No.10
「幸江さんはお元気だった?」
幸江とは叔母のことである。
母は叔母を、"
幸江さん"と呼ぶ。
サチエサン。
私が呼ぶ"叔母さま"よりは、名前で呼ぶ方が親しさがある筈なのに、何故かとても余所余所しい響きがある。
それに、夫が亡くなったばかりの人間に、お元気もなにもないだろう。
「…生きてはいたわ」
嫌味と含みを持たせた私の発言に、母は眉を顰めた。
「やだ、なに?変なこと言わないで」
その物言いに、冷たいものがじわりと胸に染みて、すっと感情が引いていった。
いつもこうだ。
私と母は、理解することも、されることも、しようとすることもない。
無言になった私を見て、まったくあなたはいつもそう、とまた明後日の方向からエピソードを繋げようとする母にうんざりする。
「ちょっと!」
母が悲鳴に近い声を上げた。
原因は私が取り出した煙草だ。
「家の中でそれを出さないで!
吸うなら他所で吸って!」
私はそそくさと立ち上がって、2階のベランダに向かう。
こうなる事が分かっていて、わざと目の前で煙草を出したのだけれど。
叔母が1人になってから、電話をしたり、たまに帰って来たりしている。
叔母の家に行っているのに実家に寄らないと後で面倒なので、こうして実家にも顔を出さざるを得ない。
今日は父が泊まっていけと言うので仕方なく実家に泊まって(父の言うことに、私も母も逆らうという選択肢は有り得ない)、明日の昼頃叔母の家にもう一度寄って帰る予定だ。
小さい頃は頻繁に叔母の家に遊びに行っていた。
大きくなるにつれて、叔母とその夫の間にある濃密な空気感を感じるようになり、なんとなく居心地が悪くなって行かなくなってしまった。
今やその夫がいなくなり、その空気はもうない。
そのお陰で、随分とあの家の中は呼吸がしやすくなった。
叔母はというと、いつもと変わらないように見える。
変わらないように見えるのに、徐々に徐々に枯れていく花のように存在が薄くなっているような気がするのは何故だろう。
馬鹿げた考えだとは分かっているが、叔母が消えてなくなってしまいそうで、叔母の家に行って彼女が存在しているとほっとする。
「はい、もしもし」
液晶に表示される、見慣れた名前を確かめて耳にあてた。
『おぅ、お疲れ』
「お疲れ様」
ゆらゆらと立ち上る煙の先を眺めながら、耳元で聞こえる烏養くんの声に耳を澄ませる。
『外か?』
「そう。煙草を吸いに」
あぁ、と柔らかな相槌が聞こえて、沈黙ができる。
「烏養くんは何してたの?」
『あ、俺?俺は今から商店街の奴らと飲み。店まで歩いてる』
「そう。楽しそうね」
『あーまぁいつもの面子だしな。ダラダラ飲んで喋るだけだよ。楽しいっつーか、習慣みたいなモンだな』
そう言った言葉とは裏腹に、声には少しの照れと楽しげな空気が含まれている。
『それで、そっちは?明日仕事?』
「明日は休み。今日は実家に泊まるから、職場に行けないし」
『え?ちょっと待て、こっち帰ってきてんのか?』
驚いた声を出した烏養くんに、うん、と答えると、一瞬間があって、そうか、と返ってきた。
『あー…なんつーかその、なんかあったか?』
突然の問いに私は息を止める。
「どうして?」
何となく見透かされたみたいで、気分が悪い。
実際図星なわけだが、ただそれを烏養くんに話すつもりは無い。
『いや、悪い、なんか詮索するみたいになっちまって』
慌てたように付け足されたその言葉に、思ったより自分の言葉に棘があったことに気がつく。
躱せない問いじゃなかった筈なのに、腹を立てたことをそのまま含ませてしまった。
「あ、ごめんなさい。違うの、ただちょっと、」
ただちょっと、何だというのだろう。
その後の言葉が続かない。
歯切れ悪く止まった言葉に、烏養くんが電話の向こう側で苦笑するのが分かった。
『いや、すまん。今のは俺が悪い』
直球で返ってきたその言葉に驚いて、私は目を瞬かせる。
「…こちらこそ、ごめんなさい。
調子が悪くて…少し、八つ当たりしてしまったみたい」
謝りながら、そんなことを素直に言っている自分に驚いた。
こういう他意のない、素直な会話をしたのはいつぶりだろうか。
一瞬の間があって、烏養くんが小さく笑うのが聞こえた。
「何?」
『…八つ当たりなら、良かったって思ってな』
電話の向こう側で、烏養くんが短く息を吸う。
『拒絶じゃなくて、八つ当たりだろ?なら、問題ねぇよ』
烏養くんは軽く笑って、じゃあな、と言い残して電話を切った。
携帯をジーンズのポケットに入れる。
夜空を見上げたら、薄い月がぼんやりと光っていた。
考えてみれば烏養くんと同じ場所にいるのだ、と不思議な気持ちに駆られる。
烏養くん。
ここ数ヶ月、烏養くんとの交流の中で気がついたことがある。
彼は案外鋭い人で、自覚的な人であるということ。
他人の心情にも聡く、距離の取り方が上手い。
それでいて不器用なところもあるけれど、それが却って裏がないように見えるから、きっと一緒にいて安心するのだろう。
そこまで考えて、独り苦笑する。
理屈っぽいと自分でもよく思う。
もしくは防衛反応なのかもしれない。
物事と距離を置いて一歩引く癖が、日常の中でも抜けない。
怖いのだ、多分。
誰かに影響されてしまうこと、変化が訪れることが。
人は変われないというけれど、変化しないということは案外とても難しい。
「嫌だわ」
思わず漏れ出た言葉は、教授との暮らしの中で身につけた言葉遣い。
彼に出会うまで、こんなに丁寧な言葉で話してはいなかった。
薄暗く、湿った幸福が私を満たす。
まだ。
まだ大丈夫。
無意識のうちに出た言葉遣いに、安堵する。
私はちゃんとまだ彼の影で、彼もまた、まだ私の影だ。
続