最終話
(金木犀の花はもう咲いていなくても)



「尽八?疲れてる?」

気がついたら近くに彼女が来ていて、心配そうに俺を見ていた。

「…ん、いや。良い部屋で気分が良くて、ぼんやりとしてしまった」

それは良かった、と照れ臭そうに笑って、トレーから珈琲とお菓子を置いてくれる。

「昨日ね、離婚調停が終わって、正式に離婚したよ。色々とありがとうね」
「そうか。長かったな」
「2年かかっちゃったよ」

柔らかく笑って、カップを口元に持っていく千春の横顔を見る。

こんなふうに笑えるようになるまでに、一体どのくらいの、寂しさや悲しさや苦しさを、彼女は乗り越えてきたのだろう。
この居心地の良い部屋を整えられるようになるまで、1人で泣いた時間がどのくらいあっただろう。
それでもきっと、その痛みも時間も、彼女は甘んじて受け入れたのだろう。

離婚のことは姉に聞いて知っていた。
だから今日、会いに来たのだ。
2年の間、彼女に触れることを我慢してきた。
会うことも、極力必要がない限りしなかった。
それは俺たちの間の、暗黙の了解のようになっていたから。

会ったらきっと、もう我慢できないのだろうな、と思っていた。
だが実際会ってみたら、案外心は穏やかで、なんだかずっとこうして2人で居たような気さえしてくる。

「美味いな、珈琲」
「でしょ。お客さんに、美味しい珈琲屋さん教えてもらったの。
ミルも買ってね。布フィルターは自分で作ったんだよ」

こうして生活を楽しんでいる彼女の話を聞くことが、今は何より嬉しい。

最近店であったこと、家族のこと、街で見つけた心躍ること。
他愛ない話の中に見え隠れする、彼女の喜びがきらきらと、この柔らかい空間に舞う。

暖かい部屋と、美味しい珈琲と、心地の良い音楽と、細々とした素朴で優しい物達。
その中で笑っている彼女を見るだけで、俺は本当に幸福になってしまうのだ。

緩やかに相槌を打ちながら、俺は思う。
この人がこうして笑ってくれている時間を大切にしたいな、と。



「これから、どうしようか」

何気なく言った千春の一言に、頬杖に乗せていた顔が一瞬浮く。
それから、意図的に俺はとびきりの笑みを作って見せた。

「そうだな…じゃあまた1から、俺たちのこれからを始めようか」

随分遠回りをしたけれど、またここから始めよう。
一つずつ、着実に。

「…ちが、そういう意味じゃなくて、今日これから何するかってこと…」
「千春、顔見せて」

恥ずかしさで顔を覆ってしまった、その手に触れる。
ゆっくりと解けた手の隙間から見えたその顔を、俺は目に焼き付けた。

好きだ。
何よりも、誰よりも。

これからまた色々なことがあるだろう。
いつだって上手くいくわけじゃないことも、分かっている。

だが、だからこそ。

今日というこの日を俺は一生忘れない。

何かある度、俺はこの日に立ち戻ろう。
後悔の瞬間ではなく、今日この日、彼女の幸せを何よりも大切にすると誓った瞬間に。



END