28
(美味しい珈琲が出来るまで)



久しぶりに訪れるアパートの階段を登る。
何かの時のために、と貰っていた合鍵で扉を開けると、玄関から台所に立つ彼女が見えて、早くない?!、と慌てる様子に思わず笑が溢れる。


「千春!」
「っつ…!ちょ、やめてよ!」
「なぜだ!久々に会えたというのに、冷たいぞ!」

背後から抱きすくめると、微かに良い匂いがする。
でもそれは、あの金木犀の香りではなくなっていた。
彼女の本来の香り。

「…うむ…良い香りだ」

首筋に鼻先を押し付けて、愛おしい匂いを嗅ぐ。

「何それ、変なの」

彼女がくすくすと笑って、今珈琲淹れるから、とリビングに押しやられてしまった。

別にくっついていても珈琲は淹れられるだろう、と俺はぶつぶつ文句を言いながらも、大人しくリビングの椅子に座る。

幼い頃の当たり前だったやりとりが、今できることの幸せを噛み締める。

柔らかい午後の光が、リネンのカーテン越しに入ってくる。
リビングテーブルには、小さな花器に花が活けてある。
ワイヤレススピーカー(音楽が好きな彼女のために俺がプレゼントした)から、小さく俺の知らないクラシック音楽が流れている。
台所から食器を用意する彼女の優しい音が聞こえる。

千春の暮らし。
千春の好きなもので満たされた、千春の小さな世界。

心地良くて、俺はそっと目を閉じる。


彼女を駅まで迎えに行ったあの日。
初めて彼女の夫に会った。

冷たい目。
表情は笑っているのに、目は油断なくこちらを見据えていた。

『千春、どうしたんだ。行くぞ』

俺は唖然とした。
こんなにも全身で、ここから立ち去ることを拒否しているのに。

全身の血が沸騰するような、それでいて身体の先は酷く冷たい感覚。

『やめてください。彼女を押さえつけて、コントロールしようとするのは』
『言っている意味が分からないんだが。夫婦のことに口出しをしないでくれないか』
『夫婦?夫婦なのに、なぜこの状態を見ても、彼女の気持ちが汲めないのですか?』

そう言った瞬間、彼の表情が変わった。
冷たい笑みが浮かんで、沸々とした怒りを無理矢理押さえ込もうとしているようなその表情は、常軌を逸していた。

『…あぁそう言うことか。なるほど。へぇ、お前も中々やるな、千春!
こんな若い男引っ掛けて!里帰り先で不倫か?!良い度胸だな!
だが、俺は寛大だからな、今なら許してやる、さっさと来い!帰るぞ!』

こんな痛く、鋭い言葉で、彼女はずっと傷つけられ続けていたのか。
なんだ、こいつは。
何様だ。
ふざけんじゃねぇ…!

『ごめんなさい、行けません』

怒りで震える拳を彼女がそっと触って、俺は我に帰る。
引いていた血の気がじんわりと戻ってくる。

『誓って、尽八と私は、不倫関係なんかではありません。
誰が好きとか、嫌いとか、そんな幼稚な問題ではないの。
これは私と貴方の問題。
中途半端なことをして、貴方に要らぬ期待を持たせたことは謝るわ。
だけど、もう、限界みたい。離婚してください。
納得がいくまで、話し合いには応じます。
ちゃんと第3者にも入ってもらって、今までのこと、これからのこと、整理しましょう』

淡々ときっぱりと言い切った彼女の、その白い横顔を見た。
今、どんな思いでこの男に立ち向かっているのだろう。

『…許さない…!離婚なんて、絶対にしないぞ!ふざけるな!
さっきまで、一緒に帰ろうとしていたじゃないか!おかしいだろ!
俺が何をしたって言うんだ…!!!』

そう言ったきり、彼は階段に腰掛けて動かなくなった。

その後、姉に連れられてやって来た田中さん夫婦が物凄い剣幕で怒り(殺しかねない勢いだった)、一旦その場を姉が収めてくれた。

今考えると、あの男も、もう自分たちの関係が壊れてしまっていたことに、とっくに気がついていたのではないかと思う。
力なく項垂れたあの姿を見て、憐れで見ていられないと思った俺は、やっぱり何も知らないガキなのだろうか。

きっと彼女に事情があるように、この人にも俺も彼女さえも知らない、事情があるのかもしれない。
こんなふうにしか、人との関係を築けないこの人は、とても悲しい人なのかもしれない。

それならば、尚更。
彼女をこの男の元に帰すわけにはいかないと思った。

千春は俺と、進むんだ。
この先に。



fin