02
(郷愁、或いは後悔、そのどちらでも)



結婚1年目までは幸せだった。

私はただこの人のために、この人が望むように生きていればそれだけでいいと本気で思っていた。

彼が望むように姿を整え、喋り方を変え、好みを変えた。
今までの私が塗り替えられていく感覚はとても心地よく、あぁこれが夫婦になるということで、家族になるということなんだと幸福感で満たされたものだ。

彼の友達や家族からも沢山褒められた。
“彼にぴったりな奥さんだね”と。
そりゃそうだ。
自分からぴったりと、彼の横に収まりに行っていたのだから。

郷里と離れ、友達も捨て、思い出たちからも遠い遠いところまできて、やっと自由になれた。
気がした。
そう、勘違いだったんだ。
消化できない課題はずっと、しこりのように残り続けることを幼い私は知らなかった。
問題が顕在化し始めると、物事はどんどん悪い方向へ転がっていた。

きっかけは私の何度目かの“子供が欲しい”という懇願だったように思う。

すでにその頃私たち夫婦は夫婦と呼べるような状態になく、同居人程度の距離感になっていた。
それでも、そんな状況も、子供さえできればなんとかなると思っていた私は、とても愚かで悲しいと思う。
彼はきっと、そんな愚かで悲しい私に付き合うことにほとほと疲れ果てていたのであろう。

ある日、プツン、と彼の中の糸が切れた。
確かに私はその音を聞いた。

今まで舌打ちや悪態程度で済んでいたものが、いよいよ私に直接向き始めた。
初めて男の人の力で頬を叩かれて、私は気がついた。
あぁこれは罰だ、と。
逃げて楽して生きようとした、無責任に彼に全てを背負わせて子供まで使って、独りよがりな幸せを願った、罰。

倒れた先でピカピカにした筈のフローリングに埃があるのを不思議な気持ちで見つめながら、私はただただ彼の腹立たしさが収まるのを耐えながら待っていた。

それから私は彼の憂さ晴らしが始まると、心をどこか別のところに飛ばして無になることができるようになった。
自分の身体を水の入ったただのずた袋のように感じる不思議な感覚を味わいながら、思い出していたのは遠い過去の記憶たちだった。
ごめんなさい、ごめんなさい、と自分の口から出る謝罪の言葉は、彼へのものではなく置いて逃げてきた色々なものや人に向けたものだったように思う。
それはきっと彼にも伝わっていて、更に怒らせた。

脳裏に浮かんでいたのは、そういつもー。






リビングで待っていると、客間から姉が呆れた顔で戻ってきた。

「だから平常心でいてって、私言ったよね」
「いや、だけど、まさかこんな」
「アンタが狼狽えてどうする!」

姉の一喝に、びっと背筋が伸びる。
そんな情けない俺を見て、姉はため息をついた。

「ボロボロになってたところを、おばさんが連れて帰ってきてくれたのよ」
「おばさん?」
「田中さんよ、昔いたでしょう、仲居さんの」
「あぁ、千春の母親か」
「はぁ?アンタ…知らなかったの?」
「何が」
「千春は養子よ、田中さんの」
「は?どういう…」
「だから、実の親子じゃないの」
「…は?」

追いつかない頭を一生懸命整理しようとするが、思考が追いつかない。
混乱する俺に姉は一瞬悲しそうな顔をして話を続けた。

千春の実の母親は未婚で千春を産み、どういう事情かはわからないが彼女が4歳の時に蒸発してしまったのだという。
その後は叔母である田中さんの元に引き取られて育てられた。

「何かのきっかけで、本当のお母さんに会ったみたいなのよ。
彼女、それから変わってしまって」

あとはアンタも知っての通りね、と姉は俯いて話を締めくくった。

「…そんな話、俺は知らんぞ」
「そりゃだって、アンタが自転車に夢中になってる間に色々あったもの」

姉の言葉がずっしりとのしかかる。

俺は自転車に全てを捧げたことで、犠牲になったものがあることは良く理解しているつもりだった。
例えば姉のこと。
本来ならば嫡男である俺が継ぐべき旅館を、姉に継がせてしまった。
この自由が好きだった少し破天荒な姉を、俺はここに縛り付けている。
それだけだって、道を迷うに十分な理由だっていうのに。

「ちょっと」

姉の静かな声に、俺は視線を上げる。
姉の目は静かに怒っている。

「自分で納得して選んだ人生に後悔なんてやめなさい。
それは、アンタの選択に関わる全ての人に失礼だわ。私を含めてね」
「…分かって、いるよ」
「じゃあ、そんな顔しない!」

分かってはいる。
分かってるんだ、そんなことは、言われなくても。
ただ、もし俺が彼女の色々をもっと知っていれば、せめてあの時だけはどうにかできたんじゃないかと、彼女が去っていた日のことを考えてしまう。

「はぁ…。もう今日アンタ役に立たないわ」
「なっ…!」
「あの子、暫くここに置くつもりだから。アンタ面倒見てやんなさい。
とりあえず今日はもう上がって、あの子についといてあげて」

それだけ言い残して去っていく姉の後ろ姿を、俺はなす術もなく見送った。

fin