、ケラケラと笑われてしまった。
どうも姉にはこんな調子だ。
姉と弟とはこういうものなのだろうか。
「早速今日からお願いね」
「そのつもりだ」
姉から今日来る主要な顧客の情報を聞いて頭に叩き込む。
東堂庵は馴染みの客も多い。
昔から手伝いをしてきた俺に会いたがっている客も多いらしい。
自分の顔の良さもコミュニケーション能力の高さも知っているから、まぁその点は納得するが。
「油売ってる暇はないから、とりあえず着いたらすぐ着替えて仕事にかかってよね」
何があっても平常心で仕事してよ、と続ける姉の言葉に、何を今更と眉を寄せた。
客とのトラブル、ミスへの対応、今まで幾度となくこなしてきたことだ。
少し実家を離れていたからといって、そうそうヘマをすることはない。
杞憂だな、と思い余裕の笑みを浮かべた。
姉の言葉の本当の意味も知らずに。
▽
「いらっしゃいませ」
こちらへどうぞ、と女性客を案内すると背後でヒソヒソと小声で話している声が聞こえる。
「和装イケメン…!」
「カッコ良すぎじゃない?!」
「カッコいいっていうか、美しいんだけど…!」
盛り上がる彼女達の声を背中で聞きながら苦笑する。
昔のように過剰にサービスして煽るようなことは、今はもうない。
「こちらがお部屋になります」
お困りのことがございましたらいつでもお呼びください、とニコリと微笑んで見せて部屋を後にした。
通りすがりに鏡に映った自分の微笑が目に入る。
営業スマイルも良いところだなと自分を嘲笑って、いつからかやたらと冷めた目で嬌声を上げる女性を見るようになった自分に気が付く。
少し歪んでいる着物の衿をスッと直して、表情を元に戻した。
結局本質的には何も変わっていない、否、変われずに止まっているんだろうな、とすれ違う客に笑顔で挨拶をしながら、心の中では全く違うことを考える。
ただ少し、自分の中の冷たい部分を、相手を煽らなくてもうまく誤魔化せる程度には小狡くなっただけの話だ。
いくら笑顔を振りまけても、耳心地の良い言葉を吐くことに長けていても、俺が誰かの救いになったり愛する存在になることはない。
俺自身も俺の中にそんな存在を作ることはできない。
彼女が行ってしまったあの日を境に、俺の中のそういう物事への価値観は随分変わってしまった。
あの日のガキで何も分かっていなかった俺を、俺はずっと許せないままでいる。
久しぶりに帰ってきた故郷の匂いにやられたのか。
変に感傷的になるなぁ、と苦笑した矢先だった。
「それが客に対する態度か!」
なんだ?
怒りを滲ませた声が響き渡る。
慌てて思考を止めて声のする方へ急ぐと、中年の太った男が肩を怒らせて立っていた。
その前には俯いて立っている仲居の後ろ姿が見える。
「お客様、何か失礼がございましたか?」
栗色の髪。
なんとなく目に入ったその仲居の後ろ髪と細い首から目を離して、目の前の客に対峙する。
「何だお前は!」
「本日女将よりお客様方のお困り事に対応するよう言われております、東堂尽八と申します」
「東堂?」
なんだここの倅か、と言って、馬鹿にしたような目で見てくる。
ええ当旅館女将の弟でございます、と相槌を打ってにこりと笑顔を作ると、チッと忌々しげに舌打ちをした。
えらく立腹しているな、何があった?
未だ俯いたまま隣で一言も発さない仲居をチラリと見て、再度男に視線を戻す。
「お客様、この者が何か致しましたか?」
「お前の所はどういう教育をしとるんだ、えぇ?!」
「大変申し訳ございません。恐れ入りますが、差し支えなければ何があったか教えて頂けないでしょうか?」
「こいつはなぁ!」
男が大声で怒鳴りながら、仲居を指差す。
いくら怒っているとはいえ、無礼極まりない男だ。
「俺を突き飛ばしたんだ!」
どういうことだ?急に仲居がそんなことをするか?
「それは…お客様にご無礼を大変申し訳ございませんでした」
不自然な主張に違和感を感じるが、とりあえずは丁寧に謝罪の言葉を並べる。
「こちらでしっかりと教育致します。
その他でご不快な思いをさせたところはございませんでしたか?」
「ふん!謝ればいいと思っているだろう。許さんぞ。
ちょっと手が当たったくらいで大袈裟に騒ぎおって、気分の悪い」
やはりな。
相手のボロが出たことで予測程度だったものが確信に変わる。
「お客様の手が、先にちょっとこの者に当たったのですね」
「な、なんだ」
ムッとした様子だが、男の顔色が変わる。
「状況によってはこちらも相応の対応が必要になりますので。
当旅館は女性従業員が多いものですから性的な被害に合う者も多く、そういった事案には丁寧に対応させて頂いておりまして」
「な、なに。私を疑うのか」
「いえ、滅相もございません。
ただ私共としましても、この件についてお客様が追求したいということでしたら、監視カメラを見返す等して状況把握をし、丁寧に検証して対応させて頂きたいと存じます」
「監視カメラ?」
「はい。館内の廊下にはお客様の安全にも配慮して監視カメラを設置しております」
ここまでやりとりをしたところで、完全に男の顔が青ざめて勢いがなくなった。
どうされますか?と聞くと、もういい!と吐き捨てて踵を返す。
去っていくその背中を、やれやれ、と見送り、ようやく隣でやりとりの間中俯いていた仲居に優しく声を掛けた。
「大丈夫か?すまんな、こういうやり方しかできなくて」
よく見ると肩が震えている。
さぞ怖かったのだろう。
本当はこちらが追求して断罪することだってできるが、それを彼女が望むかも分からないので結局ああいうやり方しかできなかったことに対して詫びる。
この人は多分、仲居業を始めてまだ間もないのだろう。
正直な話、仲居の仕事の中でああいう手合いとの絡みは日常茶飯事だ。
本来なら先輩仲居について学ぶ中でセクハラに対する躱し方も身につけていくのだが、偶々ハイシーズンで皆忙しくこの人に付けなかったのだと思う。
東堂庵の親族として申し訳ない。
「君、大丈夫か?」
もう一声掛けてみるが、あまりにも反応がない。
いよいよ心配になってその顔を覗き込もうと動いた時だった。
「お…!っと…!」
ふらりと華奢な身体が傾いで、慌てて肩を抱き止める。
足に力はまだ入っているから、失神したわけではなさそうだが。
「おい、本当に、君」
ふいに懐かしい香りが鼻孔をくすぐる。
季節外れの金木犀。
いや、そんなはずは。
早鐘のように打つ心臓をなんとか押さえつけて、その顔を覗き込んだ。
そして俺は息を咽む。
「…千春か…?」
返事の代わりに伏せた睫毛がひくりと震えた。
嗚呼そういうことか、と姉の言葉を思い出す。
“何があっても平常心で仕事してよ”
平常心でなんかいられるわけねぇだろ…!
ぐちゃぐちゃと混乱する頭で、らしくない悪態を吐いた。
fin